吉祥寺行

八尾倖生

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第四章

灰常 木曜日

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1 木曜日

 約半年前、この大教室は、生まれも育ちも、性別も生き方も、ましてや学力さえもバラバラな若者たちによって、戦場と化していた。
 静寂の中に響き渡る、書く音、捲る音、さじを投げた者による鉛筆を転がす音。将来という緊張感が銃撃戦を展開させる中、声帯が入る余地はなかった。稀に、無駄に大きな音を立てて周りにプレッシャーを与えるという、一周回って百年後に蔓延まんえんしてそうな時代遅れな嫌がらせ戦術を本気で信条にしている者もいるらしいが、幸いなことに、私の眼中には存在しない存在として戦争を終えた。
 だが、あのとき同じ教室にいた戦友を、戦後の平和なキャンパスで見かけることはなかった。同じ予備校に通っていた豊田くんも、金髪にバッチリメイクをキメていた女性も、見るからに三十路みそじに片足が突っ込んでいた男性も、十年後には絶滅してそうな鉢巻を巻いたスタイルで、自信満々に『罪と罰』を試験会場で読んでいた男の子も、それに小学校のときからの親友も、四月以降の八王子では再会を果たせていない。
 代わりにキャンパスを庭にしていたのは、新生活を自分のものにできる強き者と、それに付随できる賢い者と、相応の苦労せずともキャンパスに滑り込み、加えて一定の人間関係を既に構築できているという、とんでもないアドバンテージを引っげてエスカレーターで昇ってきた附属生たちである。他学部にまで及ぶ彼らのネットワークは非常に強力で、それに一つ目の要素を兼ね備えた、強き、選ばれし者は、おそらくキャンパス内で不便に感じることなどほとんどないのだろう。
 逆に言えば、そのアドバンテージを大して活用せず、学内のサークルにも属さずに、ただ家と大学を往復している者は、世間から見ればとんだ変わり者に見えるのかもしれない。そのくせ講義にはせっせと出席しているような男であれば、きっと男は友人連中から標的にされ、貧困地域から成り上がったサッカー選手の親類を名乗る者たちがたかるように、試験二週間前ぐらいから、現在では特に付き合いもない元同級生たちに、ひっきりなしに情報提供を求められるのだろう。
 だが私としては、男がいくら覇気のない青年だったとしても、今もこの教室の後方で睡眠を取っているようなたちと、そのまた恩恵を受ける、この教室に足すら運んでいない友人たちに比べれば、よっぽど好感が持てる。彼らの界隈にいる女性たちは男の存在など眼中にないのだろうが、男のような存在は、ただ月日を消費しているだけではないということを私は知っている。彼が情報の代償に過去問題などの調物ちょうもつを得ているのならば、もはや尊敬の域に達する。
 なぜなら、私にはそれが出来なかった。

「松井さん、この問題、わかる?」
 さっきまで全校集会の校長先生のように悠々と浮遊していた教授の弁が、不意に一人の人間をロックオンした。
 だが慌てる必要はない。その問題は、先週の講義中に済ませた。
しち権の設定は目的物の引渡しがなければ効力を生じないですが、この引渡しが占有改定の方法によるときは質権は成立しないので、答えはバツです」
「はい、正解です。ちなみに何条かも答えられる?」
「えっと、民法344条で、占有改定は判例ですか?」
「はい、ありがとう。流石さすがです、松井さん」
 その後、教授は軽く判例に触れ、次の問題の解説を始めたが、私以外で個人に名指しされることはなかった。先ほどの問題以外は教授が自ら解答をしている。
 だが依然として教室内の注目は、私の方に集まった痕が残っている。今に始まったことではないが、人によっては今に始まったこととも言える。今に始まったことでなくても、同程度の関心を維持し続けている者もいる。
 それのみかこれらの関心が、個人への興味ではなく、誰も傷つけずに笑いを取れる日常会話のえさとして用いられていることを、私は知っている。いくら大学生の常識から外れている行動を取っていても、頭の中ではその自覚と、動機を兼ね備えているつもりだ。動機と言っても、横の繋がりを作ることを入学早々に諦めた故の消極的発端だが、今ではそのエスカレートが心地良くさえ感じるときがある。
 理由は一つ。私は今まで、他人の前方に存在することができなかった。
 それが今では、オフサイドもないガラ空きの状態である。四月の通常授業が始まった最初の週、大教室に入ると、これから食事でも並べられるかのように、前方の席がぽっかりと空いていた。そのとき、数ヵ月前の私が目の前に現れた。それは大学でサークルに入り、背徳感を愉悦で掻き消しながら、新しくできた仲間たちと程よく新たな日常を楽しむことを夢見た、若気を知らない田舎の少女だった。
 彼女は私に目配せした。あれが、生まれ変わる最後のチャンスだ、と。
 そうして私は、を選んだ。前列の席に座った瞬間、彼女は微笑ほほえみながら消えていった。だがその顔が仮面だと気付いたときには、後方では既に騒めきの気配が生じていた。

