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第一章~⑦
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三鴨の会社で一昨年入ったばかりの女性だ。尊が配属される以前、二人いた事務員の内の一人が突然辞めた為、当時三鴨と懇意にしておりカナールと提携する生命保険販売員だった彼女を、急遽引き抜き事務員にしたと聞いている。
三鴨は営業も出来る事務員が良いと欲張ったようだが、その目論見は崩れ大失敗をしていた。というのも営業販売員の能力と事務の能力は全く別物だからである。生保販売員としてそれなりの成績を収めていたが、事務は苦手だったのだ。生保にいた頃の彼女は、事務的なものを全て社員任せにしていたという。
その為、尊が担当になり彼女と話す機会があり、何か困った事はありませんかと何気なく聞いた際、突然不満をぶつけられた。
会社の正社員になったので給与は安定したけれど、一年目の年収はこれまでの平均と比較すれば下がったらしい。何故なら事務仕事に時間が取られ外出時間が少なくなり、保険獲得に使う営業時間の確保が充分にできなかった為だ。
「三鴨社長は事務なんて簡単に出来るから、入社すればバンバン営業して契約を獲れる。そうしたら給与も上げられるって言っていたんですよ。それなのにいざやってみたら、他の営業社員が持ってくる申込書のチエックや、かかってくる電話を受け付け担当者と繋げていたら、外に出る時間なんて全くありません。それにちょっと時間が出来たと思って外に出ようとしたら、もう一人の事務員からどこに行くんですかって顔で見られるし。私はどうしたらいいんですか。もう辞めたいです」
そうヒステリックに叫ばれ困惑した。しかし放っておけば代理店自体が回らない。保険会社同様、代理店も事務と営業社員との連携が上手くいかなければ成立しないからだ。
しかもカナールは、尊の当初の担当内で最も数字を持っていた。そこで急遽社長の三鴨は当然として、他の営業社員七人と事務の女性からも個別で話を聞き、問題点を洗い出し改善策はないかと考えたのだ。
するといくつかの課題と修正可能な点が出てきた。それを半年以上に渡り一つ一つ解決し、お互いが気持ちよく仕事ができる方向へと少しずつ導いた結果、秋頃にはかなり落ち着きを見せ、里浜が愚痴を漏らす回数はかなり減少した。
丸一年が経過した今では事務仕事に慣れ、保険獲得の時間も取れるようになり収入が増えたと本人だけでなく、三鴨からも感謝されている。これは代理店にとって、また保険会社の担当者としても喜ばしかった。
三十四歳の彼女はシングルマザーで、まだ六十歳前後だが重い病気を患っている母親と中学二年の娘の三人暮らしという複雑な家庭だ。よって収入は彼女の働きにかかっており、精神的にも辛い立場にあると聞いていた。
そうした背景がありやや情緒不安定な面を持っていたところを、尊は支社内でペアを組む事務職と一緒にフォローしてきたのである。それが嬉しかったのだろう。他代理店の事務員と比べればかなり時間をかけて接した分、懐かれてしまった点は否めない。
もちろん彼女とプライベートで、二人だけになったりはしなかった。せいぜいあるのは先方の事務所でもう一人の事務員を含め、他の社員達が出払った時くらいだ。それでもそう長くならないよう尊は注意していた。余計な噂を立てられる危険があるからだ。
実のところ、尊に対し彼女が何となく好意を抱いている気配は感じていた。だからこそ気を付けていたし彼女もこちらが既婚者だと知っていた為、深くは踏み込んでこなかった。
けれどそういう事情に鋭い人は、見ているだけでもなんとなく分かるものらしい。恐らく刑事達はそうした情報を耳にしたのだろう。こうした状況も志穂には全て話しており、事情を理解していた為に反論していた。
「一度私もお会いしました。彼の話によれば、里浜さんは感情表現が豊かな方だからでしょう。それに一時期、相当辛い思いをされていたようですね。彼が担当してからこの一年で、周囲の人達の協力を得てなんとか乗り越えられたと聞いています。そう言う意味では、他の代理店の事務員さん達と違った思いを抱いて頂いたとしても不思議ではありません。しかし疑われるような関係では決してありません。それは誰に聞いて頂いても明らかです」
