ELYSIUM

久保 ちはろ

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Part 18-2

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 『人の噂も75日』とはよく言ったものだ。
 まあ、そのことわざがイリア・テリオにもあるかどうか、まどかは知らない。
 モイラの話を聞いてから暫くは、何となく『見られている』視線を感じる日々だったが、それももう無くなり、バーシスの中では、すでに噂は真実へとその性質を変えたらしい。
『金目とカネラ獅子王は恋人同士』というマジョリティの了解。
 まあ、まわりがどう思っても、そのうち地球に帰る者には関係ないーーと、気持ちを切り替えて、まどかは研修に励む日々だった。

ーー得意なはずの兵器技術テクニックの授業なのに……。
 昨日からは爆弾の解体がテーマに、複数の課題が出された。それらの幾つかの課題のうち、まどかは一つを除いて全て片付けていた。
 そして今日は、まだ研修室に居残り、そのただ一つの課題を前にずっと頭を抱えている。

「え? 251が解けないの? 金目があんなのに引っかかっているなんて、分かんないなぁ」
 休憩時間に吉野はコーヒーのカップを手にしながら、こめかみをぐりぐり押さえるまどかを見て首をかしげた。
 もちろん、すでに問251を解いた吉野からヒントを教えてもらっても構わないのだが、それでは実戦において意味が無い。
 現場では皆、自力で武器の解体や解除をするのだ。
 課題を終えたクラスメイトは全員帰ってしまい、広い教室にはまどか一人居残りだ。
 授業が終わってからすでに1時間は経過した。
 そして、未だにまどかは目の前に浮き上がるVRヴァーチャルリアリティの爆弾の中身とにらめっこだ。
 どこにどれだけのエネルギーを当てると、いかに発火装置を刺激せずに解除出来るか。またはどこからエネルギーを抽出すれば、爆発しないのか。
 センスと計算とカン。
 穏やかな西日の射す最新式の研修室で、まどかが四苦八苦しているところへーーシュウ、と教室の前のドアがスライドし、イルマ教官が入って来た。
 彼はまどかが居残っているのを見ても、顔色一つ変えずに言った。
「あ、オレに気にしないで作業続けるように」
 彼は正面角の自分のマシンの前に座ると、静かに仕事を始めた。

 イルマ・ルイ教官の授業は一ヶ月前に始まったばかりだが、なかなか手強い。
 それにしても、彼はカネラであり、好きなだけ研究室にこもっていられる研究者だったのに、なぜ授業を受け持っているのだろう。
 彼が担当教官として研修員の前に立った時、まどかは、その、別人のような変貌ぶりにあまりにも驚き、しばらく彼から視線が外せなかった。
 そもそも、ずっと音信不通だったイルマ・ルイがいきなり目の前に現れたことさえ、まどかには信じられなかった。

