影の遺族

しまおか

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プロローグ

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 平成二年六月某日。その日は朝から土砂降りの雨。前日の夕方から強く降り出した雨は、テレビの天気予報によると明後日の週末まで続くらしい。一週間前からの週間天気予報通りに降り出した大雨は、少なくともその日一日中は激しく降り続くと思われていた。
 事実、その日は一日中どんよりとした厚い雨雲に覆われ、朝から外は真っ暗な状態が続いている。
「ああ、やっぱり結構降っているわね」
 榎木秀子えのきひでこは黒い空を見上げながら思わずため息をついた。
 リビングの窓から外を覗いた時も激しい雨足であることは判っていたが、いざマンションの玄関の扉を開けて外に出てみると、地面を叩きつけるように降るこの雨にはうんざりする。
  秀子は五歳になる息子の光男みつおを幼稚園に送り届けるため、いつも通りの朝八時ちょうどにマンションのエントランスを出た。
「ヤァ~!」
 突然、秀子に背負われていた娘が騒ぎだした。雨が顔にでもかかってしまったのだろうか。
 秀子は右手で光男の左手を握り、光男の右手には子供用の小さな黄色い傘が握られている。光男は傘を肩に担ぐようにして、強く降りつける雨に必死に抵抗していた。
 秀子は左手で大人用の赤い傘をしっかりと持ち、自分が濡れても背中に背負った一歳の娘が雨に濡れないように気をつけていたはずだった。
 一度外に出ていた秀子は、光男の手を引き、雨の入ってこないマンションのエントランスの中に戻った。
「よし、よし、トモちゃん、大丈夫ですからね~」
 秀子は体を上下に揺すり、自分の肩越しに背中の娘をあやした。普段は大人しく手がかからない娘の急な抵抗に秀子は慌てた。今まで娘と一緒に何度も雨の日に外出したことはあが、これほど騒がれたことなどなかったからだ。
 梅雨時の蒸し暑く激しい雨が降る中、両手を塞がれたまま、背中に決して軽くない一歳の子供を背負うのは辛い。
 たたでさえ毎朝歩いて十五分ほどの所にある幼稚園まで光男を送り届けることは、気力と体力を奪う。それなのにいつもは静かな娘が外に出た途端ぐずりだしたため、秀子は苛立った。部屋には誰もいないために娘だけ置いて行く訳にもいかない。秀子達の住む分譲マンションには秀子と秀子の夫である光五郎、子供二人の親子四人で住んでいて、裁判官である夫はすでに家を出てしまっている。
 判事である夫の光五郎みつごろうは、都心にある勤め先の裁判所まで片道一時間半はかかり、朝は早く出て夜遅く帰ってくるため、全く頼りにならない。家のことは専業主婦の秀子に全て任されている。二人の両親はともに北海道に住んでいるため、娘が生まれる時に秀子の母の世話になった以外は、全て秀子一人で子供二人の面倒を見てきた。
 それでも子供達は普段からそれほど手がかからない、大人しく聞きわけの良い子達であったため、子育てには比較的楽をしている方だと思う。それに両親の援助もあって郊外に購入したこのマンションは、豊かな緑に囲まれてとても静かだ。秀子はこのマンションに引っ越した後もすぐに周りの住民とも上手く溶け込むことができ、人間関係も含めこの環境に十分満足していた。
 通勤で苦労をしている夫ではあるが、彼は国から用意された判事のための古い官舎へ強制的に入居させられることを嫌がり、同じ職場の人間達に四六時中囲まれることから逃げようと、積極的にこのマンションの購入に賛同してくれた。
 特にこの時期、東京サミットが約二週間後に迫り、厳戒態勢が取られて騒がしい都心と比べ、郊外にあるマンション周辺はとても平穏な毎日が続いていた。
「秀子さん、どうしたの?」
