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4.どっちがいい?
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ダンジョン、というものは、かつては地下にある牢獄のことを指していたそうだが、今となっては上級魔族たちが住処として、あるいは宝を餌にして愚かな人々を誘い込むために作り上げた迷宮を指している場合が多い。
魔王城の鍵を保管している場所、ということは、もしかすると今回向かうダンジョンは、そのためだけに作られた、つまり魔王城建設に携わった誰かによって作られたものではないかとヘルトルは思う。既にあるどことも知れない者が作ったダンジョンにそんなに大事なものを放り込むのは、不用心にもほどがあるからだ。
そしてその推測は、恐らく当たっているだろう。
「いや~参ったね」
間延びした声を聞いても、ヘルトルの口からは文句ひとつ出てこない。それどころか、視線をシェルムトートから外すことさえできなかった。
山道の途中の茂みに、ひっそりと隠された洞窟の入口。この先に三つに分けられた鍵の一つがあるのだと、意気揚々と乗り込んでいったシェルムトートの頭。
そこに深々と刺さっているのは、黒々と輝く刃が特徴的な斧だった。
言葉を失うヘルトルとは逆に、シェルムトートは至って平静だ。彼は斧の柄を片手で掴むと、ぐっと力を込めて、勢い任せに引き抜いた。
傷口から血が噴き出るが、数秒もすればその勢いは弱まり、一分も経たないうちに何も出なくなった。ヘルトルがおそるおそる彼の頭に手をやれば、大きな傷どころか小さい傷一つ見当たらない。完膚なきまでに完治していた。
さわさわと頭を探られるのが擽ったく感じたのか、シェルムトートが忍び笑いを漏らした。それにはっとしたヘルトルが慌てて手を離すと、シェルムトートは残念そうに「もういいのか?」と聞いてきた。
「別に好きで触ってたわけじゃ……」
そっけなく視線を逸らし、前へと一歩進む。しかし、そのままさらに足を進めようとしたところで、後ろから腕を掴まれた。
声を上げる間もなく、ヘルトルはシェルムトートの後ろに放り出され、代わりに前に出たシェルムトートの胸に、矢が十本ほど飛んできて、そのまま刺さった。
「……」
無言で、シェルムトートが矢を引き抜いて地面に捨てる様を見つめる。服に開いた複数の穴を指でなぞった後、シェルムトートはヘルトルに向かって眉を下げて言った。
「後で縫ってくれる? ヘルちゃん」
裁縫道具は荷物の中に入っている。ヘルトルは苦々しい顔をしつつも、頷くしかなかった。
ヘルトルは、シェルムトートの傷が治る様を、見たことがないわけではない。だがそれは、彼が自分で針仕事をしようとして失敗したときとか、包丁で指を切ったときとか、そんな些細な場面で、遠くから飛んできた武器が派手に刺さるという場面では決してなかった。
いつ、どこから何が飛んでくるか分からない。その心構えができさえすれば、初見殺しだらけのダンジョンは、何とか進めなくもなかった。
ただ、問題なのは。
「おっと」
そう呟いたかと思うと、シェルムトートがヘルトルを胸に抱きこんだ。途端、上から落ちてきた大きな岩が、彼の背中に直撃する。衝撃によって砕けた岩の破片が地面に散らばると、シェルムトートはヘルトルを離し、背中を摩った。
一連の流れが終わったのを見計らい、ヘルトルはシェルムトートに声を掛けた。
「どういうつもりですか」
「なんのことだ?」
あくまですっとぼけた態度をとるシェルムトートに、ヘルトルは表情を強張らせた。
「今のはアンタが手を出さなくても避けられました」
「ああ、そうだったか。すまないな。つい条件反射で――」
「違うでしょう」
