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第4章 -②
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年齢は五十前後位だろう。そこで栄太は、すみません、と頭を下げ、謝罪した。
目が合った彼は、少し驚いた表情をして首を振った。
「いや、あなたじゃなくこの子達です。全く、どこの学校だ。どんな教育を受けてんだよ」
後半部分は吐き捨てるように言った為、先程まで騒がしかった車内が静まり返った。
そうした男の態度に腹を立てたのだろう。CMTの一人が噛みついた。いい年になったとはいえ、元魔N侍だ。相手は間違いなく年下であり、その上辰馬達を含めた昔の仲間が集まっていたからか、かつての血が騒いだらしい。その証拠に、そいつの言葉は関西弁だった。
「そんな言い方、ないやろ。車内では、もう少し静かにしようって言えばええだけやないか」
「な、なんだ。あんたには関係ないでしょう」
反抗したのが逆効果だった。仲間の前で舐められたと思い、かえって火が点いたようだ。
「なんやと、わりゃ」
確かこいつ、誠の下の奴だな。高校卒業後、大阪で土木建築会社に就職したが、結婚を機に東京の同業他社へ転職したんだったか。元特攻隊所属は血の気が多いから困るんだよ。
そう心の中で呟きつつ溜息を吐き仲裁に入ろうとしたが、先に別の奴が加勢した。
「おい、兄ちゃん、おもてぇ出ろ」
あちゃぁ、こいつも元特攻隊所属だ。則夫、もう少し考えてメンバー編成しろよ、と栄太は再び心の中でぼやいたが、直ぐに訂正した。いや、あいつは魔N侍じゃないから、そういう裏事情を知らなくて当然だ。面倒事を全て丸投げした俺らがまずかった、と反省する。
「え、え、どうしてですか」
下から舐めつけられるように二人からガンを飛ばされ、男は慌てふためく。殴り合いなどの喧嘩や、絡まれた経験が余りないのだろう。しかも五十近くになった社会人が、さらに上のおじさん達に関西弁で因縁を付けられるなんて、思ってもいなかったに違いない。
「アホ。お前ら黙れ、ボケ」
栄太がぐずぐずしていた為、辰馬が先に小さく切れた。さすが元総長だ。たった三言に含まれた凄みは二人を振るえ上がらせ、彼らは直ぐに頭を下げて声を揃え、謝った。
「すみませんでした!」
「すみませんでした!」
同時に、注意していた男の顔が青くなる。当然だ。普通の人なら、間違いなく堅気じゃないと思っただろう。栄太は苦笑しつつ、間に入った。
「すみません。こいつら短気でして。ああ、私らは別に怪しい者じゃないです。お兄さんの言うことが正しい。電車内の私語は周りに迷惑だから、控え目にしないといけませんよね」
そう言いながら、胸元から身分証を出して見せた。それを目にした彼は驚いていた。近くにいた人までが、目を丸くする。
「こ、交番相談員って、け、警察関係の方ですか」
「元警官です。OBってやつですね。ああ、こいつらは違いますよ。でもヤクザでもない、ただのおっさんで私の友人達です。すみませんね、驚かしちゃって」
「あ、ああ、そうですか」
そう言っていると駅に着いた為、彼はどっと出て行く人波に紛れ、ホームへと降りて行った。ただその行方を目で追うと、隣の車両へ乗りこむ列に並んでいる姿が見えた。どうやらただ栄太達を避け、逃げただけらしい。
吐き出た群衆と同程度の人の塊が車内に押し寄せ、再び窮屈になった電車が動き出す。周囲の人の多くが入れ変わったおかげで、先程までの凍った空気はなくなった。その為、女生徒達の会話が再び始まる。ただ今度は皆、意識的に小声で話をしていた。
「そうそう。今度から注意しような。おっさん達も気を付けるから」
栄太が彼女らに向かってボソッと告げる。すると慎ましやかな笑いが起こった。
「そうや。栄太の言う通りやぞ。お前ら、アホやろ。ええ年して、何をいきっとんのや」
「タッチャン、すみませんでした。栄太さんもすみませんでした」
彼らが再度頭を下げ小声で謝る姿をみて、他の女生徒達もそれに倣った。
「すみませんでした」
「ごめんなさい」
辰馬達がどんな奴かを知り、怒らせた時の恐ろしい姿を見たのは、生徒達の中だと三月の謝恩会にいた未知留だけだ。栄太達にしてみればあれもほんの一部に過ぎず、また今日は相当声を抑えた憤りに過ぎない。それでも彼女達は、彼が発した強烈な気を感じ取ったようだ。
これ以降、未知留の元に集まった女生徒達が車内で煩く騒ぐことはなくなった。恐らくCMTは頼りになるが、かなり怖い集団だと知れ渡ったらしい。
あの後、未知留の元にはどんな人達かを詳しく教えて欲しい、と何人かが尋ねてきたという。そこで辰馬が長く昏睡状態に陥っていた事やそうなった経緯に加え、元暴走族総長とその仲間に加え、かつて苛めなどで助けられ恩義を感じている人達の集まりだと説明したようだ。
その影響か、以前より寄って来る人数が若干減った。怖いと思ったのか、大きなトラブルに巻き込まれることを恐れたのかもしれない。
しかしそうした件を話題にすると、辰馬は言った。
「それはしゃあない。集まるのも離れていくのも自由や。強制するもんとちゃうからな」
「そうだな。まあ、元々は未知留ちゃん一人で始めたことだ。同じ想いをしている子がいるなら、少しでも多く助けたいと思っただけだからな」
「そうや。俺らが痴漢より怖いと思われたんやろ。ええ勉強になったわ。せやから今後は気を付けなあかん。当然昔のようにはいかんし、ここは四十年前の羽立やなく東京なんや」
だがそれから数週間ほど経った、六月初旬に事件が起こった。辰馬と栄太を含め、CMTが八人いた時だ。
その日は早朝に人身事故が起こり、未知留達が使う路線が一時運休になっていた。幸い六時半過ぎには動き出していたが、乗車できなかった人達がホームに集まっていたからだろう。その影響で、どこもかしこもがごった返していた。
電車は次々とホームに到着し、多くの人を乗せ発車していく。ただ朝のラッシュ時に便が少なくなった分、当然一本の電車の乗客人数は増える。その為とてもではないか、いつもの七時十五分発には乗り込めなかった。到着した時点で、ドアについているガラス窓から、押しつぶされた大勢の人達の姿が見えたからである。
「しょうがないね。一本、遅らせよう。学校へ行く時間には、まだ余裕があるから」
そう決断し、本部で監視する則夫が、その旨をアプリの登録者達に一斉送信で知らせた。
「そうやな。しかし毎回思うが、この混雑は何とかならへんのか」
辰馬がそうぼやく。こうした事態は初めてではない。CMTの活動開始から約二カ月余りの間、少なくとも五回以上あったし、彼自身もその内の何回かを経験している。全国では一日二件以上のペースで起こっており、週一回は発生するという都内の路線もあるそうだ。
その多くが単なる事故ではなく、飛び込みによるものらしい。また春はそうした人身事故が特に増える時期だという。そう考えればまだこの路線は少ない方なのかもしれない。
「俺らが学生の頃でも、自殺者はそれなりにおったみたいやが、こんな頻繁に起っとるのを身近に感じさせられたらたまらんな。勘弁して欲しいもんや」
栄太は彼の呟きに対してどう返したらいいか分からず、黙ってしまった。以前から思っていたが、こうした状況が起こると正直心配になるからだ。
辰馬はただでさえ純粋で感受性が強い。それに目を覚ましてからは取り分け、自分がこの社会に対して何ができるか、役に立てることはないか、と考え続けている。
その上十年余りの間で多くのことを学び元気になった今では、命を賭してでも貢献したいとさえ口にし出していた。そうした思いが強すぎて、精神を病まないかと不安になるのだ。
