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第二章 リモナイト密室盗難事件
25.ゴッホ
しおりを挟む美術室に残ったのは、あきらと夏織だけだった。真木は今日は所用があるとごねて終礼と同時に下駄箱へ駆けてった。転身の早い彼女は、コンクールへの応募もさきに諦めがついたらしい。
夏織とふたりきり。
西日がさしこむ美術室で、互いに背を向け、絵画制作に打ち込むのはいつものこと。
東の窓辺で夏織と横ならびでは、制作過程が気がかりで、つい手を留めてしまうから。
西の窓辺に居座って、あきらはパレットを手にカンバスを睨む。
夏織が背後から、おおきく声量を張って呼びかけてくる。
「はぁ。呆れた。あんたほんとに解いちゃうんだから」
「今日中に片がついてよかったよ。さすがに締め切りが危ない」
手を動かす。カンバスに描いた瑞凪の河川敷の着色は順調に進んでいる。それだけに難しい局面だった。手癖に甘えて絵具を混色していたら、画面全体がくすんだトーンでまとまってしまい、やはりというべきか見栄えが悪い。落ち葉の浮かぶ清流を描くはずの水面も灰色に近く、澄んだ水色にはほど遠い。
悩みはじめたところで、時間は刻々と過ぎていく。
背中から、夏織の声がひかえめに響いた。
「……そんな気はしてた。あんたは答えにたどり着いちゃうやつなのかなって」
いつも猛々しい彼女にしてはめずらしく、弱々しい声色をしていた。
「……じつは、もうひとつ気がかりがある」
「なによ。そのまま手を動かすなら、聞いてやるわよ」
「昨年、夏織が描いた『瑞凪の秋』だけど、このまえよくみたら、気づいたことがあって」
思い出すのは、女子高生画家・花岬夏織について書かれた記事だ。
「ネットの記事ではピンクの月を褒められてたけど、月が赤みを帯びるのは夏至のころだ。あれだけ花鳥風月を微細にとらえる夏織が、秋の月をピンクに塗るかな」
「そうね。ストロベリームーンなら六月ね」
「うん。だから、絵具をまちがえたのかなって。去年も締め切り前は時間もなかったし、まちがいに気づけたとしても、塗り直さなかった」
「それは、なんで? そんなまちがいが起こって、気づかないことってある?」
「……仮説があるだけ」
「その仮説を聞いてあげるって言ってんの。美波、遠慮しなくていいから、ぶちまけなさいよ」
夏織は頑として譲らない。
言葉を選びながら、絵筆で細かな砂利を塗るのは至難の業だというのに。
「これもゴッホのおかげ。調べてみたら、あの画家の色覚は特殊事例だって伝承があった。有名な説らしいね。夏織もたぶん……ゴッホと同じ」
「……それ、去年の秋の時点で気づいていた?」
「いや。すこしも」
「そう……よかった。気づいた上であたしのことを『ゴッホみたい』だなんて言ってたなら絶交してたわ」
あきらのほうこそほっとしていた。
夏織をゴッホに喩えたのは最上級の賛辞のつもりだった。美術史上の巨匠の名だ。花岬夏織はきっといまよりもっと有名になる。昨年の春、美術室で彼女の絵に打ちのめされてからずっと、予感があったのだ。夏織が埋もれるはずがないと。
予感は的中し、その年のコンクールで世に実力を示した彼女の名前は、全校生徒のあいだに瞬く間に広がった。〈鯨坂のフィンセント・ファン・ゴッホ〉というあだ名とともに。
けれどもしも。そう呼ばれるたび、夏織が傷ついていたのだとしたら。
それは言葉の暴力だ。
「……謝らせて。あのときまだ、知らなかったんだ。今回の事件で……ようやく気づけた。夏織に、追いつけた。……遅くなってごめん」
振り向くと、夏織は手をとめていた。椅子に座ったまま、ひそかに優しく笑っている。
気にしなくてもいい、と許されたような気がした。
「あたしのはT型色覚っていうんだけどね。とくにピンクと黄色の区別がつきづらくてさ。パズル系アプリとかぶっちゃけ苦手だし、黒板のチョークもたまに疑う。医学的には、通常見えるはずの色を知覚できない人のこと、色弱とか色覚障害っていうよね。これは生まれつきなんだけど……発覚したのが遅かった」
夏織の面差しはずっと穏やかで。
反応を返そうとおもうのに、どんな言葉も喉元で詰まって音にならない。
夏織は立ち上がり、大きく伸びをしていた。
あきらのほうへと、ゆっくりと近づいてくる。上履きがキュッと床を擦る。
「ていうか、タイミングが極悪だった。高校受験で泡島工芸の美術コース受けたすぐあとに発覚して、受かると思ったのに落ちてた」
「え……?」
「真相は藪の中だけど。大人は色んな繋がりと思惑があるらしいから。ただ、受験に落ちたことで、家族のあたしを見る目は変わったな。みんながみんな、楽しんでね、とか、もっと遊びな、とか生温いことばかり言うようになった」
「それは、いやだな」
「でしょ? ふざけんなよ、ってキレてグレた。あのころはひとりで憤慨してたな」
「……夏織にもそんなこと、あったんだ」
「うん。いまだに思い出すと腹立つし」
「そっか……。短気なわけだよ……」
会話に興じているあいだに、夏織は西の窓辺へとやってきた。
あきらの隣で、制作中の絵をじっと観察するだけして、何も文句はつけなかった。
それはそれで複雑だ。そんな胸中を知ってか知らずか、夏織は窓枠に頬杖をついて、眼下に広がる中庭へと視線を泳がせた。表情を隠すように俯いて。彼女はひとりごちるように、小さく囁く。