 まどかは課題から目を上げて、自分の席から少し離れた席で作業する教官にそっと視線を移す。
 鳳乱に紹介されて彼と始めて対面したのは、もう一年ほど前のことだ。
 あの時、イルマ・ルイはワンレングスの髪を一つに後ろに束ねていて、いかにも地味な研究者、という雰囲気だった。
 それが久々に見れば、髪はばっさり切られていた。重めの前髪、それが少しずつサイドから後ろにかけて軽くしてあるのか、動きのある感じで、とてもあか抜けている。耳の辺りに所々、髪の束が跳ねていて、癖があるのか、そういうスタイルなのかなのかよくわからないが、無邪気な印象があって、思わず触れたくなってしまう。
 西日で栗色の髪は、透明感のあるオレンジ色に輝いている。
 作業中にかけるスクエアのメガネは、さらに色気を増すアイテムで、女の子たちが騒ぐのも納得だ。
 しかし、初対面のイルマ・ルイと目の前のイルマ・ルイとを重ねてみると、まどかは強い違和感を持った。
 初対面では、もっと人懐っこい犬のような親しみやすい印象だったが、今は人を全く寄せ付けない緊張が、張り巡らされている。
(やっぱり、噂は本当なのかな)
 そんなことをぼうっと考えながらイルマ・ルイ見ていたら、ふと顔を上げた本人に睨まれた。
(嫌。ちょっと怖い)
 その眼光の強さに我に返り、まどかは慌てて課題に戻る。
(ああ、これ、どうしよう。進まないなぁ……。もう、爆発させてしまおうか。点数もらえないけれど)
 半ばヤケになりながら、合わない計算を繰り返す。
 何度目だろう。失敗を繰り返した後、ふと気がつくと、白い白衣コートのポケットに両手を突っ込んで、イルマ教官がまどかの横に立っていた。
「わっ」
 思わず声を上げてしまう。
 教官はそんなまどかに動じずに、静かに言った。
「これ、何度やっても無理だと思う」
「え?」
ーー無理って、私には無理、ってこと?
「どうしてですか」
 彼は目尻の下がり気味の、色気を湛えた目を少し細めて言った。
「実はね、こことここのサーキットを裏でブロックしてるから、ぜったいに、解けないんだ」
 彼は宙に浮かぶ、緑のラインで縁取られている爆弾のモデルの二カ所を指差した。
「君だけに出した、特別課題」
 そう言って彼は、机に寄りかかるようにして座った。
 彼はまどかをじっと見下ろしている。その端麗な顔は無表情で何も読めない。
「どういうことでしょうか」
 どうしてそんな悪戯をしたのか。まどかには彼の意図がさっぱり理解出来なかった。
 まどかの気持ちを見透かしたのか、イルマ・ルイはゆっくりと、口を開いた。
「まあ、金目と二人きりで話すため?」
 まどかは目を見開く。メガネを外した相手の、その涼しげな表情は崩さないが、冗談ではないようだ。
「でも、何か用がある場合、教官はいつでも呼び出し出来る立場なのですよね」
「あ、それはまずい。オレが個人的に金目と接触があった、ってことがあいつにバレたらちょっと、ね。だからこう、自然の成り行きで二人きりになるように……」
 彼の言葉を遮るようにして、まどかは言葉を発していた。
「あいつって……?」
「獅子だよ。獅子王」
 彼は蔑む目でまどかを見て、口の端だけ上げて笑った。
 ますますまどかの頭は混乱する。
 今まで解けなかった課題はたった今解決したはずなのに、また難解な謎解きか。
 彼は、制服である白い詰め襟のコート(それが初対面の時と唯一同じだった)から手を出してそれを見ていたが、ふとまどかに視線を投げると、さらりと言った。
「別れろよ。獅子王と。別れた方がいい。それで、オレの所に来い」
 頭の中が真っ白になる。
 おそらく、数秒、ーーいや、数分? の間、まどかは口をぽかんと開けて、机に座る教官の顔をバカみたいに見上げていた。やっと我に返り、口から変な声が漏れた。
「ええ?」
 そんな反応は予測済みだったのだろう。彼は「ふ」と鼻で笑うとゆっくりと、噛み砕くように言った。
「わざわざおまえが獅子王を連れて帰って来た気持ちも分からなくもないが。おまえらはだめだ。別れろ」
(突然でそれもよくわからないんですが、その最後の……)
 混乱したまどかが、それでも何か言おうと口を開いたのを無視し、相手は言葉を継いだ。
「で、おまえはオレが引き取る」
「あの、全然、話の前置きとか、脈絡とか、無いですよね? いい加減なこと言わないでください」
 まどかは半分呆れて笑いがこみ上げるが、すぐにそれを誤魔化すために、俯き、ゆるりとかぶりを振った。
「そんなの、必要ないから。別れは早ければ早い方がいい。返事、待ってるから」
 まどかは考えることを放棄し、彼の赤茶色のブーツのつま先を見ていた。ピカピカ艶があって、飴のようだ。
「おい、聞いてる? 人の話。一応オレ、おまえのセンセーっていうか、上司なんだけど」
 彼がまどかの顎を指先で軽く掴み、顔を上げさせた。
 彼のその硬い声音で、まどかは自分の置かれている立場を思い出した。今の態度をどうやって取り繕うべきか、と視線を泳がせた。
 だが、彼にはそんなことはどうでもいいらしかった。一瞬目を細め、そして瞼を閉じ、そのまま顔を近づけて……唇を重ねた。
 まさかの状況に、まどかの頭は本当に真っ白になり、体がフリーズした。
 まどかが微動だにしないのをいいことに、相手はの上唇を軽くみ、舌を滑り込ませた。
 たちまち二つの舌が優しく戯れ始める。
(あ……教官、キス……すごく上手かも……)
 つかの間、うっとりと彼のキスに誘われるままになる……その、柔らかで優しい舌の動きについて行ってしまう。
 彼がそっと瞼を開いた。目が合う。薄茶色の虹彩が、美しい。相手の目が、笑う。刹那、まどかの理性が覚醒した。
(じゃなくて!)
 まどかが眉を寄せたとたん、相手は顎から手を放し、余裕たっぷりに体を起こした。
「悪くない……というか、想像以上?」
「こういうのは、セクハラって言うんですよ」
 浅くなった呼吸を繰り返すと、頭に昇った血が降下し、冷静が戻る。まどかは、彼を睨みながらとっさに返した。
 彼はまだ薄く笑いながら、首をかしげた。
「はぁ? セクハラ? 知らね。女を手に入れるのに制約も何も、上司も部下も、関係ないだろ」
 そして机から下りると、再び両手をポケットに突っ込み、まだ情欲の孕んだ眼差しで、まどかを見下ろした。
 それでも、彼はどことなく疲れているように見えた。
「返事、待ってるから。あと、その課題。ブロック解除したから、後は秒速で出来るだろ。終わったら送っといて」
 まどかは何も言えずに、研修室を出て行く彼の背中を呆然と見送った。