「そのようです。私達の感触でも彼女はご主人に相当感謝しており、一方的な思いを抱いているのだと感じました。ちなみに彼女は、事件当夜のアリバイがしっかりありました」
彼女の代理店での基本的な業務は平日の九時から十七時までだ。それから一旦自宅に戻る途中で買い物を済ませ、夕食の用意をしてから再び外出することが多いと聞いてはいた。
勤務時間内では都合がつかない顧客と面談し、保険の説明や営業活動を行っていたのだろう。尊が襲われた金曜の夜、同じ事務所の男性営業社員と二人で生命保険の契約締結を無事済ませ、その後軽く飲んでいたらしい。よってお店の従業員等の証言から、アリバイは成立したようだ。
それなら彼女は事件と全く関係ない。そう知った上で思わせぶりな態度を取った久慈川に、尊同様彼女も怒りを覚えたと思われる。
「一体何を言いたいのですか。犯人を探しているというより、私をからかっているとしか思えませんが、どういうおつもりですか」
興奮して立ち上がった彼女が一瞬ふらついた。その姿を目にした尊も頭に血が上った。それが離脱していた体に影響したのかは分からない。けれど心拍数などを図る装置の一部が反応し、警告音を鳴らし始めたのである。
その為ずっと静かにしていた医師が慌てて彼女の体を支えた後、同席していた看護師と共に、慌てて尊に対する処置を進めた。さらにその手を休めることなく、もう我慢ならないと言った口調で彼は言った。
「芝元さん、大丈夫ですか。すみません、刑事さん。もう帰って頂けますか。患者さんの容態にも差し障ります。意識がない場合でも耳だけは聞こえている可能性がありますので」
これ以上の事情聴取は、付き添いの彼女だけでなく眠ったままの尊にも耐えられないと慮ってくれたからだろう。アラーム音を聞いた他の看護師までが病室に駆け付け、傍にいた看護師達と医師の指示に従い対処する為、慌ただしく動き始めた。
そうした状況を見て、さすがに彼らもやり過ぎたと思ったらしい。
「そうですね。申し訳ございません。また日を改めてお伺いします」
彼らが頭を下げ立ち去ろうとしたが、その背中に志穂は痛烈な言葉を浴びせた。
「今後こちらが許可を出すまで来ないで下さい。少なくともあなた達はしばらく顔を見せないで」
これには驚き振り向いた彼らだったが、何も言い返せず黙って頭を下げ退室していった。
その間にも医師達の処置が続く。尊はオドオドと天井付近をさ迷うばかりで何もできず、このまま死んでしまわないかと自分の体を見つめているしかなかった。
けれどしばらくして落ち着いたようだ。警告音も止まり、脈拍や血圧なども安定した数値が表示され、医師がもう大丈夫ですと頷いた。
「有難うございます。助かりました」
二重の意味で志穂が医師に謝辞を述べると、彼も頭を下げた。
「いえ、こちらの配慮が足りませんでした。申し訳ございません。今日は奥様もゆっくりお休みになって下さい。ご主人はもうしばらく安静が必要でしょう。私達も引き続き治療を続けますが、いつ目を覚まされるかは断言できません。脳に異常は見られませんし、幸い太い神経も傷ついていないようなので、酷い麻痺が残る可能性は高くないと思われます。ただ刺された際に傷ついた別の神経が、意識を戻す妨げになっているのかもしれません。また今後同じような状況になるといけませんので、病室での事情聴取は意識が戻るまで禁止するよう警察には私から伝えておきます。あとご存じでしょうが、ここは二十四時間管理しておりますので奥様もお疲れでしょうし、頃合いを見てお帰り下さって結構ですから」
「分かりました。宜しくお願い致します」
医師達が病室を出た後、目を瞑ったまま横たわる尊の手を握りしめ、何度も擦る志穂の姿を病室の天井付近から見下ろしていた。
二人の間で隠し事等ほとんどない。かつて同じ会社に勤める先輩社員だった彼女には、日頃から仕事で抱えた問題などを相談してきた。といってもほとんどが人間関係である。
手掛けている業務内容について話しても、退職し営業経験が無い彼女だって深くは理解できないだろうし、アドバイスを頼るのは間違いだ。けれど会社勤めで最も重要かつ欠かせない問題は、社内における人付き合いだった。
