私をモナコに連れてって

しまおか

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第三章~剛

追い詰められる

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 言われてみればその通りだ。部署が変わるなら、抱えている案件は別の担当者に引き継がなければならない。もちろん人事異動なので、剛の代わりにやってくる同じ課長代理クラスの総合職が引き継ぐことになるだろう。
 だが剛の立場で抱えている事故案件の場合、すぐに動くようなものはほとんどない。訴訟事案であったり、何度電話連絡や文書を送りつけても全く無反応な被害者だったり、示談の話がなかなか進まない厄介な案件ばかりだからだ。
 しかも後任の総合職も今いる部署での仕事が忙しいだろうから、すぐに異動先へ来て引き継ぎの期間を長く持つようなことはできない可能性が高い。その上長期未解決事案はいつ動きだすか予測不可能なことが多かった。
 そのため他の事故もそうだが、担当者不在でもどんな経緯になっているか、社内のデータにより大抵の職員がそれまでのやりとりの内容を閲覧でき、把握できるようにしている。 
 よって一旦今職場にいる職員に剛の持っている事案を振り分け、その後新担当者が配属されて落ち着いた頃に再分配をし直す方が現実的な対処方法ではあった。
 そう考えれば九月の第一週か次の週末に発表される人事異動の結果を踏まえ、長期休暇に入る前の段階で引き継ぎ事案の分配をして置いた方が、休み中の対応の事等も考えれば良い。
 別の部署に行ってしまう職員が、いつまでも事故案件を抱えていては被害者にもお客様に対しても良くない。だから彼女が言っていることはあながち間違いではなかった。
 案件をすべて引き継いで休みに入り、出社した後は残務整理に徹した方が、課内運営上スムーズであることも確かだ。その為彼女の提案には頷かざるを得なかった。
 しかし彼女はさらに驚くことを言い出した。
「そうだ。私もどうせ九月末で今の部署からいなくなる訳だし、残りの四日間は有給休暇を取ろう。休みに入る十五日までに引き継ぎを終わらせて、後はよろしくお願いします、と言った方が気楽だからね。そうすれば私は休み明けに家でいられるから、引っ越しの準備も少しずつやっていけるし。うん。そうしよう」
 今まで休みを取ることで周囲に迷惑がかからないよう気を使ってきた彼女が、急に極端な発言をしだしたのだ。その変わりように驚きながら少し心配になって聞いた。
「おい、おい、それでいいのか。月末に事務職がいないと二課も困らないのか」
 だが彼女は言う。
「だって次の異動先で働けるかどうかも分からないし、もし働けなかったら、そのまま会社を辞めることになるでしょ。だったらまだ使ってない有給休暇をとった方が得じゃない。それに新しい部署で働ける場合でも、消化していない有給休暇が取れるとは限らないでしょ。制度上は持ち越せるようにはなっているけど、実際に新しい部署へ移ったばかりだと、休みなんか取れない可能性の方が高いじゃない。最初の半年なんて、仕事に慣れるので精一杯だと思うな。そう思わない?」
「それはそうだけど。普通に長く働いている部署でも有給休暇を全て年度中に消化できるかというと、そうでもないからね」
「でしょ? だったらもう今の二課に必要以上義理立てすることもないし、それまでにしっかり引き継いで置けばいいの。後は会社が考えるでしょ。だってそういう異動を出したのは会社だから、そっちで何とかすればいいのよ。それに何? 今回剛が異動になるってことは、私も異動することと同じじゃない。それなのに私には何も知らされなかったのはおかしくない? せめて同時に呼ばれて今のような話をするべきだとは思わない?」
 彼女は自分の職場が変わることを、ついで扱いにされたことにも腹を立てていた。だが彼女の言う通りで、あの場に呼ばなかったこと自体がおかしかった。
 しかも早乙女グループの契約は当社に沢山あり、彼女はお得意様の娘だ。粗末な扱いはできないはずだが、一年前に来たあの支店長は、そのことがしっかりと理解できていないらしい。そしてあの北川の事は、剛同様彼女も表面には出さないが個人的に嫌っている。
 さらに予想外のこの時期に人事からの打診があったからかもしれないが、支店長が剛の異動に承認を出したこと自体、彼女は気にくわないようだ。
