吉祥寺行

八尾倖生

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第三章

赤常 土曜日

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7 土曜日

 設定した通りの時間に、設定した通りの曲が鳴り響き、今日が再び始まった。
 眠りに落ちた三時間前までは、賢者の時間に精神が支配されていたため気付かなかったが、日本の四季の中で唯一と言っていい快適な時期の中でも、今朝は特に気持ちが良かった。睡眠不足がみるみるうちに解消されていく。こんな日が毎日続けば、目覚めをサポートする栄養ドリンクはたちまちこの世から姿を消すだろう。
 だが不幸にも、今日は土曜日の朝である。週末をアウトドアに捧げる活発人たちには絶好の気候でも、平日に活力を搾り取られる多くの現代人にとっては、自然の睡眠促進剤でしかない。
 その一方で、紅華のような、強制的に睡眠に落ちている例外もいる。彼らにとっては休日朝の爽快感よりも、金曜夜の非日常の方が、人生におけるレートが高い。そんな生き方に最も憧れるのが、俺たちティーンエイジャーのさがである。
 紅華は今頃、ディズニーランドで自撮りの角度を試行錯誤している夢でも見ているのだろう。いや、彼女はむしろあざける立場かもしれない。

 本来であれば、俺もこんな素晴らしい朝を逃すはずであったが、事情があって10時に起きた。シャワーを浴びているとき、肉棒に傷があることに気付いた。同時に昨夜の口の感触を思い出し反応しかけたが、今回に関しては理性が勝った。
 軽く朝飯を食し、四十分で家を出た。向かった先には、見慣れた顔と声が揃っていた。
「敬斗、随分眠そうだな。飲んでた?」
「まあ、そんなところ」
 墨田区某所のフットサル場では、十数人の若者たちが元気よく身体を動かし始めている。彼らは中学のサッカー部の仲間であり、今でも定期的に集まってフットサルをしている。今日もそのうちの一日であり、11時から13時までフットサルコートを借りている。
「彼女と一晩中ヤッてたんじゃねーの?」
「ちげえよ」
 ある意味、違くはない。だが彼らには関係のないことだ。
 知らないうちに美咲と別れ、知らないうちに顔も名前も知らない女性が俺の前に現れても、彼らの人生を一ミリたりとも動かすことはない。だからこそお互い、世間話に留めておく。
「眠そうな割には元気そうだな」
「朝めっちゃ気持ち良かったから目覚めたわ」
「確かに。俺も死んだのかと思った」
「簡単に天国行けると思うなよ」
 約二時間、サークルと社会人サッカーの中間のような強度で、ほどほどにフットサルを堪能した。この後は解散し、それぞれの休日が始まる。社会人やサークルに合流し、引き続きフットボールに耽る者もいれば、アルバイトに身体を拘束される者もいる。
 俺はあと一時間もしないうちに、後者に身を置くことになる。休日は基本的に昼からずっと客が途切れないため、普段よりも早い14時からシフトに入る。その分、たまに早く上がらせてもらえる日もあるので、現状に特に不満はない。
 ただ、この僅か中一時間は、もう少し慎重に検討するべきだった。

「鳥飼くーん、なんかもう落ち着いちゃったから、よければ上がっても大丈夫だよ?」
 21時頃、店と同様に落ち着きを放っていた店長が気を利かせてくれた。素直に申し出を受け入れ、裏の厨房でまかないを食べていると、スマートフォンに電話がかかってきていることに気付いた。
 店外で電話に出ると、昨日今日で一番聞き覚えのある女性の声が響いた。
「やっと出た。もう、なんで無視してるの? さっきからかけてるのに」
「ちょうど今バイト終わったんだよ」
「あ、バイトだったんだ。でもバイトあるなら言ってほしかったな」
 少し背筋が伸びたが、彼女への熱に衰える気配はない。
「まあいいや。ねえ、今なにしてるの?」
「なにって、バイト終わって一息ついてる」
「違うよ。これから暇かって訊いてるの」
 俺の聞き間違いだったのだろうか。是非そうであってほしい。でなければ、少し怖い。
「まあ一応、暇ではある。帰るだけだから」
「よかった。ならさ、ウチ来ない? これから」
「え?」
「いやだって、明日吉祥寺で試合あるんでしょ? だったらウチから行った方が近くてよくない?」
「まあ、確かにそうだけど」
 罠かと思うほど、あっさり家に誘われた。それも、美咲と会う前日に。
 だが、脳みそは昨日の味を再びめたがっている。
「それとも何か用事あるの? そっちで」
「ないない。わかった、行くよ。今から向かう」
「ホント!? やったー! じゃあ住所送るね!」
 ほとんど行ったこともない街の住所をポンと送られても辿り着ける気はしなかったが、とりあえず目の前にあるニンジンに従うことにした。
 だが、聞いておきたいことが一つあった。
「家って、一人暮らしだよね?」
「ううん、実家。お父さんいるけど、まあ大丈夫」
 ニンジンは半分切り落とされた。しかし、残りの半分が根強かった。
「あー、そうなんだ。まあでも、大丈夫なんでしょ?」
「うん、たぶん。最悪こっちホテルいっぱいあるから、なんとかなるよ」
 その一言で、ATMから資金を補充する必要が生じた。
「じゃあ、後で。道わかんなかったらまた電話してね」
「オッケー。じゃ、後で」