人は慣れる。そうして反応する刺激を弱め、心や体の平安を保つ仕組みだ。心理学などでは“馴化”とも言うらしい。人身事故などでもそれが当てはまる。何度も繰り返し経験することで、最初は苛立ったり、嫌な想像をしたりしていたものが徐々に慣れ、またか、と余り考えないようになってしまう。そうでなければ身が持たないからだ。
しかし辰馬は違う。その度に考え悩み同じ問題にぶつかり、自分の力だけではどうにもならないと痛感し、無力さに苛まれるのだ。
何度も電車に乗る機会がなければ、そんな想いはしなくて済むだろう。だがそれだと彼の目的に反する。正義感が強く、私利私欲の無い行動力と実行力が彼の魅力であり人望であり、こうした活動に繋がっているのだ。
かといって何事も健康体であってこそ、である。それを損なえば本末転倒になってしまう。
そうした想いが頭の中を占め、本来の目的意識と集中力が削がれていたのだろう。次に来た電車が先程より空いているように見えた為に辰馬達は乗車したが、その後ろから物凄い力で車内へと押し込まれたのである。
同じように一本乗り過ごした人達に加え、新たな乗客が列に並んでいた事に気付かなかったのだ。それで対応が遅れてしまった。
というのも、いつもなら彼の後ろに続くはずのCMTと辰馬達は、切り離されたのだ。さらに隣のドアから入った栄太らも身動きできず、車内で彼らに近づくことはできなかった。
「あかん、合流出来へん」
「やばい、こっちもや」
「俺もや。ピクリとも動かれへんぞ」
イヤホンから聞こえる各自の言葉が関西弁だった様子からも、彼らの焦りが感じられた。それでも今日は背の高い辰馬がいるおかげで、未知留らがどこにいるかは目視できる。
「無理すんな。じっとその場で待機や。こっちは二人おる。心配せんでええ」
「辰馬の言う通りだ。中は二人で未知留ちゃんともう一人を見ていればいい。問題はこの後乗って来るだろう、他の生徒達だ。制服を見れば分かるよな。各自でCMTだと声をかけ、それぞれで見守れ。駅に着けば降りる人もいるから、多少動けるようになるはずだ。そのタイミングを上手く利用し、なるべくバラバラにならないよう移動してくれ」
「了解です、栄太さん」
出した指示に皆が応じてくれた。だがそう易々とはいかなかった。次の駅では降りる人より乗車する数がまだ多く、仲間同士が近づくことさえできない。それでも辰馬の顔を知るアプリの連絡を見て同じく便を遅らせた女生徒達が、彼を目印に乗り込んできた。
ドア近くに押し止められている栄太達が、
「CMTだ。俺の近くにいろ」
と彼女達に囁き、離れた場所で各自が護衛に入った。
しかし駅に着く度に繰り返される大きな人の動きに翻弄され、新たに集まって来た彼女達を見守る余裕さえ奪われていった。「おい、大丈夫か。何とか踏み止まれ」
栄太はそう声をかけたが、イヤホンからは息も絶え絶えの音ばかりが聞こえてくる。それも止むを得ない。同世代よりは元気で気合が入っているとはいえ、所詮還暦を越えたおっさんばかりだ。若い連中に力で敵う訳がなく、またそれ以前に多勢に無勢である。女生徒どころか、自分の身も守れず流れに逆らわないで立っているのが精一杯だった。
それでも目的の駅にあと二駅まで近づき、乗車人数より降車する人の数が増え始めたからか、体の自由が少しずつ利くようになり始めた、そんな時である。
“止めて下さい”、という小さな電子音が聞こえた。と同時に栄太が持つスマホが震える。これは則夫が開発したアプリの機能の一つだ。
守る側のCMTだけでなく、守られる側の女生徒が登録していると、痴漢に触られた際に怖くて声が出せなくても、スマホの操作で音声を出すことができた。と同時に、その信号が登録しているCMTにも伝わり知らせるのだ。
少しして、“止めて下さい”、と先程より大きい二度目の電子音が続けて聞こえた。
「痴漢や、どこや!」
辰馬が真っ先に大声を出した。ピークは過ぎたとはいえ、まだ周囲には人が多い。
最初は不意打ちだった為、大体の方向と場所しか分からなかったが、今度は位置を特定できた。
栄太は力を振り絞って人混みを押しのけ、なんとかその場所に近づこうとしながらマイクに向かって言った。
「いた! 辰馬と俺の間だ! 捕まえろ!」
しかし既に被害者のそばに居た、三十代位の男性が犯人らしき男の右手首を掴んでいた。さらにその反対側にいた同じ位の年の男も加勢し、逃げないよう左腕を抱きかかえている。
「こいつです!」
「大人しくしろ!」
と彼らは叫んでいた。どうやら抵抗されているようだ。
「ち、違う、俺じゃない!」
と男が否認していたところ、別の男性達が言った。
「おい、本当にその人なのか。間違っていたら冤罪だぞ」
「そうだ。確かにその人に触られたのか、お嬢ちゃん」
被害者の女生徒は俯いたままだ。しかしその体は小刻みに揺れていた。恐怖で震えているのだろう。
ほぼ辰馬と同時に彼女の近くへと進んだ栄太は、腕を掴まれた男と両脇に一人ずつ、そのそばに二人の男がいるのを確認する。他の乗客は関りたくないのか、あとずさって様子を眺めているか、目を逸らしていた。
念のため、ざっと見渡した後、マイクに向かって囁いた。
「則夫、見ているか。他に怪しい奴はいるか」
もし今捕まっている奴が冤罪なら、本当の犯人が近くにいるはずだ。
しかし栄太が見る限り、挙動不審な人物は見当たらない。だがスマートグラスを通した録画されている映像を客観的に観察できる則夫の目なら、気付くこともあるかもしれないと考え尋ねたのだ。
「うん、見ているけど、まだちょっとわからない。だけど今の二人、おかしくないかな」
「なるほど、お前も気づいたか」
「俺もそうやないかと思う」
栄太同様、辰馬も理解したようだ。
「えっ、どういう意味?」
遅れて近づいてきた未知留がそう言うと、他のCMTが口々に言いだした。
「ごめん、まだ近づけていないから、良く分からないな」
「俺も。何がおかしいんだよ」
彼らの声を遮り、栄太は胸元から取り出した身分証を出し、周囲に聞こえる声で言った。
「警察OBで交番相談員の者です。次の駅で、被害女性と被疑者と思われる男性、その腕を掴んでいる二人と、先ほど冤罪ではないかとおっしゃった二人も降りて下さい。ホームで話を伺います。他に目撃していた方がいらっしゃったら、一緒に降りて頂けると助かります」
周囲がざわめく中、四十代半ば位の男が叫んだ。
「いや、なんで俺達もなんだよ!」
冤罪だぞ、と言った人物だ。その横の、お嬢ちゃん、と口にした五十代位の男も頷いていた。
「今俺達、って言ったね。二人はお知り合いかな」
栄太の指摘に、言った本人は慌てて首を振った。もう一人の男は黙って顔をしかめている。
「い、いや、そうじゃない」
「赤の他人には俺達なんて言わんやろ。それにあんたら、痴漢されとるのを見とったんか」
今度は辰馬が野太い声を出し、上から覗き込むように凄んだ。その迫力に恐れをなしたのか、男は顔を青くしてまた首を振った。
「そうか。見てへんかったんやな。あんたはどうや」
もう一人の男もまた、その問いに黙って首を振る。
「そうか。見てもないのに、冤罪とか本当に触られたのか、なんて何で言うたんや。まるで犯人を庇っとるように聞こえたんやけどな。もしかしてお前ら三人とも、グルとちゃうんか」
これには捕まっていた男が騒ぎ出した。
「こ、こんな奴ら、知らないよ。あ、あんたらこそ仲間みたいじゃないか」
その頃には、ようやく他のCMTも近くまで到着し、一緒にいた女生徒達と一緒に彼らを取り囲んだ。彼はその異様な雰囲気を察し、そう言ったのだろう。
「ああ、そうや。それがどうした。警察OBの交番相談員とその仲間達や。ここにおる連れの娘とその友達らを、痴漢から守ろうと集まった有志じゃ。なんか文句あんのんか」
更なる辰馬の恫喝の後、未知留がフォローするように口を開き、被害女性にも声をかけた。「おじさん達、有難う。あなた一年生ね。怖かったでしょう。もう大丈夫だから」