ーーあれは一体なんだったんだろう。
 まどかは、数日過ぎてもイルマ教官の言動が全く消化出来ないでいたが、取りあえず深く考えないようにした。
 いくら考えても、課題のようにあっさり解決出来そうにない。
 獅子王にも、もちろん打ち明けなかった。
 決して自分が悪いわけではないと自覚していても、なんとなく、後ろめたい気持ちがあった。
 まどかは相変わらず殺風景な東棟の、メタリックブルーの長い廊下を管理部に向かっていた。
 最近、自分のパルスの不具合が目立つのでミケシュの所で見てもらおうためだ。修理か交換か。とにかく通信とメモリーを兼ねる物はこれ一つなので、調子が悪いと何かと不便だった。

「ああ、古いエネルギーが詰まってるのよ」
 ミケシュはパルスの背の蓋を開けて、中を見た。
「なんですか?」
 ガジェットの故障原因でも、聞き慣れない原因だ。
「あなたみたいに、普段強いエネルギーを無意識に出している人に多いの。ガジェットの細かい部分に余分なエネルギーが埃みたいに詰まっちゃうのよ」
 彼女は滑らかな光沢のあるクリーム色の机の、唯一の引き出しから青い、小さな碁石のようなものを出して、パルスの上に乗せた。
 何か劇的な変化を待ったが特に何も起こらず、ミケシュは石を外すと、「はい、もう大丈夫よ」と、パルスをまどかの手に乗せた。
「お、珍しいな」
 新しい声に振り向くと、今入って来たばかりのエステノレス司令長官が近づいて来る所だった。
「どう? 元気かい?」
 まどかの横に立つと、彼はにこにこと微笑んだ。
「あ……はい、お陰さまで……」
 答えてから、「果たして自分は元気なのか?」と改めて疑問が湧いた。
「あ、丁度いい。金目、西棟に帰る?」
「ええ。もう用事は済みましたので」
「じゃあさ、ミケシュ、さっきのアレ、金目に頼むわ。出して」
 ミケシュは上着のポケットに手を突っ込んだ。
「わざわざ金目さんに頼まなくても。ポストマンを使えばいいんですから」
「あのね、人の手を介して、っていうのがなんかいいじゃないか。いつもアンドロイドを簡単にこき使って処理するんじゃなくてさ。おまえ、情緒って言葉知らないのか。ことに触れて起こる、微妙な感情……」
「長官がそんな言葉を御存じでしたか」
 ミケシュは冷ややかな視線を長官に向けながら、小さなチップをまどかに差し出した。
 彼はちょっと肩をすくめると、やれやれ、と眉尻を下げる。
 本当に、この二人のやりとりは仲の良い姉弟のようで微笑ましい。だが、そうは言ってもシャム・エステノレスはバーシスのトップだ。
 まどかが笑いを噛み殺していると、エステノレス長官は、手の上のチップを指した。
「これをね、ルイに渡してきて。西の上の研究室にいるから。鳳乱の研究室の二つ隣だったかな。勝手に入っていいよ。私のお使いだからね」
「あ、はい……」
 まどかは、それを制服のポケットに収めた。
「ありがとう」
 長官に礼を言われ、まどかは慌てて二人にお辞儀をして、部屋を出た。
(私は元気なんだろうか?)
 西棟へ向かいながら、長官の軽い挨拶を胸の内で反芻する。
ーー体温、脈、血圧、心拍数、全ての数値は正常。炎症反応無し。食欲、普通。
 パルスには不具合が出て、上手く機能しなくなったけど、体には不具合が出ていない。一応、機能している。
 ということは、『元気』なのだろうか。
 『元気』は『原気』
 つまり、両親から受け継いだ先天の精。生命活動の原動力。生命活動というのは生きようとする力。
(生きようとする力……でも……)
 今の自分は『生かされている』感じだ。
「死んじゃいけないから」、『生きている』。
「死んじゃいけない」というのも変だが、きっと死んだら仲間は悲しむだろう。
 こちらの世界に五人まとめて来た、という事は、五人まとめて帰らないといけないのかもしれない。
 自分が存在していることで誰かに迷惑をかけるよりも、いなくなることで迷惑をかけるのは、もっと悪い事のような気がした。 
 それ以前に、ただ自分には「死ぬための原動力」が無いだけかもしれない。
 鳳乱がいなくなり、自分の中で何かが欠落したようにも感じる。
 ごっそりと肉がえぐり取られたような。
 また、全てに対して感覚が鈍っているような気もする。
 いつも手袋をしたまま、物に触れているような。麻痺しているような。
 大切な人が急に目の前からいなくなっても、生活ががらりと変わったわけではない。
 さすがに最初は、精神的、肉体的に辛いものはあった。それでも時間が経った今、毎日同じ時間に起きて、バーシスでのカリキュラムをこなし、時間がくれば食事をし、人に物を頼まれれば、課題があれば、一つずつ処理する。
 毎日を支障無く、ある程度こなせるようになった。
 獅子王と共に過ごし、彼の腕の中で眠る。
 そう、彼の腕の中ではうまく眠ることが出来た。怖い夢も見なくなった。
 それは、彼も同じなのでは?
 自分がいないと、きっと獅子王は眠れない。まどかも彼がいないと、また夢にうなされるだろう。
(だから、私は獅子王の隣にいなきゃいけない)
 まどかは、鳳乱のかつての研究室の前でふと足を止めた。金属の扉はピタリと閉まっている。もう、彼がここから出てくることはない。
 まどかの胸がキュッと痛んだ。早くなる鼓動を落ち着かせるように息を深く吸い、奥のイルマ・ルイの研究室を目指した。
ーー自分の意志ではない、何か別の力に依って生かされている。今は鳳乱が私を生かしている。でも、そんな状態が『元気』と言える? それでもいい。きっと、私の存在に依って生かされている人もいるのだろうからーー

