「月が、綺麗ですね。」

八尾倖生

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第三章 出版

春➁

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1 春

「ごめん、遅くなって」
「あ、尊さん」
 21時頃、江東区内の病院の一室に、尊さんが駆け付けてくれた。
「すみません。忙しそうなのに、わざわざ……」
「何言ってんだよ。朱美ちゃんだってこんな夜遅くまで残ってくれてるじゃないか」
 しかしその当事者の人間に、反応はない。
「それで、奏、どうだ?」
「はい……。もちろん命に別状はないですし、体自体は時間が経てば治るって言われたんですが、精神的なショックが大きいみたいで、ずっと、目を覚まさないんです……」
「そうか……」
 ベッドに横たわる奏さんを見る尊さんの目は、どこか、私とは別の感情を宿しているようにも見えた。
「本当は俺も行くべきだったのに、申し訳ない。二人だけにこんな負担掛けさせちゃって……」
「いえ! 尊さんにはアポ取ってもらえただけで本当に感謝してますし、それに、ちょっと予想外のトラブルが起きて……」
「予想外のトラブル?」
 尊さんには奏さんが倒れたとだけしか伝えてなかったので、当然その詳細は知らない。
「以前、奏さんの高校時代に色々あったって言ってたじゃないですか。たぶん、そのときの相手が、今回の五木あおい本人でして──」
「まさか、佐々木有紗ありさが……?」
「え?」
 尊さんはすぐに、その本人と思われる女性の名前を呟いた。
「なるほど……、だから奏はこんなにショックを受けたのか」
「あの、その佐々木有紗って人は、何者なんですか?」
「……奏が起きるとあれだから、場所を移そう」
 眼鏡を外した奏さんの寝顔を目に焼き付け、尊さんに続いて、病室を出た。

「奏が、高校のときから小説を書いてるって話はしたよね?」
「はい」
 院内にあるフリースペースに移動し、おそらく去年の七月以来、直接二人で話した。
「あいつとは一年と三年で同じクラスで、文芸部も一緒だったんだけど、一年の頃にはもう、何作か書いてたんだ。ほとんど恋愛小説だったけど」
「へえ、意外ですね」
「まあ、元はそういうの好きだったんだよ」
 たぶん、これは冗談ではないのだろう。
 そのような感覚に鋭い尊さんが、全く笑っていない。
「でもまあ、部内では評判良かったんだよ。ストーリーはともかく、文章はすごく綺麗だからさ。でもあいつ、あまり他人には見せようとしなかったんだ。部活以外の人間には絶対見せないし、新人賞に応募とかも当時は興味なさそうだったんだよね」
「でも、尊さんには見せてたんですよね?」
「まあ、一応ね。見るたびにお前も書けなんてしつこく言われてたけど」
 今回は少しだけ笑った。
 だからこそ、さっきのが冗談でないことがひしひしと伝わってくる。
「でね、二年の五月頃、奏、あの小説書き始めたんだ。でもなんか知らないけど俺以外には絶対見せなくて、だから何か特別なのかと思ってたんだけど、別に文章自体はいつも通りだし、展開とかも相変わらずだった。確かに、主人公の心理描写がいつもより繊細で、奏本人っぽかったのはよく覚えてるんだけど。ただね──」
 先ほど見せた軽い笑顔は、いつになく真剣な真顔に切り替わった。
「夏休み中もずっと書いてたのに、奏、それの執筆全然進まないんだ。朱美ちゃんも知ってると思うけど、あいつ、普段は結構早いじゃん? だけど全く進まないからどうしたんだろうって気になってたんだけど……」
 尊さんが深く息を吸う。
「二学期入って十一月頃にね、奏のその小説、クラス中に出回っちゃったらしいんだ」
「え……!?」
 息が詰まる音がする。
「で、その原因というか、バラいた張本人がその、佐々木有紗ってクラスメートの女子だったんだ」
「そ、そうだったんですか……」
 声が死んだ音がする。
「俺も別のクラスだったから詳しいことはわからないんだけど、でもたぶん、あの文章と恋愛小説の内容が重なったら、普通の高校生相手じゃどうなるかわかるよね?」