「……ほんとはさ、そこで認めてしまえたら楽だったんだろうね。あたしは生まれもっての敗残兵で、たたかう資格すらなくて、誰かに守られてしかるべき弱者なんだって。惨めだからどうぞ同情してくださいって、泣きながら訴えかけられたらいいのに」
「それは……夏織らしくない」
拾ってしまった。とっさに投げ返したボールは、あっさりと打ち返される。
「そんなの、あんたに言われるまでもなく知ってる。……決めたの。この欠落もこの慟哭も、抱えたままで生きるって。足りない色があるなら、その色だってあたしが足してみせる。死んでなんかやらないし、埋もれてなんかやらない。あたしはあたしのままで、十年後も二十年後も画家でいてやる」
天高く馬肥ゆる季節の空が見守るなか、花岬夏織は豪胆に言い放った。
その表情には勝ち気な笑顔が浮かんでいる。
「……アルルのゴッホが可愛く思えてきた」
「またゴッホ擁護派?」
今度は呆れ顔。こちらとしては、忍び笑いをこらえきれない。
「私思うんだ。天才と称される画家だとして、それでも人間なんだなって。耳を切り落としたのはなかなかだけど、それだけゴーギャンとの共同生活が楽しくて、彼がアルルを去るのがショックだったんだろうな。どれだけ聡明な人でも、大事な友達に嫌われたら、きっと悲しい。……そのあたり、昔のひとも案外単純じゃないかな」
「なにそれ! でもま、一理あるわね。……天才だって痛みのある人間か。うん、気に入った。鯨坂のフィンセント・ファン・ゴッホってあだ名、卒業まで背負ってあげる」
美術室には、夏織の明るい笑い声が響いている。
それを聞き届けながら、あきらは思う。
なにもかも杞憂ばかりだ。競争することも、描き続けることも。
手探りで描いた下書きを描いては消して。絵具を混色しては失敗して。また試行錯誤の繰りかえし。想像ではクリアなイメージを、カンバスに描きだしていく過程はまだ綱渡りの連続だ。センスだけですべてが決まるなら。デッサン量だけがものをいうなら。努力はできるけれど、それだけの真剣勝負ではつまらない。
どんな絵描きも自分に足りないものを探している。――超えたくてここにいる。
花岬夏織は窓枠のむこうを凜と見つめ、輝く瞳で一瞬の風をとらえていた。
「あたし、瑞凪が好きよ。みんな外の世界に憧れて、どこかへ行こうとするけれど、ここが退屈だなんておもわない。美しいものが、輝くものが、たくさんある。ここがあたしのアルル。終生の地になる場所」
風が夏織の髪をさらっていく。美術室には飴色の陽光がさしこむ。
季節は芸術の秋だ。
窓の外では紅葉が燃えさかり、銀杏が舞っている。中庭の色彩は、この時期でいちばん綺麗な暖色パレットだ。目がくらむほどの、情熱の赤が主役。
「でもね、長生きはするつもり。気鋭の画家であるうちに冒険しておきたい。生存本能とシャカイ正義、どっちも譲らないわ。このまま戦うとして――あたしを戦力外だって決めつけてクソ勝手に排除しようとした大人たちに、己の価値を知らしめるのに、最適な方法がふたつあった」
「それは?」
「ひとつはコンクール」
「もうひとつは……?」
「美大受験。――来年、藝大油画科受ける」
「……東京?」
「そう、トーキョー。あたしの行先はそこにする。あんたは?」
「……え?」
尋ねられてから、はたと迷う。
「受験校決まってないなら、とりあえずそれ見な」
夏織がすっと指差す先――。机に置かれていたのは、受験案内パンフレットだった。あきらが付箋のついたページを開くと……。
〈東京藝術大学 美術学部 芸術学科〉の受験生には、「学力検査」と「実技(鉛筆素描)」の両方が課される。……と記載されていた。
「学科の点数で藝大入るやつもいるわよ。美波が絵もがんばれるなら、二次試験では実技使うって手もあるはず。正直むかつくけど……どちらも諦めない道、あんたなら進めそうなものじゃない?」
したり顔を向けられた。それを見つめて、あきらはしばらく考え込む。
「東京ってさ、人口密度高いよね」
「そうね」
「渋谷とか、新宿とか、ターミナル駅もたくさんある」
「………………人混み嫌い」
一転して、頼りない弱音。
……なるほど。夏織の性分がわかってきた。
つまるところ、ひとりで受験会場までたどり着けるか不安なのだ。それを背伸びして隠す。意地っぱりで。格好つけで。荒々しい本性を糊塗して生きている。そんな少女だ。
それは、遠景で眺めていては観えないのだ。彼女を〈鯨坂のフィンセント・ファン・ゴッホ〉だなんて言祝ぐのは、女子高生画家のファンや批評家にまかせておけばいい。
あきらがなりたいのは花岬夏織の信奉者じゃない。なれるとしたらきっと、解けない友情で結ばれた好敵手だから。
たまには意地悪も言いたくなる。
「そうだな。夏織がどうしてもって言うなら検討する」
「じゃあ、言わない。べつに美波がいなくても平気だし」
背後を振りかえる。夏織の向日葵が燦然と輝いている。
ここはまるで南フランスのアルルだ。そしてゴッホとゴーギャンがともに過ごした黄色い部屋のよう。おおげさな空想を超えるために絵筆を握り、また制服の裾を絵具で汚してしまう。
青と黄。思いがけないクリムゾンレッド。ときには灰褐色。
無数の色に塗れながら青春を浪費しているのは、この一番綺麗な季節でふたりだけだ。今年もそれと気付かぬ間に、美しい芸術の秋は暮れていく。
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