 イルマ教官の研究室には真ん中に大きな机があり、その周りを囲むように薬品の入ったキャビネットやら、様々な形の機器、鉢植えの植物やらが所狭しと収まっていた。遮光ガラスで、外からの光をかなりカットしているらしい。研究対象に影響が出るためか。
 部屋に入るとすぐ、机の向こう側にまさに今シャツを脱いだばかりの、上半身裸で立っているイルマ・ルイが目に入った。
 程よく鍛え上げられた均整のとれた上体にまどかは一瞬目を奪われたが、彼の声ですぐに我に返った。
「珍しいな。おまえの方から来るなんて。誰かと思ったよ」
 彼はシャツを丸めると、机の上に無造作に置いた。
「い、いくら私にアプローチかけているからと言って、いきなり裸は……わかり易過ぎです!」
 男の裸に頬を染める程純情ではなかったが、動揺からつい声が高くなった。
「はぁ? 何言ってんのおまえ。袖が薬品で濡れたから着替えてるんだよ。おまえが入って来るタイミング図って脱ぐ程のサービス精神は持ち合わせてない」
 教官はすぽっとグレーのTシャツの首から頭を出して両手でさっと髪を整えると、まどかの前に来て、よっ、と机に腰掛けた。
 脚の間に腕をだらりと垂らして、まるで研究対象のように、じっとまどかを見る。頰が熱くなるのを感じるが、目を逸らしたら負けだ。
 まどかは気まずい間を埋めるように、口を開いた。
「い……意外といいんですね。体格……。白衣コートを着ていると、もっと痩せている感じでしたけど」
「何? そそられた? まあ、一応軍人なんでね。給料貰ってるから体と頭は鍛えておかないと」
 彼は人懐っこそうに、にこっと笑った。まどかは一瞬、その笑顔に見とれた。
(あ、私の知ってる「イルマ・ルイ」の顔……)
「で、返事しに来たの? オレの所に来るって」
「いいえ……長官から預かりものです」
 彼の前まで行き、チップを彼の差し出した手に乗せた。
「ああ、助かったよ」
 それを見もせずに、ズボンのポケットに入れる。
「……女が好きでもない男の人の所に、喜んで行くわけがないでしょう……」
 まどかは彼の座っている机の角に、視線を落として言った。
「そうなの? オレは別にどっちでもいいけど。オレも別に好き嫌い関係ないしな。それでも、受け入れられるつもりだ」
(え……?)
 まどかは眉をひそめて、彼を見つめた。
「じゃあ、『オレの所に来い』って……」
「別に、それって、必ずしも恋愛感情がなきゃいけないわけじゃないだろ。おまえと獅子が早く別れるに越したことはない。でも、もしおまえが一人になることを恐れてぐずぐずいつまでも獅子と一緒にいるなら、オレがおまえの側にいてやるから、安心して別れろって言ってるの。分かる? だいたい、今のおまえたちの間にだって恋愛感情のかけらもないじゃないか。それに、オレは丁度半年くらい前に女と別れたし。心配ないぞ。どちらかというとおまえはオレ好みの顔だ。スタイルも申し分ない」
 正直、まどかは、この目の前にいる男の言っていることを、理解しようとすればする程混乱した。
 なぜこの男に言われて、獅子王と別れなくてはいけないのか。
 さらに、まどかに対して恋愛感情がないのに、彼は側に置きたがる。
 バカにされているとしか思えなかった。
 獅子王を連れ戻したまどかの決断が、全く無意味だと暗に仄めかしていたし、おまけに女性の気持ちを完全に無視した言葉である。
ーー顔が好みだとか、スタイルがなんだとか、何様なのだろう。
 まどかが怒りに唇を震わせていると、相手はさらに続けた。