ヘルトルは、真正面からシェルムトートを睨みつけた。
「アンタが今わざわざ岩に直撃しにいったのは、そのまま岩が地面に落ちたり、攻撃で壊したりしようものなら、割れた破片が飛び散って、俺が負傷すると読んだからだ」
シェルムトートは、何も言わない。しかし、否定しないということは、肯定しているのと同じなのだと、ヘルトルには分かっていた。
「あまり馬鹿にしないでください。用心していれば、そんなヘマはしないですし、仮に当たっても、大した怪我にはなりません」
そう言い切って、ようやくシェルムトートから目を離す、が。
直後、微かな笑い声が耳に届いたヘルトルはぎょっとして、再びシェルムトートに顔を向けた。
「なに笑ってるんですか!」
「す、すまない。その、ヘルちゃんがあまりにも可愛らしいことを言うものだから」
「はあ?」
予想の範疇から外れたことを指摘され、ヘルトルは訝しんだ。今の会話のどこに、可愛らしいと表現できる部分があったというのか。
的外れだ、とシェルムトートに文句を言おうとしたヘルトルだったが。
「要するに、私に君を庇って欲しくないということだろう? どうせ回復するのだから、気にせず盾にしても構わないというのに。プライド故か、はたまた別の意味があるのかは想像することしかできないが、随分と健気じゃないか」
かっ、と顔に熱が昇る。怒り、悔しさ、恥ずかしさ、それらが全て入り混じって、頭の中が掻き回される心地だった。
ぐっと拳を握りこみ、わなわなと肩を震わせるヘルトルの様子は、傍から見たら物騒なものに違いなかったが、シェルムトートは上機嫌にそれを見やり、口角を上げた。
シェルムトートはヘルトルの数歩前を歩み、振り返って言った。
「お望み通り、余程のことじゃなければ庇うのは止めよう。先はまだまだ長い。慎重に進もうか!」
歩んだ拍子に、何かのスイッチでも踏んだのだろう。シェルムトートの足元から炎が上がるが、彼が軽く手を振ると、蝋燭の火が消えるかのように、たちまちのうちに鎮火した。ただ、彼の纏っている外套は少し焦げてしまったようで、それを見たヘルトルは口元をひくつかせた。
この修繕も、後で自分がやることになるのだろう。
しばらく洞窟を進んでいると、二人は大きな両開きの扉の前へと辿り着いた。天然の洞窟ならば、このようなものがあるのは不自然であるが、ダンジョン内ならばなんらおかしなことはない。
荘厳な装飾が刻まれた扉を、シェルムトートが指でそっとなぞる。その流麗な唇が「ふむ」と微かに動いたのを見て、ヘルトルは「なにか分かりましたか」と尋ねた。
「特定の行動をすることによって、正しい場所へと通じるタイプの扉だな。左右の扉それぞれに刻まれている絵は対称のように見えるが、よくよく見れば異なる点が存在する。いわゆる間違い探しだ」
ぱっと見ても、ヘルトルにはシェルムトートの言う異なる点がどこなのかは分からないが、彼はとっくに正解が何なのか分かっているのだろう。時間を徒に浪費するのは勿体ないので、焦らすな、とシェルムトートを睥睨すると、彼は楽しげに目を細めた。
「ほら、ここだよ」
シェルムトートが指差した部分をもう一つの扉と見比べると、なるほど、確かに違った絵がそこにはある。しかし。
「……これは、どちらをやるべきなんです?」
「扉に掛かっている魔法は二種類だから、どちらもだな」
それを聞いた瞬間、ヘルトルの口から飛び出したのはキレのいい舌打ちだった。
両開きの扉の、目立たない場所に刻まれた非対称の絵。それはどちらも王と騎士を描いたものであるが、二人のしている行動は左右で微妙に異なった。
左は、王の手の甲に口づけている騎士の絵。そして右は、王の足の甲に口づけている騎士の絵だった。
ふざけるな。ヘルトルの頭を、この扉を作った者への罵詈雑言が埋め尽くした。
「二人で来て助かったな。一人だったらこの扉は開かなかったぞ」