その点彼女は結婚退職するまで十年余り勤務し、多くの男性総合職や女性事務職と接してきた経験がある。尊も昨年ようやく彼女の職歴を超えたばかりだ。それにベテラン女性事務職の目から見る視点は貴重で、かつ彼女の人間観察能力の高さはとても役立った。
そうした忠告並びに指導を受けてきたおかげで刑事達が言った通り、女性事務職からの受けが良い社員になれたのだと思っている。また男性社員との軋轢さえ、最小限に食い止めてきたのだ。
それでも限界はあった。和喜田や宇山、野城のようなタイプはどこにでもいて、嫌われない為には自分の信念を曲げるか、意にそぐわない行動を取らなければならなくなる。しかしそれはやはり避けたかった。
また女性からの評価が高い点さえ、ある意味諸刃の剣だった。というのも中には里浜のような女性が現れるからだ。そうした例は実際他の部署でも経験している。
以前いた大阪では、隣の課の女性事務職に好意をもたれた。危うく拗らせてしまうところを、志穂の助言により同じ部署の女性職員の協力を得て何とか事なきを得たのだ。
そうした経緯もあったので、里浜の件は今回の事件が起こる以前から彼女の耳に入れていた。その為刑事に質問された際、彼女は取り乱すことなく淡々と否定できたのだ。
他に疑われていた和喜田達についても、尊が意識を取り戻し同じ聴取を受けていた場合とそう変わらない対応ができたのは、日頃から事細かく人柄などを伝えていたからだろう。
それしても里浜にアリバイがあったと聞き、尊の頭に浮かんだ容疑者の一人が消えた事にホッとした。しかしわざわざ容疑者かのように名前を挙げたのは、捜査が相当行き詰っているのだろうかと一方で不安になった。
尊を刺した相手が支社長や宇山達だったなら、あんな夜遅くに公園までどうやって来ていたかが問題だ。それぞれの自宅や会社からも距離がある。電車に乗ってきたとすれば、どこかの防犯カメラに必ず写っているだろう。タクシーだって同じだ。
今は車でもどこかにカメラが付いている為、映像が残る可能性は高いと思われる。しかし刑事達はそうした話を全く口にしなかった。
唯一近所と言えるのは、二駅先にあるという里浜の自宅だ。彼女の家からなら歩いてこられるだろう。この辺りの住宅地を抜ければ、防犯カメラに写らない道があるかもしれない。だけどアリバイがあるなら彼女に犯行は無理だ。
そこで志穂と一緒に彼女と会った時の様子を思い出す。
三鴨は営業も出来る事務員が良いと欲張ったようだが、その目論見は崩れ大失敗をしていた。というのも営業販売員の能力と事務の能力は全く別物だからである。生保販売員としてそれなりの成績を収めていたが、事務は苦手だったのだ。生保にいた頃の彼女は、事務的なものを全て社員任せにしていたという。
その為、尊が担当になり彼女と話す機会があり、何か困った事はありませんかと何気なく聞いた際、突然不満をぶつけられた。
会社の正社員になったので給与は安定したけれど、一年目の年収はこれまでの平均と比較すれば下がったらしい。何故なら事務仕事に時間が取られ外出時間が少なくなり、保険獲得に使う営業時間の確保が充分にできなかった為だ。
「三鴨社長は事務なんて簡単に出来るから、入社すればバンバン営業して契約を獲れる。そうしたら給与も上げられるって言っていたんですよ。それなのにいざやってみたら、他の営業社員が持ってくる申込書のチエックや、かかってくる電話を受け付け担当者と繋げていたら、外に出る時間なんて全くありません。それにちょっと時間が出来たと思って外に出ようとしたら、もう一人の事務員からどこに行くんですかって顔で見られるし。私はどうしたらいいんですか。もう辞めたいです」
そうヒステリックに叫ばれ困惑した。しかし放っておけば代理店自体が回らない。保険会社同様、代理店も事務と営業社員との連携が上手くいかなければ成立しないからだ。
しかもカナールは、尊の当初の担当内で最も数字を持っていた。そこで急遽社長の三鴨は当然として、他の営業社員七人と事務の女性からも個別で話を聞き、問題点を洗い出し改善策はないかと考えたのだ。
するといくつかの課題と修正可能な点が出てきた。それを半年以上に渡り一つ一つ解決し、お互いが気持ちよく仕事ができる方向へと少しずつ導いた結果、秋頃にはかなり落ち着きを見せ、里浜が愚痴を漏らす回数はかなり減少した。