「……だいたい想像できます」
 彼女の人をバカにしたわらい声が、脳内に蘇る。それが、教室中に響き渡る景色も。
 そうなることが怖かったから、私は今まで、何も書けなかった。
「奏も別に目立つタイプじゃなかったし、相当いろんなこと言われたんだと思う。それでその後、学校で過呼吸になって、しばらく来れなくなったんだ。最初は入院してて、俺もお見舞い行ったんだけど、それ以来、書くのも部活も辞めて、今までの作品もほとんど処分しちゃったんだ」
 病室のベッドで眠る奏さんを見たときの、尊さんの目の意味がようやく解った。
 尊さんにとってその光景は、初めてではなかったのだ。
「だけど、唯一残ったのが、あの作品だった」
「……おかしな話だよね、傷つく原因になった作品だけ残すなんて。でもあれは、間違いなく、変わる前の奏が書いた唯一の作品だった」
「変わる、前の?」
「ああ。大学に入って、環境変わってからもう一度書き始めたんだけど、その頃にはもう恋愛小説なんて一切やめて、異常気象とか古代文明とか、一貫性のない突飛な話ばっか書くようになったんだ」
「なんで、ですかね……?」
「たぶん、」
 尊さんは、奏さんのことをよく知っている。
 だからこそ、彼の話をすることを、彼以上に背負っている。
「現実の話で、現実の自分が傷つくことを避けたんじゃないかな。空想の話なら、傷つくのは空想の自分だって逃げることもできるし。それを悪いとは言わないけど、だけどあいつ、本当は、人の内面を描くのがめちゃくちゃ上手いんだ」
 対する私は、奏さんのことを、何も理解していなかった。
 理解した、気になっていただけだった。
「でもそれをやると、結局自分に返ってきて、また傷つくことになる。だけど小説は書きたい。それで残された選択肢が──」
「現実じゃないものを、ひたすら書き続ける」
 尊さんは黙ってうなずいた。
「奏さんはそんな辛い過去と戦いながら、あの小説を書いてたんですね……。なのに私、何も知らないで、奏さんに書けなんて言って……」
「朱美ちゃん……」
 感情が込み上げてくる。
「私、本当に、奏さんに申し訳ないです……。理解したつもりになって、知らず知らずのうちに奏さん傷つけて……」
「それは違う!」
 震える私の肩を、がっちりした両手が支えてくれた。
「あいつがもう一度あの小説を書くって決めたとき、確かに俺も嬉しかったけど、間違いなく、一番嬉しかったのはあいつ自身だ! だからあいつは去年から今まで、少しずつ変わっていった。それは朱美ちゃんだってよく知ってるだろう!?」
「尊さん……」
 両手は離れたが、そのぬくもりはまだ残っている。
「俺じゃどうしようもなかった固い扉を開けたのは、間違いなく朱美ちゃんだよ。そしてその扉を一番開けたがっていたのは、間違いなく、奏自身だ。それに関して、あいつが後悔することは絶対ない。これだけは俺が保証する」
 そう言い切って、尊さんは視線を外した。
「奏は正直、心が弱い。弱いからこそ、あんなキャラで自分を守ってる。だけど弱いからこそ、人の内面がわかって、人の心を震わせるものが書けるって、俺は信じてる」
 私個人にではなく、もっと大きいものに向かって言っている、そんな気がした。
「でも世間の目は、そういうものに対して厳しい。そういうものを嗤う風潮が、表から消えていかない。だからこそ──」
 息を吸い、私の目を見た。
「俺は人が嗤うより、笑うものを生み出したいんだ」
 それがおそらく、今の尊さんの生き方の答えなのだろう。
「やっぱり尊さんは、すごいです……!」
 泣きそうになるまぶたこらえ、心の底からの本音を言った。
「ありがとう、朱美ちゃん。君も絶対、良い小説家になれるよ」
 尊さんの優しい心が、いつか画面の向こうで見られる日を、私は心の底から待ちびている。
「でも今日は、もう遅いし帰ろう。病院の人もいるし、奏なら、きっと大丈夫だから」
「はい!」
 最後に奏さんの病室に寄って軽く声をかけ、二人で病院を出た。