 マンションを出た所でぐずる娘に手を焼いていると、同じマンションの一階に住むお婆ちゃんが声をかけてくれた。
 このお婆ちゃんは息子さん夫婦が近くに住んでおり、そのお子さん、つまりお婆ちゃんのお孫さんが光男と同じ幼稚園に通っているため、光男もお世話になったことがある。大変優しいお婆ちゃんで、光男も娘も一緒に遊んでいただいたこともあり、二人はこのお婆ちゃんによく懐いていた。
「ああ、お婆ちゃん。すみません。珍しくこの子がぐずるものですから」
 そう説明していると
「お母さん。早く行かないと幼稚園に遅れちゃうよ」
 今度は光男が、なかなか幼稚園に向かわない秀子を急かす。
「ヤァ~! ヤァ~!」
 まだ娘は秀子の背中で泣き叫び、雨の中を歩くことを嫌がっている。
 困り果てた秀子を見かねたお婆ちゃんは
「こんな雨だから、トモちゃんも嫌がっているのでしょう。私が預かりましょうか」
 そう言って秀子の背中からむずがる娘を抱きかかえてくれた。
 すると先ほどまでの大きな泣き声がぴたりと止んだ。
「ほ~ら、トモちゃん。お母さんがお兄ちゃんと幼稚園に行っている間、お婆ちゃんと一緒に遊びましょうね」
 静かになった娘をあやしながら、そう言って秀子に目配せした。
「すみません。ご面倒をおかけします。じゃあお言葉に甘えて、光男を幼稚園に送って帰ってくるまでの間、トモのことをお願いします」
 秀子はそうお願いしながら頭を下げ、急かす光男の手を引き、幼稚園に向かって早足で歩きだした。
「行ってらっしゃい」
 マンションの入り口でお婆ちゃんは一歳の娘の手を握り、秀子と光男に向かって手を振りながら見送った。
 幼い娘は静かにじっとその姿を見つめていた。
 それが娘から見た母と兄の最後の姿であった。
 
 中学三年の岸涼介きしりょうすけは、降り注ぐ雨の中、憂鬱ゆううつな気持ちで学校に向かって歩いていた。父親同席での進路相談が朝一番で行われるからだ。学校での成績はまずまずである涼介は、その点で先生から何かを言われる心配はなかった。問題は日頃から学校での生活態度に難の多い涼介のことを、ここぞとばかりに学校の先生方が警官である涼介の父に対し色々と注意をしだすことだ。 
 涼介は先生という人種が大嫌いだ。勉強自体は嫌いでないため学校の授業は真面目に受けているが、学校が体裁ばかりにこだわって行うつまらない行事などに涼介は一切参加せず、先生の言うことなどまともに聞いたことが無い。
 警察官である涼介の父はとてもしつけに厳しいが、人としてやってはいけないことにうるさいだけで基本的には涼介のことを信用してくれている。しかし父は立場上、学校の先生方の言う杓子定規な注文に反抗することもできず、ただ黙って先生の説教を涼介の代わりに受けなければならない。それが判っているからこそ涼介の気が重くなるのだ。
「気にするな。お父さんは何言われてもハイハイって聞いているだけだから。それより涼介はしっかり自分なりに勉強して、学ぶことは学び、今やるべきことをしっかりやっておくことだ。今から先生の言いなりになるような小さな男になるんじゃない。いい加減な大人を見て、きちんとそれを見極めて反面教師にすることが大事なんだ。安易な考えで人に流されるんじゃないぞ」
 傘を差し並んで歩いていた父は、元気なく俯く涼介の気持ちを悟ったのか、そう励ました。涼介はただただ下を向いたまま、父の言葉に小さく頷いた。
 今のこの時期、東京で開かれるサミットの厳戒態勢で多くの警察官が都心に駆り出されているにも関わらず、勤務先の同僚達の強い後押しと協力もあって父は無理を承知で勤務を休み、今回の進路相談に付き添っている。父のその行動に心から申し訳なく思い、また有難いものだと感謝していた。
