POPPIN WORLD STORY

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POPPIN WORLD STORY

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 電子の雨が頬を伝う。こちらの世界ではどれほど雨に濡れても風邪をひくことはない。真っ黒な空に浮かび上がった星を見上げて感傷に浸っていた。
 数時間前まで際っていた会場の席には数名のスタッフがいるだけで、今聞こえてくるのは足音と地面を叩く雨音だけ。私は熱量が溶け込んだライブ後の静けさが好きだ。凸凹に並んだパイプ椅子や地面に落ちた紙吹雪に先ほどまで目の前にファンがいたのだと実感させられる。この日のために膨大な時間を費やして練習を重ねてきた。ペンライトや手を振って笑顔になるファンを見ていると、自分の職業が誇らしく思えた。
 ライブはたったの数時間でも、ここに至るまでにかかった時間は気が遠くなるほど長い。途方もない年月をかけ、アイドルとしての長い月日をファンの人たちに支えてもらうことによりようやく叶ったライブだ。私一人の力でこの舞台に立っているわけではない。数十、数百という人々の支えがあった。
「……楽しかったな」
 頬を伝う雨を指先で払う。
 決して大きな会場ではない。現実世界にあるドームや武道館とは比べ物にならないような小さな屋外施設だったが、ファンの人たちの声を聞くたびに舞台の上に立って踊っている時の幸福感は変わらない。私の声や動きで会場が一体化していくあの感覚が心地よかった。
「リオさんが頑張ってきたからですよ」
 そんな声が聞こえて私はゆっくりと振り返った。傘をさした小柄な男性が立っている。
「マネージャー」
 目にかかった前髪と少し丸まった背中。首元でチェックのネクタイをキュッと結んでおり黒縁の眼鏡をかけている。彼のアバターはこれといって特徴がなく、この世界ではかえってそれが印象的だった。
「帰っていくお客様、みんな笑顔でした」
「それはよかったわ」
「終幕しても笑顔でいられるのはすごいことですよ」
「そう?」
「はい。普通、終わりは寂しいものですから」
 彼は小さく微笑むと、こちらに歩み寄って私の頭上に傘をさした。華奢な肩にじんわりと雨水が染み込んでいく。
「夢を叶えるために……もっとみんなを笑顔にできるように頑張らないとね」
「どこまでも着いていきますよ」
「ありがとう。心強いわ」
 この世界で一番のアイドルになる。それがアイドルの道を志した私の夢だった。
 売上かファンの数か、それともライブの数か動員数か。何を持ってして一番になりたいのかは不透明だ。ただ支えてくれる人たちのためにも、私はこの世界で一番のアイドルにならなければいけない。推していてよかったと思えるような存在になりたいと思っていた。
「……ねぇ、マネージャー」
「なんですか?」
「どうして私のことをスカウトしたの?」
 彼はどん底にいた私を拾い上げてくれた。彼との出会いがなければ私はこの活動から身を引いていたに違いない。この景色を見ることができているのもファンの笑顔や言葉に励まされているのもぜんぶ彼のおかげだ。
「それは……」
 マネージャーは口籠もり、視線を少し彷徨わせたあと、
「それはリオさんが僕の最推しだったからですよ」
 笑顔を向けてそう言った。まるで冗談を言っているようには見えない。
「……最推し、ね」
「はい」
 何度かこの問いかけをしたことはあったが、返答が変わることはなかった。彼は私が別のアイドルグループに所属していた頃からのファンらしかった。
「ファンでいてもマネージャーになってもそれは変わりませんから」
「そういうものなの?」
「はい」
「……ふーん」
 どうにも腑に落ちなかったが、彼が嘘を言っているようには思えず、私はしぶしぶ首をコクコクと縦に振った。

 目を閉じた先は仮想世界。メタバースという言葉も世間に浸透しつつある。電子で作られたもう一つの世界は、現実と架空の境界線を見失ってしまうほど身近でリアルなものになった。夏の高い空も煌びやかな星空も現実と何一つ変わらない。脳の錯覚や認識能力を利用して味や気温を感じることもできる。私たちにとって、仮想世界と現実世界の違いはそこに肉体があるかどうかということだけだった。
 事務所の窓から外の景色を見る。夜空には無数の星々が浮かび上がっており、その下には酒や食べ物を手にワイワイと盛り上がる人々がいた。機械的な翼を背につけた男性が空を飛んでいる。景観を損なわぬように作られた透明の線路の上には電車が走っていた。どれも現実世界ではできないことばかりだ。
『リオちゃんに会うために仕事を頑張って終わらせました』
 昨日の握手会で貰ったファンレターだ。もちろん紙に書かれたものではない。浮かび上がったホログラムにはファンレターを送った人のアバター写真とメッセージが載っている。指先でホログラムに触れて右にスライドすると、他のファンから貰ったメッセージが浮かび上がった。
「この時間が一番好き」
 私の職業はファンがいて初めて成り立つものだ。
 ライブや握手会などで貰ったメッセージは必ず目を通している。いっぱいになったメッセージボックスを見ると、たくさんの人々に支えられて活動しているのだと実感できた。この身体は私だけのものではない。失われて悲しむ人がたくさんいる。現実では到底感じることのない大きな責任感はあったが、それでも活動を辞めたいと思ったことは一度もなかった。
『スキャンダルがないから安心して推せる』
『生きる支え』
 自身の名前をSNSで検索してファンの書き込みをお気に入りに登録する。すべてを追うことはできなくても、自分に対するポジティブな書き込みには可能な限り反応したかった。
「今回の収益は……」
 私がデザインしたコスチュームと握手会のチケットをセットにして販売した新曲の収益は現実の金額に換算して百万円ほど。この世界で稼いだ分は現実のお金に変換することができる。手数料を差し引けば約八十五万円になるはずだ。
「また寄付するんですか?」
 眉間に皺を寄せてうんうんと唸っていたマネージャーがこちらをチラリと見た。私のスケジュールを調整してくれているらしい。ありがたいことに三ヶ月後まで予定が決まっていた。
「うん。私が持っていても意味ないから」
