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第一章~剛
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だがそんなことを考えるのはもう少し先だと思っていた所に、支店長の北川が思いがけないことを言い出したのだ。
「ところでこの七月一日には該当しなかったが、次の十月一日の異動にはそろそろ君も覚悟しておいた方が良い。確か名古屋に来て五年目じゃなかったかな」
急な問いかけに一瞬答えに窮したが、何とか返事をした。
「はい。今年の四月で丸四年が経ちましたから、十月一日の異動だと四年半になります」
剛は入社後三カ月の研修を経てから、埼玉に配属されて四年九か月を経て福岡へと異動し、そこで丸五年勤めてこの名古屋に来た。これまでほぼ五年の周期で人事異動を経験してきたため、今度は来年の四月だろうと勝手に考えていたが、どうも今回は違うらしい。
基本的に剛の会社における人事異動は、四月一日か七月一日、または十月一日に行われる。かつては年度初めの四月異動がほとんどで、次に多いのが十月異動だった。
しかし年度当初の四月一日付だと、特に営業部門などでは年度末の追い込みの仕事に支障が出るとの意見が出され、近年では四月に代わって七月一日に大きく異動する傾向に変わっている。
ただ剛の所属する、事故があった場合に対応する損害課やその他の内勤部門では、四月異動が相変わらず多かった。その為勝手に次は来年だろうと決めつけており、最近は病欠や退職などによって起こる補完的な理由が多い十月異動のことなど、全く頭になかった。
そんな時に覚悟しておいた方が良いと言われてもすぐには信じられず、支店長の目をぽかんとした顔で見つめてしまったほどだ。北川は剛の表情をみて笑いながら言った。
「どうした。この十月で四年半だから、そろそろ異動が合ってもおかしくないだろう」
「は、はい。そうですね」
そう答えながら頭の中では首を捻っていた。今は七月だ。通常なら十月の異動は九月の上旬に、全国の総合職達の異動が一斉に発表される。それを社内オンラインでの掲示板で、皆が確認することになっていた。
人事発表後、個別に課長や支店長などの上位職に呼ばれて話をすることはある。だが海外勤務のような特殊な場合を除き、事前に内定通告を受けることはまず無いはずだ。
それなのになぜ今回この時期に、支店長から直接そんな話をされるのか不可解だった。そう思っていたことが相手にも伝わったのだろう。答えを教えてくれた。
「本来ならこんな早い時期に異動があることを伝えることは無い。ただ私は支店長という立場だから、人事部を通じて誰が対象になっているかなどの情報は入ってくるし、様々な事前の打診もある。だからと言って、今の時点で君がどこの部署に行くかは私も把握していない。それこそ九月上旬の発表を待たないと、人事部以外の人間には知らされないことになっている」
「そうですか。では転勤先は未定だけれど、私が十月に異動することは確定、と考えてよろしいのでしょうか」
「そう思ってくれ。それでも普通人事発表まで口外することは無い。君も他の人には黙って置くように。ただ今回例外として先に伝えたのは、君達の新婚旅行の事があるからだよ」
「新婚旅行、ですか?」
意味が理解できずにいると、これまで横に座って黙っていた坂東が説明してくれた。
「真守は二課の早乙女さんと先月結婚式を挙げただろ。でも新婚旅行を六月の繁忙期に行くのは忍びないと言って、先延ばしにしたよな。君の異動が早くても来年の四月だと踏んでの事だったのだろう」
ちなみに彼女はまだ会社で旧姓を名乗っている。手続き上そうすることも社内規定で許されているため、真守へと変更するのは面倒だから、と彼女はそのままにしていた。
「はい、その通りです。十月か十一月の秋頃に旅行休暇を取ろうかと、二人で話し合っていました」
