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序章 美術室の遺書
0.十年後のあなたへ
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通学電車の中で絵を描いている人はいない。
昼休みの教室でも、放課後の図書室でも、街角のどんな場所でも。
ならばどこで鉛筆を握ればいいのかと考えたとき、美術室は適した場所だった。背後から家族に目視されるのは気恥ずかしいし、落書きをしたノートを級友に覗かれてはたまらない。下手の横好きならばなおのこと。
そう、淡々と思案をめぐらせながら、美波あきらは美術室を目指していた。
放課後の美術室はアトリエで、教室では目立たない彼女たちだけがつどう部室だ。
美術部の部員は、常日頃、イーゼルに画板を立てかけて互いに背を向けながら制作に没頭する。会話はない。鉛筆が画用紙を撫ぜるささやかな摩擦音、たまにくちゃくちゃとパンを食む咀嚼音が聞こえてくる程度。
実習棟の三階からではグラウンドで白球を追う生徒たちの喧騒も遠く、やる気のない顧問は週に一度顔をみせるだけで多くは語らない。扉が開かれないかぎりは、そこは常に静謐な楽園だった。
だからこそ、足取りは軽い。教室に向かうよりもずっと。
そしてこの日、夕刻の部室に足を踏み入れたのは、あきらひとりだった。
黄昏時――。重たい鉄扉を開いたさきには、色とりどりに汚れた机がずらりと並んでいる。
黒板は一面かぎり、教室の背面には隊列を組んだ石膏像。音楽室のハイドンたちはどこかよそよそしい感じがするが、美術室のブルータスやヴィーナスとはすっかり顔馴染みだった。
故人は画竜点睛を欠くとかいうが、彼らの瞳に光が宿ってはかなわない。物言わぬ首像たちから無言の圧力を感じとりながら、心はすでにカンバスのむこうへと軽やかに跳躍する。
準備室から絵具ケースをもってきたらイーゼルの準備からはじめて、ぺんてるの筆洗器(バケツ)に水を汲もう。描くのは、そう――。
と、空想に耽るあきらの視界にソレは飛び込んできた。
ピエタの首だ。
ミケランジェロ作の聖母子像から首だけ切り落とした石膏像。目を伏せてうっそりと微笑むマリア。
あきらの意識を奪いとったのは、ピエタの顔そのものではない。彼女の頭蓋をおおうベール隠すようにして、一枚の白い紙切れが貼りつけられていたのだ。
四辺を折り畳まれたそれは、ノートの切れ端のように見える。美術選択の生徒たちの忘れ物だろうか。そう、疑問を感じたときにはすでに手が伸びていて、内容をあらためていた。
『十年後のあなたへ
あなたがこの手紙を読むころ、わたしはもう隣にはいないのでしょう。
あなたは、いま、誰かといますか? それとも、変わらず独りで黄昏ているのでしょうか?