 たくさんの人々に推してもらったおかげである程度の貯蓄はある。動画やコラボグッズの収益もあることから、新曲で稼いだ分のお金はすべて換金して貧しい国に全額寄付することを決めていた。きっかけをくれたのは一人の女の子のファンだった。貧しい国で暮らしていた彼女は動画がきっかけで私を知ってくれたらしい。一年前のトークイベントの際、彼女は素敵な笑顔で「私もリオさんみたいに誰かを支えられるアイドルになる」と言ってくれた。
「このお金で一人でも多くの子供たちが夢を叶えてくれればいいなって思って」
「そうですか」
 マネージャーが笑みを浮かべた。
 今回もらったメッセージは百二十九件。熱意の篭った長文もあれば感謝が込められた短文のものもある。頻繁にメッセージをくれているファンの名前やアバターは記憶した。デビュー当時から応援しているファンから貰ったメッセージの合計は多いものだと三十件に及ぶ。
 イベントを行うたびに、貰ったメッセージを読む時間は増えていく。今日は二時間以上もかかった。
 立ち上がり、両手を高く上げて背筋を伸ばす。仮想世界でも長いこと椅子に座り続けていると腰が痛くなる。
「もう帰って大丈夫ですよ。後のことは私がやっておきますから」
 マネージャーがこちらを見て言う。膨大な仕事があるというのに、彼は一度も嫌な顔を見せたことがなかった。
「悪いわね、力になれなくて」
「いえ。これもマネージャーの仕事ですから」
「本当に助かってる。ありがとうね」
「いえ。こちらこそ」
 ソファを離れて台所に向かい、棚からコップを取り出す。テーブルの上に置いてホログラムを起動し飲み物を選択すると、コップの中はたちまち暖かいコーヒーでいっぱいになった。
「よろしくね」
 マネージャーのデスクにコーヒーの入ったコップを置く。ホログラムを起動して『自宅』を選択した。この世界では徒歩以外に、登録した場所へと瞬時に移動できるショートカット機能があった。登録できる場所は三つまで。私は自宅と事務所の二つを登録していた。
「それじゃあまた。明日ね」
 顔の横で手を振ると、マネージャーはこくりと頷いて微笑んで見せた。
 視界が歪んでいく。
 瞬く間に景色が変わっていき、気がつけば私は自宅の入り口の前に移動していた。

 コスチュームをパジャマに変更してベッドに横になった。鼻歌を歌いながらホログラムを開いて明日のスケジュールを確認する。明日から私がデザインしたコスチュームが一部店舗で取り扱い開始となるため、いくつかのお店を回ってサイン会を開く予定だった。
「まさかこんな形で夢が叶うなんてね……」
 仮想世界に出会うはるか昔、小学生の頃の私は服のデザイナーを夢見ていた。元々絵を描くのが好きだったこともあったが、たまたま見つけたピンクのワンピースに心を奪われたのが決め手だった。あれからデザイン勉強をしたが、道は険しく夢が叶うことはないまま長い年月が経った。
 そんな私の元に突如訪れたコスチュームデザインの機会。コラボグッズという形ではあったが、どうであれお店に自分がデザインした服や靴が並んで誰かの手に渡ることが嬉しかった。
「……だめ。満足しちゃだめ。私は世界一のアイドルになるんだから」
 自分に言い聞かせるように呟く。慢心や満足感は向上心を奪い成長を止める。やり切ったと思えるまで決して満足してはいけない。夢を叶えるまで、立ち止まらず前へ進む必要があった。
 トークイベントや生配信、半年後にはライブも控えている。雑誌やバラエティの撮影、ダンスの練習やボイトレなんかも含めると本当に休日がない。現実が疎かになり、自由な時間もほとんどなかったが、仕事がないまま悩みもがいていたあの頃に比べれば何倍もマシだ。今の私は恵まれている。この世界には……現実世界にだって、夢や目標に届かず苦しんでいる人たちがごまんといるのだから。
 手のひらをホログラムに乗せて視界の外に出し、部屋を見回す。左の壁にはライブで販売したポスターやグラビアの画像が貼ってあり、その側のショーケースには対バンしたアイドルや共演した芸能人から貰ったサインが飾られていた。ベッドの上にはファンから貰ったクッションやぬいぐるみが並んでいる。身につけているこの服はCMの仕事をくれた企業から頂いたものだ。
 メッセージや配信で頂いたお金、ライブの声援やネットの書き込みなど他にも貰ったものはたくさんある。その中でも私が一番気に入っていたものがサイン会や握手会でファンと撮影したツーショット写真だ。画像フォルダーに入っているのはそんな写真ばかりだ。若い男性から子育てをする女性まで、幅広い層に応援してもらっていた。
 ホログラムを起動して画像フォルダーを開く。昨日撮影した写真や映像が浮かび上がる。右にスクロールすると過去に遡っていき、しばらくして一番古い写真が表示された。
「……懐かしいな」
 今から五年前。私がアイドル活動を始めて撮影した男性ファンとの写真だ。当時、私はソロではなくグループで活動していた。なかなか人気が出ず、最終的には運営する資金が不足して解散となってしまったが、活動していた一年間、彼は必ず握手会に参加してくれていた。解散ライブ後の握手会でも、彼はメガネの奥のまっすぐな瞳を私に向けて「これからも応援しています」と言ってくれた。あの人がいなければアイドル活動をやめていたかもしれない。ファン一人一人と交流するたびにそう思わされた。
 グループの子たちと撮った写真が続く。海やキャンプにも行った。SNSでは不仲が囁かれていたが、そんなものは根拠のない噂だった。意見をぶつけ合い、出し合ってお互いを高め合った。忘れることのない大切な時間だ。
 グループの子たちは今頃何をしているのだろうか。私の活動を陰ながら応援してくれているのかそれとも妬んでいるのか、はたまた私がアイドルを続けていることすら知らないかもしれない。どちらにせよ幸せでいてくれればいい。
「そろそろ戻らないと」
 ホログラムには仮想世界と現実世界、両方の時間が表示されている。仮想世界の時間経過を倍速にすることで、現実世界とは違った季節や時間を楽しむことができるためだ。現実世界ではもう時期二十二時を迎える。明日のサイン会のためにも、今日は早めに休息を取らなければいけない。
 画像フォルダーを閉じてオプション画面を開き『ログアウト』をタップする。休息を取る時は現実世界に戻ることに決めていた。この世界は脳の錯覚や認識を利用したシステムが使用されているため脳への負担が大きい。二日、三日と一度もログアウトせずにいると、実際に現実世界に戻った際吐き気や立ちくらみを感じてしまうこともある。アイドル活動を長く続けるためには、現実世界の生活も疎かにできない。
