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第三章 天使とディーバの取引明細
38.信じたい相手
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羅針盤は車内で反応を示した。
各駅停車をしながら線路上を直進する地下鉄の中で、まもなく朱山駅へ到着するアナウンスが流れはじめた瞬間に、僕らは顔を見合わせていた。
針が指し示す方角は、東。
朱山駅は西峰線と胡白線の二本の路線が乗り入れる地下駅で、このうち胡白線は環状線である。
乗り換えは早計であると判じ、まずは当初の目的どおりに朱山の喫茶店を目指すことにした。地上に出て歩けばJRの駅舎があるから、そこで市内東部を目指す車両に乗り換えるのもいいだろう。見立てはよかった。
朱山で地下鉄を下車し、地上に出て五分ほど歩く。
ほどなくして英城大学の門前にたどり着いた。
私立英城大学、朱山キャンパスには文学部や経済学部といった文系学部の講義棟や研究棟、附属図書館、学生会館などが所在している。
案内板の地図を追ったところ、敷地内を通り抜けることはできそうだ。学生らしき人影は少ない。八月に入り、大学もすでに夏季休講に入っているのだろう。
周囲には閑静な住宅街が広がっていた。目的地である喫茶店は、大学の裏手に位置しているそうだ。
「カナタさん、秘密道具の反応はいかがですか?」
パンクロッカーと高校生の組み合わせが奇特かどうかはさておき、九遠堂から持ち出した真理盤は貴重品だ。
便利なモノが普及している現代で、道端でアンティークを使う人間はさすがにものめずらしいだろう。通行人に見咎められないように、建物の物陰で確認を繰り返していた。
「うん。さっきから立ち止まるたびに、針の色がすこしずつ金に変わってる。これは近づいてることを示してるのかな」
カフェにたどり着くのは正午過ぎだろうか。小腹もほどよく空いている。
行き先は夫婦経営のこぢんまりとした個人店で、ランチメニューも用意されているとのこと。
カナタさんはふわふわのオムレツが美味しいプレートランチと、季節の果物をふんだんに使ったフルーツサンドをおすすめしてくれた。どちらも捨てがたいが、自宅のキッチンで再現を試みるならばやはり前者だろうか。
――会話に興じながら、道幅の狭い歩道を歩いていたところ。
ちょうど十字路にさしかかった時だった。
「待って。羅針盤が鳴いてる」
カナタさんが立ち止まる。
アーティストであるからか、彼女は聴覚が鋭い。
野外にいても針が文字盤に当たる音を聴き分けてしまうので、物音に敏感な肉食動物のように思える。ともに行動することでいくらか警戒心も和らいだようで、ややくだけた距離で接してくれるのもあり、しなやかな黒豹に懐かれた気分だった。
ジャケットの内側から羅針盤が現れる。
赤褐色に錆びついていた磁針が、黄金色にまばゆく輝いている。
針は上下左右に激しく揺れ、傾き、まるで意志をもった生き物かのように暴れまわる。文字盤の上から躍り出てしまいそうで――針が外れた。宙に浮き上がり、弓矢のごとく飛び去っていく。
「うわっ! なんだっ!?」
「千幸! 追いかけるよ!」
呆気にとられている場合ではない。
今のところ唯一の手がかりなのだ。これを見失っては途方に暮れるどころか絶望である。慌てて駆け出す。
黄金の針は十字路を右に曲がり、ブロックひとつほどの区画を直進し、そしてふっと姿を消した。
そこは一軒の民家の門前だった。裕福なご家庭なのだろう、前庭の生け垣は丹念に整えられており、野山から離れた人里に花鳥風月の趣を添えている。
それににしても風雅な庭だ。
ブーゲンビリアのつぼみが紅色を宿していて、蒸し暑いばかりの夏に南国の彩りを添えている。
母屋となる住居は新築であろう二階建てだ。淡いクリーム色の外壁が真新しい。
「針は?」
背後から追いついたカナタさんが、息を荒らげて尋ねる。
「ここで消えました。カナタさん、この家に見覚えは?」
「ないけど。ここが梁間さんの?」
表札には「荒木」の二文字。
はたして、この家が梁間氏の住み処なのだろうか。
民家にむりやり踏み込むわけにはいかない。非常識な手段に頼ってはいるが、非合法な方策をとって住居侵入罪で訴えられたくはない。
せめて家屋を覗き込もうと背伸びして窓辺をうかがっていると、僕らのかたわらを背の高い男性が通りかかった。閑静な住宅街ではめずらしい容姿で、スラックスとシャツをまとった、フォーマルな装いをしている。