「雌は、より強い子孫を残したいと本能的に思うから、雄を選ぶんだろうけど、雄は数さえ残せればいいからその点、あんまり深く考えないよな。雌のタイプとかそれこそ好き嫌いとか選り好みしない。数打ちゃ当たる、ってこと。唯一、まあ臭覚はどうしても外せないけど。おまえは……いいにおいいがするな」
 口の端で笑って、髪をかき上げる。
 まどかは挑むように目に力を込め、顎を引いた。
「皆、イルマ教官が変わったって言ってますよ。人を避けるようになったとか、エゴイスト極まりないだとか……初めてお会いした時にはそんな印象は全くなかったのに、これでは噂通りじゃないですか」
「そうかもな。まあ、でもしょうがないじゃん。オレの均衡を保ってたのは鳳乱なんだから。あいつがいなくなって、オレもいろいろバランスを失ってるんだと思うよ、実際」
 はは、と、自嘲気味に乾いた声で笑う。
「そんな、人ごとみたいに......それに、鳳乱のせいにするなんて……それなら、私のせいであんな結末を迎えたようなものです。申し訳ありません」
「ばーか。誰のせいでもないんだよ。そういう考え方が腹立つ。じゃあ、おまえが原因なら、どうすんの? 謝ってなにか変わるの? なんかおまえに出来るの? 鳳乱を生き返らせるのかよ? 無理だろ?」
「…………」
 まどかは俯いた。そう訊かれると、返す言葉が無かった。
 それに、彼の言う通りだ。まどか一人が呵責に苦しんだ所で、一体何が変わるだろう。誰が少しでも幸せになれるだろう。全くの茶番だ。
「鳳乱はイルマ教官が、仲良しの四人の間で唯一相手のことを考えられるやつだ、と褒めていたのに……」
 苦し紛れに、それだけ言った。
「ふうん……。そういえば金目も最初見た頃と印象が変わったよな。鳳乱と一緒のときは、その後ろに隠れて、あいつがいなければ何も出来ないような感じがしたけど」
 怒りで顔が火照った。
 この人は、人の神経を逆撫でするようなことを、どうして平気な顔して言えるんだろう。
「彼はもう、私の隣にはいないんです。支えてくれる人がいなくなったら、自分の足で立つしか無いんです。たとえ獅子王と別れたとしても、教官のお世話になる必要もありません」
 目頭が熱くなった。
ーー悔しい。
「……鳳乱は、おまえを盲目的に愛したんだろうな」
 唐突な、質問とも独り言ともとれる彼の言葉に、まどかは彼の瞳から目が離せないまま、戸惑いながらも小さく頷いた。
「それでもおまえは鳳乱を止められなかった」
 彼の言葉には平淡で、ただ事実を述べているだけだった。
 昨日は雨が降った。昨日は残業した。ランチのカレーが辛すぎた、とか、そんな日常的な事柄を述べるように。
 だから、まどかを責めているのではないことはわかった。責めた所でどうにもならない。
 今の話で、彼もそれを百も承知のはずだった。
「そういう男だったよ。決めたら、誰にも止められない。もちろん、おまえにも」
 慰めているのだろうか。
「おまえがこれ以上、無駄な犠牲になることは、無いんだよ」
ーー犠牲? 何を言っているの、この人は。
「おっしゃっていることがよくわかりませんが、獅子王と私を別れさせて、そして私が教官のもとにいくことは、一体誰のためになるんですか」
「……結局は、皆のためになる」
「教官は、偽善者です。全て分かっているふりをしているだけです」
 まどかの声は少し震えていた。彼の目的は一体何なのだろう。全くわからない。
 彼はちょっと肩をすくめた。一瞬、思案するように視線を手の平に落とし、それからまどかの目を見て、はっきり言った。
「それなら、おまえも偽善者だぜ? 金目」
 背に、冷たい汗が一筋、流れた。
「し、失礼させていただきます」
 その言葉だけをかろうじて喉の奥から絞り出すと、すぐに踵を返し、まどかは逃げるように研究室を後にした。