「明日も頑張ろう」
 こちらの世界では半日、つまり現実世界で取れる休息の時間は六時間ほどだ。
 そっと目を閉じて息を大きく吸う。
 ゆっくりと息を吐いて目を開くと、シミのついた真っ白な天井が視界いっぱいに広がった。

 瞼を閉じてスイッチを押せば仮想世界へと繋がる。十分な休息を取ることはできた。今日は大事な日だ。緊張で眠りにつくことができなかった、なんてことがなくて一安心した。
 ログインして必ず行うことがあった。それはホログラムに内蔵されたシステムでスケジュールを確認して頭の中で一日の段取りを作ることだ。予定通りには行かない。余裕のあるスケジュールを作りたいが、移動時間や準備時間、関係者への挨拶などを考慮すると不可能だった。
「あれ?」
 異変に気がついたのは、身支度を整えて事務所へ転移しようとした時だった。連絡先や配信アプリなど、ホログラム内の一部ツールにロックがかかっている。何度起動を試みても、『現在、このサービスは利用できません』といったポップアップが表示されるだけだった。
「メンテナンスかな?」
 運営からの告知を見落としていたのかと考えたが、そういった旨の通知を受けた履歴はない。突然のシステム不備かとも思ったが、SNSで障害を訴えている人は一人もいなかった。
 つまりこれは私個人の問題である可能性が高い。メッセージが溜まりすぎて処理が重くなりシステムを利用できなくなったことは以前もあった。不要データの移動処理を怠っていたことが原因かもしれない。
「とりあえず事務所に行かないと」
 ここから事務所まではそう遠くはない。予定よりも早くこちらの世界にログインしていたこともあり、急げば十分に間に合う時間だ。マネージャーを心配させないためにも、一刻も早く事務所に到着する必要があった。
 偽のアバターを起動して変装し、ホログラムを閉じて家を出る。原則、この世界でアバターを複数持つことは禁止されていたが、ファンや記者に見つからないために人通りの多い場所を移動する時だけは他のアバターを使用していいと特例が出ている。私のような芸能関係の仕事をしている人のほとんどがトラブルに巻き込まれないように偽物のアバターを使用していた。
 事務所までの距離はだいたい二キロほどで、二十五分もかければ到着する。マネージャーに心配をかけるだろうが、時間が押すことはないはずだ。もどかしい思いをしながら、足を止めて信号が青に変わるの待った。
「ねえ、今朝のニュース見た?」
 信号待ちをしていると男女二人組の話が耳に入ってきた。話題を振ったのは女性の方だ。金髪にドレスの女性から出た言葉には力がこもっていた。
「ニュース?」
「リオちゃんの」
「あぁ見たよ。めっちゃショックだった」
 突然肩を叩かれたような感覚だった。二人は私のことを話している。平静を装って聞き耳を立てた。二人の声音からその話題がポジティブな内容でないことが察せられた。
 金髪の女性がホログラムを開いて男性に写真を見せた。
「見てよこれ。掲示板に投稿されたやつ」
 私とマネージャーがホテルに入っていく画像だ。私とマネージャーの顔までしっかりと映っている。写真は全部で三枚。誰が撮影したのかはわからない。
「やばいよね」
 口元を微かに歪ませて女性が言う。
 この画像は決してフェイクではない。二週間前にホテルに駆け込んだ時の写真で、施設を利用するために偽のアバターを解除した瞬間だ。ホログラムにメンテナンスが入っていた時間で事務所へ移動することができず、体調を崩した私を介抱する為そばにあったホテルに入った。
「相手、マネージャーなんだってな」
「そうなの? 昨日の書き込みではファンって書いてあったけど」
「今朝マネージャーって発覚したんだよ。昔からのファンがリークしたらしい」
「そうなんだ。有名人も大変だよね。プライベートも個人情報もあったもんじゃない」
 二人は記事を読みながら淡々と会話を交わした。マネージャーの現実の名前までもが晒されていた。運営と繋がりがあるなどの根も葉もない噂や見た目への誹謗中傷も書かれている。
「でもマネージャーなら良くない?」
「俺はいいけど……ガチ恋してた人とかは嫌なんじゃない? アイドル活動に集中したいから彼氏を作る気はないって最近のインタビューでも言ってたし。ちょっと裏切られた気分」
「たしかに。割と真面目なキャラで売ってたからダメージ大きいんだろうね」
 ため息混じりの女性の声を最後に信号機が青に切り替わり、人々が道路の中に流れ込んだ。
 町のあちこちで私たちの噂話をしている人たちがいた。先ほどの男女のように落胆している人もいれば、裏切り者だと過激な言葉で罵倒する人もいる。暴言を吐いている人のカバンには私がライブで販売したキーホルダーがついていた。
 頭の中が真っ白になった。何が何だかわからず、現実味もない。まるで自分への悪口であるようには思えない。けれど、心にできた傷口がじんわりと広がっていくような感覚もあった。
 何度も反論したくなったが、拳を握り込んで必死に堪えた。私たちは付き合っていない。マネージャーはそんな人ではない。彼らは嘘の情報に踊らされているだけだと分かっていても、苛立ちは増していくばかりだ。善人が無意識に粗悪な情報を流して悪人になっていく。情報拡散能力が上がったからこそ起きる現象だった。
 私を憎んでいる人たちが世界中にいる。
 心臓の打つ速度が速くなった。吐き気を感じて今にも倒れそうだ。苛立ちが恐怖へと変わっていく。私を応援していた人たちが、支えてくれた人たちが敵になっていく。
 突如ホログラムが起動して、画面いっぱいに『警告』という文字が表示された。足を止めてホログラムを閉じる。
 通常では決して表示されることのないその言葉は、他のユーザーから多く通報された時にだけ表示されるものだった。治安を乱すユーザーを取り締まるための機能で、実装されたのはここ数ヶ月前。私のことを推していた人が記事や書き込みを読んで不快に思い通報したことが理由だろう。掲示板やSNSには私のアカウント情報や殺害予告が書き込まれていた。
 三度警告されたユーザーはアカウントが停止されて更生プログラムを受けることになる。プログラムの内容は明らかにされていなかったが、失敗すると二度とアカウントを復旧することが不可能になる。