「松井さん、ちょっといい?」
 講義終了後、教授に呼ばれた。
「なんですか?」
「今週末ね、その、私の講演会があるんだけど、よかったら君、来てくれない?」
 内心、またか、と思った。
「すみません。週末はアルバイトとボランティア活動があって、空いてないんです」
「そうなんだ。ちなみに土曜日なんだけど、その日はアルバイトの方?」
「はい」
「あれだったらその分のお金出すよ? それでも無理?」
「そんな、お金だなんて悪いですし、今からアルバイト先に休むって伝えるのも悪いので」
「そっか、それなら仕方ないな。またの機会に頼むよ」
 後期になってから、この手の呼び出しが増えた。「最近質問に来てくれないから、こっちから呼んじゃった」と言ってきた教授もいた。正直、その講義ではもう前列に座りたくないが、前列に座らなくなったことで新たな噂が立つのも、それはそれで嫌である。人々は私を「はがねの精神」などと評価しているみたいだが、高校まで他人の目だけを気にして生きてきた人間が、そう簡単に変われるはずがない。だからこそ、こんな風評も耳に入っている。
 それでも、やっていることは間違っていないと信じているし、やらざるを得なくなっている自分を、誰も気付かないこともわかっている。此処ここ以外なら良い仲間もいる。だからもう少しだけ、おそらくあと一、二年我慢すれば、少女が夢見た人間になれる。それは偽りではなく、本当の意味で人前に立てる、強い人間に。
 それまででいい。それまで私は、「鋼の精神」をまとい続ける。

 一限、二限共に終わり、学部棟の階段を降りながら、大学内にいる数少ない仲間の元へ向かっていた。
 二限の中国語の授業は、一限の大教室とは違い、学部棟にある比較的小さな教室で行なわれる。ちなみに私は、五階にあるその教室まで、毎回階段で昇降していた。理由は単純で、六月頃にエレベーターに乗った際、後ろにいた金髪の男女が私のことを指差し、「あのじゃん。マジウケる」というささやく声がはっきりと聞こえた。それ以来、エレベーターには乗らなくなった。と言うより、乗れなくなった。階段を使い出した初期は、教室に着いたときに息切れを隠すことに必死だったが、今では悠々と昇れるようになった。天が振り撒いた絶望的な運動神経を譲り受けた私にとって、結果的には良かったのかもしれない。
「あ、彩花あやかちゃん来たよー」
 キャンパス内にある広いテラスに設置されたテーブル席には、先輩の男女が一人ずつと、同い年の男子の合計三人が既に座っていた。
「お疲れ様です。待たせちゃいました?」
「ううん、大丈夫! まだ涼一りょういちさん来てないし。それにしても、相変わらずグレーの服好きだねー」
 促されるままにショートヘアの女性の先輩の横に座ると、他の人たちと同じように、昼食を机の上に出した。
「お、今日も美味しそうだね」
「ちょっと隆道たかみち、そうやって彩花ちゃんのお弁当貰おうとするのやめなよ」
「え、いや、そんな気は……」
「え? よかったら差し上げますけど」
「いい、いい! ごめん、ホントにそんなつもりないから! ちょ、お前、余計なこと言うなよ!」
 はたから見れば国営放送のように味気ないやり取りでも、私にとっては大学内で感じられる貴重な平穏な時間、だった。
「あ、涼一さん来た」
 この涼一さんという人は、四年生で、我々のまとめ役的な存在である。教員志望なこともあり、その統率力は私も尊敬しているが、真面目過ぎる面もあるため、和気藹々あいあいにはそこまで参加しない。
 代わりに先ほどから会話の中心にいるのが、今私の隣に座っているあおいさんである。
「ごめんね待たせて。もう始めてた?」
「いえ、隆道が彩花ちゃんにセクハラするんで全然始められませんでした」
「おい! だから違うって!」
 葵さんと隆道さんは同じ三年生で、高校も同じらしい。だからというか、二人は仲が良い。隆道さんも葵さんのことをよく理解しているから、二人の距離感はとても程が好い。
 眼鏡をかけたもう一人の男子は原田くんといい、基本無口であり、同級生にもかかわらずほとんど話したことがない。
「まあ、始めるのは昼飯食べ終わってからでいいか。みんな三限空いてるんだよね?」
 全員が頷いた。
石嶺いしみねくんは、やっぱ来れなさそうかな?」
 隆道さんが呟いた。
「ま、来れないなら無理に呼ばないでもいいんじゃない? 結構忙しいみたいだし」
「うーん、そっかー。本当は今度のイベントで頼みたいことあったんだよなー」
「あ、まーた楽しようとしてる。そんなんだからいつまで経っても彼女できないのよ」
 そうやって葵さんは、自然に話題をくだんの人物から逸らしてくれた。
 この石嶺拓也という男子は私と同級生であり、あまり口に出したくはないが、明らかに私に好意を持っている。また、彼本人はなかなかの切れ者であり、その有能ぶりは先輩達からも認められている。
 だからこそ私にとってこの状況が、大学内の唯一の居場所であるサークル内で感じる、最大の鬱屈うっくつなのだ。石嶺拓也という人間のことを嫌いなわけではない。だが、好きになることは、絶対にない。その一方で、有能であると同時に自信家な彼は、自分で言うのもなんだが、私へのアプローチを日に日に強めており、さらに始末が悪いことに、周りのサポートもそれに連動してしまっている。端的に言えば、本人を含めたサークルメンバーのほとんどは、石嶺くんと私が付き合うものだと思っている。
 ただ葵さんだけは私の鬱屈に勘付き、所々で壁になってくれるのだが、それさえ平気で乗り越えてくるのが彼の恐ろしいところであり、私の鬱屈の根深さなのである。