それから、シェルムトートの悪口も。
「私はいつでも構わないが」
「なにナチュラルにされる方に回ってるんですか」
「なんだ。ヘルちゃんは私に口づけられたいのか」
「勝手な解釈やめてください。俺はどっちも嫌です」
心なしかいつも以上に腹の立つ笑みと輝く瞳に、ヘルトルは顔を歪めた。
口づけで開く扉なんて、そんな馬鹿な話があってたまるか、と心の底から思う。だが、他にそれらしいヒントがないことも事実で、ヘルトルはうんざりとした気分を抑えることができなかった。
いっそのことシェルムトートを放って、家に帰ってしまうかとさえ思うが、ここまでの厳しい道のりを思うと、収穫なしですごすごと引き下がることも耐え難い。それに、自分が帰っても、シェルムトートは代わりに部下を連れてきて事を成すだけで、大した損害を与えることができないと思うと、どうにも割が合わないように感じられた。
そんなヘルトルの苦悶を知ってか知らずか、シェルムトートは「手からいくか? それとも足?」と声を弾ませている。
「…………手で」
ヘルトルはぎりぎりと奥歯を噛み締めながら、言葉を絞り出した。
俺は騎士で、この手の持ち主は王。口づけはただの忠誠の証で、他意はない。
目の前に差し出された白い手を凝視しながら、ヘルトルは念仏を唱えるかのように、無心で自分に言い聞かせた。だが、時折頭上から降ってくるからかいが、雑音となって思考に割り込んでくる。
俺は騎士で、この手の持ち主は魔王。口づけはただの忠誠の……忠誠……。
「忠誠を誓いたくない……!」
ヘルトルはがっくりと項垂れ、床に膝をついた。挙句、呻き声まで上げ始めたので、それまでにやにやとしていたシェルムトートでさえも「大丈夫か……?」と心配そうに声を掛けてくる。
シェルムトートのことは嫌いではない。嫌いではないが、躊躇いなく手や足に口をつけられるかというと、否と答えるしかない。
その原因は、シェルムトートの人の神経を逆撫でするような態度に瞬時に反発してしまう自身の気質だったり、彼との関係に一時的にでも忠誠や服従などの上下関係を介在させることへの戸惑いであったり、頭に過る過去のあれこれだったりするのだが、それをそっくりそのままシェルムトートに打ち明けることもできず、ヘルトルは悶え苦しむしかなかった。
拳を床に叩きつけるヘルトルを見ながら、シェルムトートは顎に手を当てた。目を伏せ、首を捻り、何かを思案している様子であったが、数秒後、ぱっとその表情を明るくしたかと思うと、ひらめいたと言わんばかりに、ぽんと手を打った。
「へールちゃん」
「何ですか……ってうわっ⁉」
地面から視線を上げたヘルトルは、反応するやいなや飛び掛かってきたシェルムトートに驚愕の声を上げる。そのまま仰向けに地面に倒れこんだヘルトルは、打ち付けた背中に痛みを感じながらも、自身の上にのしかかってきた男を退かそうと手足をばたつかせた。
しかし、元より身長も体重も上回られており、さらに言えば体術の実力も比べ物にならないシェルムトートに、ヘルトルが勝てる道理はなかった。暴れる手足を押さえつけられ、あっという間に無力化されてしまう。
ぶしつけ極まりないシェルムトートの行動を咎めようとしたヘルトルであったが、それよりも前に、シェルムトートの顔が近づいてきて、ヘルトルの耳に言い含めるような言葉を吹き込んだ。
「じっとしててくれ」
悪いようにはしないから、とやけに穏やかな声に、ヘルトルは呆然とした。シェルムトートはヘルトルの身体の力みが緩んだのを確認すると、押さえつけていた右手を恭しく取り――自身の口元まで持っていった。
素肌に感じる少し湿った柔らかな感触に、ヘルトルの思考は吹き飛んだ。
「よし」