 逃げるように事務所に駆け込んだ。早急に現状をマネージャーに伝えなければ。アカウントが停止してからでは遅い。
「……マネージャー?」
 事務所内は静まり返っていた。マネージャーの机に置かれたコップから湯気が立ち上っている。まだ淹れたばかりだ。
「すみません。体調が優れなくて」
 マネージャーは額に腕を当ててソファの上に仰向けになっていた。青ざめた顔が彼の不調を物語っている。手足は震えており、うっすらと開いた瞼の奥の瞳は輝きを失っていた。
「もしかして……」
 二度目の警告が表示され、視界がぐらりと揺れる。ひどい眩暈だ。どうやら複数の警告を受けるとアプリの停止だけではなく身体にも障害が起きるらしい。
 あと一回警告が来たら私の身体は存在できなくなる。
「リオさんの記事の影響が僕にも出てるみたいです。たくさんの人が通報しているみたいでもうダメかもしれません」
「でも……だってあの記事は嘘じゃ……」
「そうなんですけどね」
「そんな……」
 ファンを裏切らないために精一杯努力してきたつもりだった。一人でも多くのファンに笑顔になってもらうために、ダンスや歌のレッスンをして私生活にも気を遣ってきた。それが一つの間違った噂で無駄になった。
 立っていることすら難しくなり額を抑えつつ座り込む。頭が回らず言葉も出なくなった。酷い耳鳴りとぼやけた視界。苦痛に抗うような体力は残っていく。
 意識が遠のいていく。身体中の力が失われていくのがわかった。
 ばたりと倒れこみ、視界が真っ暗になった。

 はっとして目を開くと、周囲には大量の『0』と『1』の数字が浮かび上がっていた。ここが屋内なのか屋外なのかは定かではない。果てしなく続く場所にも驚くほど狭い場所にも感じられた。顔を上げても目を細めてずっと先を見ても、永遠に続く黒い壁と緑色の二つの数字だけ。風や音や匂いもない。気の遠くなるような無がそこには広がっていた。
 意識が復活していく中で、過去の自分の身に起こったことを思い出すことに成功した。掲示板やSNSの書き込みを読んだ人たちに通報されたのだ。つまりここは更生プログラムと関係する場所。私のアカウントは停止したらしい。
 この後、更生プログラムを受けることになり、三度徳を積めばアカウントを復旧することができる。まるでこの場所に来る前から知っていたかのように、プログラムの内容やアカウント復旧の概要が頭に流れ込んできた。
 これから私は架空世界のNPCとなって世界の発展に力を注ぐことになる。プログラムの最中は自身がNPCであることを悟られてしまうこととユーザーを不快に思わせる行動が禁止されている。ルールを破れば永遠にアカウントを復旧できなくなるらしい。
 チャンスは一度だけ。アカウントが復旧されるのも一度だけだ。
 プログラムをクリアして無実であることを話さなければいけない。長い間、ファンに支えてもらった私にはそうする義務がある。引退まで夢を見続けてもらうことがアイドルの仕事だ。

 気がつけば私は鎧を身につけて剣を持っていた。
 更生プログラムが始まったらしい。青い空と緑の生い茂る草原。周囲には液状の魔物や羽の生えた虎がいる。対峙しているユーザーは魔物を倒すために剣や杖を振るった。
 ここは架空世界南方にある訓練場だ。ゲームモードと呼ばれており、利用者はプロのファイターとそれを志す人々。訓練場で得た経験やマネーを使い、各地で行われている対戦イベントに参加することでプロになることができる。武器や防具や立ち回りは各々異なっていた。装備や立ち回りを変えて他のユーザーと戦うことが醍醐味の一つだった。数十年前に流行った格闘ゲームから派生したものだ。
 私が演じているのはユーザーの成長を助ける敵役。訓練場はいくつか難易度が設定されていたが、ここはその中でも一番簡単な場所だった。NPCとなった私はユーザーの経験値となるようにいい具合に戦って負ける必要がある。
 口を閉じて座り込み、空を見上げてNPCを演じる。培った演技力でできる限りの無機質さを表現した。通り過ぎていくプレイヤーがチラリとこちらを見た。敵としてのレベルが低いせいか、私を無視して過ぎ去っていくプレイヤーはかなり多い。
 空に浮かんだ雲の流れを目で追うこと数分。一人のプレイヤーが目の前で剣を構えた。剣の持ち方や鎧を着た歩き方がぎこちない。力んだ手足は彼が初心者であることを物語っている。
 私自身はゲームモードをプレイしたことは一度もなかったが、番組のゲストとして登場したプロのプレイヤーと話をしたことがあった。子供の頃からゲームが好きでプロを目指していたらしい。両親や友だちには否定されたり馬鹿にされたりしたらしいが、今となっては有名なカリスマプレイヤーになった。ゲームモードの枠を超えてCMやバラエティ番組にも進出している。彼が対談で言っていた「何を頑張るかではなく、諦めずにどこまで頑張るかが大切だと思うんです」という言葉が今も深く印象に残っている。
 立ち上がりゆっくりと切っ先を向ける。表示されたパラメーターから彼が初心者であるという予測が確信に変わっていった。初めてのゲームモードらしい。チュートリアルの最中だった。
「……クソッ!」
 男性は力任せに剣を振った。大きく振られた剣が私の頭上をすり抜けていく。よろよろとした足取りと定まらない視線。経験がない私でもそれでは当たらないことぐらいはわかる。
 攻撃を避け、タイミングを見計らってこちらも剣を振る。チュートリアルである以上、NPCがプレイヤーに勝つことがあってはならない。手首をうまく使って剣の刃が当たらないように立ち回った。
「どうしてだよ。なんで裏切ったんだよ。ふざけるな」
 まるで溜まった鬱憤を晴らすかのように、男性は声を荒げながら攻撃を繰り返す。風を切った刃が私に届くことはなかった。これでは埒が開かない。私は攻撃するそぶりを見せて、振り下げられた剣に自ら当たりにいった。
「信じてたのに。ずっと好きだったのに」
 初めて攻撃が当たったというのに、彼は表情を変えることもなく攻撃を続けた。腹部を抑えてダメージがあったことを演じ、反撃と言わんばかりに剣を振るう。男性は守りの姿勢を取ろうとはせず、怒りをぶつけるように攻撃を続けた。
「……リオ」
 彼の口から自分の名前が溢れ、驚きのあまり私の足はピタリと止まった。右から左に流れていった刃が私を貫く。耐えきれず、私はゆっくりと地面に倒れ込んだ。
「嘘だったのかよ」
