ボカーソウルの苦悩

しまおか

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第四章~⑤

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 これは借り上げ社宅に入ったものの、気に入らないだとか自己都合で転居する場合と同じである。そうしたケースを毎回許可すれば会社の負担が大きい。その為に厳しく制限を加えているのだ。つまり一度入った借り上げ社宅から、そう簡単に出られなくなっていた。
 だから転勤の際、どんな部屋に入るかを決めるのはかなり大事なのだ。にもかかわらず時間が無く遠距離だったりする為、事前に内見できるケースはまずない。
 今は便利になり、パソコンで部屋の中身を動画で見られるサービスが受けられたりもするけれど、かなり短期間かつ限られた候補内で決めなければならないのが現実だった。そこは転勤族が受けるデメリットの一つといえるだろう。
 しかしそうした内規の理解は、同じ会社にいた元社員で数多くの異動する総合職を見送り、かつ既に尊と共に三度の転勤を経験した彼女の場合、難しくなかったようだ。支社長から説明を受けずとも、そうなるだろうと予測していたに違いない。
 ちなみに異動の際に出る補助金というのは、転居をすると引っ越しにかかる費用以外に、ケースバイケースでかかる諸費用に使うよう、役職に合わせ一律に支給されるものだ。
 例えばネット回線の変更に伴う解約金が発生する、または以前使用できたものが新しい部屋では使えない家電製品があれば買い替えなければいけなくなる、といった場合だ。
 その額は結構大きく、名古屋に来た際は十五万円の支給があった。だが実際は担当するだろう代理店やその他のお徳様への挨拶で配るお土産代にほとんど消えた。内勤の場合はせいぜい新部署の社員や上司への土産程度だった。その点が外勤と大きく異なる点だろう。
「問題ありません。では早速手続きをしましょう」
 休職したまま転院転居できるとなれば、彼女は当然急ぎたかった。何せ父親の余命が迫っている。よって少しでも早く実家に戻り、また母親の負担を減らすことで兄の仕事も楽にさせたかったからだろう。それは誰もが阻めない事情だった。
 その後様々な段取りはスムーズに進み、実家での事情を把握してから一か月後には引っ越しと転院を終えたのである。
 その間の彼女は獅子奮迅の働きを見せた。かつて三度の異動を経験し慣れているとはいえ、引っ越しは住民票の異動やカードの変更など、かなり手間がかかる作業だ。
 これまでは尊と二人で分担してきた。だが彼女は会社や病院とのやり取りに加え、家の荷物の梱包や引っ越しに伴う住所変更等を含めた様々な手続きを、ほぼ全て一人でやってのけたのだ。
 しかも尊の容態を確認しつつ急がなければならなかった為、毎日のように慌ただしい時間を過ごしていたのである。
 けれどそれは彼女にとって寂しいだとか辛いだとかを感じる暇を無くす効果があったのだろう。宙に浮きながら見ていた限り、気がまぎれて精神的には良い方に働いていたのでないかと思えた。
 無事引っ越しを終え実家に戻った彼女は地元の役所の福祉課に電話し、これまで来て貰っているヘルパー達と今後について相談したい旨があると告げていた。
 そこで先方のケアマネージャーという、家庭における介護方針を決める人が対応してくれたのだが、娘である志穂が戻ったと聞きとても喜んでいた。
 やはり高齢の義母だけでは徐々に弱っていく義父の容態から、今後厳しくなると先方も気にしていたらしい。介護だけでなく農作業にも支障が出ていた為、日に日に心労が溜まっているのが先方からも分かったという。剛志と面談した際もそう感じたと言っていた。
 外部の人間がそう気付いたのだから、隠し通せない程追い詰められていたに違いない。改めて尊は志穂が実家に帰ったのは正解だったと実感した。また彼女にとっても良かったはずだ。
 何故ならこれまではいくら病院に通い続けても、何が出来る訳でもなく結果が伴わないので無力感に苛まれていたと思われる。けれど今は違う。頼りにされ感謝されて遣り甲斐もあり、成果が目に見える働きだって出来ているのだから。
 人はやはり自分に何らかの役割があると思え、存在意義が認められることが大切なのだろうと改めて痛感した。逆の立場である尊だからこその想いである。
 その後は義母が現在行っている事柄を書き出し、生活のスケジュールを把握しながら志穂が代わりに行う際、どうすればよいかを打ち合わせていた。
 家事においては剛志と義母が農作業を終え戻った後、手伝って貰える場合は一緒に夕食を作り、朝食も昼の弁当も含めて義母と二人で用意し、朝早く出ていく彼らを見送ってから、志穂は義父の介護をしながら午前中の内にその他の家事を行うこととなった。
 午後からはヘルパーや訪問診察の医師や看護師、または福祉課の方達が順番に訪問してくれる為、その間の義父の世話は任せ、彼女は車で尊がいる病院へと向かい様子を伺ってから、夕方までには帰宅して義父の介護に戻るという計画を立てたのである。