「それじゃ日曜日、9時に立川集合で。葵と隆道は頼んだものよろしく。後は石嶺への連絡だけど、彩花、やりたい?」
「え? いや、そんな別に……」
「ごめんごめん。俺が後で話まとめたものグループに貼るから。あ、でも彩花がどうしてもって言うなら全然いいよ?」
「いえいえ! 大丈夫です! 涼一さんお願いします!」
「涼一さんまでもう……。大丈夫? 彩花ちゃん」
 小声でささやきながら肩を抱いてくれた葵さんの温かい手のお陰で、ようやく変な汗が引いた。
 私たちのサークルは一言で言えばボランティアサークルで、週末を中心に、幼稚園や小学校の課外活動や、自治体のイベントなどのお手伝いを行なっている。サークルメンバーは全員で十五人ほどいるが、今日集まった五人と石嶺くんはその中でも企画メンバーであり、今日のように定期的に集まって、活動内容を整理している。
 言い換えれば、活動には基本的に自由参加なため、この六人以外のメンバーの参加頻度は高くなく、企画メンバーのみの活動も珍しくない。今度の活動もそうなるだろう。その分、六人の繋がりは自然と強くなる。だからこそ居心地を覚え、その副作用も、半端なものではない。
 次の活動は日曜日で、提携している団体が主催するキャンプ体験のイベントのアシスタントをすることになった。キャンプ場は都外まではいかないが、我が大学よりもさらに西にあるため、途中からは涼一さんが車を出してくれた。涼一さんの車で目的地まで向かうことは少なくないが、大抵私は石嶺くんの隣に座ることになる。おそらく、彼がそうなるように仕組んでいるのだろう。
「じゃ、解散で。みんな当日まで風邪かぜひかないように」
 既に先生の風格を漂わせながらミーティングの終わりを告げると、涼一さんはすぐに駅へと向かった。この後はアルバイトがあるらしい。
「私たちも行くね」
「また日曜日」
 葵さんと隆道さんはこの後の講義が同じなため、そのまま二人で大教室へと向かった。当たり前だが二人は男女の関係ではないが、相変わらず、夫婦めおと漫才のような掛け合いを続けている。葵さんの心柄をかんがみれば、「夫婦」という表現は著しく不適当だが。
 残されたのは私と、無口な同級生、原田くんだけだった。私も彼に挨拶し、そのまま図書室へでも行こうかと思った矢先、
「松井さん、この後って、空いてたりする?」
 約一ヵ月ぶりに話しかけられた気がした。彼は基本無口で、正直に言えば何を考えているのかわからない部分が多いが、その割には先輩からの評価は高い。特に涼一さんは彼を買っており、石嶺くんと同様、重要な仕事を任せられることが多かった。今思えば、私は簡単で楽な仕事ばかりだった気がする。
 だが私は、原田くんの素性をほとんど知らない。実家か一人暮らしかどうかさえ知らない。だからというか、彼と二人きりになるのが嫌というか、不気味だった。ある意味、石嶺くん以上に。
「ごめん。四限までにゼミの課題終わらせたいから、ちょっと無理かも」
 そんなこともあり、咄嗟とっさに彼の申し出を断った。半分、嘘を用いて。四限があるのは本当で、終わらせたい課題も確かにある。
 だが私は、そもそもゼミに所属してなどいない。
「そうなんだ。それなら、今度都合良いときでいいから、少し話せる?」
「え、うーんと、そうだね、もし、合ったらね」
「オッケー。じゃあまた、連絡する」
「うん。それじゃ、また日曜日ね」
「それより前にキャンパス内で会うかもしれないけどね」
 そう言って駅へと去っていった彼の顔は、妙に確信的だった。
 時計を見たら、四限までまだ四十分以上あった。とりあえず宣言通り、図書室へ向かうことにした。
 風が心地良く、長袖を着込んでいる私でも暑くも寒くもない、絶好の気候に遭遇した。まるで誰かの運命さえも変えてしまうようなそんな一時に、ただただ心を奪われた。