 涼介は父にも誰にも話したことが無い、自分の心の中で秘かに思うことがある。父の岸大介だいすけは、交番勤務の警察官で所謂ノンキャリと呼ばれる公務員だ。そんな父を尊敬していた涼介は、将来父と同じ警察官になりたいと考えていた。しかしノンキャリであることで色々な苦労をすることを知り、同じ警察官でも大学に入って国家一種を受け、キャリアとして警察に入りたいと考えていた。
 だから涼介は、学校や先生は気に入らなくても勉強だけはしっかりやっていたのだ。また勉強ばかりの頭でっかちな人間にならないようにと小学生の時から空手道場に通い、将来警察官として必要な体力も備えておこうと日々体も鍛えている。
 そんな一人っ子の涼介を父はとても可愛がってくれていた。
 涼介達が歩いている道路の左側には、高さ一メートルほどの幼稚園のコンクリート塀が真っ直ぐに続き、そこからしばらく行くと幼稚園の正門がある。その途中に幼稚園の塀に対して直角に交わる交差点があり、ミラーが二つ設置されていた。T字路のミラーは涼介達が歩いてきた方角に左折、または右折して幼稚園の門に向かう道路を走る際に左右確認できるようになっている。
 幼稚園のコンクリート塀の上には金網が設置され、すき間から見える幼稚園の園庭には昨日から続く雨で大きな水溜りができていた。
 まだまだ降り止まない雨を受けながら、涼介はいつもの通学路の途中にある幼稚園の前に差し掛かろうとした時、ふと何気なく交差点にある左上のミラーを見上げた。その時は車の通りがほとんど無かった。
 交差点のミラーは、右手からくる車両が見える角度で設置されている。そこに白いバンが止まっている様子が見えた。横殴りの雨が強く降っていてミラーも濡れてぼんやりとしか映っていなかったが、涼介は妙にその車が気になった。
 交差点からほんの少し離れている所で、幼稚園の塀に向かって止められているその車は何故あの場所にいるのだろうか。
 ハザードもつけていないその白いバンは、幼稚園に送り届ける子供を乗せてきた車にしては、停車する場所が中途半端に遠い。激しい雨の中、子供を車で送り届ける場合にはT字路を右折して正門近くで車を停車させるのが普通だ。
 そう思いながら交差点に差し掛かり、首を右に向けてミラーに映っていたその車が直接涼介の視野に入った途端、突然その白いバンのスライドドアが開き、中から若い男の人が傘もささずに叫びながら出てきた。
「うわあ~!」
 上下真っ黒のジャージの様な服を着たその若い男の右手には、包丁のような刃物が握られ、男はそれを振り回しながら走ってきた。
「涼介、危ない!」
 父は咄嗟に涼介をかばって立ち止まった。そんな二人など見向きもせず、その若い男は交差点を横切り、多くの子供達が傘を差しながら親に手をつながれて登園している幼稚園の正門に向かってまっすぐ走っていった。
「キャ~!」
 正門では刃物を振り回す若い男に気づいた子供や親達、幼稚園の先生方が大きな声で叫びながら逃げ回っている。
 警察官である父は、涼介の身に危険が無いと判ると傘を投げ出し、子供達に向かって叫びながら走った。
「危ない! 逃げろ!」
 若い男に追いかけられて今にも子供達が刃物で刺されようとしている。涼介はあまりに突然のことでその場から動くことができず、立ち竦んでいた。
「や、やめて! お願い! この子は……」
と一人の母親が若い男に懇願している。子供をかばっているようだ。
 若い男は母親の言葉など無視するように、子供をかばっていた女性の肩から胸にかけて刃物を振り下ろした。
 「ギャッ!」
  母親は絶叫しながら道路に倒れた。そしてすぐ傍にいたその親の子供であろう小さな男の子も刃物で胸を突き刺され、道に崩れるように横たわった。
 倒れた二人に止めを刺すかのように男はしゃがみ込み、刃物で二人を何度か刺した後、再び立ち上がって、逃げ損なった子供や大人達に向かって刃物を振り回し、一人、また一人と切りつけて行った。
「ギャ~! ギャ~!」