「私が剛の異動先で働くかどうかは別にしても、私が名古屋を離れるのを機に、早乙女グループの契約は見直しをさせた方が良いかも。異動の件を父に報告する時、そう話しておくわ。今までは私がここにいたから他社の相見積もりはとらなかったようだけど、十月以降は私に気を使わず、会社の得になる方法で契約をした方が良いからってね」
 そんな怖いことを言い出す始末だ。剛はおそらく次の部署も営業ではないだろうが、もし自分の担当している営業部署でこんなことが起こればと考えると、ぞっとした。
 確かに北川のことは好きでは無い。しかも坂東より年次が上で損害課全体の課長でもある尾上は北川との関係が良好らしく、剛の事をあまり評価していない嫌いがあるためか、相性も悪かった。
 直属の上司である課長の坂東が剛の事を高く評価してくれ、人望も厚くいい人だから余計にそう感じてしまうのかもしれない。だが今回の異動は明日香が最初に少し言った通り、二人の嫌がらせかと勘ぐったのも事実だ。
 それでも行け、と言われれば従うことが転勤族であるサラリーマンの使命である。そのことを覚悟して入社し、すでに三回の転勤を経てきた会社生活も十四年目を迎えた。
 さて四回目の異動先は一体どこになるのだろう。独身の時や一回目の結婚後もあまり苦にしたことはない。今度はどんな地域に住めるのかと楽しみにしていた。
 だが今回ばかりはそんな気楽さはない。それは明日香がいるからだ。日本の三大都市に数えられる名古屋はそれなりに都会だ。剛の実家は岐阜の中でも雪も積もる片田舎だし、大きな都市で無くても今の会社の支社が置かれている町であれば、どこでも都会だと考えていた。
 しかし彼女は違う。名古屋より田舎の地方都市で、しかも知り合いが全くいない土地で暮らす可能性の方が高い。名古屋は比較的夏は暑く、冬はそれなりに寒いが雪の少ない気候だから、大雪が降る寒い地域に異動が決まれば不安に感じることもあるだろう。
 雪掻きの作業はとても体力がいる。慣れていないと力のある男でも大変だ。さほど筋力があるとは言えない彼女が、いきなり豪雪地帯に行くとなれば大変な苦労を強いることになる。
 だが今からそんなことを考えた所でしょうがない。会社を辞めない限りは配属先が決まれば行くしかないし、そこで一緒に新たな結婚生活を始める他に道は無いのだ。
 そうなると問題は絞られて来る。そう、新婚旅行の事だ。もう彼女の中では日程が決まっている。そこに異議を唱える理由は無い。剛も彼女の言った通りの日程で行くことが一番いい気がしてきた。ただ難問は行き先がモナコである、ということだ。
 やはり何とか変更させることはできないだろうか、と考えた剛は思い切って切り出した。
「有給休暇を取る件は明日香の思う通りにすればいいよ。新婚旅行の日程もそれでいいと思う。ところで行き先の話だけど、やっぱりモナコじゃないと駄目かな。モナコ自体は安全かもしれないけど、やっぱりヨーロッパを経由するのは危なくないかな?」
 しかし彼女はさらに不機嫌な顔をして言い返してきた。
「まだそんな事言っているの? 大丈夫だって。じゃあ、ヨーロッパ経由じゃなきゃいい? 時間は少しかかるけど、別経由の便を探せば納得してくれる?」
「い、いや、そうじゃなくてさ」
 明確に反対する理由をいますぐ説明する勇気のない剛は、口を濁すことしかできなかった。すると異動の件で彼女への話が後にされたことを気に入らず、虫の居所が悪かったせいもあったのだろう。これまで旅行先の変更話にはさらりと受け流してきた彼女も業を煮やしたのか、口調を荒げた。
「私が新婚旅行先をどうしてモナコに決めたのか、という理由はこれまでずっと説明してきたよね。グレース・ケリーが大好きだということも言ってきたけど、そのことを知った上でどうして行き先を変えられないか、なんてことが言えるの?」
「い、いや、もちろん明日香の長年の夢だったことは聞いているし、叶えてあげたいとは思うよ。でも、」
「だったら叶えて。でもも、何もない! テロの可能性があるのは確かだけど、乗り換えで少しだけ空港に寄るだけだから危険は少ないし、どこだってテロは起こりえるから確率で言えば、日本国内だってクルーズ船だって同じよ。絶対安全な場所なんてないでしょ」
「そ、そうだけど」