丸一年が経過した今では事務仕事に慣れ、保険獲得の時間も取れるようになり収入が増えたと本人だけでなく、三鴨からも感謝されている。これは代理店にとって、また保険会社の担当者としても喜ばしかった。
三十四歳の彼女はシングルマザーで、まだ六十歳前後だが重い病気を患っている母親と中学二年の娘の三人暮らしという複雑な家庭だ。よって収入は彼女の働きにかかっており、精神的にも辛い立場にあると聞いていた。
そうした背景がありやや情緒不安定な面を持っていたところを、尊は支社内でペアを組む事務職と一緒にフォローしてきたのである。それが嬉しかったのだろう。他代理店の事務員と比べればかなり時間をかけて接した分、懐かれてしまった点は否めない。
もちろん彼女とプライベートで、二人だけになったりはしなかった。せいぜいあるのは先方の事務所でもう一人の事務員を含め、他の社員達が出払った時くらいだ。それでもそう長くならないよう尊は注意していた。余計な噂を立てられる危険があるからだ。
実のところ、尊に対し彼女が何となく好意を抱いている気配は感じていた。だからこそ気を付けていたし彼女もこちらが既婚者だと知っていた為、深くは踏み込んでこなかった。
けれどそういう事情に鋭い人は、見ているだけでもなんとなく分かるものらしい。恐らく刑事達はそうした情報を耳にしたのだろう。こうした状況も志穂には全て話しており、事情を理解していた為に反論していた。
「一度私もお会いしました。彼の話によれば、里浜さんは感情表現が豊かな方だからでしょう。それに一時期、相当辛い思いをされていたようですね。彼が担当してからこの一年で、周囲の人達の協力を得てなんとか乗り越えられたと聞いています。そう言う意味では、他の代理店の事務員さん達と違った思いを抱いて頂いたとしても不思議ではありません。しかし疑われるような関係では決してありません。それは誰に聞いて頂いても明らかです」
「そのようです。私達の感触でも彼女はご主人に相当感謝しており、一方的な思いを抱いているのだと感じました。ちなみに彼女は、事件当夜のアリバイがしっかりありました」
彼女の代理店での基本的な業務は平日の九時から十七時までだ。それから一旦自宅に戻る途中で買い物を済ませ、夕食の用意をしてから再び外出することが多いと聞いてはいた。
勤務時間内では都合がつかない顧客と面談し、保険の説明や営業活動を行っていたのだろう。尊が襲われた金曜の夜、同じ事務所の男性営業社員と二人で生命保険の契約締結を無事済ませ、その後軽く飲んでいたらしい。よってお店の従業員等の証言から、アリバイは成立したようだ。
それなら彼女は事件と全く関係ない。そう知った上で思わせぶりな態度を取った久慈川に、尊同様彼女も怒りを覚えたと思われる。
「一体何を言いたいのですか。犯人を探しているというより、私をからかっているとしか思えませんが、どういうおつもりですか」
興奮して立ち上がった彼女が一瞬ふらついた。その姿を目にした尊も頭に血が上った。それが離脱していた体に影響したのかは分からない。けれど心拍数などを図る装置の一部が反応し、警告音を鳴らし始めたのである。
その為ずっと静かにしていた医師が慌てて彼女の体を支えた後、同席していた看護師と共に、慌てて尊に対する処置を進めた。さらにその手を休めることなく、もう我慢ならないと言った口調で彼は言った。
「芝元さん、大丈夫ですか。すみません、刑事さん。もう帰って頂けますか。患者さんの容態にも差し障ります。意識がない場合でも耳だけは聞こえている可能性がありますので」
これ以上の事情聴取は、付き添いの彼女だけでなく眠ったままの尊にも耐えられないと慮ってくれたからだろう。アラーム音を聞いた他の看護師までが病室に駆け付け、傍にいた看護師達と医師の指示に従い対処する為、慌ただしく動き始めた。
そうした状況を見て、さすがに彼らもやり過ぎたと思ったらしい。
「そうですね。申し訳ございません。また日を改めてお伺いします」
彼らが頭を下げ立ち去ろうとしたが、その背中に志穂は痛烈な言葉を浴びせた。
「今後こちらが許可を出すまで来ないで下さい。少なくともあなた達はしばらく顔を見せないで」
これには驚き振り向いた彼らだったが、何も言い返せず黙って頭を下げ退室していった。
