入厨 ‐いりくりや‐

天野 帝釈

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おっかぁ

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聞けば、あの老人は、昔近くに住んでいて、子を求めて嘆く老婆が放っておけず、
食い物の余分を分ける程度の援助をしていたらしい。

床に臥せるようになってからは、もう旦那の元に行く方が幸せだろう。

と放っておくようになったが、どうやら若い男が出入りしているらしいのを見て、
とうとう息子が帰ってきたと勘違いをしたようだ。

子の頃は、人の手を散々渡って逃げてを繰り返したので元の自分の名などは思い出せぬが、
そんな話を聞いたら何やら懐かしい気がして、これからは重兵衛と名乗ろうと男はひっそり心に決めたのだった。

よくよく人生を振り返れば、何をして貰った訳ではないのに、親と呼べそうな女はこの婆ぁ位だったかもしれぬ。

不本意だがこの婆ぁのおかげで、今は自分の人生を歩み出している気がする。

男は爺様が帰ると、何となくまた墓に手を合わせ、こっそり

「じゃあなおっかぁ。」

と言ってみた。

ひゅるりと吹く風が、男の声を隠して運んで行った。




さて、婆様のくれた少しばかりの金を足しにして、支度を整えるとしよう。

話は早くするに限る。

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