 こうして志穂の実家での暮らしが始まった。正直、当初は戸惑いも多かっただろう。これまで過ごしていた時間とは流れが違う。そんな様子を心配しながら見守りつつ、尊は想像をしていた。
 もし自分が意識を取り戻した状態で、何らかの事情により会社を退職して彼女と一緒にここで生活を始めていたらどうなっていただろうか。
 これまでも寝泊まりをした経験は何度かある。だが実際に生活をするのとは勝手が違うだろう。それに東京で生まれ育ち、その後も大都市圏ばかりで過ごしてきた尊は、これほどの田舎で長く暮らした経験がない。
 田舎と一口でいっても色々あるけれど、志穂の実家はまさしく日本の原風景が残る典型的な農村だ。徒歩圏内には山林や川、田畑と数件の民家しかない。
 車を走らせないとコンビニはおろか、食材を売る店にさえ辿り着かない場所にある。よってこんな不便な場所でやっていけるのかと不安に感じたかもしれない。
 過ごすという意味では少し意味合いが違うけれど、こうして浮遊する状況に陥って取り巻く環境が変わったのは同じだ。けれど時が経過する内、尊は慣れるだけでなく居心地の良さを感じていた。
 というのもまず周囲からは車や人の声などの騒音がない。昼間から夜の間も基本的には静かで、聞こえてくるのは鳥や虫等の声ばかりだ。もちろん実体があった時と受ける感覚は異なるだろう。朝からけたたましく鳴かれれば、耳障りに思ったかもしれない。
 それでも人工的なものとは違う自然の中で生まれる響きに、人はそれほど不快感を持たないのではないかと思うようになった。
 けれど田舎独自の煩わしさといえるのは近所付き合いだ。しかしそれは志穂や義母が対応してくれる為、魂だけになった尊の負担は無い。その為比較する事自体、無理があった。それでもこうした生活だって悪くないと考え始めていた。
 もし意識を取り戻した場合でも、嫉妬や妬みが渦巻く環境から抜け出す為に会社を辞め、彼女と一緒にここに住んで新たな仕事を探すのも悪くない。そんな想いを馳せながら、生きて戻れると期待すること自体が虚しい考えだと気付き、少しばかり落ち込んだ。
 志穂が実家で住むようになってから、義父の容態は一時期よりも安定したようだ。義母や剛志の負担が軽減し、気にかけていた農作業も順調に回り始めたと分かり安堵し、精神的にも落ち着いたからかもしれない。
 また午前中は娘の志穂に、夕方から夜は義母や剛志が主な話し相手になっていた為、寂しい思いをせず過ごせた点も大きいだろう。やはり残された時間を家族で過ごせている状況に、彼の心が満たされていたからかもしれない。病は気からというが、まさしくその効果が出たと言える。 
 それでも癌は着実に義父の体を蝕んでいった。志穂が実家に来て三カ月が過ぎた頃、黄疸がはっきりと分かる程現れ、体に痛みを感じる頻度も徐々に多くなった。食欲も減退し、先延ばしできていた点滴等による栄養補給の検討を、再び考えざるを得なくなっていた。
 人工的な栄養補給には色々な方法がある。胃などの消化機能が十分にあれば、介護する側の負担軽減を考え、胃に穴を開け直接栄養を摂取させる胃ろう、十分でなければ介護側に負担はかかるけれど、心臓に近い太い血管の中心静脈から投与するパターンなどだ。
 胃ろうは経静脈栄養よりも管理しやすい為に介護者の負担は比較的軽く、誤嚥などの危険性がなくなり、消化器官の働きを維持できるというメリットがある。その一方で穴を開ける際、外科手術が必要なのがデメリットだ。
 対して経静脈栄養と呼ばれる中でも中心静脈の血管に栄養を投与する方法は、カテーテルという細いチューブを鎖骨下静脈から体内に挿入し、高カロリー輸液剤を送り込むことで口から食事を摂らなくても栄養補給ができた。
 腸などの消化管機能が低下、もしくは機能していない場合でも栄養を摂取することができ、手術しなくていい。また何度も針を刺す必要がなく、外出や入浴にあたって制限を無くすことも出来る為、患者への負担の軽減が可能だった。
 だがカテーテルの挿入部分から細菌が侵入し、感染を起こす危険性や合併症なども起きやすく、在宅では介護者の負担が大きくなる点がデメリットといえる。口からの食事を摂らない為、細菌が増えないよう定期的な口腔ケアも必要だ。そうしないと細菌の多い唾液を誤嚥して肺炎を起こす危険性があった。また輸液バッグの交換という手間も増える。
 ちなみに寝たきりの尊は、カテーテルを中心静脈の血管に通し、栄養を投与する方法を取っていた。けれど二十四時間管理体制の為、床ずれをしないよう動かしたり体を拭いたりする等の様々なケアは、看護師達が手分けして行っている。
 単なる要介護状態の人と違い、刺された怪我により意識を失った怪我人なので素人が安易に手を出すのは危険だからだろう。よって志穂など親族の負担は全くない。
 義父の意向を踏まえ医師と相談をして決めたのは、尊と同じ中心静脈による投与だった。消化機能はまだ働いていたがいずれは低下する。また胃ろうは手術しなければならない。それならしなくても済む方法が良いだろうと判断したようだ。
 介護側の負担の増加に義父は難色を示していたけれど、手術やその後の手間などを考え、止む無く承諾していた。
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