そこはちょっとだけ、心配です。一匹狼なんだから。
この町で、この美術室で、あなたはいつもどこか遠くを眺めていましたね。
外の世界の言葉や、耳慣れない音楽。都会の人たちが語るような批評や評論。教室では無口なのに、あなたは本当はたくさんのことを知っていて、胸に秘めている尊い熱を、わたしだけにこっそり明かしてくれる瞬間が好きでした。ひょっとしたらスノッブを気取っていたのかもしれないけど、そんなところが魅力的に見えていたんです。
だって、わたしも、あなたといるときはいつも見栄を張っていたものだから。
ねえ、気づいてた? わたしは臆病で、弱気で、中途半端で、折れてばかりの、どうしようもない人間なんです。
誰にも見向きもされないまま、道端の雑草のように踏みつけられて、ひしゃげたまま終わりにしたってよかった。けど、隣に居たくて、もう少しだけと思ううちに、卒業式を迎えてしまう。
きっとそうするうちに、見過ごすことが上手くなって、きちんと大人になれるのかしら。あなたの前で、みんなの前で、わたしはわたしのまま、うまくわらえるようになるのかな。
そんな未来があればいいのにね。今でもずっと、そう思うの。
あなたは覚えていますか。あのころどうなりたかったか。わたしたちの願いの在り処がどこにあったのか。わたしは、ちゃんと覚えてるよ。
だから、何もかが平気になってしまう心静かな季節を受け入れるまえに、本懐を遂げることに決めました。
これでいいんです。最初からこれだけを求めていたんだから。
ここに最後の書き置きを残します。
町に春が来るよりも先に、わたしはこのちっぽけな命を絶ちます。
さようなら。
あなたと一緒に過ごせた日々は、わたしの人生にとって、数少ない幸せでした。』
読み終えて、ぞくり、と肌が粟立つ。
几帳面そうな細やかな字で綴られていたのは、淡く儚くも切実な想いの告白だった。
そしてこれは。おそらく。
「……遺書、だ」
あきらはそう、強く直感する。こんなことをするのは悪戯にしても意地が悪い。露見を期待してからかうような謎を撒いて。まるで静謐な美術室を冒涜するかのような行為。
腹の底から沸々とこみあげる熱を理性で冷ましながら、あきらは冷静であろうとつとめる。あたうかぎり感情に身を任せるべきじゃない。それをぶつけてもいいのは、白いカンバスの上でだけ。
深呼吸をすると、絵具のすえた油の匂いが肺を満たした。遺書を手に暮れなずむ夕日を浴びて、薄明色に染まった美術室で、あきらはまだ思案している。
――いったい、誰がこんなものを残したのか。
考えあぐねたところで答えは出ない。
そうだ、こんなときはあのひとに尋ねてみよう。あきらの脳裏には至極当然のアイデアが閃く。相談相手として適任の相手ならばひとりいる。あのひとならまちがいないはずだと、まっさきに名前が思い浮かんだ。
スカートの内ポケットに仕舞いこんだままの携帯を取り出して、アプリを起動。液晶画面の上で指先を踊らせてチャットウィンドウに文章を打ち込む。
〈アキラ:こんばんは。私です。今夜も海の底で会えますか?〉
昼休みの教室でも、放課後の図書室でも、街角のどんな場所でも。
ならばどこで鉛筆を握ればいいのかと考えたとき、美術室は適した場所だった。背後から家族に目視されるのは気恥ずかしいし、落書きをしたノートを級友に覗かれてはたまらない。下手の横好きならばなおのこと。
そう、淡々と思案をめぐらせながら、美波あきらは美術室を目指していた。
放課後の美術室はアトリエで、教室では目立たない彼女たちだけがつどう部室だ。
美術部の部員は、常日頃、イーゼルに画板を立てかけて互いに背を向けながら制作に没頭する。会話はない。鉛筆が画用紙を撫ぜるささやかな摩擦音、たまにくちゃくちゃとパンを食む咀嚼音が聞こえてくる程度。
実習棟の三階からではグラウンドで白球を追う生徒たちの喧騒も遠く、やる気のない顧問は週に一度顔をみせるだけで多くは語らない。扉が開かれないかぎりは、そこは常に静謐な楽園だった。
だからこそ、足取りは軽い。教室に向かうよりもずっと。
そしてこの日、夕刻の部室に足を踏み入れたのは、あきらひとりだった。
黄昏時――。重たい鉄扉を開いたさきには、色とりどりに汚れた机がずらりと並んでいる。
黒板は一面かぎり、教室の背面には隊列を組んだ石膏像。音楽室のハイドンたちはどこかよそよそしい感じがするが、美術室のブルータスやヴィーナスとはすっかり顔馴染みだった。
故人は画竜点睛を欠くとかいうが、彼らの瞳に光が宿ってはかなわない。物言わぬ首像たちから無言の圧力を感じとりながら、心はすでにカンバスのむこうへと軽やかに跳躍する。
準備室から絵具ケースをもってきたらイーゼルの準備からはじめて、ぺんてるの筆洗器(バケツ)に水を汲もう。描くのは、そう――。
と、空想に耽るあきらの視界にソレは飛び込んできた。
ピエタの首だ。
ミケランジェロ作の聖母子像から首だけ切り落とした石膏像。目を伏せてうっそりと微笑むマリア。
あきらの意識を奪いとったのは、ピエタの顔そのものではない。彼女の頭蓋をおおうベール隠すようにして、一枚の白い紙切れが貼りつけられていたのだ。
四辺を折り畳まれたそれは、ノートの切れ端のように見える。美術選択の生徒たちの忘れ物だろうか。そう、疑問を感じたときにはすでに手が伸びていて、内容をあらためていた。
『十年後のあなたへ
あなたがこの手紙を読むころ、わたしはもう隣にはいないのでしょう。
あなたは、いま、誰かといますか? それとも、変わらず独りで黄昏ているのでしょうか?