どうやら制服につけている青いスカーフの色から、下級生だと分かったからだろう。
ちなみに未知留達二年生は赤、三年生は白だ。彼女の周辺には、未知留以外の生徒達も集まり、同じ一年生の顔見知りらしき子が寄り添っていた。
その為かようやく震えも止まり、下を向いていた顔をゆっくりと上げたその表情は、涙で頬が濡れていたものの、少し安堵しているかのように見える。
「おう、われら、もしかして、痴漢仲間とちゃうやろな」
「そうや、そうや。おかしいやろ」
他のCMTもようやく状況が飲みこめたらしく、そう口にした。徒党組んで連携し、痴漢行為をする卑劣な奴らがいるとは聞いていたが、まさしくこいつらがそうなのだろう。
この二カ月余りの間、実際電車に乗り警戒するだけでなく、痴漢がどう行われているか、どんな問題点があるかなど、栄太は改めて調べてみた。その内容は辰馬を含めCMT達にも知らせておいたことが、今回役に立ったようだ。
「あっ、そう言えばこの人達、こいつの近くにずっといましたよ」
「そうそう。この女の子を挟むように立っていたんじゃなかったかな」
男の両脇にいた二人がそう告げると、近くの席に座っていた女性客も声を上げた。
「私も見ました。いえ、痴漢している所は見えませんでしたけど、その三人がこそこそと話をした後、制服を着た女の子達に近づいていくのを見ました」
「そうですか。他に証言してくれる方は居ませんか。いましたら、申し訳ありませんが、我々と一緒に次の駅で降りて下さい。駅員に引き渡して警察を呼べば、色々事情を聞かれるかもしれません。時間も取られると思います。しかしここに怖い思いをした女の子がいるんです。それに他の生徒達もいます。今ここで見て見ぬふりをするのではなく、痴漢は犯罪だとしっかり大人が言ってあげる。それが我々の責任だと思いませんか。もちろん冤罪はいけません。だからそうではないという人が他にいらっしゃれば、その方々の話も一緒に伺いますから」
栄太がそう言っている間に電車は駅に到着した。そこで則夫からの指示が耳に入る。
「降りるのは栄太さんともう一人だけで、タッチャンとその他の人は引き続き電車に残ってくれないか。あと一駅だけど、他の生徒達を最後まで守って欲しい」
「分かった。おい、いくぞ。さあ、先程言った人達は降りましょうか」
栄太が近くにいた田端に声をかける。彼は魔N侍の元親衛隊所属、つまり栄太の下についており、柔道三段の強者だ。運動部推薦で地元の大学に入り、就職は東京だった。今は定年退職し、再就職でビル警備の仕事をしている。
さらに栄太は被害者とその付き添いの女生徒に目配せし、また捕まえてくれた若者らや犯人とその仲間らしき二人、さらに声を上げてくれた三十代位の女性に視線を送った。
他のCMTが取り囲むようにしたおかげで、それらの面々は無事ホームへと降り立つことができた。
しかしそこに未知留と友達一人が加わり、私達も一緒に行く、と言い出した。
「おいおい、学校はどうするんだ」
と慌てる則夫に、彼女は言った。
「あと一駅じゃない。それにこれは、私を痴漢から守るためにしてくれていたんでしょ。それをきっかけに集まってきた子が被害に遭ったんだから、知らない振りなんて出来ない」
「未知留ちゃんが降りるんやったら、俺もおらなあかん。あと一駅や。他の奴らは残っとれ」
辰馬までがそう言って降り、残された面子が慌てる間もなくドアは閉まり、電車が動き出した。
呆気にとられている彼らをガラス窓越しに見送った後、栄太はホームを見渡した。
複数の路線が乗り入れるこの駅は規模が大きい。未知留を最寄り駅で降ろし解散した後、辰馬はここまで引き返し乗り換え、大学まで通っている。人も多いからかホームも広かった。
少し離れた場所にいた駅員が目についたので、栄太は手を上げて大声で呼んだ。
「すいません! 痴漢の疑いがある人物を捕まえました! こちらに来て貰えませんか!」
周囲の客が一斉にこちらを向く。駅員も気づき、小走りで駆け寄って来た。捕まっていた男が一瞬逃げようとして身じろぎする。
だが両脇の二人がそれを阻んだ。その仲間と思われる二人の男は辰馬と田端に正面を向いた状態で肩を掴まれ、身動きできない状態でいる。
ホームに立つ総勢十三名の集団が、かなり目立っていたからだろう。駅員が三人も駆けつけて来た。 その内の一人が「痴漢ですか」と尋ねて来た。
「はい。私、交番相談員の担咲と申します。車内でこの女生徒が痴漢に遭ったそうで、近くにいた男性二人がこの人を取り押さえました。警察を呼んでください」
「わ、分かりました」
返事をした彼が無線機を使って連絡をし始めると、別の駅員が戸惑った口調で言った。
「あ、あの、他はどういった方々ですか」
女性が五名、男性が八名いる中で拘束されている男が三名という複雑な状況だったからだろう。その為、素早く手で示しながら説明した。
「この被害女性に付き添っている三人は、同じ学校の生徒です。こっちの二人は私の連れ、彼らに肩を掴まれている二人は、痴漢の疑いがあるこの男の仲間と思われます。それを証言してくれる為に電車を降りてくれたのが、こちらの女性です。彼らも取り調べて下さい」
「な、なるほど。わ、分かりました」
理解したようで、既に駅事務所へ連絡しただろう駅員は、追加で今の状況を伝えていた。
「ち、違うって。誤解だよ。俺らは関係ない!」
「そ、そうだ。急にこの爺さん達とその仲間に囲まれて、無理やり降ろされたんだよ。こいつらこそ捕まえてくれ!」
そう言ってまだ抵抗する彼らを、栄太が一喝した。
「無駄に騒ぐな! 交番相談員の俺を含め、これだけの人の証言があるんだ。それに車内でのやり取りした映像は、この眼鏡でしっかり撮影しているし、音声も録音済みだ。後で警察に確認して貰えば分かる。もう諦めろ!」
「さ、撮影ですか」
と驚く駅員と共に、犯人を含めた三人以外もぎょっとしていた。この場ではCMTの三人と未知留だけが知る事実だったからだろう。
「お、おい、車内で勝手に撮影なんてしていいのかよ!」
「そうだ! 盗撮じゃないか!」
喚く彼らの言葉を聞き、駅員も訝しげな表情を浮かべてこちらを見た。
「盗撮じゃない。後で全部見て貰えば分かる。それより、こいつらの携帯を確認してくれ。他人の振りを装っているが、仲間ならやり取りをしている証拠が絶対に残っているはずだ。メールかSNSか何かでな。もしかすると、やり取りが消えるアプリを使っているかもしれない。何故そんな事を言うか、しっかりとした根拠はある。ですよね」
席に座って証言してくれた女性にそう声をかけると、彼女は頷いた。
「はい。この三人は痴漢をする前から、こそこそ話し合っていました。それなのに一人が捕まったら、他人の振りをして冤罪じゃないかって助けようとしたんです」
「その辺りのやり取りの映像と音声が、ここに全て残っています。もちろん撮影を開始してからの全てを提出するので、違法なものだと判断されたら私を逮捕すればいい。こいつらと違って、やましい事は何もないから構いませんよ」
「そうです。今言った栄太さんや他の二人は、痴漢で困っている私達を助けようと毎朝、付き添ってくれているんです。私と父が、それを証言します」
未知留が声を上げると、被害者生徒に寄り添っていた彼女も賛同した。
「そうです。この路線を使う私達女生徒の多くは、このおじさん達に守られてきたんです」
「毎朝、ですか。一体、どういう、」
と再び困惑し始めた駅員に、栄太が言った。
「詳しくは後で説明します。駅員室か事務所まで行きましょう。警察は呼びましたよね」
「はい。事務室を通じて近くの交番に連絡しているはずなので、直ぐ駆け付けるでしょう」
「だったら、そちらに向かったほうが早い。どちらにしても、詳しい話は事務所か署まで移動して話す事になるでしょうから」
