ミューズ ~彼女は彼らの眩しい人~

藍川涼子

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第一章 32歳~

14 一番じゃなくていいから 34歳

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 蓮の三回忌から少し経った休日。
「お母さん、じゃあちょっと行って用事を済ませてくるね。」
「うん、行ってらっしゃい。」
 紗栄子は罪悪感を抱えたまま家を出て、玄関のドアに鍵をかけた。
 仕事だとまでの嘘は言わず、だからといって大志と2人で会うのだと堂々と説明することもできず…。
 ぐるぐると考えたまま、紗栄子は自動車のアクセルを踏んだ。



「いらっしゃい。迎えに行かなくてごめん。」
「ううん、いいの。お邪魔します…。」
 青山家の方まで迎えにくるという大志の申し出を断ったのは紗栄子の方だった。気を遣ったというより、母親や子供達に見つからないほうがいいと思ったから。
「紅茶でいいかな。」
「あ、うん。お構いなく…。」
「なんだよ。なんか他人行儀だな。ソファーにどうぞ。」
「ありがとう。」
 おずおずと腰をおろし、不躾でない程度に室内を見回す。蓮を亡くしたばかりの頃は、大志の部屋の中を気にする余裕もなかった、と気づく。
「ん?どうかしたか?」
「今更だけど、大きいテレビだよね。」
「ああ、無駄にね。一人暮らしのくせにな。…はい。」
「あ、紅茶、ありがとう。」
 カップからのぼる湯気が鼻をくすぐる。
「…コレ、T紅茶のP?」
「さすが、よくわかるな。好きだったろ?」
「大志もコレよく飲むの?」
「試しに買ってみた。紗栄子これ好きだったなあと思って。リーフじゃなくてティーバッグだけど。」
「ありがとう…。」
 イギリスの老舗メーカーT紅茶は、ひどく高価ではないものの、どこのスーパーでも全種類気軽に買えるものでもない。わざわざ、用意してくれたのだ。
 深く香りを吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「美味しい…。」
「良かった。」
 しれっと隣に座った大志は、自身も同じものを飲みながら紗栄子の表情を見ていた。
「子供達今日も元気?」
「うん。うるさいぐらい。」
「今日も、紗栄子のお母さんが来てくれてるのか?」
「うん。」
「そっか。ちゃんとお礼言いたいけど…こっそり会ってるのにそうもいかないよな。」
「うん…。」
 少し気まずいような空気になって、二人とも紅茶の入ったカップをテーブルの上に置いた。
「…まあ、話したいことがあるんだけどさ。」
「うん…。」
 互いに、互いの顔ではないどこかを見ている。
「俺にとって紗栄子は高校生の頃からのミューズなわけ。」
 大志の言葉は随分唐突だ。
「紗栄子は蓮と付き合って、結婚して、子供が生まれて幸せそうでさ。それが本当に嬉しかった。」
 紗栄子は膝の上で両手をギュッと握っている。
「でも蓮がこうなって…。そしたらやっぱり放っておけなくて。子供達のことも気になるし。」
 ゴクン!と不自然な音を立てて、紗栄子は唾を飲み込む。
「紗栄子。」
 紗栄子の両手の上に、大志の大きな右手のひらがかぶさる。…汗をかいている。
「結婚を前提に…付き合ってほしいってことです。」
 “です”の声がかすれた。
「泣くなよ…。」
 ポタポタと。大粒の涙が紗栄子の瞳からこぼれ落ちる。
「私の中にはこれからも蓮の存在がしっかりあるんだよ。」
「うん。」
 骨ばった右手親指が、白い手の甲を優しく撫でる。
「蓮の子供達もいるんだよ。」
「うん。」
「大志は素敵な人だし、相手なんか選び放題なんだよ。」
「でもどの女も紗栄子じゃない。」
 見上げると、目が合う。涙の向こうで少しだけかすんでいるけど、じっと見つめる大志の瞳がそこにある。
「俺なんてどうしようもない男だから。紗栄子の一番じゃなくていいから。側にいて役に立ちたいんだ。」
 なんていうデジャヴなんだろう。
 大志と別れた10数年前。東京までわざわざ会いに来た蓮も紗栄子に似たようなことを言っていた。
『俺なんてろくでもない男だから紗栄子に利用されたい。』
 そんなことを思い出して気を取られていたから、大志の顔が近づいていることに気づくのがほんの少し遅れた。
「……!!」
 一瞬だけ唇が触れ合って離れても、大志の顔はすぐ目の前にある。
 大きな両手が両頬を包み込む。熱い。
 紗栄子はゆるゆると小さく首を振った。
「私、大志に大事にしてもらえるような人間じゃない…。」
「それは俺が決めることだ。…いや、俺の意識的な決定でもない。理屈じゃなくて自然とそういう気持ちになるんだから仕方ない。」
「夫を亡くしたばっかりで元カレにあんなこと頼むような人間なんだよ。」
「それだけ蓮のことが大事だからだろ。子供達にもご両親にも心配かけないように我慢した結果だろ。」
「でも結局、大志には甘えちゃったんだよ。すごく勝手に。」
「それは俺が頼もしいんだから仕方ないだろ。」
 紗栄子がどんな言葉のノックを打っても、大志は軽やかに、余裕を持ってキャッチしてしまう。
 大志が親指の腹で流れた涙を拭い終えた直後に、紗栄子は強く瞳を閉じた。そこから一筋の大粒の涙がこぼれ落ち、大志は唇を寄せて舐めとる。
 ごく近いところで視線が絡み合う。互いの吐息が混じり合う。
「好きだよ。」
 耐えられないように、紗栄子は再び瞳をきつく閉じた。
 その後は激しくキスをするしかなかった。本当にどうしようもなかった。大志は紗栄子の頬を包み込んだまま。紗栄子はしがみつくように。
 まさか、いつ拒否をされるかと大志の心が震えているなんて、紗栄子は知りもしないで。
 もう、ベッドまで行く手間も惜しかった。
 嵐のように求め合ううち、大志がとあるところに触れた。出産したときに切開し、縫合した小さな小さな痕。優しく撫でて囁く。
「あの子達の生まれた証だ。」
 傷痕に目が行くのは整形外科医のなせる業か、紗栄子への愛情か。大志自身にもわからないだろう。
「愛してる、紗栄子…。」
 同じ言葉を返すには、気持ちの重みが違う気がして、紗栄子は頷くしかできない。
 薄膜をあてがった大志の熱を飲み込み、紗栄子は泣きながら甘く啼いた。



「車のとこまで送ってく。」
 本当は一回で終わらせたくはなかったーーーけれど、口に出して紗栄子を困らせたくない。
 玄関で互いに靴を履き、紗栄子が見上げ、大志が視線を返す。あまりに自然に二人はキスをする。
「子供達、待ってるな。」
 名残惜しい気持ちをひた隠しにして、大志は紗栄子の背中を押した。
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