 22時を回った総武線の車内は、当初は座席に空きがない程度の具合だった。だが水道橋に停車すると、途端にモノレールを思い起こさせるまでの混雑具合に変貌した。
 その原因は、乗車客の多くが身に付けている服やグッズで容易に想像がついた。オレンジ色の人々はわかりやすかったが、もう一方の、主に濃紺のユニフォームの人々のチームはピンとこなかった。手前にいた中年男性が「勝ったんもそうやけど、もう一生来れへんと思っとったから来れてよかったわ」などと話していたので、おそらく関西のチームなのだろう。
 京王線に乗り換えるために新宿で降りた。このまま乗っていても吉祥寺には着いたが、できるだけ定期区間から行きたかったので、この決断に至った。京王線でも、依然としてちらほらとオレンジが目に付いたが、共に明大前で降りた人はほとんどいなかった。
 初めて降りる駅だったが、妙に慣れている感覚があった。お陰で迷うことなく、吉祥寺行の井の頭線に辿り着くことができた。ただ仕様がわからないので、とりあえず来た電車に乗っていると、どうやら各駅停車だったらしく、多少無駄に時間を消費した。結果的に吉祥寺に着いた頃には23時を過ぎていたが、催促の連絡は特になかった。
 吉祥寺駅北口のロータリーに出ると、錦糸町とはまた違った「街」を感じた。賑やかさの中にも落ち着きが垣間見える、まさに郊外といった雰囲気である。
 しかし今自分が目にしているのは、この街のほんの一端である。近くにあるという井の頭公園も、街をいろどる店々も、芳内がよく行くという家系ラーメン店でさえも、今の俺には吉祥寺に含まれない。俺にとっての吉祥寺は、今、瞳の奥に映る、この景色でしかない。
 そして、この周りにいる人々は誰も、俺のことも、おそらく芳内や紅華のことも知らない。なぜ駅を出た瞬間から、柄にもなくこんな感覚に襲われたのかはわからない。誰かがたまに生じる衝動を、代弁させられているだけなのかもしれない。しかし一瞬だけ、この街がとてもアウェーに感じた。いや、吉祥寺だけじゃない。今まで訪れたことのない街全てが、まるで日本じゃないかのような、透明人間になったかのような、自分とは違う世界に思えた。
 そんな夜風で肌を冷やしていると、唐突に人に会いたくなった。最初に浮かんだのはこの街に住む芳内で、次に浮かんだのは、美咲だった。
 その十秒後、紅華に吉祥寺に着いたことを伝えた。

