雨に濡れた桜 ~能面課長と最後の恋を~

國樹田 樹

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能面課長と前途多難な同棲生活

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 結婚する前には一度同棲して、相手との相性を確かめた方がいい、なんて既婚者の友達によく言われたものだった。

 だけどまさか自分がこんな理由で同棲生活をスタートさせることになるとは、夢にも思わなかった。

「……女性はもっと荷物が多いものだと思っていたが、偏見だったな」

 暮れていく茜空を背にした課長が、旅行用バッグ二つ(かなり大きめ)を両手に持ったまま顔色ひとつ変えずに言った。かなり詰め込んだのでぎちぎちに中身が詰まっているはずだけど、彼にとっては何でもない重さらしい。私は一つを抱えて持つのがやっとだというのに。それも彼が全部持ってくれたから、結局私は手ぶらになってしまった。

 体格がしっかりしているからあんなに重くても平気な顔が出来るんだろうか。

 確かに脱いだ時の課長ってばすご……って今はそんなこと思い出してる場合じゃないでしょ私ったらっ。

 つい課長の綺麗な筋肉のついた身体を思い浮かべそうになり慌てて頭を振った。当の本人は私の部屋の玄関で靴を履いてきょとんとしている。

 彼が私の部屋に入ったのはこれで二度目だな、と思い出した。

「十分多いと思いますよ。というか、なんだかすみません」

「いや、このくらい平気だから気にしないでくれ。無理を言ったのは俺の方だ」

 課長に先に玄関から出てもらい、私はドアの鍵を閉めた。一週間はこの部屋ともお別れだ。冷蔵庫に生ものを置いていなくてちょうど良かったなと思う。

 ベランダに置いてある鉢植えも明日は雨の予報が出ていたから大丈夫だろう。元々あまり水をやらなくて良い種類のものを選んでいたのが幸いした。

 あれから午後を迎えた私達は今度は二人で専務に呼ばれた。

 その時始めて聞かされたのが、専務と課長が実は十年来の付き合いだということだった。

 専務は以前課長が連れて行ってくれたレストラン「La fleur」のオーナーご夫妻、比沙子さんのお兄様なのだそうだ。

 聞かされた時は驚いたけれど、言われてみれば確かに親しみやすい雰囲気が似ているなと思う。

 専務はちょうど来年定年を迎える初老の紳士で、朝は顔を合わせた社員達に役職問わず声をかけてくれたり、掃除のおばちゃんにお礼を言ったりするような柔和な人だ。私も何度か挨拶をしたことがある。

 元々は課長のお祖母様が専務と旧知の仲であったらしく、お祖母様亡き後の大学時代を支えてくれたのが比沙子さん達安西夫妻であったのだと説明してくれた。本社勤務だった課長が異動することになったのも専務が助力を依頼したのが理由らしい。

「私、専務とあんなに長く話したのは始めてでした。以前から良い方だとは思っていましたけど……課長のこと、大事に思ってくださってるんですね」

 ただの平社員である私に「尚人君をよろしく頼む」と言って頭を下げた専務の姿に、私は郷里にいる父を思い出した。

 専務にとって課長は息子も同然なのだろう。専務のおかげで私達は午後から有給扱いになり、今は二人で私の当面の荷物をアパートに取りに来ている。

「本来なら十八で祖母が亡くなった後独りきりになるはずだった俺を、ずっと家族として支えてくれた得難い人だ。未だに頭が上がらないのも、そのせいだな」

「そうなんですね……」

 課長が車に荷物を積み込みながら嬉しそうに話してくれる。仕事上がりなのもあって今の彼はスーツの上着を脱いだシャツ姿だ。そのせいかより雰囲気が柔らかく見えた。

 状況は決して良いとは言えないのに、腕まくりをして逞しい腕を晒している課長が格好良い。彼であれば何を着ていても格好良いとさえ思う。それくらい、私はこの人が好きなのだ。

 専務からは、カイズ・エリアル社会長のスキャンダルをスクープするためにマスコミ関係者から接触があるかもしれないと言われた。私からすれば別世界の話に思えるけれど、今はその渦中にいるのが課長で、私は彼の恋人という位置だから大事を取って一緒に雲隠れさせてくれることになったのだ。

 「恐らく荒井会長が何らかの策を講じるだろう」とは専務の弁だ。

 ついでに尚人とゆっくり過ごせばいいよ、なんて茶目っ気たっぷりに言われもした。妹の比沙子さんから、お店に私がやって来たことを聞いていたらしく早く話がしたかったそうだ。知らなかったとはいえ、もしかしたら会社で知らぬ間に見られていたのかと思うと少し恥ずかしかった。

「帰りに適当に何か買っていこう。ある程度買いだめしたら、後はネットスーパーでも利用するか」

「それがいいかもしれませんね」

 車に乗り込んでから二人で簡単に必要な物を相談し合った。

 今のところ課長の家は会社の社員名簿でしか知る術はないけれど、どこから話が漏れるかわからないから居場所が割れるのも時間の問題だそうだ。そのため極力外には出ないように言われている。

 幸い課長の住むマンションはオートロックのため、こちらが開錠しない限りは基本的に部外者は入って来られない。一階のロビーには管理人兼警備員さんも常駐しているそうなので私のアパートなどよりは余程安全だ。

「……すまない、不便をかけて」

「謝らないでください。課長のせいではないでしょう?」

 車に乗りシートベルトをしながら謝罪の言葉を口にする課長に何を言っているんですかと微笑むと、彼はいつもの無表情をほんの僅か歪ませてすっと片手を私の方へ差し出した。大きな掌が、恐れるように恐々と私の頬を包み込む。ふっと短い吐息が課長の薄い唇から零れていた。

「君がそうやって笑ってくれるから、俺は時々自制するのが難しくなる。より強く、君を離したくないという思いに駆られてしまう」

「え、あ、あの課長……っ」

 課長が親指でゆっくり私の頬を撫でる。色と欲を滲ませた触れ方に、びくりと私の身体が反応した。
「悪い。さっさと買い物して、早く帰ろう。君に触れたくて仕方がない」

「え、あ……は、い……ん」

 課長は少しだけ苦笑して言うと、そっと掠めるみたいな口付けをした。ほんの一瞬触れるだけの行為に私の熱は簡単に高まってしまう。熱くなる頬をそっと両手で押さえると、くすくすと微かな笑い声がした。目を向けると茜色の暮れゆく空を背景にした綺麗な彼の微笑があった。とても優しい表情なのに、ちりちりと私の心を焦がし疼かせる。

「不謹慎だが、君と四六時中居られるなんて、俺は幸せだ」

 しかもそんな言葉で私に追い打ちまでかけてくる。心臓が暴れ出しそうになった私は「もう、課長ってば」なんて拗ねた振りをするのが精一杯だった。それを嬉しそうに聞きながら、エンジンをかけ車を走らせる課長はどこか満足そうに眼鏡の奥の瞳を細めていた。

 課長と同棲。外出も控えるとなると、本当にずっと一緒ということになる。

 た、耐えられるのかしら私。

 特に心臓が持つのかしら。だって課長って、家だと特にいつもと違って雰囲気が柔らかくなるもの。

 ギャップが凄いのよギャップが。ああどうしよう、なんだかどうしようしか言えないわ。

 律子に相談すれば良かった。といってもあれよという間に決まったからそんな暇も無かったのだけど。

 思いがけず始まった同棲生活に、私は脳内でぐるぐる自問自答しながら色々な意味も含めてこれは前途多難かもしれないなと思ったのだった。
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