「すみません。交番相談員の方が言われたので間違いないと思い、すぐ警察に連絡しましたが、その前に私達からも確認していいですか」
「もちろんです」
栄太が頷くと、駅員の一人が被害者女性に話しかけた。
「痴漢に遭ったというのは本当かな」
「はい」と彼女がはっきりと返事をした為、彼は頷き視線を移して言った。
「では、痴漢をしたのはあなたで間違いありませんか」
しかし両脇を抱えられた男は、驚くことに首を振った。
「違います。これは冤罪です」
「おい、あんた! この子のお尻を触ったじゃないか! 近くで見ていたんだぞ!」
「俺も見た! しかもこの子が最初に、携帯のアプリか何かで、やめて下さいって電子音を鳴らした後なのに、それでも触ったよな! 一回目は見逃したけど、二回目は間違いなく見たぞ! 誰かがその後、大きな声で痴漢やって言ったから、手を引っ込めたじゃないか」
「痴漢やって言うたのは俺や」と辰馬が頷き、未知留がその後に続いた。
「痴漢に遭っても声を出せない時に使う、私の父が開発したアプリを私やこの子達は導入しています。それを押せば、止めて下さいと電子音が鳴り、ここにいる栄太さん達のスマホに連絡が入ります。だから辰馬さんが痴漢や、どこや、と声を上げました。間違いありません」
被害者女性と付き添いの子や未知留の友人、栄太と田端が同時に首を縦に振って同意した。
しかし痴漢の仲間の一人が言った。
「何だ、お前達。最初から痴漢を捕まえる準備をしていたんじゃないか。もしかして私人逮捕系ユーチューバーか。しかも女子高生を囮にしていたんだろう」
「アホ。おかしなことをぬかすな、ワレ。あんなのと一緒にすんなや。俺らは痴漢からこの子らを守るために、還暦過ぎのおっさんで何かできへんかと真面目に取り組んどるだけや」
「皆さん、還暦を過ぎてらっしゃったんですか。とてもそうは見えませんでしたけど」
三十代位の女性が目を丸くしてそう言うと、犯人の右腕を掴んでいた男性が言った。
「本当ですね。でも何ですか、それ。六十を過ぎた人達だけで、痴漢から守る為に独自のアプリまで開発しているんですか。しかも毎朝付き添うなんて、大変じゃないですか」
「俺達の他に三十人程度いる。ほとんど昔の仲間だ。一人で毎日は無理だから、参加出来る奴らは申請して交代で集まっているんだよ。社会貢献を目的とした、老人クラブの変形だな」
「へぇ、そんなのがあるんですね」
「興味があるのなら、君らも参加してみないか。後で連絡先を教えてくれれば、詳しい話をするから。もちろん金はとらないけど、ボランティアだから賃金も発生しない。気が向いた時だけ、参加すればいいんだ。俺らみたいな年寄りばかりじゃなく、君らのような勇気のある、正義感を持った若い子達が参加してくれたら嬉しいよ」
栄太がそう説明すると、男性二人共が興味を示してくれた。しかしこれは則夫の受け売りだ。アプリを開発する上で、CMTの目的に賛同する人達が自主的に導入してくれることが、将来的な目標だと彼は言っていた。
辰馬の仲間だけだと、当然守れる範囲が限られてしまう。しかし世の中には痴漢で困っている人は大勢いるし、それを守りたい、助けたいと考える人達も少なくないはずだ。
実際ここに痴漢逮捕に協力してくれた男性が二人、女性が一人いる。辰馬の思い付きから始まった行動だが、アプリと共にもっと広まれば相互の為になるだろう。
いずれはマッチングアプリとは逆に、男性など守る側は無料で、女性など守られる側が登録料を払うようにし、また広告収入などで収益を得たいと則夫は考えているらしい。
「それって、私のような人も参加出来るんですか。もちろん守って貰う側ですけど」
女性がそう言ったので、栄太は深く頷いた。
「もちろんですよ。この子達と同じく導入は可能です」
「でも誰が守る人なのか、分かりませんよね。あなた達のように顔見知りなら、分かるかもしれませんが」
「それは位置情報などで分かるようになっています。開発途中の試作段階なので、まだまだ改善の余地がありますし課題もありますが、もし関心がおありのようなら、後で開発者から説明させます。もちろん今は料金がかかりませんし、導入したからと言って強制参加ではありません。使いたくなければそれでいいですし、すぐ削除したって構いませんから」
「ちょ、ちょっと待って下さい。それは交番相談員としてではなく、個人としてやられているのですか。あなた達は、一体何者ですか。こちらの方が言ったように、撮影した動画をネット上にアップしたりはしていませんよね。今も撮っているのなら、やめて下さい」
駅員の一人が会話に割って入って来た。その胸元に、元笠という名札が付けられていた。
先程からこの男は、栄太達に不思議と突っかかってくる。だから気になってはいたのだが、珍しいその名を、どこかで耳にした記憶があった。
栄太が首を捻りつつ答えようとしたが、先に田端が余計なことを口走った。
「俺達は関西にある、羽立高校の同級生だ。それにこの方は一七草辰馬さんと言い、十三年前に三十年近い昏睡状態から奇跡的に目を覚ました人だ。君達は聞いたことが無いのか」
「は、羽立!」
彼はぎょっとした表情をした為、どうやら知っているらしい。しかし驚く場所が違うと思っていた所、他の駅員二人が大きく頷いた。三十代の女性も目を見開く。
「ああ、ありましたね! 凄い、世界的なニュースになった人じゃないですか」
「私も聞いた覚えがあります! 震災直後ですよね。確か十八歳で寝たきりになって、五十手前で意識を取り戻した方だ! あなただったんですか!」
痴漢を捕まえていた若い二人は分からなかったようだが、目を見張り驚愕していた。
「えっ、そんな人がいたんですか? でもそれって、凄くないですか」
「三十年近くも昏睡状態だったのに、今はこんなにお元気なんですか?」
痴漢の仲間達も驚いていたようだ。
「ど、どうして、そんな人が、ここにいるんだよ」
そうした反応が嬉しかったのか、田端は自慢げに啖呵を切った。
「知っているようですね。そう、この人こそが奇跡の人、一七草辰馬さんだ。私人逮捕系ユーチューバーだって? ふざけるな。そんな事をしなくたって、辰馬さんはとっくに有名人なんだよ。それにそんなもので金儲けを企むような、ケチな御方じゃない。奇跡的に救われた命を、この社会の為にどう生かそうかと考えている偉い御人だ。その結果、ここにいる俺達の同級生の娘を、痴漢から守ると決めた。そこから、今説明したような取り組みを始めたんだ。そんじょそこらの偽善者達と一緒にするんじゃねえよ」
しかしそれを辰馬が一刀両断し、田端の頭をはたいた。
「アホか、お前は。調子に乗っとんな。余所様にそんなことを、自慢げに言うもんとちゃう」
「す、すみません。調子に乗りました」
「沈黙は雄弁に優るって言うやろ。今大事なのは俺らの宣伝やない。この子が痴漢被害に遭った事実を、ここにおる駅員さんや警察に理解して貰うことが先や。その上で痴漢をしただろうこいつに、どう反省させるかやろ」
田端が深々と頭を下げ恐縮する姿を苦笑しながら見ていた栄太は、その後を引き継いだ。
「そうだな。後はこの二人が痴漢とグルか、の確認も必要だ。もしそうなら、日頃から組織的な犯罪行為をしていた事になる。だとすれば、当然今回が初犯ではないだろう。余罪もしっかり追及して、それに見合った刑罰を与えないと」
「そ、そんな。勘弁して下さい」
と捕まっていた男はそう言って項垂れ、他の二人も表情を凍らせた。
そうしている間に制服を着た警官が二人、こちらへと走り寄って来た。
「ご苦労様です」
敬礼した栄太は身分証を提示し経緯を説明したところ、彼らは直ぐに理解をして告げた。
「では皆さん、ご足労ですが署までご同行頂けますか。事情をお伺いしたいので」