「だけど、って何? 旅行日程に異論が無いのなら、早速明日からモナコ行きの往復チケットと、ホテルの予約を入れる準備をするから。もちろん、セットで安いのか空き状況もどうかも含めてどこのホテルにするか、どの便にするかは剛にも相談するけど、モナコ行きだけは絶対変更しないから」
 あまりに強く言われたため、ついカチンときてしまった。
「そんなにわあわあ、言わなくてもいいじゃないか。今後生活の事はなんでも二人で話し合おう、って決めただろう。テロが多発している時期だから、モナコ以外の行き先は考えられないのかって、俺は心配して言っただけじゃないか」
 しかし彼女は首を横に振って即答した。
「考えられない。それにプロポーズをされた時にも言ったよね。新婚旅行先を行きたい所に行かせてくれるかって。剛はいいって言ったじゃない」
「確かに言ったよ。でも状況が少し変わってきているから、どうなのかって話をしているだけだろ」
「プロポーズを受けた時にもテロは起こっていたし、その後からずっと行きたい先がモナコだという理由も散々伝えて、剛も納得してくれたじゃないの。あの反応は嘘だったの?」
「嘘じゃないさ。話を聞いた時は、明日香がどれだけモナコへの想い入れが強いかも知ったし、グレース・ケリーにどれだけ心酔しているかも判っている。だから夢を叶えてあげたいと思っているさ」
「だったら叶えてよ。そうじゃなきゃ剛が今まで約束してくれたこと全てが、信じられなくなっちゃう。私は酒癖の悪い人、ギャンブルする人、女癖の悪さ、お金のルーズな人は嫌いだと言ったよね。そしたら剛は、プロポーズの時にわざわざそういうことで後悔させることは絶対無い、と断言してくれたでしょ」
「ああ、言った。俺は仕事上の付き合いで嗜む程度だから、酒に飲まれることはない。ギャンブルだって学生時代までにはそれなりの事を一通りやったけど、嵌るほど好きになれなかった。女性に対しても、一度に複数の女性と付き合えるほど器用じゃない。第一そんな面倒くさいことをしたいなんて考えたことも無いよ。それ以前にモテたこともないし。お金だって細かくは無いけど、それなりに計画性を持って使ってきたから貯金だってある。無駄遣いはしないし、たいした物欲自体、俺にはないから」
「私もこれまでの付き合いで、剛の言うことは本当だと判っているし、信じているわよ。だったら何故新婚旅行の約束は守ってくれないの? それともテロだとか何とか言っているけど、行きたくない理由が他にあるの? あるなら教えて」
 ぎくりとしたが、なんとか恍けた。
「い、いや、そんなものは無いよ。それに守らないと言ったわけじゃないだろ。どうかな、って心配しているだけじゃないか」
「だったら心配しないで。もう行き先はモナコに決定! 今までとは違ってもう時間がないから計画を進めるわよ。それは私がするから、途中経過や決めかねる点があったら随時相談する。それでいいわね。もうこの話は終わり。早く食べちゃいましょう」
 お互いの目の前にはまだそうめんとラタトゥーユが半分ほど残っていた。冷やしてあったそうめんのつゆが、少し温かくなっている。そのことに気付いた彼女は黙って席を立ちあがり、冷蔵庫から氷を取り出して、剛と自分の分のつゆの中に一個ずつ入れてくれた。
 これ以上続けると大喧嘩になりそうなので、彼女の言う通りこの話題は一旦終わりにし、食事の続きをはじめる。話がこじれて離婚問題に発展してしまえば、本末転倒だ。決定的な衝突を避けるために行き先を変更させようとしていた目論見が、このままでは逆効果となってしまう。止む無くモナコ行きを了承せざるを得ないことを少し覚悟し始めていた。
 しかしそうとなれば、後は過去のトラウマと体質の問題だ。これをすぐに克服することは無理だろう。ならばどうするか。こうなったら過去の事を白状するしかないとも考えたが、それでも彼女はモナコへ行こうとするだろうか。いやするだろう。
 それとも最悪幻滅して離婚すると言い出すかもしれない。加奈と彼女は違うとは判っている。彼女はそんな女性では無いだろうと判断し、剛は思い切って結婚を申し込んだのだ。 
 しかしどうしても過去の苦い思い出から逃れられない。怖い。そうならないとは信じながらも、もしかして、と思うために躊躇するのだ。剛は再び苦しむことになった。
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