海底の放課後 -ネットの向こうの名探偵と、カリスマ・アカウントの謎を解く -

穂波晴野

文字の大きさ
25 / 67
第二章 リモナイト密室盗難事件

22.リモナイト

しおりを挟む

 放課後の美術室には顔を見せないことにした。

 鍵当番は真木に託して、画材屋へむかう。シルバーホワイトの絵具がきれかけていたのだ。ついでにスケッチブックと鉛筆とノートも補充しておこうと思いたち、文具コーナーで新商品の試し書きをしていたら、夏織が愛用している練り消しが再入荷していた。

 まえに、彼女といっしょに画材屋へきたときは、在庫切れだったはず。
 通学鞄からスマホをとりだし、LINEを起動して、ふと手をとめる。

 だめだ。いまは、夏織と喧嘩中だ。明日の放課後には美術室に戻らなければいけない。けど、さすがにまだ、あきらも頭が冷えていない。

 こういうときには、筆がのらない。カンバスにむかうためにも時間をおくべきだ。

 気晴らしに美術書コーナーでものぞこう。町に唯一の小さな画材屋でありながら、店主の趣味がよく、古書も新刊も充実している。あきらが本棚から『ゴッホとゴーギャン 友情の研究』と題された一冊を抜きだすと、背後から足音が近づいてきた。

 ……背中越しに無言で威圧されていた。振りむくと、しわくちゃの顔に分厚いレンズの丸眼鏡をかけた老紳士が立っている。

 画材屋の名物店主だ。レジでの会計時にはおせわになっている。立ち読みを咎めにきたのだろうか、と内心では焦りながら会釈をしておく、と。

「ゴーギャンのファンかね?」

 話しかけられた。
 レジカウンターの奥にいるときは、寡黙で気むずかしそうな印象だったけど。じつは話好きなのかもしれない。

「え、いえ。……ゴッホのことが知りたくて」
「ほぉ? どのあたりから?」

 思わず口走ってから、しまったと後悔する。
 説明をしようにも、厄介な問題が待っているから。

 フィンセント・ファン・ゴッホ。一八五三年オランダ生まれの画家。西洋美術史においてはポスト印象派の画家だと紹介される。同時代、パリの画壇で活躍したクロード・モネらの影響を受けながらも、独自の表現を模索し、色彩への探求を重ねた巨匠。
 彼のことならひととおりは知っている。ネットも本も映画もみた。

「ゴッホのこと、知ろうとしたことはあるんです。ただ、私は……」
「君は?」
「賛同できなくて」

 ほぉ。と、また店主が興味深げに催促する。
 そうなのだ。ゴッホについて「悲劇に落ちた執念の画家」「神経質で情熱的な狂人」と語る意見には賛同できなかった。だから、あきら自身の見解は、光梨とネモ以外には話したことがない。それを画材屋の店主にいきなり明かすのは、やはり気恥ずかしい。

 とはいえ、口にだしてみることで、整理にもなるだろう。

「悲劇の画家。狂気にのまれた炎の芸術家。かつてそう、語り継がれてきたのは知ってます。けど、知れば知るほど、私にはゴッホが清貧で思慮深く、理知的な画家にみえてくる。聖書を咀嚼して、エミール・ゾラを愛読し、弟にむけてたくさんの手紙を残して――それでなお、絵でなにかを伝えようとしたひとだから」

 都会の街まで足をはこび、彼の絵を克明に瞳に焼きつけるほど、確信は増した。きっと、どの絵画も偶然の産物などではない。
 すべて考え抜いたうえで描かれたのではないか、と思えるのだ。

「おや。お嬢さん、さてはつうじゃな?」
「……最低限知ってるだけです」
「だが君は、絵をただの絵として見過ごさない。窓として、向こうを覗きこもうとする。それができる子なんじゃないかね」

 画材屋の店主の、まるで冬の木立のような節くれだった指先が、書棚に触れる。

「窓をもつのは良いことだ。点ではなく線を、線だけでなく面を、面と面があわさった形を、画家はとらえて描きだす。だからまあ……窓はひとつでなく、複数もちなさいな」
「複数の窓、ですか?」
「時代の荒波に揉まれた画家だって、その時代にただひとりであるはずなかろうよ。たくさんの相互作用のなか、人生から作品が切り出される。わしらは、かつてだれかが見つけた視座から世界を覗き見してみたくて、絵をみるんだよ」

 あきらにむけて語りかけながら、店主は書棚から冊子を抜きだした。専門書のような厚さはない。おおよそ四十ページほどだろうか。有料のパンフレットのようだ。

「ほれ。長話につきあってくれた礼にこれをやろう」

 表紙に付されたタイトルは『日本画の画材』。
 どきり、と心臓が跳ねる。螺科未鳴の初期作品は日本画が多い。高校生には敷居の高い画材で、手をだす勇気はもてなかった。けど、憧れはある。

「きみが手にとる画材もまた窓。これは日本画の冊子じゃがな、ようまとまっとる。洋画も日本画も顔料から絵具をつくるのは変わらんよ」

 手渡された冊子を受けとる。絵具の材料になる顔料について、初心者向けにこと細かに紹介されているようだ。ためしに、黄の絵具のページをめくってみると――。


 * * *

 ●リモナイト(褐鉄鉱) 天然の鉱物資源。石英族の鉱物の内部にインクルージョンとして混入する物質の一種でもあり、古くから黄土色の顔料として用いられてきた。

 * * *


 ハッとする。頭の隅では稲妻のような閃光がはじけていた。
 ……探していた答えが、こんなところにあった。
「あの、ありがとうございます。またきます!」
 画材屋を飛び出して、あきらが向かう先は――。ひとまず今夜は自宅待機だ。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

処理中です...