身体も頭も働かないヘルトルが抵抗しないことをいいことに、シェルムトートはするするとヘルトルの履物を脱がしていく。それらをまとめて乱雑に扉の前に放ると、ヘルトルの骨ばった足を持ち上げて、その甲に優しく唇を落とした。
軽いリップ音が響いた後、扉の方から、がちゃんと重い音が聞こえた。
魔王城の鍵を保管している場所、ということは、もしかすると今回向かうダンジョンは、そのためだけに作られた、つまり魔王城建設に携わった誰かによって作られたものではないかとヘルトルは思う。既にあるどことも知れない者が作ったダンジョンにそんなに大事なものを放り込むのは、不用心にもほどがあるからだ。
そしてその推測は、恐らく当たっているだろう。
「いや~参ったね」
間延びした声を聞いても、ヘルトルの口からは文句ひとつ出てこない。それどころか、視線をシェルムトートから外すことさえできなかった。
山道の途中の茂みに、ひっそりと隠された洞窟の入口。この先に三つに分けられた鍵の一つがあるのだと、意気揚々と乗り込んでいったシェルムトートの頭。
そこに深々と刺さっているのは、黒々と輝く刃が特徴的な斧だった。
言葉を失うヘルトルとは逆に、シェルムトートは至って平静だ。彼は斧の柄を片手で掴むと、ぐっと力を込めて、勢い任せに引き抜いた。
傷口から血が噴き出るが、数秒もすればその勢いは弱まり、一分も経たないうちに何も出なくなった。ヘルトルがおそるおそる彼の頭に手をやれば、大きな傷どころか小さい傷一つ見当たらない。完膚なきまでに完治していた。
さわさわと頭を探られるのが擽ったく感じたのか、シェルムトートが忍び笑いを漏らした。それにはっとしたヘルトルが慌てて手を離すと、シェルムトートは残念そうに「もういいのか?」と聞いてきた。
「別に好きで触ってたわけじゃ……」
そっけなく視線を逸らし、前へと一歩進む。しかし、そのままさらに足を進めようとしたところで、後ろから腕を掴まれた。
声を上げる間もなく、ヘルトルはシェルムトートの後ろに放り出され、代わりに前に出たシェルムトートの胸に、矢が十本ほど飛んできて、そのまま刺さった。
「……」
無言で、シェルムトートが矢を引き抜いて地面に捨てる様を見つめる。服に開いた複数の穴を指でなぞった後、シェルムトートはヘルトルに向かって眉を下げて言った。
「後で縫ってくれる? ヘルちゃん」
裁縫道具は荷物の中に入っている。ヘルトルは苦々しい顔をしつつも、頷くしかなかった。
ヘルトルは、シェルムトートの傷が治る様を、見たことがないわけではない。だがそれは、彼が自分で針仕事をしようとして失敗したときとか、包丁で指を切ったときとか、そんな些細な場面で、遠くから飛んできた武器が派手に刺さるという場面では決してなかった。
いつ、どこから何が飛んでくるか分からない。その心構えができさえすれば、初見殺しだらけのダンジョンは、何とか進めなくもなかった。
ただ、問題なのは。
「おっと」
そう呟いたかと思うと、シェルムトートがヘルトルを胸に抱きこんだ。途端、上から落ちてきた大きな岩が、彼の背中に直撃する。衝撃によって砕けた岩の破片が地面に散らばると、シェルムトートはヘルトルを離し、背中を摩った。
一連の流れが終わったのを見計らい、ヘルトルはシェルムトートに声を掛けた。
「どういうつもりですか」
「なんのことだ?」
あくまですっとぼけた態度をとるシェルムトートに、ヘルトルは表情を強張らせた。
「今のはアンタが手を出さなくても避けられました」
「ああ、そうだったか。すまないな。つい条件反射で――」
「違うでしょう」
ヘルトルは、真正面からシェルムトートを睨みつけた。
「アンタが今わざわざ岩に直撃しにいったのは、そのまま岩が地面に落ちたり、攻撃で壊したりしようものなら、割れた破片が飛び散って、俺が負傷すると読んだからだ」