 紅華から送られてきた住所を見た瞬間、嫌な予感がした。
 吉祥寺は武蔵野市のはずだが、彼女の住所は練馬区から始まっている。一応本人からは歩いて十五分から二十分と聞いていたが、地図アプリで調べ直した結果、優に三十分は越える距離だった。だが今さらタクシーを使うわけにもいかないため、歩くほかない。「歩いて行くからもうちょいかかる」と伝えると、彼女はさっきまでの前傾姿勢が嘘かのように、あっさりとその申し出を受け入れた。
 結局、約四十分の時を費やし、青梅おうめ街道沿いのマンションに到達した。事前に聞いていた部屋番号まで辿り着きインターホンを押すと、ブルーのパジャマに身を包んだ彼女が出てきた。
「ホントに歩いて来たんだね」
 本当にあの紅華かと目を疑うような、落ち着いたテンションで出迎えに来た。
 明らかに、他の誰かに気をつかっているのがわかった。
「ごめん、今ちょっとお父さんイライラしてるみたいだから、できるだけ静かに移動してもらえる?」
 そう言われ、特に挨拶もせず、リビングを通り過ぎて紅華の部屋に向かった。途中、見覚えのあるオレンジ色の服を着た父親らしき人物が、缶ビールを豪快に飲み干す姿が見えた。
 部屋に入ると、意外に整理整頓されており、余計に紅華の内面が見えなくなった。てっきり読みかけのファッション雑誌や充電器などが散乱しているとばかり想像していたが、部屋にあった意外なものは、『プレシャス』という映画のポスターと、LGBTに関するいくつかの書籍、それから隅にあった大量の絆創膏ばんそうこうとガーゼ、避妊具ぐらいだった。それらも最近は出番がないのか、奥に押し込められている。
「なんか、応援してるチームが負けちゃったんだって。今日サッカーの試合でもやってたのかな?」
 心当たりはあるが、かと言って補足するほどの情報は持ち合わせていない。彼女の方も関心があるのは試合ではなく、父親の習慣だった。
「よくあるから慣れちゃったけどね。前はこっちにもぶつけてきたけど、お母さん出て行ってからはさすがにしなくなった。だから最近は、家に居るのもそんなに悪くないんだ」
 飄々ひょうひょうと語るその口は、何かのドキュメンタリーを見ているようだった。
「お父さん、俺いること知ったらブチギレるんじゃない?」
「たぶん大丈夫。あの人、お酒飲んだらすぐ寝るから。あと、もう私の部屋には入ってこない。高校卒業したら興味なくなっちゃったみたい」
 込められた意味を察してほしくないかのように、彼女は明るい口調で話す。
 しかし、声の大きさは相変わらず安定している。初めて会った居酒屋でのあのハキハキした声は、この空間では決して聴くことはできない。
「やっぱり、ここじゃやだ?」
 もちろん嫌だった。それは素直な感情であり、表に出しても差し支えないものである。
 だが、紅華はもっと素直だった。俺をここに招き、ここでしたがっている。これが彼女自身の問題であることを理解するのに、時間はかからなかった。
「いいよ、ここで。紅華が、そうしたいんだろ?」
 彼女は何も言わず、ベッドの脇に立てかけられている写真を見ている。
 そこには、紅華の面影がある四歳くらいの少女と、紅華によく似ている二十代後半くらいの女性と、そして明らかに先ほどの男とは違う、女性と同い年くらいの背の高い端整な顔立ちの男性が、本当に仲良さそうに、三人で写っていた。男性と女性の指には、お揃いの指輪がめられている。
「お父さんが見たら、殺されるだろうな」
 そう呟いた紅華は、その写真を引き出しに仕舞った。
「殺されないように、優しくしてね」
 パジャマを脱ぎ捨て下着姿になった紅華と共に、俺の心身は、夜のとばりに包まれていった。

 深夜3時を回った頃、美咲からのラインで一時的に目を覚ました。
 紅華を起こさないようにそっとスマートフォンを手に取ったが、結局、通知音と画面の明るさに彼女は反応した。どうやら、そもそも眠っていなかったようだ。
「誰? 美咲ちゃん?」
「そ。明日の確認っぽい」
「ふうん。なんか、すごい事務的な文面だね。なんて返すの?」
「え? いや、まあ普通に」
「アタシがやってあげるよ。本気出したら、たぶん朝までにり戻せる」
「どっちの味方だよ」
 布団の中で、紅華の手が活動を再開した。
「まあ君の方は、たまにウチ来てくれれば、それでいいんだけどな」
 背中に顔を埋めながら呟いたので、はっきりとは聞き取れなかった。
「とにかく、明日は応援してるよ。傷ついた女の子を見るのは、もう御免だから」
 美咲の事務的連絡に対し、返事と謝罪を添えた。既読はついたが、返信はなかった。
「そういえばさ、思ったんだけど、」
 紅華の両手が胸の位置で安定した。
「敬斗、最近、私と美咲ちゃん以外の娘にも執着してたんじゃない?」
 ほんの一瞬だったが、震えを覚えた。
 だが身体を完全に密着させている紅華は、その一瞬を逃さなかった。
「へー、まさか図星だとは」
「いや……、まあ、確かにそうだったんだけど、別に人として意識してただけで、恋愛感情とかはなくて」
「ふうん。まあ別にどっちでもいいや。あんま興味ないし」
「なんなんだよ……。てか、なんでわかった?」
「勘ってやつ? 女の」
 紅華の腕が徐々に解かれていく。
「ま、ホントはただの当てずっぽうなんだけど。こういうの、結構当たるんだ、アタシ」
 たくさんの窮愁きゅうしゅうと引き換えに天から与えられたその精神は、いつか人々の明日を照らすのだろう。
「おやすみ」

 二人の意識を奪った最後の一言は、彼らを現実の世界に連れ戻す東雲しののめと、中途半端が生んだ青い日常によって、消失した。
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