 しかしそれ以来、しばらく、奏さんと会うことはなかった。


 あれから約一ヵ月経ち、新学期が始まったが、奏さんは大学に来なかった。病院からは一週間ほどで退院したらしいが、その後、実家からほとんど出ていないと尊さんから聞いた。会いに行こうと思っても、特に私に合わせる顔がないと言っているらしく、なかなか次のステップに踏み出せない。
 その間私も、まだ二年生なのでそこそこの学業を修めつつ、日常を過ごす他なかった。盗作騒動も進展はなく、私も個人で色々な案を模索したが、いまいち決定打に欠けるものしか生み出せなかった。幸い大槻さんから出版日程の決定の連絡は来なかったが、代わりに大学の事務室から連絡がきた。
「夏目朱美さんの番号でお間違いないでしょうか?」
「あ、はい」
「私、大学事務室の者なのですが、夏目さん、当校の文芸サークルに所属されてますよね?」
「はい、そうです」
「実はですね、ある方から大学に、クレームというか、抗議のようなものが来てまして」
「え……?」
 そのまま話を聞くと、要はあの出版社に直談判しに行ったことが相手陣営を刺激し、逆に反撃されたらしい。話題作ということもあり、このまま問題が大きくなれば部室を没収されるどころか、最悪強制廃部もあり得ると、遠回しに言われた。ただ今のところ、名前は明かされなかったが、ある人の尽力のお陰で沈静化が図られているため、当面は大丈夫そうとの見通しだった。
 一方で、これ以上問題を大きくするなと、もう余計な行動はやめてくれと、実質諦めろ宣告を食らってしまった。おそらく、そこまで含めて相手の戦略だったのだろう。五木あおい、すなわち佐々木有紗本人はそこまで利口には思えなかったが、彼女に心酔しんすいし、なおかつ彼女を裏で操っている奏さんが会った詐欺師の男は、相当手強てごわい相手であると、まざまざと実感させられる。
 しかしこの状況を、他人に相談するわけにはいかない。奏さんはもちろんだし、気には掛けてくれているが、社会人になり本格的に忙しくなった尊さんも、中心に巻き込むわけにはいかない。講義に一緒に出ている友人や、近くに住む先輩にも、相談するにはハードルが高すぎる。
 したがって今私は、入学前に想定していたものとは違う、独りの状態に陥っている。
 そんなある日、天使の導きか悪魔の罠か、意外な人物からの連絡があった。


 平凡なインターホンの音が鳴り、少し間が空く。
「……朱美か。今行く」
「……はい」
 もう少し間が空くと、黒を基調としたドアが開いた。
「……お久しぶりです、奏さん」
「……ああ、久しぶりだな。悪いな、わざわざ来てもらって」
「……いえ」
「……とりあえず、上がってくれ」
 約一ヵ月ぶりらしい言葉を幾度か交わし、そのまま彼の誘導に従い、家に上がった。彼の実家は一軒家で、周りは閑静な住宅街であり、これといって印象に残るものはない。もう一度地図なしで来いと言われたら、正直、辿り着ける気がしないほどだ。同時に、住所は噂通り、東久留米市内だった。
「……どうだ最近、大学は」
「……ボチボチです」
 今私たちは、キッチンで机を挟んで座り、家族会議のような緊張感を漂わせている。父親が援助交際している娘をとがめるときの最初の言い回しみたいなことを奏さんが言うので、余計にその感が増している。机の上には、開いていない宅配物が置かれていた。
「これ、頼まれてた、奏さんが履修している講義のノートです」
「ああ、すまないな。この恩はいつか返す」
「私の履修と被ってるのだけですけど、大丈夫ですか?」
「ああ、充分だよ。ありがとう」
 三日前、奏さんから久々に連絡が来た。最初は何を言われるか見当もつかなかったが、いざ蓋を開けてみたら、前期中にすべての単位を取り終えないといけないから、講義のノートを見せてほしいという、ある意味奏さんらしい鋭い変化球だった。そんな明らかに面倒な頼まれ事を応えるために、わざわざ相手の家に行った私も、なかなかの変化球である。
「奏さん一人ですか?」
「ああ。母は今日は仕事で帰ってこないし、……父はそもそもいない」
「……そうなんですね。失礼しました」