そこはちょっとだけ、心配です。一匹狼なんだから。
この町で、この美術室で、あなたはいつもどこか遠くを眺めていましたね。
外の世界の言葉や、耳慣れない音楽。都会の人たちが語るような批評や評論。教室では無口なのに、あなたは本当はたくさんのことを知っていて、胸に秘めている尊い熱を、わたしだけにこっそり明かしてくれる瞬間が好きでした。ひょっとしたらスノッブを気取っていたのかもしれないけど、そんなところが魅力的に見えていたんです。
だって、わたしも、あなたといるときはいつも見栄を張っていたものだから。
ねえ、気づいてた? わたしは臆病で、弱気で、中途半端で、折れてばかりの、どうしようもない人間なんです。
誰にも見向きもされないまま、道端の雑草のように踏みつけられて、ひしゃげたまま終わりにしたってよかった。けど、隣に居たくて、もう少しだけと思ううちに、卒業式を迎えてしまう。
きっとそうするうちに、見過ごすことが上手くなって、きちんと大人になれるのかしら。あなたの前で、みんなの前で、わたしはわたしのまま、うまくわらえるようになるのかな。
そんな未来があればいいのにね。今でもずっと、そう思うの。
あなたは覚えていますか。あのころどうなりたかったか。わたしたちの願いの在り処がどこにあったのか。わたしは、ちゃんと覚えてるよ。
だから、何もかが平気になってしまう心静かな季節を受け入れるまえに、本懐を遂げることに決めました。
これでいいんです。最初からこれだけを求めていたんだから。
ここに最後の書き置きを残します。
町に春が来るよりも先に、わたしはこのちっぽけな命を絶ちます。
さようなら。
あなたと一緒に過ごせた日々は、わたしの人生にとって、数少ない幸せでした。』
読み終えて、ぞくり、と肌が粟立つ。
几帳面そうな細やかな字で綴られていたのは、淡く儚くも切実な想いの告白だった。
そしてこれは。おそらく。
「……遺書、だ」
あきらはそう、強く直感する。こんなことをするのは悪戯にしても意地が悪い。露見を期待してからかうような謎を撒いて。まるで静謐な美術室を冒涜するかのような行為。
腹の底から沸々とこみあげる熱を理性で冷ましながら、あきらは冷静であろうとつとめる。あたうかぎり感情に身を任せるべきじゃない。それをぶつけてもいいのは、白いカンバスの上でだけ。
深呼吸をすると、絵具のすえた油の匂いが肺を満たした。遺書を手に暮れなずむ夕日を浴びて、薄明色に染まった美術室で、あきらはまだ思案している。
――いったい、誰がこんなものを残したのか。
考えあぐねたところで答えは出ない。
そうだ、こんなときはあのひとに尋ねてみよう。あきらの脳裏には至極当然のアイデアが閃く。相談相手として適任の相手ならばひとりいる。あのひとならまちがいないはずだと、まっさきに名前が思い浮かんだ。
スカートの内ポケットに仕舞いこんだままの携帯を取り出して、アプリを起動。液晶画面の上で指先を踊らせてチャットウィンドウに文章を打ち込む。
〈アキラ:こんばんは。私です。今夜も海の底で会えますか?〉
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