寿ひさし、なんで今日授業出たん?」
「え、レポート提出今日じゃなかったの?」
「マジかよ。お前、俺が流したデマ引っかかってんじゃん。超ウケる」
「は? マジ? ふざけんなよ。なんで提出ねえのかと思ったらそういうことだったのか。おい、俺わざわざバイト休んだんだぞ。どうしてくれんねん」
「騙されたくねえなら普段から授業出ろ」
 確かに。彼の言っていることは、とても一理ある。
 四限終わりの帰りのモノレールは、朝ほどではないが、他の時間帯に比べて大学生が多い。そのため、こんな風な会話がよく聞こえてくる。もし私が当事者だったら人間不信に陥ってしまいそうなやり取りも散見されるが、それでも彼らは明日には何事もなかったかのように、再び時間を共有する。正直、少し羨ましい。
「じゃあ明日な。あ、ちなみに明日はガチで提出あるから」
「は? おい、こんなギリギリで言うなよ。マジでどっち? おい、どっちだよ!? マジで教えて!」
 友人とは別に高幡不動駅で降りた彼は、モノレールのドアが完全に閉まっているにもかかわらず、ドア越しにいる友人に向けて、お構いなしに声を荒げた。その姿は本当に滑稽こっけいで、今にも笑い出しそうになった。
 モノレールが発車すると、さすがに彼も諦めてホーム上を歩き出した。同じ駅で降りた私は少し遅れたタイミングで降車したため、ちょうど彼の後ろをついて歩く形になった。
 改札から出ると、彼は早速、誰かに電話をかけた。
「あ、美咲みさき? 明日ってレポート提出ある? ある!? オッケー、マジサンキュー! 助かった! え、なんで笑ってんの? まあいいや。サンキュー! じゃあな!」
 たぶんまた嘘なんだろうなと心の中で思ったが、明らかに機嫌が良くなっている彼を見て、少しだけ、強くなれる気がした。あくまで、気だけ。
 京王線に乗り換えると、彼の姿は見失った。その後は一人、英単語を覚えながら京王線を堪能した。
 私の一人暮らしの家は、調布駅から徒歩十分ほどの立地にある。大学から少し遠く、家賃も大学周辺よりは高めだったが、同じアパートに女子大生が多く安心だという父親の強い勧めもあり、このアパートに決まった。
 かと言って、調布の街を散策したことはほとんどない。それどころか、行ったことのある東京の街も数える程度である。しかもそのほとんどがボランティア関連であり、純粋な遊びで訪れた街は一つだけ、葵さんに連れて行ってもらった吉祥寺のみである。ただ吉祥寺に関しても、何をしたのかはうろ覚えである。
 だが、唯一行ってみたかった井の頭公園に行けなかったことだけは、はっきり憶えている。

 隣の部屋の生々しい嬌声きょうせいでふと我に返ると、いつの間にか0時を回っていることに気付いた。翌朝が遅くても23時には床に就いているのが習慣である私にとって、大した夜遊びである。しかもまだ、今日の洗い物が中途半端だ。
 原因ははっきりしている。勉強の息抜きに見た、性的要素が強めなインターネットの記事に夢中になっていた。その話題を深掘りしていった挙句、かれこれ二時間半が経過した。さすがにまずいと自覚し、すぐにノートパソコンの電源を落として、残りの洗い物を済ませた。
 しかしもう一つ、忘れていることに気付いた。今日はまだ、お風呂に入っていない。
 結局床に就いたのは、1時を回った。布団を被ったとき、ふとモノレールに怒鳴りかけるあの彼の姿を思い出し、吹き出した。こんなとき、何でも言い合える相手がいれば、話題を共有できたのに。
 消化不良な気持ちは陰部を触ることで抑えようとしたが、余計に内なる欲求を生むばかりだった。
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