 倒れる私をよそに彼はホログラムで画像を開いた。口元でピースする私が写っている。二年前、ライブ終わりの交流会で撮影したものだ。私の隣には幸せそうに笑う彼の姿があった。
「生きる意味だったのに……僕の支えだったのに」
 男は拳を強く握って呟いた。
 NPCとしての私にではなく、写真の中で笑みを浮かべる私に彼の憎悪は向いていた。当たり前だ。今の私はリオとしてのアバターを纏っていない。彼にとっては別の存在だった。
「……アイドル失格だろ。どうせ裏では彼氏と一緒に俺たちオタクを馬鹿にしていたんだ。金ズルだって思ってたんだ」
 男性が手で払うと私との写真はパッと消えた。彼の手には私の名前が入ったリストバンドが巻かれている。ソロ活動して初めてのライブで販売したグッズだ。
『そんなことない。私は本当に君たちに感謝をしてるの』
 奥歯をグッと噛んで、そう返答したい気持ちを抑え込んだ。
 男が指先でホログラムを操作し、再び私とのツーショットを開いた。右下の赤いボタンをタップする。《消去》と書かれたそのボタンを押すと、『本当に消去しますか?』といったポップアップが表示された。
 私は咄嗟に身体を動かしてまだやられていないことを伝えた。男がびくりと肩を震わせて手を止める。私は最後の力を振り絞るように、地面を這って男の足首を掴んだ。
「……ッ!」
 男はホログラムを閉じて剣を大きく振り翳した。再度刃が私の腹部を抉るが痛みはない。むしろ私たちの思い出が消えてしまうことを防げてよかったとすら思えた。
 真っ白な光が私を包み込み身体が分解されて消えていく。NPCが倒されると表示されるエフェクトだろう。頭から足まで、私の身体はすべて消えてしまった。
「……こんなにムカつくのに……寂しい」
 男はため息を吐いて鞘に剣を納めると、私が落としたアイテムを回収して離れていった。
 しばらくすると私の身体は元通りに再生された。同じ場所で座り込み空を見上げる。男の言葉や表情を思い浮かべつつ思考を巡らせた。
 きっと私を通報したファンの人々も彼と同じような心境なのだろう。惜しまれるほど、憎まれるほど私は愛されている。嘘が原因だとしても、ファンに辛い思いをさせてしまったと考えるだけでひどい罪悪感に苛まれた。
「……絶対に戻らないと」
 あの人に事実を告げるためにも私は更生プログラムを終えてアイドルとしてのアバターを取り戻さなければいけない。
 誓うように空を睨むと、目の前に現れた女性が杖を構えた。

 三十七回倒されたところで私の身体は再生しなくなった。意識が遠のいていき、次にハッとした時はレジの前に立っていた。一度目のプログラムが終わったらしい。成功したのかはわからなかったが、プログラムの中でユーザーに私がNPCを演じていたことが見つかった様子はなかった。
 小さく顔を動かして周りの景色を観察する。白を基調とした広い部屋には背の低い商品棚が等間隔で並んでいた。左の壁には靴が右側の壁にはコートやワンピースが置かれている。見覚えのある景色だ。
 ここはこの世界でもっとも大きなショッピングモールに入っているアパレル系のお店の一つだった。私も頻繁に利用していた。フリルやリボンのついた可愛いデザインの服や靴を専門として扱っており、そういったデザインが好きなユーザーが真っ先に足を運ぶお店だった。
 私の隣にはもう一人女性が立っていた。彼女がNPCなのか私と同じように更生プログラムを受けているのかは定かではないが、通り過ぎていくお客さんにゆっくりと頭を下げる姿はどこか機械的に思えた。黒いスーツや短めのスカートと身に付けている服装はまったく同じだ。
 利用したことがあったからか、自分が演じているNPCがどんな役割を担っているのかすぐに理解ができた。
「あの」
「何かお困り事でしょうか?」
 女性に声をかけられて、私は淡々とした口調でそう返した。
 背筋をピンと伸ばして、重ねた手のひらを腹部に当てる。口角を上げてキュッと微笑んでみせた。私が演じているのは取り扱い状況やアイテムの場所を調べる店内ガイドだった。
「これを探しているんですけど」
 女性はホログラムで画像を表示して私に見せた。ピンク色のリボンと底の高い黒い靴。ゴスロリと呼ばれるデザインのそのアイテムは、先日発売された私とこのお店のコラボアイテムだった。
「お探しになっている商品の取り扱い状況をお調べいたします」
 私は抑揚のない声で言ってホログラムを開いた。NPC専用のホログラムは画像を読み込むことで商品のデータを検索できるらしい。ホログラムに私のデザインしたコラボアイテムの一覧とその在庫状況、値段が表示された。
「コラボ商品の現在の在庫数はこちらです」
 入荷数と在庫数、購入された数や購入を検討した数までも見えるようになっていた。スキャンダルがあったというのにしっかりと在庫は減っている。今もなお、私のデザインした服や靴に興味を示してくれている人がたくさんいるらしい。
「……売ってる……よかった」
 女性は安堵の表情を浮かべると、微かに微笑み小走りで売り場へと向かっていった。
 私とのコラボアイテムを売る棚にはたくさんの人たちが群がっていた。デザインの影響か女性が多いが、中には男性もいる。商品を手に取った人々は満足そうな顔をしたり付き添いの男性に「可愛いでしょ?」と自慢げに話したりしている。
 本当はこの場所でイベントをやる予定だった。あの中にはイベントを楽しみにしていた人だっていたに違いない。
 NPCを演じながら売り場の様子を見ていた。客足が途絶えることはなく、みるみるうちにコラボアイテムは売れていく。心の中で嬉しさと申し訳なさが渦巻いていた。
 もしあの報道がなければ、一度目の更生プログラムで出会ったあの男もこのお店に足を運んでくれたのだろうか。私との交流会を楽しみにしてくれていたかもしれない。剣を持っていたあの男性もアイテムを購入してくれている女性もどちらも私の大切なファンだ。抱えた感情は違えども私を推してくれていたことに変わりはない。
「あの……」
 弱々しい声とともに視線を彷徨わせた女の子が私の足を叩いた。背丈は私の腰より少し上までしかない。この世界では現実と限りなく近い形でアバターが生成される。声質や身長から小学生の高学年くらいだろうと予測した。
「どうしたんですか?」
 あくまでも無機質に、それでいてなるべく怖がられないように問う。しゃがみ込んで視線を合わせると、女の子は視線を下げて顔を背けた。
「これ、ありませんか」