「そうだろうな。だが十月異動となると、新婚旅行の為に取る長期休暇も新しい部署で取得することになる。しかしそうなれば異動先の状況にもよるだろうが、君達が希望通りに休暇を取ることは難しくなりはしないか。いきなり配属されたばかりの十月や十一月に長期で休むというのはさすがに気が引け、難しくなるだろう」
「そ、それはそうかもしれませんね」
「だからだ。君達のそういう予定を支店長が耳にされ、君達が思った通りの場所や時期に旅行へ行けなくなると気の毒だ、先に伝えた方が良いとおっしゃった。だから急なことだが正式に異動が出るより先にこの名古屋で長期休暇を取り、新婚旅行へ行ったらどうだ」
そういうことか、とようやく納得することができた。
「正式な発表より前に異動の話をしたのはあくまで例外だ。君達の事を思ってのことだからな。長期休暇を取るか取らないかは君達の自由だ。だが今の部署でいる間に休みを取る方が良いと思うよ」
確かにそうだ。式を上げてすぐに新婚旅行に行く話もあった。グレースがこよなく愛していたという、モナコのバラ園の花が奇麗に咲いている時期にぎりぎり間に合うからだ。
それにバラ園の見頃は五月上旬から六月にかけてなのだが、五月下旬には世界中のセレブ達が集合し、最も盛り上がるF1のモナコグランプリが開催される。その為その少し前の時期からモナコ中のホテルはほとんど抑えられ、普通の人は宿泊できない。例え泊まれたとしてもとんでもない高額な料金を支払わなければならないと聞いた。
だがモナコグランプリが終われば急に人はいなくなり、宿泊代も少しは安くなるそうだ。そのため結婚式後の日程なら時期的にもちょうど良かった。しかし彼女は営業での仕事が忙しく、上四半期の締めの六月に長く休むことは気が引ける、と言い出したのだ。
そこでモナコ行き自体をなるべく避けたかった剛に異論はなかったため、旅行時期をずらすことに賛成した。その先延ばしされた期間を有効活用し、なんとか行き先を変更させようと努力するつもりだったが、その思惑は今のところ上手くいかず、かなり厳しい状況だ。それなのに思わぬところでタイムリミットが予定より早く設定されてしまった。
それは困る。と言ってもそれを支店長達に言ったところで始まらない。彼らには全く関係ないことだ。それに親切心から早めに知らせてくれただけでも、感謝しなければならない。そのため頭を下げて礼を言うしかなかった。
「ありがとうございます。今日帰りましたら、早速二人で相談してこの土日の間に休む時期を決めたいと思います」
「そうしてくれ。だが後もう一つ、異動後の早乙女さんが今後どうするつもりかも、二人で早急に話し合ってもらいたい」
そうだ、その問題があった。新婚旅行も大事だが、彼女の今後のキャリア形成について、また二人の生活の在り方もその選択によって大きく影響する。そちらの方がもっと重要だ。
「彼女の人事評価なら当社の制度を使い、異動先で事務職として働くことは難しくないだろう。しかし今現在では異動先がどこになるかは不明だ。状況によってはすぐに働けなかったり、希望通りの部署に空きがなかったりする場合もある。それは君も判っているよな」
「もちろん制度については理解しています。将来そういう選択をしなければいけないことは、すでに話しあっていますから」
「そうか。じゃあ、早乙女さんは異動先でも働くつもりなのか、異動を機に辞めて専業主婦になるのかは、決まっているのかな」
「それは状況によって決める、という話をしています。支店長がおっしゃったように、働きたくても働けない場合もありますから」
「ということは、会社を辞めて専業主婦になるとは決めていない、ということか。一応異動先で早乙女さんが働ける環境があるかどうかを見極めてから、状況に応じて対応するつもりだということでいいのかね。それならその事も含め人事に報告し、君の異動先の決定と同時に、早乙女さんが働くとすれば受け入れ状況がどうなっているか確認してもらうよう、こちらから伝えなければいけないからな」