 パニックに陥っている幼稚園の正門では悲鳴が響きわたった。そこには男に刺された人々から吹き出る大量の血が、雨に打たれながら地面に流れて真っ黒に染まっていく、壮絶な世界が広がっていた。
 大きな水溜りが広がる幼稚園の敷地に侵入した若い男が、六人目の犠牲者を切り付けた時、やっと追いついた父がその男の背中に飛びついた。
「止めろ! 止めるんだ!」
 背後から突進してきた父に男は地面に倒されたが、握っていた刃物は手放さなかった。一度地面に倒れた男は、雨と土で泥だらけになりながらも立ち上がり、
「うわあ~!」
と叫びながら再び刃物を振り回し、父を切りつけた。一度は男の振り回す包丁を交わしたが、ぬかるんだ地面に足を取られた所に父は右手を切りつけられ、その場に片膝をついた。
「お父さん!」
 交差点で立ち尽くしていた涼介は、幼稚園のコンクリート塀の上に設置された金網のすき間から、刃物を振り回す男に突進していく父の背を見て叫んでいた。
 そして片膝を地面につき、切りつけられた右手を抑えている父の首筋が若い男の振り下ろした刃物によって裂かれ、血が飛び散るように噴出した瞬間を見た涼介の思考はそこで凍結した。
 男が飛び出してきた白いバンがすでにその場を走り去ってしまっていることなど全く気付かず、土砂降りの雨の中、涼介は金網にすがりつき、ただただ泣き叫んでいた。
 若い男が父の首筋を切りつけたその瞬間、
「パン!」と乾いた音が響いた。
 若い男は一瞬背中を反った。続けて
「パン! パン!」
 と二発同じ音が聞こえたかと思うと、刃物を持った男はその場に崩れ落ち倒れた。男の背中からは、血が流れ出ている。誰かが警察に通報をしたのだろう。駆け付けた警察官が、父を切りつける姿を見て咄嗟に拳銃を発砲したらしい。
 合計三発撃たれた弾は、最初の一発は男の背中に命中し、後から撃たれた二発のうち一発が男の腰に命中したようだ。
「岸さん!」
 拳銃を発砲した羽山はやまという若い警官は、涼介の父と同じ交番勤務の方だった。もう一人駆け付けた石毛いしげという警官にも涼介は見覚えがあった。
 二人の警官は父と倒れた刃物男に駆け寄り、身につけていた無線に向かって何か大きな声で怒鳴っていた。警察本部か署のどこかに連絡をしていたのだろう。
 その場は騒然とした空気が流れ、雨に打たれて流れる血だらけの幼稚園はまるで地獄絵図のようであった。 
 この事件では八人の死傷者が出た。死亡者は犯人である刃物男と涼介の父の他に、幼稚園に通う園児の母である榎木秀子、その息子光男、そしてもう一人園児の母親一名の計五人。園児と幼稚園の先生が重傷、もう一人の園児が軽傷という状況だった。
 その後の警察の発表によると、刃物男は幼稚園から二〇〇メートルほど離れた所に住んでいる二十五歳の精神科に通う無職の男で、男の自宅には犯人の祖父母と両親、そして二十歳の妹を含め五人が刺殺されていたという。
 刺殺された家族を検死した結果、四人の刺し傷は男が振り回して七人を死傷させた包丁によるものと断定された。しかし妹だけは別の刃物で刺し殺されていたが、その刃物には男の指紋がべったりとついていた。
 それらのことから、この事件は精神的に病んでいた男が発作的に一家を惨殺し、朝の登園時間に幼稚園に駆け込み、母親や園児らを切りつけたものとされ、テルユキというその男が起こした悲劇は犯人死亡のまま幕が閉じられた。
 涼介が見た白いバンのことは全く触れられることは無かった。
 父の死は勤務時間外のことではあったが特例として殉職扱いとされ、岸大介は巡査部長から警部に二階級特進を受けた。
 そして犯人を撃った羽山という警察官は威嚇射撃なく発砲したことで処分を受け、その後警察を自主的に退官し、その後交通事故で亡くなった、ということを涼介は十年近く経ってから知ることになる。
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