シェルムトートは、何も言わない。しかし、否定しないということは、肯定しているのと同じなのだと、ヘルトルには分かっていた。
「あまり馬鹿にしないでください。用心していれば、そんなヘマはしないですし、仮に当たっても、大した怪我にはなりません」
そう言い切って、ようやくシェルムトートから目を離す、が。
直後、微かな笑い声が耳に届いたヘルトルはぎょっとして、再びシェルムトートに顔を向けた。
「なに笑ってるんですか!」
「す、すまない。その、ヘルちゃんがあまりにも可愛らしいことを言うものだから」
「はあ?」
予想の範疇から外れたことを指摘され、ヘルトルは訝しんだ。今の会話のどこに、可愛らしいと表現できる部分があったというのか。
的外れだ、とシェルムトートに文句を言おうとしたヘルトルだったが。
「要するに、私に君を庇って欲しくないということだろう? どうせ回復するのだから、気にせず盾にしても構わないというのに。プライド故か、はたまた別の意味があるのかは想像することしかできないが、随分と健気じゃないか」
かっ、と顔に熱が昇る。怒り、悔しさ、恥ずかしさ、それらが全て入り混じって、頭の中が掻き回される心地だった。
ぐっと拳を握りこみ、わなわなと肩を震わせるヘルトルの様子は、傍から見たら物騒なものに違いなかったが、シェルムトートは上機嫌にそれを見やり、口角を上げた。
シェルムトートはヘルトルの数歩前を歩み、振り返って言った。
「お望み通り、余程のことじゃなければ庇うのは止めよう。先はまだまだ長い。慎重に進もうか!」
歩んだ拍子に、何かのスイッチでも踏んだのだろう。シェルムトートの足元から炎が上がるが、彼が軽く手を振ると、蝋燭の火が消えるかのように、たちまちのうちに鎮火した。ただ、彼の纏っている外套は少し焦げてしまったようで、それを見たヘルトルは口元をひくつかせた。
この修繕も、後で自分がやることになるのだろう。
しばらく洞窟を進んでいると、二人は大きな両開きの扉の前へと辿り着いた。天然の洞窟ならば、このようなものがあるのは不自然であるが、ダンジョン内ならばなんらおかしなことはない。
荘厳な装飾が刻まれた扉を、シェルムトートが指でそっとなぞる。その流麗な唇が「ふむ」と微かに動いたのを見て、ヘルトルは「なにか分かりましたか」と尋ねた。
「特定の行動をすることによって、正しい場所へと通じるタイプの扉だな。左右の扉それぞれに刻まれている絵は対称のように見えるが、よくよく見れば異なる点が存在する。いわゆる間違い探しだ」
ぱっと見ても、ヘルトルにはシェルムトートの言う異なる点がどこなのかは分からないが、彼はとっくに正解が何なのか分かっているのだろう。時間を徒に浪費するのは勿体ないので、焦らすな、とシェルムトートを睥睨すると、彼は楽しげに目を細めた。
「ほら、ここだよ」
シェルムトートが指差した部分をもう一つの扉と見比べると、なるほど、確かに違った絵がそこにはある。しかし。
「……これは、どちらをやるべきなんです?」
「扉に掛かっている魔法は二種類だから、どちらもだな」
それを聞いた瞬間、ヘルトルの口から飛び出したのはキレのいい舌打ちだった。
両開きの扉の、目立たない場所に刻まれた非対称の絵。それはどちらも王と騎士を描いたものであるが、二人のしている行動は左右で微妙に異なった。
左は、王の手の甲に口づけている騎士の絵。そして右は、王の足の甲に口づけている騎士の絵だった。
ふざけるな。ヘルトルの頭を、この扉を作った者への罵詈雑言が埋め尽くした。
「二人で来て助かったな。一人だったらこの扉は開かなかったぞ」
それから、シェルムトートの悪口も。
「私はいつでも構わないが」
「なにナチュラルにされる方に回ってるんですか」
「なんだ。ヘルちゃんは私に口づけられたいのか」
「勝手な解釈やめてください。俺はどっちも嫌です」