「それでお願いします。もちろんどうするかは今後二人で改めて話し合いますが、どちらでも選択できるようにしていただけるのであれば、助かります」
「判った。その方向で話を進めよう。そうしておけば、もしかすると人事から本来の異動発表の日よりも前に、配属先や彼女が働ける先があるかなども教えてくれる可能性がある。どういうところが選択できるか、なども早めに判れば判断がし易いだろう」
「よろしくお願いします」
剛が頭を下げると、課長も同じく礼を言ってくれた。すると話は終わったとばかりに、北川は興味深そうに尋ねてきた。
「ところで新婚旅行はどこへ行く予定だ?」
「い、いえ、まだ行き先はしっかりと決めた訳では、」
「あれ? モナコじゃなかったのか? 早乙女さんがとても行きたがっている場所だと誰かから聞いたぞ」
言い淀んでいたところを、すかさず坂東が口を挟んだ。おそらく明日香のいる二課の女性事務員経由で、損害課の誰かの耳に入ったのだろう。それが課長に伝わったらしい。
「は、はい。まあ、そうですけどね」
「なんだ、決まっていないのか。それは大変だな。これから行き先を決めて、予約もしなければいけないだろ。できれば八月の夏季休暇に行ければいいと思っていたが、早く決めないと取れなくなるぞ」
彼は勝手に話を進めている。その言葉を聞いて心の中で腹を立てていた。早く教えてくれたのはいい。だが新婚旅行の為の長期休暇を何故、夏季休暇と一緒の時期に取らなければならないのか。
ただでさえシーズン料金が高い時期だというのに御免こうむりたい。しかも福利厚生がしっかりしているこの会社では、新婚旅行による特別休暇は、例年取得する夏季休暇や他の有給休暇とは別枠で取ることができた。
新しい配属先だとせっかく別に取れる休暇を取得しにくいだろうと、気を利かせたのでは無かったのか。それともそれは口実で、本音は夏季休暇を取得する時期に旅行へ行かざるを得ないようにしたかったのか、と穿った見方をしてしまう。
正直、剛はこの北川という支店長が好きではない。というより嫌いだ。だが坂東のことは信頼しているし、尊敬できる人だと思っている。彼もまた剛のことをとても評価してくれていた。
しかし同じ損害課にいるもう一人の課長、物損課の尾上のことは北川と同じく苦手だった。尾上は坂東のように剛のことを評価していない。また下には強く当たるが上に弱い彼は、北川とは上手くやっている。普段からのゴマスリが効いているのだろう。そういうところが癇に障るのだ。
といって同じ課長でも損害課全体の課長は尾上であり、坂東より格上の扱いであるから、そう邪険にすることもできずにいた。
「いえ、夏季休暇はお互いの家の関係もあり、既に別の予定が入っていますし、承認もいただいていますから」
明日香の実家である早乙女家を匂わすことで北川を牽制すると、思った通り彼はにやけた顔を引き締めた。加えて剛の顔にそれまで抑えていた感情が出てしまったのだろう。
「そ、そうか。それなら夏休みは予定通りに取ればいい。そう睨むな。こっちは良かれと思って言っただけだ。あと、その目付きを何とかしろ。上司に向けるものじゃないぞ」
彼は怯むと同時に開き直った態度を取り、不機嫌になった。判り易い人だ。早乙女家は名古屋にある古くからの名家というだけではない。早乙女家に関係する企業は沢山あり、明日香が当社に勤めだした頃からそれらの関連会社の保険契約は、ほぼ全てこの名古屋支店で扱うようになったという。
よって支店長である北川にとっては大のお得意様なのだ。ずっと損害課を歩んできた剛にはいまひとつピンと来ないが、営業も束ねる彼の立場では早乙女家を怒らす訳にはいかないらしい。
そうはいっても明日香はコネで入社をした訳ではないそうだ。名古屋大学を優秀な成績で卒業し、本来総合職で入社してもおかしくないのだが、事務職としてこの会社の面接を受け内定を得たという。