「いや、いいんだ」
 会話が終わり、沈黙が生まれる。
 目的は果たしたのだから、本当はもう帰ってもいいはずなのに、なぜかお尻が、椅子から離れない。
「……奏さんはこの一ヵ月、何をしてたんですか?」
「……何もしてなかったな。テレビ見たり、映画観たり、寝たり、起きたり、飯食ったり」
「……執筆は?」
「……してない」
 こんな会話を尊さんと、高校二年生のときもしたのだろうか。
 そうしてまた、奏さんは、執筆をやめてしまうのだろうか。
「……朱美はどうだ? 大学」
「……ボチボチです。さっきも言いましたけど」
「……ああ、そうだった。すまん」
「……いえ」
 雰囲気に飲み込まれそうになり、この場から逃げ出す宣言をしようとしたそのとき、
「尊から聞いたそうだな。俺の高校時代のこと」
「……え?」
 予想外の言葉が降りかかり、余計にお尻が固定される。
「……今でも恥ずかしいし、できれば思い出したくないけど、君には言っておくべきだった」
「奏さん……」
 奏さんは眼鏡を一回外し、目をこすり、それからかけ直した。
「おそらく尊が言ったことは、ほとんど正しい。確かに俺は高校二年の十一月のる日、あの小説がクラスに出回り、そのショックでこの前みたいに倒れ、それ以来、小説を書くのをやめた。でも諦められなかったから、大学でまた始めた。偶然尊と同じ大学に入れて、しかもあいつも同じサークルに入ってくれたから、良い機会だと思ったんだ」
 視線を落としながら、両手を机の上に置いた。
「でも、一番書きたかった恋愛小説とか、日常のことを描くような物語は、もう、書けなかった。新しく書き始めたのは自分でも違うってわかってたし、何度もあの続きを書こうともした。だけどその度に、あの日の嗤い声が、月並みだけど、脳内に蘇るんだ」
 その両手が、握りこぶしをほどいた。
「あの、一つだけ訊いていいですか?」
「ああ。なんだ?」
 右手をももの上に乗せる。
「尊さんが言ってたことはほとんど正しいって言ってましたけど、その、ほとんどというのは?」
「ああ、そのことか」
 左手を腿の上に乗せる。
「別に尊が間違ったことを言ったわけじゃない。ただ、あいつも知らないことが一つだけあってな」
「知らない、こと?」
 両手を腿に置き、背筋を伸ばす。
「……俺は、あの女、つまり佐々木有紗のことが、好きだったんだ」
「え!?」
 ガッチリ固定されていた私のお尻が、一瞬浮き上がった。
「本当に恥ずかしい話だよ。恥ずかしすぎて、尊にも言えなかった。でも、事実だからしょうがない。俺が初めて告白した相手だっていうのも、事実だから──」
「……え? ちょっと待ってください」
 去年の秋のことを思い出す。
「奏さん、中学までは彼女いたとか言ってませんでした?」
「……それは嘘だ」
「ああ、やっぱり」
「やっぱりとはなんだ!? だいたい、俺が告白された可能性だってあっただろう!?」
「その可能性は全く考えてませんでした」
「ったく、相変わらずふざけた奴だ」
 そう言って奏さんは、一瞬浮きかけた腰を、もう一度どっしりと椅子に降ろした。
「まあ、そんなこともあって、あいつは余計に俺のことを茶化したんだよ。告白したことはもちろん言いふらされるし、小説も内容が内容だったから、それも重なって──」
「内容が内容だったって、どういうことですか?」
 心臓が変なノイズを起こしている。
「……これも恥ずかしい話なんだけど、あの話は元々、俺と佐々木有紗を題材に書いた話だったんだ」
「え……!?」
 今度は完全に、お尻が浮いた。
「……ということは、あの主人公はやっぱり奏さんで、でもって相手の女の子っていうのが、佐々木有紗をイメージした娘、だったってことですか!?」
「……そういうことだ」
 そう言い切ると、奏さんは一瞬目を閉じた。
「佐々木有紗のことは正直、一目惚れだった。明るい性格もそうだったし、今はすごい化粧してるけど、当時はもっとスッキリしてて、まさにイケてる女子高生って感じだった」