 女の子の背後から背の高い女性が現れて、ホログラムに映し出されたワンピースの画像を私に見せた。女の子の反応から、女性が母親かもしくは歳の離れた姉であることがわかった。
 二人が探しているその服は、私が子供の頃着ていたものと同じデザインだった。たしか番組で幼少期の頃を取り上げられた際にもこのワンピースを着ていたはずだ。こっちの世界でも同じものが売られているらしい。ピンク色のフリルと胸元に入った花が可愛くてお気に入りだったから出かけるたびに着ていたのだった。
 画像を読み取り在庫状況を調べると、商品の情報が浮かび上がった。一つだけ残っている。
「一つ残ってるって。よかったわね」
 女性がそう言って女の子を撫でる。
 すると女の子は小さく飛び跳ねて笑みを見せた。
「よかったね。これでリオちゃんと同じお洋服着てお買い物できるね」
 濁りのない瞳を見せて女の子が勢いよく首を振る。
「ご購入いたしますか?」
 笑顔を作って問いかける。表に出ていないアイテムはガイドが売ることになっていた。
 女性はこくりと頷くと、ホログラムを操作して会計の準備を始めた。三人のホログラムを同期して会計を女性に、商品を女の子へと送るようにデータを転送する。
「私、大きくなったら絶対にリオちゃんみたいなカッコよくて可愛いアイドルになるんだ」
「レンちゃんならきっとなれるよ」
「それでね。私も誰かに勇気をあげるんだ」
「すごいね。しっかり考えてて」
「リオちゃんがテレビで言ってたの。アイドルは誰かに幸せと勇気を与えられる素敵なお仕事なだって」
 データの転送をしている間、二人はそんな会話を交わしていた。会計が終わると、女の子はすぐさまワンピースに着替えた。サイズは購入したユーザーに合うように自動的に調整される。ワンピースを見に纏いキラキラと笑う女の子はとても可愛らしかった。
 まるで人と接するように、女の子は私に会釈をした。そして女性の手を引いて、「あっちに行こう」とはしゃぎながらコラボ商品が並ぶ棚へと駆けていった。
 きっとあの子はSNSの書き込みのことも私のアカウントが停止されたことも知らない。好きという純粋な気持ち一つで私を推している。最初にあったファンやSNSで通報した人たちだって、嘘が広まるまでみんな同じように純粋な気持ちで私を応援してくれていたはずだ。
 マネージャーにスカウトされた日のやりとりを思い浮かべる。
『一緒に君を好きな人を笑顔にしましょう』
 言われた言葉を脳内で反芻した。辛い思いをするたびに、その言葉を思い出して持ち堪えてきた。自分を支えてくれている人を笑顔にしたい。少しでもそんな未練があったからこそ、私はアイドルを辞めることができなかった。
 もう一度、幸せと勇気を与えるために一刻も早く元の姿に戻らなければいけない。私が志したアイドルという職業は誰かを笑顔にできる素敵な仕事なのだから。

 天候に恵まれないままグループ解散の日を迎えた。四人で活動を続けたクアドルプルは本日をもって解散する。理由はシンプルだった。ファンが少なく、グッズの売上も芳しくない。一人当たりに配られる給料は雀の涙ほどで、練習に割いた時間や受けた仕事の内容を考慮するととても割に合わない。誰もが苦痛を感じながらも妥協と僅かな希望で今日まで歌ってきた。
 最後の曲を歌い終えて頭を深々と下げた。ガラガラの観客席には、私が顔を覚えるほどの熱狂的なファンが二十人とアフターを狙っている大手企業の社長だけ。グループの中の一人は既に限界を感じているのか、架空世界を運営しているグループの男性と関係を持っていた。
 もっとキラキラとしている職業だと思っていた。歌声や笑顔で誰かに勇気を与えることができる。私にとってのアイドルはそういったものだったはずだ。
 テレビで見ていたアイドル像はほんの一握りの選ばれた人のもので、それ以外の大きな部分はそもそも露出することがない。私たちと同じように悔しさと落胆を抱えながら辞めていく人がたくさんいる。どんなに容姿が可愛くても、どんなに歌が上手くても結局最後は運だ。
 誰かに夢を見せる仕事に夢を見てはいけない。この業界に入ってすぐにグループを運営する事務所の社長に言われた言葉だ。当時はパッとしなかったが今ならその意味が理解できる。夢を見ているうちは誰かに夢を見せることなんてできない。現実を知り、分析をして初めて誰かに夢を見せることができる。
 ライブが終わり、私たちはステージを降りてテントの下に並んだ。ブルーシートに仮説テントで作られた握手会場。警備する人はおらず、数人のスタッフは撤退の準備を始めた。
 私たちは立ったまま、ファンの言葉を聞いて握手を交わした。
『引退しないでほしい』
『もっとお金を使っておけばよかった』
『誰かを推すのはこれっきりにするね』
 別れを惜しむばかりで笑顔のファンは一人もいない。終わりを迎えているのだから当たり前のことだったが、寂しげな顔を見ていると、どうして今まで活動を続けてきたのかと疑問に思わざるを得なくなった。
 この人たちを笑顔にできなかったのは私の責任だ。不甲斐ない感情でいっぱいになる。もっと頑張れたのではないか。何か方法はなかったのか。どれだけ考えても何一つ浮かばないことが、私の実力の限界を物語っている。
「それじゃあ私は先に帰るから。お疲れ様。元気でね」
 リーダーを務めていた子が冷ややかな声でそう残してテントを後にした。グループの活動方針や企画の案を出していたのは彼女で、私たちはそれを信じて活動してきた。彼女もまた誰かに夢を見させようと必死になってアイドルをやっていた。
 ファンの列がなくなった子からテントを出ていき帰宅の準備を始めた。リーダーの後はビジュアル担当の子が、最後に作詞をしていた子がテントを後にした。
「今日も来てくれてありがとうございました」
 口元に手を当てて小さく頭を下げる。
 七人目の男性。これが私の最後の握手会。眼鏡をかけたこの男性は、私たちがデビューした頃から欠かさずライブに来てくれている。名前は知らなかったが、趣味や好きな食べ物は知っていた。歪で特別な関係性だ。
「いいライブでした」
 手のひらを差し出して男性が言う。
「ずっと応援してくれてありがとうね」
 手のひらを重ねると自分の手が震えているのがわかった。
 この手を離せば私はアイドルではなくなる。悔しさと切なさが同時に押し寄せてきた。
「リオさんのおかげで辛いことも乗り越えられたんです」