他にも就職活動で多くの会社を受けたようだが、今と異なり八年前はリーマンショック後ということもあって、かなり就職が厳しい時代だったはずだ。それでも彼女は複数の会社から内定を貰い、当社を選んだというのだから、コネではないというのも本当だろう。
実際、部署が異なるために彼女の仕事ぶりを見たことは無いが、隣の部署には剛の同期がいた。営業一課課長代理の手塚だ。その彼が言うには、お世辞抜きでとても仕事が出来る事務社員で、上にも下にも信頼が厚いと彼女をとても高く評価している。
実はその手塚の声かけによって行われた営業と損害課との交流会がきっかけで、剛は彼女と親しくなり付き合いだした。その時から頭の回転が速く、気が利く女性だとは思っていた。それに一番意外で魅力的に感じたのは、お嬢様なのに気取ったところが全くなく、気が強いことを除けばとても常識的な女性だった点だ。
背も高く容姿端麗な彼女は、周囲から支店のマドンナとも呼ばれている。しかし周りから特別扱いされることをとても嫌っていた。特に北川や営業二課長の矢口による露骨な対応には辟易する、と何度も愚痴を聞かされたことがある。
北川達は彼女への対応にはそれなりに気を使っていたようだ。そのため結婚が決まった際には、それまで上司であろうと歯に衣着せぬ態度を取る剛を邪険に扱っていたはずが、急に態度を変えてきた。
「ああいうところが駄目だよね。もし私が結婚を機に会社を辞めたり名古屋支店から離れたりしたら、今ある早乙女の家に関係する契約はほとんどなくなると思うよ。というか、少なくとももう少し他社と競合させた方が良いって私の方から進言するつもりでいるから。今は立場上、言わないけどね」
彼女はいつか笑いながら言っていたが、恐らく本気だろうと思う。そういうところだぞ、明日香を怒らせるのは、と心の中で呟きながらしばらく雑談をした後、剛と坂東は席を立って支店長室を後にした。
それにしても参った。旅行日程が予定より早まることは確定だ。予約もしなければならない。その前にいつ休むかも具体的に決めなくてはいけないが、この短期間で行き先をモナコから変更させるのは至難の業だ。
どうしたものかと、剛はその日家に帰るまでずっと頭を抱えることとなった。
「ところでこの七月一日には該当しなかったが、次の十月一日の異動にはそろそろ君も覚悟しておいた方が良い。確か名古屋に来て五年目じゃなかったかな」
急な問いかけに一瞬答えに窮したが、何とか返事をした。
「はい。今年の四月で丸四年が経ちましたから、十月一日の異動だと四年半になります」
剛は入社後三カ月の研修を経てから、埼玉に配属されて四年九か月を経て福岡へと異動し、そこで丸五年勤めてこの名古屋に来た。これまでほぼ五年の周期で人事異動を経験してきたため、今度は来年の四月だろうと勝手に考えていたが、どうも今回は違うらしい。
基本的に剛の会社における人事異動は、四月一日か七月一日、または十月一日に行われる。かつては年度初めの四月異動がほとんどで、次に多いのが十月異動だった。
しかし年度当初の四月一日付だと、特に営業部門などでは年度末の追い込みの仕事に支障が出るとの意見が出され、近年では四月に代わって七月一日に大きく異動する傾向に変わっている。
ただ剛の所属する、事故があった場合に対応する損害課やその他の内勤部門では、四月異動が相変わらず多かった。その為勝手に次は来年だろうと決めつけており、最近は病欠や退職などによって起こる補完的な理由が多い十月異動のことなど、全く頭になかった。
そんな時に覚悟しておいた方が良いと言われてもすぐには信じられず、支店長の目をぽかんとした顔で見つめてしまったほどだ。北川は剛の表情をみて笑いながら言った。
「どうした。この十月で四年半だから、そろそろ異動が合ってもおかしくないだろう」
「は、はい。そうですね」
そう答えながら頭の中では首を捻っていた。今は七月だ。通常なら十月の異動は九月の上旬に、全国の総合職達の異動が一斉に発表される。それを社内オンラインでの掲示板で、皆が確認することになっていた。