そうして皆が警官達の後に続き、改札へと向かったのだった。
目が合った彼は、少し驚いた表情をして首を振った。
「いや、あなたじゃなくこの子達です。全く、どこの学校だ。どんな教育を受けてんだよ」
後半部分は吐き捨てるように言った為、先程まで騒がしかった車内が静まり返った。
そうした男の態度に腹を立てたのだろう。CMTの一人が噛みついた。いい年になったとはいえ、元魔N侍だ。相手は間違いなく年下であり、その上辰馬達を含めた昔の仲間が集まっていたからか、かつての血が騒いだらしい。その証拠に、そいつの言葉は関西弁だった。
「そんな言い方、ないやろ。車内では、もう少し静かにしようって言えばええだけやないか」
「な、なんだ。あんたには関係ないでしょう」
反抗したのが逆効果だった。仲間の前で舐められたと思い、かえって火が点いたようだ。
「なんやと、わりゃ」
確かこいつ、誠の下の奴だな。高校卒業後、大阪で土木建築会社に就職したが、結婚を機に東京の同業他社へ転職したんだったか。元特攻隊所属は血の気が多いから困るんだよ。
そう心の中で呟きつつ溜息を吐き仲裁に入ろうとしたが、先に別の奴が加勢した。
「おい、兄ちゃん、おもてぇ出ろ」
あちゃぁ、こいつも元特攻隊所属だ。則夫、もう少し考えてメンバー編成しろよ、と栄太は再び心の中でぼやいたが、直ぐに訂正した。いや、あいつは魔N侍じゃないから、そういう裏事情を知らなくて当然だ。面倒事を全て丸投げした俺らがまずかった、と反省する。
「え、え、どうしてですか」
下から舐めつけられるように二人からガンを飛ばされ、男は慌てふためく。殴り合いなどの喧嘩や、絡まれた経験が余りないのだろう。しかも五十近くになった社会人が、さらに上のおじさん達に関西弁で因縁を付けられるなんて、思ってもいなかったに違いない。
「アホ。お前ら黙れ、ボケ」
栄太がぐずぐずしていた為、辰馬が先に小さく切れた。さすが元総長だ。たった三言に含まれた凄みは二人を振るえ上がらせ、彼らは直ぐに頭を下げて声を揃え、謝った。
「すみませんでした!」
「すみませんでした!」
同時に、注意していた男の顔が青くなる。当然だ。普通の人なら、間違いなく堅気じゃないと思っただろう。栄太は苦笑しつつ、間に入った。
「すみません。こいつら短気でして。ああ、私らは別に怪しい者じゃないです。お兄さんの言うことが正しい。電車内の私語は周りに迷惑だから、控え目にしないといけませんよね」
そう言いながら、胸元から身分証を出して見せた。それを目にした彼は驚いていた。近くにいた人までが、目を丸くする。
「こ、交番相談員って、け、警察関係の方ですか」
「元警官です。OBってやつですね。ああ、こいつらは違いますよ。でもヤクザでもない、ただのおっさんで私の友人達です。すみませんね、驚かしちゃって」
「あ、ああ、そうですか」
そう言っていると駅に着いた為、彼はどっと出て行く人波に紛れ、ホームへと降りて行った。ただその行方を目で追うと、隣の車両へ乗りこむ列に並んでいる姿が見えた。どうやらただ栄太達を避け、逃げただけらしい。
吐き出た群衆と同程度の人の塊が車内に押し寄せ、再び窮屈になった電車が動き出す。周囲の人の多くが入れ変わったおかげで、先程までの凍った空気はなくなった。その為、女生徒達の会話が再び始まる。ただ今度は皆、意識的に小声で話をしていた。
「そうそう。今度から注意しような。おっさん達も気を付けるから」
栄太が彼女らに向かってボソッと告げる。すると慎ましやかな笑いが起こった。
「そうや。栄太の言う通りやぞ。お前ら、アホやろ。ええ年して、何をいきっとんのや」
「タッチャン、すみませんでした。栄太さんもすみませんでした」
彼らが再度頭を下げ小声で謝る姿をみて、他の女生徒達もそれに倣った。
「すみませんでした」
「ごめんなさい」
辰馬達がどんな奴かを知り、怒らせた時の恐ろしい姿を見たのは、生徒達の中だと三月の謝恩会にいた未知留だけだ。栄太達にしてみればあれもほんの一部に過ぎず、また今日は相当声を抑えた憤りに過ぎない。それでも彼女達は、彼が発した強烈な気を感じ取ったようだ。
これ以降、未知留の元に集まった女生徒達が車内で煩く騒ぐことはなくなった。恐らくCMTは頼りになるが、かなり怖い集団だと知れ渡ったらしい。
あの後、未知留の元にはどんな人達かを詳しく教えて欲しい、と何人かが尋ねてきたという。そこで辰馬が長く昏睡状態に陥っていた事やそうなった経緯に加え、元暴走族総長とその仲間に加え、かつて苛めなどで助けられ恩義を感じている人達の集まりだと説明したようだ。
その影響か、以前より寄って来る人数が若干減った。怖いと思ったのか、大きなトラブルに巻き込まれることを恐れたのかもしれない。
しかしそうした件を話題にすると、辰馬は言った。
「それはしゃあない。集まるのも離れていくのも自由や。強制するもんとちゃうからな」
「そうだな。まあ、元々は未知留ちゃん一人で始めたことだ。同じ想いをしている子がいるなら、少しでも多く助けたいと思っただけだからな」
「そうや。俺らが痴漢より怖いと思われたんやろ。ええ勉強になったわ。せやから今後は気を付けなあかん。当然昔のようにはいかんし、ここは四十年前の羽立やなく東京なんや」
だがそれから数週間ほど経った、六月初旬に事件が起こった。辰馬と栄太を含め、CMTが八人いた時だ。
その日は早朝に人身事故が起こり、未知留達が使う路線が一時運休になっていた。幸い六時半過ぎには動き出していたが、乗車できなかった人達がホームに集まっていたからだろう。その影響で、どこもかしこもがごった返していた。
電車は次々とホームに到着し、多くの人を乗せ発車していく。ただ朝のラッシュ時に便が少なくなった分、当然一本の電車の乗客人数は増える。その為とてもではないか、いつもの七時十五分発には乗り込めなかった。到着した時点で、ドアについているガラス窓から、押しつぶされた大勢の人達の姿が見えたからである。
「しょうがないね。一本、遅らせよう。学校へ行く時間には、まだ余裕があるから」
そう決断し、本部で監視する則夫が、その旨をアプリの登録者達に一斉送信で知らせた。
「そうやな。しかし毎回思うが、この混雑は何とかならへんのか」
辰馬がそうぼやく。こうした事態は初めてではない。CMTの活動開始から約二カ月余りの間、少なくとも五回以上あったし、彼自身もその内の何回かを経験している。全国では一日二件以上のペースで起こっており、週一回は発生するという都内の路線もあるそうだ。
その多くが単なる事故ではなく、飛び込みによるものらしい。また春はそうした人身事故が特に増える時期だという。そう考えればまだこの路線は少ない方なのかもしれない。
「俺らが学生の頃でも、自殺者はそれなりにおったみたいやが、こんな頻繁に起っとるのを身近に感じさせられたらたまらんな。勘弁して欲しいもんや」
栄太は彼の呟きに対してどう返したらいいか分からず、黙ってしまった。以前から思っていたが、こうした状況が起こると正直心配になるからだ。
辰馬はただでさえ純粋で感受性が強い。それに目を覚ましてからは取り分け、自分がこの社会に対して何ができるか、役に立てることはないか、と考え続けている。
その上十年余りの間で多くのことを学び元気になった今では、命を賭してでも貢献したいとさえ口にし出していた。そうした思いが強すぎて、精神を病まないかと不安になるのだ。
人は慣れる。そうして反応する刺激を弱め、心や体の平安を保つ仕組みだ。心理学などでは“馴化”とも言うらしい。人身事故などでもそれが当てはまる。何度も繰り返し経験することで、最初は苛立ったり、嫌な想像をしたりしていたものが徐々に慣れ、またか、と余り考えないようになってしまう。そうでなければ身が持たないからだ。