「それはよかった」
 私の活動が彼の支えになっていたのなら今日まで続けてきてよかったと思える。だからこそ明日も明後日も来年もアイドルを続けたかった。
「本当に感謝してもしきれません。これからも応援しています」
「私の方こそ……ありがとうね」
 ファン一人一人のおかげで私は今日までアイドルでいることができた。感謝するのは私の方だ。アイドルという仕事を通して私はたくさんの夢を見せてもらった。
「あの、リオさん」
「なに?」
「僕と一緒にもう一度アイドルを目指しませんか?」
 私の心を見透かしたかのように彼は言った。
「……え?」
 動揺した私は反応することができず辺りを見回した。至って真剣な表情をしている。首を傾げて笑い茶化してみたが、彼がまっすぐな眼差しを背けることはなかった。
「えっと……本気で言ってるの……?」
「あなたには誰かを笑顔にする力がある。そんなありふれたことしか言えないけど、リオさんを推す僕の気持ちは本物です」
 断ることができなかったのはアイドル活動に未練があったからだ。
 可能ならば活動を継続したい。こんな不甲斐ない終わりを迎えたらきっと後悔する。判り切っていたが、そう簡単に首を縦に振ることはできなかった。
 私だけが活動を続けていいのだろうか。三人を裏切ることになるのではないか。今まで私を推してくれていたファンは、再出発する私を快く思うだろうか。様々な葛藤が渦巻いていた。
 それに彼のことだってほとんど知らない。架空世界である以上、それほど大きな事件に巻き込まれることはないはずだが、それでも彼を信用しきることはできなかった。彼がやましい考えを持っている可能性は十分にある。
「一緒に君を好きな人を笑顔にしましょう」
 小さく笑ったまま、彼は私にそう言った。

 三度目の更生プログラムが始まった。視線がやけに低い場所にある。
 ころんと床に転がって身体の作りをたしかめた。手の先には鋭い爪がついている。長い尻尾には灰色の毛が生えていた。
 最後はコンセプトカフェの動物を演じるらしい。犬やハムスターやハリネズミなどがいるが私がなったのは猫だった。毛並みは灰だろうか。腹部から手にかけての一部分だけ白い毛が生えている。
 ガラス張りの壁は外の景色が見えるようになっていた。天井は高く、照明トレイアウトの影響か室内はやたらと明るく感じられる。来店している男女の比率はだいたい七対三で女性の方が多い。若い人が多く、子供や友だちと来ている人がほとんどだ。
 架空世界のアニマルカフェは人気があった。動物の種類が多いのも人気な理由の一つだったが、それ以上にアレルギーを持っている人でも動物と触れ合うことができることが大きかった。
 辺りを見回して猫を数える。目視できるだけでも私を含めて七匹いた。遊具の中や棚の裏側なんかも考慮するとだいたい十五匹前後は飼育されているだろうか。
 この場での私の役割を考える。お客さんは癒しを求めて来店している。事情があり、猫や犬を飼うことができないからここに来ているはずだ。
 演じるべきは少し上品な猫。一、二度目のNPCのような明確な答えはない。人懐こい子もいれば臆病な子もいる。
 尻尾を立てたチャトラがこちらを一瞥して目の前を通り過ぎていった。去り際、「にゃ」とだけ鳴いた。猫になっても猫の言葉はわからないらしい。その猫は右の前足に赤色のリボンを巻いていた。里親を探しているというマークだ。
 女性二人組がお店に来店した。入口で人数や利用時間を入力して靴を脱ぐ。金髪で派手目の女性と黒髪で眼鏡をかけた女性。二人は店内を見回しては内装や動物の容姿を可愛いと誉めた。
 金髪の女性が指先を向けてこちらへと近づいてきた。私は目をカッと開いて起き上がり、二歩後ろに下がった。彼女の視線は私を追っている。猫と戯れるために来店したらしい。
 女性が詰めた距離だけ私も移動する。猫を愛している人々は人見知りな部分を好んでいることが多い。警戒したそぶりをして壁際まで行き、観念するように捕獲されるつもりだった。
 想定通りゆっくりと逃げる私を女性は笑顔で追いかけてきた。一度、壁のそばでこてんと転んでみせる。女性はくすりと笑って私を両手で抱き上げた。
「可愛いねぇ」
 女性が胡座をかき、膝の上に私を乗せた。ぶすくれた顔で目を合わせると、彼女は吹き出すように笑い声をあげた。猫が好きな人はどこか気だるげなところを愛しているのだろう。
 女性の膝の上でぼーっと外の景色を眺めていた。お店を出た先は人通りの多い道と道路。走っているのは昭和や平成の頃に一般的だったレトロな車やスポーツカーなど様々だ。気候の変化が無い世界だからか、行き交う人々が身に纏っている服装の種類もまったく違う。コートを着ている背の高い男性の隣で歩いているのは、薄手のワンピース一枚とサンダルの女性だ。
「見てこれ。私の推し」
 女性がホログラムを開いて私に写真を見せた。写真には小さなライブ会場でマイクを片手にピースをする女性が映っている。
「もう引退しちゃったんだけどね。めっちゃ可愛いでしょ?」
 女性が私の頭を撫でる。
「クアドルプルっていうグループのリーダーで話もダンスも歌もうまいんだよ。この子と出会ってからもっと前向きに生きようって思えたんだ」
 推しの話をしている女性はとても楽しそうだった。
 女性の推しを私は知っている。彼女は誰よりもグループが人気になる方法を考えていた。リーダーとして、一人の人間として困っている仲間やスタッフに声をかけてもいた。誰よりも正直で真っ直ぐで、最後まで繊細な子だった。
「あんまり人気なかったグループみたいでさ。見たことあるのはネットに残ってるライブとか握手会の映像だけなんだけど好きなんだよね。この人たちは嘘をついてないような気がするから。純粋にただ真っ当に歌っている感じがした」
 女性の言う通りだ。私たちは正直に歌い続けていた。嘘偽りなく、ファンの人たちに本当の自分たちを見てもらおうと努めた。
「アイドルってすごいよね。誰かに勇気を与えられるんだから。私には到底真似できないよ」
 涙が出なかったのは、私が猫だからなのかNPCだからなのか。彼女に掛けたい言葉はたくさんあったが、私は猫のふりをすることに努めた。女性の膝上で身体を丸めて寝転がり外を眺める。信号が赤から青に切り替わった。広い道路に人々が流れ込む。