人事発表後、個別に課長や支店長などの上位職に呼ばれて話をすることはある。だが海外勤務のような特殊な場合を除き、事前に内定通告を受けることはまず無いはずだ。
それなのになぜ今回この時期に、支店長から直接そんな話をされるのか不可解だった。そう思っていたことが相手にも伝わったのだろう。答えを教えてくれた。
「本来ならこんな早い時期に異動があることを伝えることは無い。ただ私は支店長という立場だから、人事部を通じて誰が対象になっているかなどの情報は入ってくるし、様々な事前の打診もある。だからと言って、今の時点で君がどこの部署に行くかは私も把握していない。それこそ九月上旬の発表を待たないと、人事部以外の人間には知らされないことになっている」
「そうですか。では転勤先は未定だけれど、私が十月に異動することは確定、と考えてよろしいのでしょうか」
「そう思ってくれ。それでも普通人事発表まで口外することは無い。君も他の人には黙って置くように。ただ今回例外として先に伝えたのは、君達の新婚旅行の事があるからだよ」
「新婚旅行、ですか?」
意味が理解できずにいると、これまで横に座って黙っていた坂東が説明してくれた。
「真守は二課の早乙女さんと先月結婚式を挙げただろ。でも新婚旅行を六月の繁忙期に行くのは忍びないと言って、先延ばしにしたよな。君の異動が早くても来年の四月だと踏んでの事だったのだろう」
ちなみに彼女はまだ会社で旧姓を名乗っている。手続き上そうすることも社内規定で許されているため、真守へと変更するのは面倒だから、と彼女はそのままにしていた。
「はい、その通りです。十月か十一月の秋頃に旅行休暇を取ろうかと、二人で話し合っていました」
「そうだろうな。だが十月異動となると、新婚旅行の為に取る長期休暇も新しい部署で取得することになる。しかしそうなれば異動先の状況にもよるだろうが、君達が希望通りに休暇を取ることは難しくなりはしないか。いきなり配属されたばかりの十月や十一月に長期で休むというのはさすがに気が引け、難しくなるだろう」
「そ、それはそうかもしれませんね」
「だからだ。君達のそういう予定を支店長が耳にされ、君達が思った通りの場所や時期に旅行へ行けなくなると気の毒だ、先に伝えた方が良いとおっしゃった。だから急なことだが正式に異動が出るより先にこの名古屋で長期休暇を取り、新婚旅行へ行ったらどうだ」
そういうことか、とようやく納得することができた。
「正式な発表より前に異動の話をしたのはあくまで例外だ。君達の事を思ってのことだからな。長期休暇を取るか取らないかは君達の自由だ。だが今の部署でいる間に休みを取る方が良いと思うよ」
確かにそうだ。式を上げてすぐに新婚旅行に行く話もあった。グレースがこよなく愛していたという、モナコのバラ園の花が奇麗に咲いている時期にぎりぎり間に合うからだ。
それにバラ園の見頃は五月上旬から六月にかけてなのだが、五月下旬には世界中のセレブ達が集合し、最も盛り上がるF1のモナコグランプリが開催される。その為その少し前の時期からモナコ中のホテルはほとんど抑えられ、普通の人は宿泊できない。例え泊まれたとしてもとんでもない高額な料金を支払わなければならないと聞いた。
だがモナコグランプリが終われば急に人はいなくなり、宿泊代も少しは安くなるそうだ。そのため結婚式後の日程なら時期的にもちょうど良かった。しかし彼女は営業での仕事が忙しく、上四半期の締めの六月に長く休むことは気が引ける、と言い出したのだ。
そこでモナコ行き自体をなるべく避けたかった剛に異論はなかったため、旅行時期をずらすことに賛成した。その先延ばしされた期間を有効活用し、なんとか行き先を変更させようと努力するつもりだったが、その思惑は今のところ上手くいかず、かなり厳しい状況だ。それなのに思わぬところでタイムリミットが予定より早く設定されてしまった。