チェック模様をあしらったダブルベストが品格を引き立てるような、さわやかな目鼻立ちの理知的な男性だった。大学関係者だろうか。
「梁間さん……!」
顔を見るなり、カナタさんが叫ぶ。
男――梁間氏は喫驚していた。ぎょっと目を剥いて詰問する。
「君がなぜここに?」
「会いにきたんです。九遠堂の皆さんに協力してもらって」
「ああ……そういうこと」
梁間氏は嘆息する。ことの経緯を悟ったようだ。
僕はカナタさんをかばうようにして、梁間氏との間に割って入る。
「梁間さんですよね。昨夜、伊奈羽市で落ち合う約束をしていたのでは?」
「いや、彼女とそのような話はしていないな。ところで君は?」
「九遠堂の者です。彼女が昨夜、あなたの名前を知る男たちに、無理やりに車に乗せられそうになっているところを助けたご縁がありまして」
「……彼女は運がいいな」
「悪意あってのことなら見過ごせません」
強気に出るが、勝算はない。
梁間氏の正体については推論があった。
夜の繁華街でさらわれて、行き着いた先の魔境の地。そこで出会った夢魔たちも、九遠堂とその店主の人柄を知っていた。この人が仮に椎堂さんの知り合いであるならば、徒人ではない可能性もあり得る。
「事情があるならカナタさんにご説明を。積もる話もあるでしょうし、この近くにある喫茶店で一服しながらどうですか」
「悪いが所用があってね。今は君たちに構ってはいられない」
「この家は?」
「……僕の仕事先。荒木家の人たちは巻き込まないでくれ。善良な一般中流家庭に危害を加えるような真似はしないよね?」
今にも飛びつきそうなカナタさんをおさえながら、僕はうなずく。
「強硬手段に出るつもりはありません」
「ご協力に感謝するよ。何かしでかそうものなら、この場で通報するところだった」
そう言って、梁間氏は美しい前庭を通り過ぎていこうとする。
彼の腕を掴んで、カナタさんが呼び止める。
「待って。梁間さん……事情があってのことなんですよね?」
「君がここに来てしまった以上、説明はするよ。カナタ、メールを送るから」
鍵を開けて、荒木邸の玄関をくぐり抜けていく彼をただ見守ることしかできなかった。
頭上を見上げると二階の窓が開いている。わずかに開いたカーテンの隙間に人影が見えた気がしたが、瞬きをすると窓辺の影は消えていた。
その後、どうするかについて話し合ったすえに、僕とカナタさんは紛糾した。
カナタさんは梁間さんが荒木邸から出てくるまで張り込むと決めて、頑として動こうとしない。
近所の人に見咎められる可能性や、梁間さんの動向が不安だった僕としては、彼女に賛同できなかったのだ。説得を試みたが失敗し、一時休戦として、僕はカナタさんをその場に残して売店まで飲み物を調達に出かけた。
思いつめているカナタさんをひとり放っておくのはやや心配ではあったが、照りつける日差しの下で何時間も張り込むのはきびしいだろう。
せめて水分補給だけでも徹底して、憂いのないようにしておきたい。
カナタさんと別れた後、一度、椎堂さんに相談をしようかと検討していたとき。
スマートフォンに連絡が入った。知らない番号からだ。
電話に出てみると、
「九遠堂の人だね? 僕だ。栗林カナタ抜きで会いたい」
梁間さんからだ。
どのようにして僕の電話番号を入手したのかは疑問を覚えるところだが、深く追求するはあとだ。
「いますぐですか? カナタさんに見つからず、荒木さんのお宅からは出られそうなんですか?」
「難しいね。とはいえ、この暑さで彼女が倒れるのは避けたい。今日のところはお引き取りしてもらいたいのが本音だな」
「説得してみます。確約はしませんが、善処はしますよ」
「頼むよ。面会については、夕方五時に英城大学西門の向かい、喫茶ボン・ボヤージュで」
そして一方的に通話が途切れた。
コンビニから戻る。と、面を食らった。
カナタさんが荒木邸の前の道路でうずくまっていたのだ。炎天下のなか早くも体力限界がきてしまったのかもしれない。急いで駆けつける。
「大丈夫ですか?!」
案の定、カナタさんはぐったりと疲れ果てた顔をしていた。
言わんこっちゃない。熱を吸収しやすい黒い布地ばかり身につけていたせいだろう。
「梁間さん……。やっと会えたのに」
「まだ一時間程度とはいえ、疲れたでしょう。この日差しではすぐに熱中症になるのが関の山です。今日は出直しましょう」