 突如、お店の出入り口で横たわっていた一匹の猫が耳をピクリと動かして起き上がった。先ほど目の前を横切ったチャトラだ。わたまると呼ばれていたその猫は耳をピクリと上げ、何かを追いかけるように顔をキョロキョロとさせている。会計を終えた男性が店を出ていく瞬間、扉の隙間を抜けてお店を飛び出した。
 私も来店していた人々も何が起こっているのか理解できなかった。NPCである動物が一人でにお店を出ていくはずがない。まるで中に人が入っているかのようだ。
 チャトラが人で溢れた道を駆けていく。信号が点滅して、道路に落ちた人影が減った。
「危ないッ!」
 チャトラの発した人間の言葉が町中に響いた。同時に大型の車が物凄い勢いで通り過ぎていく。直後、信号が赤へと変わった。
 信号の先にいた一人の女性は驚いた表情でチャトラを見ていた。彼女が開いているホログラムには映像が映し出されている。彼女が歩きながら見ていたのは私のライブ映像だった。
「猫が喋った……?」
 その光景を見ていた人々は驚きと好奇の目を向けて、チャトラにホログラムを向けた。道に人だかりができていく。パシャパシャとシャッター音が鳴った。ざわざわとした話し声の中には、「これ、ネットに上げたらバズるんじゃない?」という言葉があった。
 チャトラの発した声が脳内で反響している。
 その声は私にとって聞き馴染みの深いものだった。

 気がつけば私は『一』と『零』が永遠と続く暗がりに戻っていた。三度目の更生プログラムが終わったらしい。記憶では一度もNPCであることは悟られなかったはずだが、果たして本当にリオとしてのアバターを取り戻すことはできるのだろうか。
 僅かな不安を感じながら待っていると、目の前に背の高い扉が現れた。同時に、無事更生プログラムをクリアできたことを確信した。この扉を開けば、元のアバターを持ってあの世界に戻ることができる。
 戻ったらすべきことは何か。事実を伝えて記事を否定することや仕事に穴を開けたことに対しての謝罪などが思い浮かんだが、どれも最初にするべきことではない。
「まずは……」
 悲しい思いをさせたことを謝らなければいけない。今回の報道を受けて多くのファンがショックを受け落胆したはずだ。それが本当かどうかは二の次だ。
「早く戻らないと」
 一刻も早く戻ってファンを安心させたい。頭の中はそんな考えでいっぱいだった。
「リオさん」
 扉を開こうと手をかけたところでそんな声がした。チラリと振り返って背後を見る。
「……マネージャー」
「無事戻れるようで安心しました」
 マネージャーが笑みを浮かべて立っている。うっすらと身体が透けていた。その状態が何を意味しているのか考えずとも理解できた。
「あなたはどうするのよ」
「……僕は」
 自身の手のひらに視線を落とし、
「ダメみたいです」
 戯けた顔でマネージャーはそう言った。
「どうしてあの時声を出したの?」
 暴走した車が信号に気が付かず横断歩道に侵入した瞬間、声を出して女性に危ないと呼びかけたのは他でもなく彼だ。
「偶然猫になっていたので耳がよかったんです。異様なエンジン音が聞こえて、よろよろ歩いている女性も見えて。もしかしてって思ってたんです。最悪の事態に本当によかった」
「でも他の人たちにNPCを演じていたことがバレちゃったじゃない」
 どんなに大きな事故に遭っても所詮ここは架空の世界だ。現実の身体には一切影響が出ない。架空世界では交通事故などありふれたものだった。
「あの人、リオさんのライブ映像を見ていましたから。あなたのファンに怖い思いをしてほしくなかったんです」
 真面目な顔で言うマネージャーに、私は反論することができなかった。ほとんどの人にとっては嘘っぽくて綺麗事に聞こえる言葉でも、彼はそれが当たり前かのように話す。そんな彼を信じてきたからこそ私は大きなアイドルになれた。
「ねぇマネージャー。一つ聞いてもいい?」
 問うと、マネージャーは柔らかく微笑んで首を縦に振った。
「どうして私にもう一度アイドルをやろうって誘ってくれたの?」
 長年引っかかり続けていたことだ。ここを逃したらもう二度と聞く機会は訪れないだろう。
「前に言った通りです。リオさんは僕の最推しなんです」
「本当にそれだけ?」
「僕にとってはとても大事なことですよ」
 マネージャーが一歩前に進んで言う。
「リオさんがいたからこの世界に来たいと思えた。あと少しだけ生きようと思えた。辛いことだって乗り越えられたんです。アイドルは星だなんて表現する人がいますけど、私にとってあなたは太陽ですよ。僕の暗い人生を照らす唯一の太陽。星とは違う。大きくて暖かくて、この世界でたった一つしかない大切な存在です」
「……マネージャー」
「あなたが推しでよかった。推してきてよかった。出会えて本当によかったです」
 視界がぼやけていき私は慌てて顔を手で覆った。指先で目を擦ってマネージャーを見る。終幕まで笑っていることが私たちアイドルの務めだ。
「私の方こそ、あなたの推しになれてよかったわ」
 そんな私の返事を聞いて彼が浮かべた笑顔を見て、今日まで活動を続けてきた意味がわかったような気がした。

 ソファに座り、録画していたバラエティ番組を見る。一ヶ月前に収録したもので、番組にある五分クッキングというコーナーに私は出演していた。アカウントが復旧して初めて獲得したレギュラーの仕事だ。
 あの一件から時間が経ち、すっかり炎上は収まっていった。その後すぐに世間の話題は他のアイドルへ行き、それすらも飽きて今はインフルエンサーの性事情で盛り上がっている。嘘や部分的な情報を聞いた人々が正義を振り翳して誰かのアカウントを停止へと追い込むのだろう。
 私は復帰して間も無く、真実を伝えて謝罪をしたが、どれほどの人が信用しているのかはわからない。未だにSNSには私やマネージャーへの誹謗中傷が投稿されることがあった。
「さて、今日も頑張らないと」
 停止直前と比べて仕事は減ったが、依然としてライブや握手会にはたくさんの人が足を運んでくれる。ダンスや歌の練習、番組の収録など相変わらず忙しい。
「それじゃあ行ってくるね、わたまる」
 膝の上で目を瞑るチャトラの猫に声をかける。二ヶ月前に家に迎えた子だ。交友関係が狭く時間のない私にとってわたまるは唯一の癒しであり支えだった。
「ちゃんといい子にしてるんだぞ」
 私が笑みを浮かべて頭を撫でると、わたまるはぴょんと膝から飛び降りて小さな声で「にゃ」と鳴いた。
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