それは困る。と言ってもそれを支店長達に言ったところで始まらない。彼らには全く関係ないことだ。それに親切心から早めに知らせてくれただけでも、感謝しなければならない。そのため頭を下げて礼を言うしかなかった。
「ありがとうございます。今日帰りましたら、早速二人で相談してこの土日の間に休む時期を決めたいと思います」
「そうしてくれ。だが後もう一つ、異動後の早乙女さんが今後どうするつもりかも、二人で早急に話し合ってもらいたい」
そうだ、その問題があった。新婚旅行も大事だが、彼女の今後のキャリア形成について、また二人の生活の在り方もその選択によって大きく影響する。そちらの方がもっと重要だ。
「彼女の人事評価なら当社の制度を使い、異動先で事務職として働くことは難しくないだろう。しかし今現在では異動先がどこになるかは不明だ。状況によってはすぐに働けなかったり、希望通りの部署に空きがなかったりする場合もある。それは君も判っているよな」
「もちろん制度については理解しています。将来そういう選択をしなければいけないことは、すでに話しあっていますから」
「そうか。じゃあ、早乙女さんは異動先でも働くつもりなのか、異動を機に辞めて専業主婦になるのかは、決まっているのかな」
「それは状況によって決める、という話をしています。支店長がおっしゃったように、働きたくても働けない場合もありますから」
「ということは、会社を辞めて専業主婦になるとは決めていない、ということか。一応異動先で早乙女さんが働ける環境があるかどうかを見極めてから、状況に応じて対応するつもりだということでいいのかね。それならその事も含め人事に報告し、君の異動先の決定と同時に、早乙女さんが働くとすれば受け入れ状況がどうなっているか確認してもらうよう、こちらから伝えなければいけないからな」
「それでお願いします。もちろんどうするかは今後二人で改めて話し合いますが、どちらでも選択できるようにしていただけるのであれば、助かります」
「判った。その方向で話を進めよう。そうしておけば、もしかすると人事から本来の異動発表の日よりも前に、配属先や彼女が働ける先があるかなども教えてくれる可能性がある。どういうところが選択できるか、なども早めに判れば判断がし易いだろう」
「よろしくお願いします」
剛が頭を下げると、課長も同じく礼を言ってくれた。すると話は終わったとばかりに、北川は興味深そうに尋ねてきた。
「ところで新婚旅行はどこへ行く予定だ?」
「い、いえ、まだ行き先はしっかりと決めた訳では、」
「あれ? モナコじゃなかったのか? 早乙女さんがとても行きたがっている場所だと誰かから聞いたぞ」
言い淀んでいたところを、すかさず坂東が口を挟んだ。おそらく明日香のいる二課の女性事務員経由で、損害課の誰かの耳に入ったのだろう。それが課長に伝わったらしい。
「は、はい。まあ、そうですけどね」
「なんだ、決まっていないのか。それは大変だな。これから行き先を決めて、予約もしなければいけないだろ。できれば八月の夏季休暇に行ければいいと思っていたが、早く決めないと取れなくなるぞ」
彼は勝手に話を進めている。その言葉を聞いて心の中で腹を立てていた。早く教えてくれたのはいい。だが新婚旅行の為の長期休暇を何故、夏季休暇と一緒の時期に取らなければならないのか。
ただでさえシーズン料金が高い時期だというのに御免こうむりたい。しかも福利厚生がしっかりしているこの会社では、新婚旅行による特別休暇は、例年取得する夏季休暇や他の有給休暇とは別枠で取ることができた。
新しい配属先だとせっかく別に取れる休暇を取得しにくいだろうと、気を利かせたのでは無かったのか。それともそれは口実で、本音は夏季休暇を取得する時期に旅行へ行かざるを得ないようにしたかったのか、と穿った見方をしてしまう。
正直、剛はこの北川という支店長が好きではない。というより嫌いだ。だが坂東のことは信頼しているし、尊敬できる人だと思っている。彼もまた剛のことをとても評価してくれていた。