 たぶん、奏さんたちがインタビューに五木あおいとして出ていた佐々木有紗に気付かなかったのは、それが原因だろう。そうして出版社で、いつもよりメイクを落とした彼女を見たとき、奏さんはようやく、引っかかっていたものが取り除かれたのだろう。
「でも彼女と話すことなんてできないから、逆に彼女としてみたいことを小説にすれば上手く書けるんじゃないかって思って、一学期の途中から始めてみたんだ。だけど、リアルすぎることを書くっていうのも、いろんなこと考えちゃって案外難しかった。思ったより進まなくて、夏休み越えても一〇〇ページも書けなかったんだよ」
 尊さんが腑に落ちていなかった、奏さんの執筆が遅れた理由も、これで漸くはっきりした。物事は何もかも、一つの筋道の上に成り立っている。
「それで二学期になって、たまたま佐々木有紗と隣の席になったんだ。最初はこれでやっと話せるなんて舞い上がってたんだけど、冷静に考えたら自分から話しかけるなんて無理だし、ダメ元で横で小説書いてたら話しかけられるんじゃないかと思って書いてたら、本当にそうなったんだ」
「それで、彼女にあの小説を見せたと」
「ああ」
 そのとき、ある筋道が頭に浮かんだ。
「あの、間違ってたらすみません。もしかして……」
「ん? なんだ?」
 彼の視線が、眼鏡のガードを失った私の瞳に集まる。
「そのときに見せた際に、その、小説の内容に乗じて、内容を説明しながら、その流れで告白した、って、ことですか……?」
 集まった視線は、机に打ちつけられた。
「……気持ち悪い話だろう?」
 たぶんそのときの奏さんは、世界中の誰よりも、一時を楽しんだのだと思う。
 その感情は決して、なかったことにしてはならないと、強く思った。
「そんなことないですよ! 私はすごく、ロマンチックで、美しいと思います! 相手が悪かったんです! 相手が、佐々木有紗がたまたま、人の気持ちなんて理解できない性格最悪の最低女で、それで──」
「でも俺は、そんな女に惚れたんだ」
「っ……!?」
 一瞬、息が、止まった。
「始めから無理だって解っていても、気持ち悪がられるって解っていても、それをクラス中に言われて深く傷つくことになるって、自分でも恐ろしいくらい解っていても、そうなってもいいって、そうなってでもこの気持ちを伝えたいってくらい、彼女を心の底から好きだったから」
 耳を覆いたくなる。
 これ以上、彼から「好き」という言葉を聞いたら、私の中の何かが壊れてしまう。
「……去年の九月に一度書き上げたとき、奏さん、物語の最後にあの二人を、女の子を死なせたじゃないですか」
「朱美にひどく叱られたやつか」
 ダメだ。それ以上、言ってはならない。
「……あれはもしかして、佐々木有紗に対する、復讐だったんじゃないですか……?」
 そんなこと、奏さんに言わせてはならない。
「……そうだったのかもな。ああ、俺はなんて最低な男なんだ!」
 違う。最低なのは私だ。
「現実でできないからって、自分の小説の中に勝手にモデル創り上げて、そいつを不幸な目に遭わせて、一人で勝手に満足してる。そんなの、ネットで悪口書くよりよっぽど性質たちが悪いじゃないか!」
 違う。性質が悪いのは、その答えが出るように誘導し、自覚させ、私を襲った佐々木有紗への淡い思いを断ち切ろうとした、夏目朱美という女だ。
「……奏さん。私、帰ります」
 ダメだ。帰ってはならない。
 今のまま帰ったら、奏さんは、自分は最低な人間だという自覚を持ったまま、月日が流れてしまう。
「……わかった。ありがとう、今日は来てくれて」
 その一方で、君が必要だと、君がいるだけで俺は充分だと、彼の言葉を期待している自分が、そこにいた。もしかして私は、彼をあざけり、傷つけた、嗤う側の人間に違いないのかもしれない。
 その証拠に私は、高校時代、一度も嗤われることがなかった。それどころか、嗤う人間たちに隠れて、陰で誰かを嗤っていたのかもしれない。
 その自覚のない人間こそが、嗤う側の人間の中で、最も性質の悪い人間なのだから。
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