しかし辰馬は違う。その度に考え悩み同じ問題にぶつかり、自分の力だけではどうにもならないと痛感し、無力さに苛まれるのだ。
何度も電車に乗る機会がなければ、そんな想いはしなくて済むだろう。だがそれだと彼の目的に反する。正義感が強く、私利私欲の無い行動力と実行力が彼の魅力であり人望であり、こうした活動に繋がっているのだ。
かといって何事も健康体であってこそ、である。それを損なえば本末転倒になってしまう。
そうした想いが頭の中を占め、本来の目的意識と集中力が削がれていたのだろう。次に来た電車が先程より空いているように見えた為に辰馬達は乗車したが、その後ろから物凄い力で車内へと押し込まれたのである。
同じように一本乗り過ごした人達に加え、新たな乗客が列に並んでいた事に気付かなかったのだ。それで対応が遅れてしまった。
というのも、いつもなら彼の後ろに続くはずのCMTと辰馬達は、切り離されたのだ。さらに隣のドアから入った栄太らも身動きできず、車内で彼らに近づくことはできなかった。
「あかん、合流出来へん」
「やばい、こっちもや」
「俺もや。ピクリとも動かれへんぞ」
イヤホンから聞こえる各自の言葉が関西弁だった様子からも、彼らの焦りが感じられた。それでも今日は背の高い辰馬がいるおかげで、未知留らがどこにいるかは目視できる。
「無理すんな。じっとその場で待機や。こっちは二人おる。心配せんでええ」
「辰馬の言う通りだ。中は二人で未知留ちゃんともう一人を見ていればいい。問題はこの後乗って来るだろう、他の生徒達だ。制服を見れば分かるよな。各自でCMTだと声をかけ、それぞれで見守れ。駅に着けば降りる人もいるから、多少動けるようになるはずだ。そのタイミングを上手く利用し、なるべくバラバラにならないよう移動してくれ」
「了解です、栄太さん」
出した指示に皆が応じてくれた。だがそう易々とはいかなかった。次の駅では降りる人より乗車する数がまだ多く、仲間同士が近づくことさえできない。それでも辰馬の顔を知るアプリの連絡を見て同じく便を遅らせた女生徒達が、彼を目印に乗り込んできた。
ドア近くに押し止められている栄太達が、
「CMTだ。俺の近くにいろ」
と彼女達に囁き、離れた場所で各自が護衛に入った。
しかし駅に着く度に繰り返される大きな人の動きに翻弄され、新たに集まって来た彼女達を見守る余裕さえ奪われていった。「おい、大丈夫か。何とか踏み止まれ」
栄太はそう声をかけたが、イヤホンからは息も絶え絶えの音ばかりが聞こえてくる。それも止むを得ない。同世代よりは元気で気合が入っているとはいえ、所詮還暦を越えたおっさんばかりだ。若い連中に力で敵う訳がなく、またそれ以前に多勢に無勢である。女生徒どころか、自分の身も守れず流れに逆らわないで立っているのが精一杯だった。
それでも目的の駅にあと二駅まで近づき、乗車人数より降車する人の数が増え始めたからか、体の自由が少しずつ利くようになり始めた、そんな時である。
“止めて下さい”、という小さな電子音が聞こえた。と同時に栄太が持つスマホが震える。これは則夫が開発したアプリの機能の一つだ。
守る側のCMTだけでなく、守られる側の女生徒が登録していると、痴漢に触られた際に怖くて声が出せなくても、スマホの操作で音声を出すことができた。と同時に、その信号が登録しているCMTにも伝わり知らせるのだ。
少しして、“止めて下さい”、と先程より大きい二度目の電子音が続けて聞こえた。
「痴漢や、どこや!」
辰馬が真っ先に大声を出した。ピークは過ぎたとはいえ、まだ周囲には人が多い。
最初は不意打ちだった為、大体の方向と場所しか分からなかったが、今度は位置を特定できた。
栄太は力を振り絞って人混みを押しのけ、なんとかその場所に近づこうとしながらマイクに向かって言った。
「いた! 辰馬と俺の間だ! 捕まえろ!」
しかし既に被害者のそばに居た、三十代位の男性が犯人らしき男の右手首を掴んでいた。さらにその反対側にいた同じ位の年の男も加勢し、逃げないよう左腕を抱きかかえている。
「こいつです!」
「大人しくしろ!」
と彼らは叫んでいた。どうやら抵抗されているようだ。
「ち、違う、俺じゃない!」
と男が否認していたところ、別の男性達が言った。
「おい、本当にその人なのか。間違っていたら冤罪だぞ」
「そうだ。確かにその人に触られたのか、お嬢ちゃん」
被害者の女生徒は俯いたままだ。しかしその体は小刻みに揺れていた。恐怖で震えているのだろう。
ほぼ辰馬と同時に彼女の近くへと進んだ栄太は、腕を掴まれた男と両脇に一人ずつ、そのそばに二人の男がいるのを確認する。他の乗客は関りたくないのか、あとずさって様子を眺めているか、目を逸らしていた。
念のため、ざっと見渡した後、マイクに向かって囁いた。
「則夫、見ているか。他に怪しい奴はいるか」
もし今捕まっている奴が冤罪なら、本当の犯人が近くにいるはずだ。
しかし栄太が見る限り、挙動不審な人物は見当たらない。だがスマートグラスを通した録画されている映像を客観的に観察できる則夫の目なら、気付くこともあるかもしれないと考え尋ねたのだ。
「うん、見ているけど、まだちょっとわからない。だけど今の二人、おかしくないかな」
「なるほど、お前も気づいたか」
「俺もそうやないかと思う」
栄太同様、辰馬も理解したようだ。
「えっ、どういう意味?」
遅れて近づいてきた未知留がそう言うと、他のCMTが口々に言いだした。
「ごめん、まだ近づけていないから、良く分からないな」
「俺も。何がおかしいんだよ」
彼らの声を遮り、栄太は胸元から取り出した身分証を出し、周囲に聞こえる声で言った。
「警察OBで交番相談員の者です。次の駅で、被害女性と被疑者と思われる男性、その腕を掴んでいる二人と、先ほど冤罪ではないかとおっしゃった二人も降りて下さい。ホームで話を伺います。他に目撃していた方がいらっしゃったら、一緒に降りて頂けると助かります」
周囲がざわめく中、四十代半ば位の男が叫んだ。
「いや、なんで俺達もなんだよ!」
冤罪だぞ、と言った人物だ。その横の、お嬢ちゃん、と口にした五十代位の男も頷いていた。
「今俺達、って言ったね。二人はお知り合いかな」
栄太の指摘に、言った本人は慌てて首を振った。もう一人の男は黙って顔をしかめている。
「い、いや、そうじゃない」
「赤の他人には俺達なんて言わんやろ。それにあんたら、痴漢されとるのを見とったんか」
今度は辰馬が野太い声を出し、上から覗き込むように凄んだ。その迫力に恐れをなしたのか、男は顔を青くしてまた首を振った。
「そうか。見てへんかったんやな。あんたはどうや」
もう一人の男もまた、その問いに黙って首を振る。
「そうか。見てもないのに、冤罪とか本当に触られたのか、なんて何で言うたんや。まるで犯人を庇っとるように聞こえたんやけどな。もしかしてお前ら三人とも、グルとちゃうんか」
これには捕まっていた男が騒ぎ出した。
「こ、こんな奴ら、知らないよ。あ、あんたらこそ仲間みたいじゃないか」
その頃には、ようやく他のCMTも近くまで到着し、一緒にいた女生徒達と一緒に彼らを取り囲んだ。彼はその異様な雰囲気を察し、そう言ったのだろう。
「ああ、そうや。それがどうした。警察OBの交番相談員とその仲間達や。ここにおる連れの娘とその友達らを、痴漢から守ろうと集まった有志じゃ。なんか文句あんのんか」
更なる辰馬の恫喝の後、未知留がフォローするように口を開き、被害女性にも声をかけた。「おじさん達、有難う。あなた一年生ね。怖かったでしょう。もう大丈夫だから」
どうやら制服につけている青いスカーフの色から、下級生だと分かったからだろう。
ちなみに未知留達二年生は赤、三年生は白だ。彼女の周辺には、未知留以外の生徒達も集まり、同じ一年生の顔見知りらしき子が寄り添っていた。