しかし同じ損害課にいるもう一人の課長、物損課の尾上のことは北川と同じく苦手だった。尾上は坂東のように剛のことを評価していない。また下には強く当たるが上に弱い彼は、北川とは上手くやっている。普段からのゴマスリが効いているのだろう。そういうところが癇に障るのだ。
といって同じ課長でも損害課全体の課長は尾上であり、坂東より格上の扱いであるから、そう邪険にすることもできずにいた。
「いえ、夏季休暇はお互いの家の関係もあり、既に別の予定が入っていますし、承認もいただいていますから」
明日香の実家である早乙女家を匂わすことで北川を牽制すると、思った通り彼はにやけた顔を引き締めた。加えて剛の顔にそれまで抑えていた感情が出てしまったのだろう。
「そ、そうか。それなら夏休みは予定通りに取ればいい。そう睨むな。こっちは良かれと思って言っただけだ。あと、その目付きを何とかしろ。上司に向けるものじゃないぞ」
彼は怯むと同時に開き直った態度を取り、不機嫌になった。判り易い人だ。早乙女家は名古屋にある古くからの名家というだけではない。早乙女家に関係する企業は沢山あり、明日香が当社に勤めだした頃からそれらの関連会社の保険契約は、ほぼ全てこの名古屋支店で扱うようになったという。
よって支店長である北川にとっては大のお得意様なのだ。ずっと損害課を歩んできた剛にはいまひとつピンと来ないが、営業も束ねる彼の立場では早乙女家を怒らす訳にはいかないらしい。
そうはいっても明日香はコネで入社をした訳ではないそうだ。名古屋大学を優秀な成績で卒業し、本来総合職で入社してもおかしくないのだが、事務職としてこの会社の面接を受け内定を得たという。
他にも就職活動で多くの会社を受けたようだが、今と異なり八年前はリーマンショック後ということもあって、かなり就職が厳しい時代だったはずだ。それでも彼女は複数の会社から内定を貰い、当社を選んだというのだから、コネではないというのも本当だろう。
実際、部署が異なるために彼女の仕事ぶりを見たことは無いが、隣の部署には剛の同期がいた。営業一課課長代理の手塚だ。その彼が言うには、お世辞抜きでとても仕事が出来る事務社員で、上にも下にも信頼が厚いと彼女をとても高く評価している。
実はその手塚の声かけによって行われた営業と損害課との交流会がきっかけで、剛は彼女と親しくなり付き合いだした。その時から頭の回転が速く、気が利く女性だとは思っていた。それに一番意外で魅力的に感じたのは、お嬢様なのに気取ったところが全くなく、気が強いことを除けばとても常識的な女性だった点だ。
背も高く容姿端麗な彼女は、周囲から支店のマドンナとも呼ばれている。しかし周りから特別扱いされることをとても嫌っていた。特に北川や営業二課長の矢口による露骨な対応には辟易する、と何度も愚痴を聞かされたことがある。
北川達は彼女への対応にはそれなりに気を使っていたようだ。そのため結婚が決まった際には、それまで上司であろうと歯に衣着せぬ態度を取る剛を邪険に扱っていたはずが、急に態度を変えてきた。
「ああいうところが駄目だよね。もし私が結婚を機に会社を辞めたり名古屋支店から離れたりしたら、今ある早乙女の家に関係する契約はほとんどなくなると思うよ。というか、少なくとももう少し他社と競合させた方が良いって私の方から進言するつもりでいるから。今は立場上、言わないけどね」
彼女はいつか笑いながら言っていたが、恐らく本気だろうと思う。そういうところだぞ、明日香を怒らせるのは、と心の中で呟きながらしばらく雑談をした後、剛と坂東は席を立って支店長室を後にした。
それにしても参った。旅行日程が予定より早まることは確定だ。予約もしなければならない。その前にいつ休むかも具体的に決めなくてはいけないが、この短期間で行き先をモナコから変更させるのは至難の業だ。
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