心なしかいつも以上に腹の立つ笑みと輝く瞳に、ヘルトルは顔を歪めた。
口づけで開く扉なんて、そんな馬鹿な話があってたまるか、と心の底から思う。だが、他にそれらしいヒントがないことも事実で、ヘルトルはうんざりとした気分を抑えることができなかった。
いっそのことシェルムトートを放って、家に帰ってしまうかとさえ思うが、ここまでの厳しい道のりを思うと、収穫なしですごすごと引き下がることも耐え難い。それに、自分が帰っても、シェルムトートは代わりに部下を連れてきて事を成すだけで、大した損害を与えることができないと思うと、どうにも割が合わないように感じられた。
そんなヘルトルの苦悶を知ってか知らずか、シェルムトートは「手からいくか? それとも足?」と声を弾ませている。
「…………手で」
ヘルトルはぎりぎりと奥歯を噛み締めながら、言葉を絞り出した。
俺は騎士で、この手の持ち主は王。口づけはただの忠誠の証で、他意はない。
目の前に差し出された白い手を凝視しながら、ヘルトルは念仏を唱えるかのように、無心で自分に言い聞かせた。だが、時折頭上から降ってくるからかいが、雑音となって思考に割り込んでくる。
俺は騎士で、この手の持ち主は魔王。口づけはただの忠誠の……忠誠……。
「忠誠を誓いたくない……!」
ヘルトルはがっくりと項垂れ、床に膝をついた。挙句、呻き声まで上げ始めたので、それまでにやにやとしていたシェルムトートでさえも「大丈夫か……?」と心配そうに声を掛けてくる。
シェルムトートのことは嫌いではない。嫌いではないが、躊躇いなく手や足に口をつけられるかというと、否と答えるしかない。
その原因は、シェルムトートの人の神経を逆撫でするような態度に瞬時に反発してしまう自身の気質だったり、彼との関係に一時的にでも忠誠や服従などの上下関係を介在させることへの戸惑いであったり、頭に過る過去のあれこれだったりするのだが、それをそっくりそのままシェルムトートに打ち明けることもできず、ヘルトルは悶え苦しむしかなかった。
拳を床に叩きつけるヘルトルを見ながら、シェルムトートは顎に手を当てた。目を伏せ、首を捻り、何かを思案している様子であったが、数秒後、ぱっとその表情を明るくしたかと思うと、ひらめいたと言わんばかりに、ぽんと手を打った。
「へールちゃん」
「何ですか……ってうわっ⁉」
地面から視線を上げたヘルトルは、反応するやいなや飛び掛かってきたシェルムトートに驚愕の声を上げる。そのまま仰向けに地面に倒れこんだヘルトルは、打ち付けた背中に痛みを感じながらも、自身の上にのしかかってきた男を退かそうと手足をばたつかせた。
しかし、元より身長も体重も上回られており、さらに言えば体術の実力も比べ物にならないシェルムトートに、ヘルトルが勝てる道理はなかった。暴れる手足を押さえつけられ、あっという間に無力化されてしまう。
ぶしつけ極まりないシェルムトートの行動を咎めようとしたヘルトルであったが、それよりも前に、シェルムトートの顔が近づいてきて、ヘルトルの耳に言い含めるような言葉を吹き込んだ。
「じっとしててくれ」
悪いようにはしないから、とやけに穏やかな声に、ヘルトルは呆然とした。シェルムトートはヘルトルの身体の力みが緩んだのを確認すると、押さえつけていた右手を恭しく取り――自身の口元まで持っていった。
素肌に感じる少し湿った柔らかな感触に、ヘルトルの思考は吹き飛んだ。
「よし」
身体も頭も働かないヘルトルが抵抗しないことをいいことに、シェルムトートはするするとヘルトルの履物を脱がしていく。それらをまとめて乱雑に扉の前に放ると、ヘルトルの骨ばった足を持ち上げて、その甲に優しく唇を落とした。
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