その為かようやく震えも止まり、下を向いていた顔をゆっくりと上げたその表情は、涙で頬が濡れていたものの、少し安堵しているかのように見える。
「おう、われら、もしかして、痴漢仲間とちゃうやろな」
「そうや、そうや。おかしいやろ」
他のCMTもようやく状況が飲みこめたらしく、そう口にした。徒党組んで連携し、痴漢行為をする卑劣な奴らがいるとは聞いていたが、まさしくこいつらがそうなのだろう。
この二カ月余りの間、実際電車に乗り警戒するだけでなく、痴漢がどう行われているか、どんな問題点があるかなど、栄太は改めて調べてみた。その内容は辰馬を含めCMT達にも知らせておいたことが、今回役に立ったようだ。
「あっ、そう言えばこの人達、こいつの近くにずっといましたよ」
「そうそう。この女の子を挟むように立っていたんじゃなかったかな」
男の両脇にいた二人がそう告げると、近くの席に座っていた女性客も声を上げた。
「私も見ました。いえ、痴漢している所は見えませんでしたけど、その三人がこそこそと話をした後、制服を着た女の子達に近づいていくのを見ました」
「そうですか。他に証言してくれる方は居ませんか。いましたら、申し訳ありませんが、我々と一緒に次の駅で降りて下さい。駅員に引き渡して警察を呼べば、色々事情を聞かれるかもしれません。時間も取られると思います。しかしここに怖い思いをした女の子がいるんです。それに他の生徒達もいます。今ここで見て見ぬふりをするのではなく、痴漢は犯罪だとしっかり大人が言ってあげる。それが我々の責任だと思いませんか。もちろん冤罪はいけません。だからそうではないという人が他にいらっしゃれば、その方々の話も一緒に伺いますから」
栄太がそう言っている間に電車は駅に到着した。そこで則夫からの指示が耳に入る。
「降りるのは栄太さんともう一人だけで、タッチャンとその他の人は引き続き電車に残ってくれないか。あと一駅だけど、他の生徒達を最後まで守って欲しい」
「分かった。おい、いくぞ。さあ、先程言った人達は降りましょうか」
栄太が近くにいた田端に声をかける。彼は魔N侍の元親衛隊所属、つまり栄太の下についており、柔道三段の強者だ。運動部推薦で地元の大学に入り、就職は東京だった。今は定年退職し、再就職でビル警備の仕事をしている。
さらに栄太は被害者とその付き添いの女生徒に目配せし、また捕まえてくれた若者らや犯人とその仲間らしき二人、さらに声を上げてくれた三十代位の女性に視線を送った。
他のCMTが取り囲むようにしたおかげで、それらの面々は無事ホームへと降り立つことができた。
しかしそこに未知留と友達一人が加わり、私達も一緒に行く、と言い出した。
「おいおい、学校はどうするんだ」
と慌てる則夫に、彼女は言った。
「あと一駅じゃない。それにこれは、私を痴漢から守るためにしてくれていたんでしょ。それをきっかけに集まってきた子が被害に遭ったんだから、知らない振りなんて出来ない」
「未知留ちゃんが降りるんやったら、俺もおらなあかん。あと一駅や。他の奴らは残っとれ」
辰馬までがそう言って降り、残された面子が慌てる間もなくドアは閉まり、電車が動き出した。
呆気にとられている彼らをガラス窓越しに見送った後、栄太はホームを見渡した。
複数の路線が乗り入れるこの駅は規模が大きい。未知留を最寄り駅で降ろし解散した後、辰馬はここまで引き返し乗り換え、大学まで通っている。人も多いからかホームも広かった。
少し離れた場所にいた駅員が目についたので、栄太は手を上げて大声で呼んだ。
「すいません! 痴漢の疑いがある人物を捕まえました! こちらに来て貰えませんか!」
周囲の客が一斉にこちらを向く。駅員も気づき、小走りで駆け寄って来た。捕まっていた男が一瞬逃げようとして身じろぎする。
だが両脇の二人がそれを阻んだ。その仲間と思われる二人の男は辰馬と田端に正面を向いた状態で肩を掴まれ、身動きできない状態でいる。
ホームに立つ総勢十三名の集団が、かなり目立っていたからだろう。駅員が三人も駆けつけて来た。 その内の一人が「痴漢ですか」と尋ねて来た。
「はい。私、交番相談員の担咲と申します。車内でこの女生徒が痴漢に遭ったそうで、近くにいた男性二人がこの人を取り押さえました。警察を呼んでください」
「わ、分かりました」
返事をした彼が無線機を使って連絡をし始めると、別の駅員が戸惑った口調で言った。
「あ、あの、他はどういった方々ですか」
女性が五名、男性が八名いる中で拘束されている男が三名という複雑な状況だったからだろう。その為、素早く手で示しながら説明した。
「この被害女性に付き添っている三人は、同じ学校の生徒です。こっちの二人は私の連れ、彼らに肩を掴まれている二人は、痴漢の疑いがあるこの男の仲間と思われます。それを証言してくれる為に電車を降りてくれたのが、こちらの女性です。彼らも取り調べて下さい」
「な、なるほど。わ、分かりました」
理解したようで、既に駅事務所へ連絡しただろう駅員は、追加で今の状況を伝えていた。
「ち、違うって。誤解だよ。俺らは関係ない!」
「そ、そうだ。急にこの爺さん達とその仲間に囲まれて、無理やり降ろされたんだよ。こいつらこそ捕まえてくれ!」
そう言ってまだ抵抗する彼らを、栄太が一喝した。
「無駄に騒ぐな! 交番相談員の俺を含め、これだけの人の証言があるんだ。それに車内でのやり取りした映像は、この眼鏡でしっかり撮影しているし、音声も録音済みだ。後で警察に確認して貰えば分かる。もう諦めろ!」
「さ、撮影ですか」
と驚く駅員と共に、犯人を含めた三人以外もぎょっとしていた。この場ではCMTの三人と未知留だけが知る事実だったからだろう。
「お、おい、車内で勝手に撮影なんてしていいのかよ!」
「そうだ! 盗撮じゃないか!」
喚く彼らの言葉を聞き、駅員も訝しげな表情を浮かべてこちらを見た。
「盗撮じゃない。後で全部見て貰えば分かる。それより、こいつらの携帯を確認してくれ。他人の振りを装っているが、仲間ならやり取りをしている証拠が絶対に残っているはずだ。メールかSNSか何かでな。もしかすると、やり取りが消えるアプリを使っているかもしれない。何故そんな事を言うか、しっかりとした根拠はある。ですよね」
席に座って証言してくれた女性にそう声をかけると、彼女は頷いた。
「はい。この三人は痴漢をする前から、こそこそ話し合っていました。それなのに一人が捕まったら、他人の振りをして冤罪じゃないかって助けようとしたんです」
「その辺りのやり取りの映像と音声が、ここに全て残っています。もちろん撮影を開始してからの全てを提出するので、違法なものだと判断されたら私を逮捕すればいい。こいつらと違って、やましい事は何もないから構いませんよ」
「そうです。今言った栄太さんや他の二人は、痴漢で困っている私達を助けようと毎朝、付き添ってくれているんです。私と父が、それを証言します」
未知留が声を上げると、被害者生徒に寄り添っていた彼女も賛同した。
「そうです。この路線を使う私達女生徒の多くは、このおじさん達に守られてきたんです」
「毎朝、ですか。一体、どういう、」
と再び困惑し始めた駅員に、栄太が言った。
「詳しくは後で説明します。駅員室か事務所まで行きましょう。警察は呼びましたよね」
「はい。事務室を通じて近くの交番に連絡しているはずなので、直ぐ駆け付けるでしょう」
「だったら、そちらに向かったほうが早い。どちらにしても、詳しい話は事務所か署まで移動して話す事になるでしょうから」
「すみません。交番相談員の方が言われたので間違いないと思い、すぐ警察に連絡しましたが、その前に私達からも確認していいですか」
「もちろんです」
栄太が頷くと、駅員の一人が被害者女性に話しかけた。
「痴漢に遭ったというのは本当かな」