「うん……。あたし、梁間さんのこと信じていんだよね?」
彼女の質問に、僕はうまい切り返しをみつけられなかった。
各駅停車をしながら線路上を直進する地下鉄の中で、まもなく朱山駅へ到着するアナウンスが流れはじめた瞬間に、僕らは顔を見合わせていた。
針が指し示す方角は、東。
朱山駅は西峰線と胡白線の二本の路線が乗り入れる地下駅で、このうち胡白線は環状線である。
乗り換えは早計であると判じ、まずは当初の目的どおりに朱山の喫茶店を目指すことにした。地上に出て歩けばJRの駅舎があるから、そこで市内東部を目指す車両に乗り換えるのもいいだろう。見立てはよかった。
朱山で地下鉄を下車し、地上に出て五分ほど歩く。
ほどなくして英城大学の門前にたどり着いた。
私立英城大学、朱山キャンパスには文学部や経済学部といった文系学部の講義棟や研究棟、附属図書館、学生会館などが所在している。
案内板の地図を追ったところ、敷地内を通り抜けることはできそうだ。学生らしき人影は少ない。八月に入り、大学もすでに夏季休講に入っているのだろう。
周囲には閑静な住宅街が広がっていた。目的地である喫茶店は、大学の裏手に位置しているそうだ。
「カナタさん、秘密道具の反応はいかがですか?」
パンクロッカーと高校生の組み合わせが奇特かどうかはさておき、九遠堂から持ち出した真理盤は貴重品だ。
便利なモノが普及している現代で、道端でアンティークを使う人間はさすがにものめずらしいだろう。通行人に見咎められないように、建物の物陰で確認を繰り返していた。
「うん。さっきから立ち止まるたびに、針の色がすこしずつ金に変わってる。これは近づいてることを示してるのかな」
カフェにたどり着くのは正午過ぎだろうか。小腹もほどよく空いている。
行き先は夫婦経営のこぢんまりとした個人店で、ランチメニューも用意されているとのこと。
カナタさんはふわふわのオムレツが美味しいプレートランチと、季節の果物をふんだんに使ったフルーツサンドをおすすめしてくれた。どちらも捨てがたいが、自宅のキッチンで再現を試みるならばやはり前者だろうか。
――会話に興じながら、道幅の狭い歩道を歩いていたところ。
ちょうど十字路にさしかかった時だった。
「待って。羅針盤が鳴いてる」
カナタさんが立ち止まる。
アーティストであるからか、彼女は聴覚が鋭い。
野外にいても針が文字盤に当たる音を聴き分けてしまうので、物音に敏感な肉食動物のように思える。ともに行動することでいくらか警戒心も和らいだようで、ややくだけた距離で接してくれるのもあり、しなやかな黒豹に懐かれた気分だった。
ジャケットの内側から羅針盤が現れる。
赤褐色に錆びついていた磁針が、黄金色にまばゆく輝いている。
針は上下左右に激しく揺れ、傾き、まるで意志をもった生き物かのように暴れまわる。文字盤の上から躍り出てしまいそうで――針が外れた。宙に浮き上がり、弓矢のごとく飛び去っていく。
「うわっ! なんだっ!?」
「千幸! 追いかけるよ!」
呆気にとられている場合ではない。
今のところ唯一の手がかりなのだ。これを見失っては途方に暮れるどころか絶望である。慌てて駆け出す。
黄金の針は十字路を右に曲がり、ブロックひとつほどの区画を直進し、そしてふっと姿を消した。
そこは一軒の民家の門前だった。裕福なご家庭なのだろう、前庭の生け垣は丹念に整えられており、野山から離れた人里に花鳥風月の趣を添えている。
それににしても風雅な庭だ。
ブーゲンビリアのつぼみが紅色を宿していて、蒸し暑いばかりの夏に南国の彩りを添えている。
母屋となる住居は新築であろう二階建てだ。淡いクリーム色の外壁が真新しい。
「針は?」
背後から追いついたカナタさんが、息を荒らげて尋ねる。
「ここで消えました。カナタさん、この家に見覚えは?」
「ないけど。ここが梁間さんの?」
表札には「荒木」の二文字。
はたして、この家が梁間氏の住み処なのだろうか。
民家にむりやり踏み込むわけにはいかない。非常識な手段に頼ってはいるが、非合法な方策をとって住居侵入罪で訴えられたくはない。
せめて家屋を覗き込もうと背伸びして窓辺をうかがっていると、僕らのかたわらを背の高い男性が通りかかった。閑静な住宅街ではめずらしい容姿で、スラックスとシャツをまとった、フォーマルな装いをしている。
チェック模様をあしらったダブルベストが品格を引き立てるような、さわやかな目鼻立ちの理知的な男性だった。大学関係者だろうか。