その間にも医師達の処置が続く。尊はオドオドと天井付近をさ迷うばかりで何もできず、このまま死んでしまわないかと自分の体を見つめているしかなかった。
けれどしばらくして落ち着いたようだ。警告音も止まり、脈拍や血圧なども安定した数値が表示され、医師がもう大丈夫ですと頷いた。
「有難うございます。助かりました」
二重の意味で志穂が医師に謝辞を述べると、彼も頭を下げた。
「いえ、こちらの配慮が足りませんでした。申し訳ございません。今日は奥様もゆっくりお休みになって下さい。ご主人はもうしばらく安静が必要でしょう。私達も引き続き治療を続けますが、いつ目を覚まされるかは断言できません。脳に異常は見られませんし、幸い太い神経も傷ついていないようなので、酷い麻痺が残る可能性は高くないと思われます。ただ刺された際に傷ついた別の神経が、意識を戻す妨げになっているのかもしれません。また今後同じような状況になるといけませんので、病室での事情聴取は意識が戻るまで禁止するよう警察には私から伝えておきます。あとご存じでしょうが、ここは二十四時間管理しておりますので奥様もお疲れでしょうし、頃合いを見てお帰り下さって結構ですから」
「分かりました。宜しくお願い致します」
医師達が病室を出た後、目を瞑ったまま横たわる尊の手を握りしめ、何度も擦る志穂の姿を病室の天井付近から見下ろしていた。
二人の間で隠し事等ほとんどない。かつて同じ会社に勤める先輩社員だった彼女には、日頃から仕事で抱えた問題などを相談してきた。といってもほとんどが人間関係である。
手掛けている業務内容について話しても、退職し営業経験が無い彼女だって深くは理解できないだろうし、アドバイスを頼るのは間違いだ。けれど会社勤めで最も重要かつ欠かせない問題は、社内における人付き合いだった。
その点彼女は結婚退職するまで十年余り勤務し、多くの男性総合職や女性事務職と接してきた経験がある。尊も昨年ようやく彼女の職歴を超えたばかりだ。それにベテラン女性事務職の目から見る視点は貴重で、かつ彼女の人間観察能力の高さはとても役立った。
そうした忠告並びに指導を受けてきたおかげで刑事達が言った通り、女性事務職からの受けが良い社員になれたのだと思っている。また男性社員との軋轢さえ、最小限に食い止めてきたのだ。
それでも限界はあった。和喜田や宇山、野城のようなタイプはどこにでもいて、嫌われない為には自分の信念を曲げるか、意にそぐわない行動を取らなければならなくなる。しかしそれはやはり避けたかった。
また女性からの評価が高い点さえ、ある意味諸刃の剣だった。というのも中には里浜のような女性が現れるからだ。そうした例は実際他の部署でも経験している。
以前いた大阪では、隣の課の女性事務職に好意をもたれた。危うく拗らせてしまうところを、志穂の助言により同じ部署の女性職員の協力を得て何とか事なきを得たのだ。
そうした経緯もあったので、里浜の件は今回の事件が起こる以前から彼女の耳に入れていた。その為刑事に質問された際、彼女は取り乱すことなく淡々と否定できたのだ。
他に疑われていた和喜田達についても、尊が意識を取り戻し同じ聴取を受けていた場合とそう変わらない対応ができたのは、日頃から事細かく人柄などを伝えていたからだろう。
それしても里浜にアリバイがあったと聞き、尊の頭に浮かんだ容疑者の一人が消えた事にホッとした。しかしわざわざ容疑者かのように名前を挙げたのは、捜査が相当行き詰っているのだろうかと一方で不安になった。
尊を刺した相手が支社長や宇山達だったなら、あんな夜遅くに公園までどうやって来ていたかが問題だ。それぞれの自宅や会社からも距離がある。電車に乗ってきたとすれば、どこかの防犯カメラに必ず写っているだろう。タクシーだって同じだ。
今は車でもどこかにカメラが付いている為、映像が残る可能性は高いと思われる。しかし刑事達はそうした話を全く口にしなかった。
唯一近所と言えるのは、二駅先にあるという里浜の自宅だ。彼女の家からなら歩いてこられるだろう。この辺りの住宅地を抜ければ、防犯カメラに写らない道があるかもしれない。だけどアリバイがあるなら彼女に犯行は無理だ。
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