「はい」と彼女がはっきりと返事をした為、彼は頷き視線を移して言った。
「では、痴漢をしたのはあなたで間違いありませんか」
しかし両脇を抱えられた男は、驚くことに首を振った。
「違います。これは冤罪です」
「おい、あんた! この子のお尻を触ったじゃないか! 近くで見ていたんだぞ!」
「俺も見た! しかもこの子が最初に、携帯のアプリか何かで、やめて下さいって電子音を鳴らした後なのに、それでも触ったよな! 一回目は見逃したけど、二回目は間違いなく見たぞ! 誰かがその後、大きな声で痴漢やって言ったから、手を引っ込めたじゃないか」
「痴漢やって言うたのは俺や」と辰馬が頷き、未知留がその後に続いた。
「痴漢に遭っても声を出せない時に使う、私の父が開発したアプリを私やこの子達は導入しています。それを押せば、止めて下さいと電子音が鳴り、ここにいる栄太さん達のスマホに連絡が入ります。だから辰馬さんが痴漢や、どこや、と声を上げました。間違いありません」
被害者女性と付き添いの子や未知留の友人、栄太と田端が同時に首を縦に振って同意した。
しかし痴漢の仲間の一人が言った。
「何だ、お前達。最初から痴漢を捕まえる準備をしていたんじゃないか。もしかして私人逮捕系ユーチューバーか。しかも女子高生を囮にしていたんだろう」
「アホ。おかしなことをぬかすな、ワレ。あんなのと一緒にすんなや。俺らは痴漢からこの子らを守るために、還暦過ぎのおっさんで何かできへんかと真面目に取り組んどるだけや」
「皆さん、還暦を過ぎてらっしゃったんですか。とてもそうは見えませんでしたけど」
三十代位の女性が目を丸くしてそう言うと、犯人の右腕を掴んでいた男性が言った。
「本当ですね。でも何ですか、それ。六十を過ぎた人達だけで、痴漢から守る為に独自のアプリまで開発しているんですか。しかも毎朝付き添うなんて、大変じゃないですか」
「俺達の他に三十人程度いる。ほとんど昔の仲間だ。一人で毎日は無理だから、参加出来る奴らは申請して交代で集まっているんだよ。社会貢献を目的とした、老人クラブの変形だな」
「へぇ、そんなのがあるんですね」
「興味があるのなら、君らも参加してみないか。後で連絡先を教えてくれれば、詳しい話をするから。もちろん金はとらないけど、ボランティアだから賃金も発生しない。気が向いた時だけ、参加すればいいんだ。俺らみたいな年寄りばかりじゃなく、君らのような勇気のある、正義感を持った若い子達が参加してくれたら嬉しいよ」
栄太がそう説明すると、男性二人共が興味を示してくれた。しかしこれは則夫の受け売りだ。アプリを開発する上で、CMTの目的に賛同する人達が自主的に導入してくれることが、将来的な目標だと彼は言っていた。
辰馬の仲間だけだと、当然守れる範囲が限られてしまう。しかし世の中には痴漢で困っている人は大勢いるし、それを守りたい、助けたいと考える人達も少なくないはずだ。
実際ここに痴漢逮捕に協力してくれた男性が二人、女性が一人いる。辰馬の思い付きから始まった行動だが、アプリと共にもっと広まれば相互の為になるだろう。
いずれはマッチングアプリとは逆に、男性など守る側は無料で、女性など守られる側が登録料を払うようにし、また広告収入などで収益を得たいと則夫は考えているらしい。
「それって、私のような人も参加出来るんですか。もちろん守って貰う側ですけど」
女性がそう言ったので、栄太は深く頷いた。
「もちろんですよ。この子達と同じく導入は可能です」
「でも誰が守る人なのか、分かりませんよね。あなた達のように顔見知りなら、分かるかもしれませんが」
「それは位置情報などで分かるようになっています。開発途中の試作段階なので、まだまだ改善の余地がありますし課題もありますが、もし関心がおありのようなら、後で開発者から説明させます。もちろん今は料金がかかりませんし、導入したからと言って強制参加ではありません。使いたくなければそれでいいですし、すぐ削除したって構いませんから」
「ちょ、ちょっと待って下さい。それは交番相談員としてではなく、個人としてやられているのですか。あなた達は、一体何者ですか。こちらの方が言ったように、撮影した動画をネット上にアップしたりはしていませんよね。今も撮っているのなら、やめて下さい」
駅員の一人が会話に割って入って来た。その胸元に、元笠という名札が付けられていた。
先程からこの男は、栄太達に不思議と突っかかってくる。だから気になってはいたのだが、珍しいその名を、どこかで耳にした記憶があった。
栄太が首を捻りつつ答えようとしたが、先に田端が余計なことを口走った。
「俺達は関西にある、羽立高校の同級生だ。それにこの方は一七草辰馬さんと言い、十三年前に三十年近い昏睡状態から奇跡的に目を覚ました人だ。君達は聞いたことが無いのか」
「は、羽立!」
彼はぎょっとした表情をした為、どうやら知っているらしい。しかし驚く場所が違うと思っていた所、他の駅員二人が大きく頷いた。三十代の女性も目を見開く。
「ああ、ありましたね! 凄い、世界的なニュースになった人じゃないですか」
「私も聞いた覚えがあります! 震災直後ですよね。確か十八歳で寝たきりになって、五十手前で意識を取り戻した方だ! あなただったんですか!」
痴漢を捕まえていた若い二人は分からなかったようだが、目を見張り驚愕していた。
「えっ、そんな人がいたんですか? でもそれって、凄くないですか」
「三十年近くも昏睡状態だったのに、今はこんなにお元気なんですか?」
痴漢の仲間達も驚いていたようだ。
「ど、どうして、そんな人が、ここにいるんだよ」
そうした反応が嬉しかったのか、田端は自慢げに啖呵を切った。
「知っているようですね。そう、この人こそが奇跡の人、一七草辰馬さんだ。私人逮捕系ユーチューバーだって? ふざけるな。そんな事をしなくたって、辰馬さんはとっくに有名人なんだよ。それにそんなもので金儲けを企むような、ケチな御方じゃない。奇跡的に救われた命を、この社会の為にどう生かそうかと考えている偉い御人だ。その結果、ここにいる俺達の同級生の娘を、痴漢から守ると決めた。そこから、今説明したような取り組みを始めたんだ。そんじょそこらの偽善者達と一緒にするんじゃねえよ」
しかしそれを辰馬が一刀両断し、田端の頭をはたいた。
「アホか、お前は。調子に乗っとんな。余所様にそんなことを、自慢げに言うもんとちゃう」
「す、すみません。調子に乗りました」
「沈黙は雄弁に優るって言うやろ。今大事なのは俺らの宣伝やない。この子が痴漢被害に遭った事実を、ここにおる駅員さんや警察に理解して貰うことが先や。その上で痴漢をしただろうこいつに、どう反省させるかやろ」
田端が深々と頭を下げ恐縮する姿を苦笑しながら見ていた栄太は、その後を引き継いだ。
「そうだな。後はこの二人が痴漢とグルか、の確認も必要だ。もしそうなら、日頃から組織的な犯罪行為をしていた事になる。だとすれば、当然今回が初犯ではないだろう。余罪もしっかり追及して、それに見合った刑罰を与えないと」
「そ、そんな。勘弁して下さい」
と捕まっていた男はそう言って項垂れ、他の二人も表情を凍らせた。
そうしている間に制服を着た警官が二人、こちらへと走り寄って来た。
「ご苦労様です」
敬礼した栄太は身分証を提示し経緯を説明したところ、彼らは直ぐに理解をして告げた。
「では皆さん、ご足労ですが署までご同行頂けますか。事情をお伺いしたいので」
そうして皆が警官達の後に続き、改札へと向かったのだった。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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