 獅子王と暮らし始めたばかりの頃は、いつも鳳乱と一緒だった彼が一人でいるのに違和感を感じた。
 そして、その横に、ふと何かの拍子に目の端に、鳳乱の影を捕らえた気がしたのは一度ならず何度もあった。
 それでも、獅子王と暮らしていくうちに、彼が一人であるという現実にも慣れてきた。まどかも、一人だ。
 そんな二人は、まどかが思ったような『傷の舐め合い』をするでもなく、もし綺麗ごとを言うならば「支え合って」暮らしている。
 まどかは恋人を失い、獅子王は友人を追いつめ、失った。
 でも、二人の間には確かに鳳乱の存在があった。いないはずの鳳乱を二人だけがその間に作り上げて、安心していた。
 しかし時間が経つにつれ、その不自然な概念でありながら、一応成り立っている二人の関係は、今や『仲間』や『同志』と呼べるものではないだろうか?
 お互いの悲しみと後悔を、一番よく理解し合える唯一の存在だ。一番怖いのは、鳳乱を忘れること。きっと、獅子王も同じ気持ちだ。だから、二人でいる意味がある。
 少なくとも、まどかはそう思っている。
 それがなぜ、何も知らない他人に『偽善者』呼ばわりされなくてはいけないのか。
 火山の山頂でトカゲに蹴られた時の腹の醜い痣が、時間をかけて薄れ、消えていったように、まどかは鳳乱の香りが散っていくのを実感していた。
 そして逆に、イルマ・ルイの存在は疎ましいだけに、かえってその存在が脳裏に色濃く広がっていくような気もしていた。
 
 ふと、誰かが指で髪を梳く感触を感じた。
 そっと、ゆったりと、そしてとても注意深く。
 その手の動きは、まどかに朝の訪れを教える。
 でも、瞼は開けない。まどかは眠っているふりをする。
 いつものように、規則正しい呼吸を心がける。
 髪を梳いていた指は、頬をなぞって首筋を通り鎖骨までたどり着く。
 鎖骨の上を滑る……肩を通って肘まですうっと。
 その、触れるか触れないかの愛撫はくすぐったくて、つい肩をすくめてしまいそうになるが、我慢する。
 すると、今度は温かい手の平が、横向きになっている体の曲線を柔らかな手つきで撫でる。
 それは何度か繰り返される。
 そこで、まどかは「ううん……」と微かに声を漏らす。急に消える優しい愛撫の気配。
 逃げる時間をあげなきゃ。
 まどかは、そこで初めて瞼をゆっくり開ける。
 ふと出会う、琥珀色の瞳。
「なに? やっと起きた?」
 それが彼流の「おはよう」の挨拶だ。
「獅子王だって、起きたばかりじゃないの?」
「まあな」
 そんな嘘も、見逃すことにする。だって、よく眠れたから。
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