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第三章 天使とディーバの取引明細
34.正当防衛ですので、ええ。
しおりを挟む「俺を夜の街の只中まで呼び出すとは、いい度胸じゃないか」
階下へと降りるエレベーターの箱の中に乗り込むやいなや、椎堂さんは声を荒げた。
番号順に並んだ行き先ボタンの一階が点灯するのをじぃと睨みつける横顔は、いつものことながら無愛想を極めているが、今夜はとりわけ冷酷だ。
「なにもかもおっしゃるとおりですこの僕の不徳の致すところでございます。……ありがとうございます。正直、かなり助かりました……」
「迂闊に夢魔と関わるな。あれは人を惑わす魔性の者どもだ。おまえ程度では簡単に飲まれるぞ」
ぐうの音もない。しかし収穫はあった。
大主さんから伝え聞いた話によれば、この世界は複層構造で、僕らが暮らす現世のほかに〈怪奇なるもの〉が棲まう常世があるというのだ。
平穏無事な日常を安穏と生きてきた僕は、その事実を九遠堂と関わるまで知らなかった。これまで自分が認識していたのは、煩雑な世界の一面に過ぎないのだと教えられて、心は思いのほか軽くはずむ。
椎堂さんと出会ってからの毎日は、常識をくつがえす発見の日々がつづいている。まったく思いがけないことばかりが次々と起きる。
「まあいい。車を用意してある。家まで送ろう」
心根を悟られたのか、椎堂さんは呆れ顔だった。
チン、とベルが鳴る音が聞こえて、エレベーターが停止する。一階に到着だ。
椎堂さんが車をもっているとは初耳だ。
ああ、この人も乗用車を運転して街中にくりだす日があるのだなぁ。偏屈な性格をしているが、それなりに目をひく美丈夫なので運転席でハンドルを握る姿は、さぞかし絵になるのだろう。
九遠堂でお世話になりはじめてから早一ヶ月ほど、日が沈んだあとの繁華街を一緒にドライブすることになるとは夢にも思わなかった。
――などと、ひとしきり感慨を噛みしめてから。
期待は一瞬で裏切られた。
ビルの出入口では、屈強な女性が待ち受けていたのだ。
「千幸くん? 違法営業スレスレの危ないお店に連れ込まれたって? そもそも、こんな時間まで学生がふらふらしてるのは看過しがたいけれど、何か言うことは?」
パンツスーツの女性が、額に青筋を浮かべていた。
被告人を糾弾する検察官のごとく容赦のない詰問だった。本来ならば緊張感がほとばしる場面ではあるのだが、かの人外魔境を越えたあとでは、ほっとする顔だった。
女性の名前は、曽根河佳代さん。椎堂さんの個人的な知り合いだ。
「ご心配をおかけしました、すみません。返す言葉もないです。ところで……佳代さんはなぜこちらに?」
「そこの非常識な男に呼び出されたの。急に車を貸せって電話がかかってきてね。こっちは明日も出勤だってのに」
ちなみに僕の自宅は市内の一角に所在している。まだ終電の時刻にはすこしばかり早い。地下鉄を乗り継げば難なく帰宅できるが、ここはお言葉に甘えておこう。
佳代さんの車は、駅前の喧騒から離れた野外駐車場の一角に停められていた。
群青色のクーペだ。洗いたてのように磨かれており、流線型を描く車体は堂々とした艶を放っている。風格のある車体だ。日ごろから、愛車をぶいぶい乗りまわしているという彼女曰く、「仕事で使うからね。必要不可欠」。
尋ねれば、曽根河さんの職業は民間通信社に勤める記者なのだそうだ。
四ヶ月前に首都勤務から支社に移り、慣れ親しんだ故郷である伊奈羽市にもどってきたばかりだと説明してくれた。
「こっちの道路は走り慣れてるけど、残業後に借り出されるのは想定外」
文句を言いつつも、呼び出しに応じて車を出してくれるあたり、佳代さんも人がいい。単に律儀なのではなく、ほかでもない椎堂さんの頼みであるためだろう。複雑な心中は想像にかたくない。
僕が佳代さんからのご説教に耳を傾けているあいだにも、椎堂さんは早くも助手席に乗り込もうとしていた。僕も後部座席をお借りしよう。
と、スライドドアに手をかけたところ。
「やめてください!」
甲高い声が聞こえた。女性の叫び声だ。
夜を切り裂くような悲鳴が轟いた方向をうかがうと、真っ黒なバンの前で、まさに犯行が行われようとしていた。ひとりの女性を複数人の男性がとり囲んでいる。
「ねえ誰かっ、助けて!」
女性は泣き出しそうな顔をぐしゃりと歪めて、虚空に向けて懇願する。
そこからの動きは早かった。
バタンッ。運転席側のドアが勢いよく開閉し、僕らはクーペの周囲に取り残される。僕が緊急事態を認識するよりもはるかに早く、決断が済んでいた。
椎堂さんは投げ渡されたエンジンキーを受け取り、やれやれと呆れたようすで、助手席に押しこめた痩躯をひねり出す。
佳代さんが距離をつめていく。瞬きの間に、男たちと女性とのあいだに割って入る。突然の展開に、男たちは面を食らったようで、不意をついて現れたパンツスーツの女に当惑をぶつける。
「なんだ、おまえは」
「聞き間違いでなければ、こちらの女性が困っているようでしたので。誘拐、拉致は立派な犯罪ですよ?」
佳代さんは、怯える女性を背後にかばうようにして男たちの前に立ち塞がる。
迷いのない行動、颯爽と駆け出す胆力。
まるでアクション・フィルムのヒーローだ。
「あれの正義漢ぶりも見慣れたものだが、これほどまでとはな」
「いやいや椎堂さん、のんきに見守っている場合ですか」
いくら佳代さんが啖呵を切ろうが相手は複数人だ。見たところ、三名ほどはバンの外で待機しているが、さらに増援を呼ばれてしまっては勝ち目はない。
「なに、曽根河なら心配ないだろうよ」
バンの前で、男のうちのひとりが拳を振り上げた。
が、佳代さんの速度が上回った。
俊敏な動きで背後に滑り込み、相手の手首をつかみとった。あっさりと男の片腕を捻じ上げてしまう。油断しきっていた男は今や関節技をかけられる寸前、悲痛な雄叫びを上げている。
「グェッ……! なにを……!」
そこで僕は見てしまった。
運転中にはなかったはずだが、佳代さんの拳にはいつの間にか銀色の金属片が輝いている。指輪ではない。あれは――ナックルダスターだ。拳を防護しつつ打撃力を高めてくれる……。凶器じゃないか?
「だがまあ、そのくらいにしておけ。過ぎると正当防衛とも言い張れんぞ」
ここへきてようやく、椎堂さんは佳代さんの背中を追う。距離をつめたのは、威嚇もかねてこちらも複数人だと示したつもりだろう。
僕は制服の胸ポケットからスマートフォンを取り出し、とっさに大声をあげる。
「すみません、警察の方ですか! 路上で女性が襲われているのを見かけまして連絡しました! え? 場所ですか? 伊奈羽駅周辺の……」
おおよその住所を口走る。そのあいだに黒服の男たちは大慌てで撤収していくではないか。
そのうちの誰ひとりとして、先ほどまで取り囲んでいた女性にも、助けに入った佳代さんにも、援護射撃を試みようとした椎堂さんにも、目もくれようともしない。
男たちを乗せたバンは急発進し、駐車場を抜け出して幹線道路へと走っていく。鮮やかな引き際だった。
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