「梁間さん……!」
顔を見るなり、カナタさんが叫ぶ。
男――梁間氏は喫驚していた。ぎょっと目を剥いて詰問する。
「君がなぜここに?」
「会いにきたんです。九遠堂の皆さんに協力してもらって」
「ああ……そういうこと」
梁間氏は嘆息する。ことの経緯を悟ったようだ。
僕はカナタさんをかばうようにして、梁間氏との間に割って入る。
「梁間さんですよね。昨夜、伊奈羽市で落ち合う約束をしていたのでは?」
「いや、彼女とそのような話はしていないな。ところで君は?」
「九遠堂の者です。彼女が昨夜、あなたの名前を知る男たちに、無理やりに車に乗せられそうになっているところを助けたご縁がありまして」
「……彼女は運がいいな」
「悪意あってのことなら見過ごせません」
強気に出るが、勝算はない。
梁間氏の正体については推論があった。
夜の繁華街でさらわれて、行き着いた先の魔境の地。そこで出会った夢魔たちも、九遠堂とその店主の人柄を知っていた。この人が仮に椎堂さんの知り合いであるならば、徒人ではない可能性もあり得る。
「事情があるならカナタさんにご説明を。積もる話もあるでしょうし、この近くにある喫茶店で一服しながらどうですか」
「悪いが所用があってね。今は君たちに構ってはいられない」
「この家は?」
「……僕の仕事先。荒木家の人たちは巻き込まないでくれ。善良な一般中流家庭に危害を加えるような真似はしないよね?」
今にも飛びつきそうなカナタさんをおさえながら、僕はうなずく。
「強硬手段に出るつもりはありません」
「ご協力に感謝するよ。何かしでかそうものなら、この場で通報するところだった」
そう言って、梁間氏は美しい前庭を通り過ぎていこうとする。
彼の腕を掴んで、カナタさんが呼び止める。
「待って。梁間さん……事情があってのことなんですよね?」
「君がここに来てしまった以上、説明はするよ。カナタ、メールを送るから」
鍵を開けて、荒木邸の玄関をくぐり抜けていく彼をただ見守ることしかできなかった。
頭上を見上げると二階の窓が開いている。わずかに開いたカーテンの隙間に人影が見えた気がしたが、瞬きをすると窓辺の影は消えていた。
その後、どうするかについて話し合ったすえに、僕とカナタさんは紛糾した。
カナタさんは梁間さんが荒木邸から出てくるまで張り込むと決めて、頑として動こうとしない。
近所の人に見咎められる可能性や、梁間さんの動向が不安だった僕としては、彼女に賛同できなかったのだ。説得を試みたが失敗し、一時休戦として、僕はカナタさんをその場に残して売店まで飲み物を調達に出かけた。
思いつめているカナタさんをひとり放っておくのはやや心配ではあったが、照りつける日差しの下で何時間も張り込むのはきびしいだろう。
せめて水分補給だけでも徹底して、憂いのないようにしておきたい。
カナタさんと別れた後、一度、椎堂さんに相談をしようかと検討していたとき。
スマートフォンに連絡が入った。知らない番号からだ。
電話に出てみると、
「九遠堂の人だね? 僕だ。栗林カナタ抜きで会いたい」
梁間さんからだ。
どのようにして僕の電話番号を入手したのかは疑問を覚えるところだが、深く追求するはあとだ。
「いますぐですか? カナタさんに見つからず、荒木さんのお宅からは出られそうなんですか?」
「難しいね。とはいえ、この暑さで彼女が倒れるのは避けたい。今日のところはお引き取りしてもらいたいのが本音だな」
「説得してみます。確約はしませんが、善処はしますよ」
「頼むよ。面会については、夕方五時に英城大学西門の向かい、喫茶ボン・ボヤージュで」
そして一方的に通話が途切れた。
コンビニから戻る。と、面を食らった。
カナタさんが荒木邸の前の道路でうずくまっていたのだ。炎天下のなか早くも体力限界がきてしまったのかもしれない。急いで駆けつける。
「大丈夫ですか?!」
案の定、カナタさんはぐったりと疲れ果てた顔をしていた。
言わんこっちゃない。熱を吸収しやすい黒い布地ばかり身につけていたせいだろう。
「梁間さん……。やっと会えたのに」
「まだ一時間程度とはいえ、疲れたでしょう。この日差しではすぐに熱中症になるのが関の山です。今日は出直しましょう」
「うん……。あたし、梁間さんのこと信じていんだよね?」
彼女の質問に、僕はうまい切り返しをみつけられなかった。
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