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能面課長のきっかけ
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「終わりました」
「ありがとう。それじゃ、はい」
「え、ええっと……」
流石に後片付けくらいはさせて欲しいと、洗い物を無理矢理し終えた私はリビングのソファで待っていた課長に声をかけた。だけど次の瞬間には彼が取った行動に少々困惑していた。というより、赤面していた。
はい、って……なぜ両手を広げて待っているのかしら。しかも無表情よ。無表情だわ。いやでも目はちょっと柔らかい気がするけど。やっぱり自宅だからかしら。
ここにおいでとばかりに両手を広げたまま待ち構えている課長を前に戸惑っていると、彼が首をことりと傾げた。
その仕草がまるで主人の行動を不思議がる動物のようで、私の胸がきゅんとなる。
「来てくれないのか?」
「い、行きます……」
拒否する理由も無ければ正直嬉しいとも思うので、恥ずかしながらもすごすごと彼の広げた腕の中へと納まった。
するとぎゅうっと腰元に抱き着かれてしまう。課長の顔が私の腹部に埋まった。
ええと……。
これは、甘えてくれているんだろうか。
試しに髪を撫でてみると、ぐりぐりと顔を押し付けられた。もっとやってくれという事らしい。可愛らしくてつい自然と笑みが零れてしまう。
なんというか、大型犬を相手にしているみたいだ。実際、課長は身長百八十を越えているから、大きい男性ではあるのだけど。
三十も越えた人なのに、家じゃこんなに可愛らしいだなんて反則だ。少し前までは、仕事を押し付けてくる面倒な人でしかなかったのに、近づけばこうまで印象が変わるとは。自分でも驚く。
この気持ちをなんと言えばいいのだろう。好き、という単純な言葉だけでは言い表せないこれは。
心がむず痒くて仕方がない。
嬉しいけれど。とても、嬉しいのだけど。
嬉し恥ずかし、というやつだ。
「あの、課長……っきゃ」
「君はやっぱり、軽いな」
顔が見えないのが寂しくて、話しかけようとしたら素早く腰を掴まれくるりと方向転換された。しかもそのまま、ひょいっと持ち上げられて課長の膝の上に横抱きにされてしまう。
わわわ、と唇を震わせる私を見て、課長はまた眼鏡の奥で微笑んでいた。
ふと、この人の感情は口元ではなく瞳によく表れるなと思った。無感情なわけではなく、硝子一枚隔てた向こう側で様々な色を実は見せている。
ただ他の部分にそれが見えないから、わかり辛いだけなのではないだろうか。
課長の目は普段は鋭くて、どちらかと言えば白目が多い方だ。なのに、笑んだ瞬間だけ細まった瞳の中で黒目が際立つ。
それがより印象を一気に柔らかくして、凛とした強さの中に秘した彼の優しさを露わにしている。私の好きな、彼の笑顔だ。
この顔を知っているのは自分だけなのだと思うと、じわりとした愉悦に似た喜びを感じた。
「も、もうっ、降ろしてください。恥ずかしいです」
「そうか。俺は楽しいが」
「楽しいって……尚人さんたら」
「ああ、名前。呼んでもらえるのも嬉しい。こうして君に触れられるのは勿論だが、その声に呼ばれるのはまた格別だな」
感慨深げに言って、課長は頭頂部に軽く口づけてくる。彼が醸し出す空気が甘い。
それにどこか、熱い。
「な、何を言って……」
「本当だ。なあ茜、笑ってくれないか。君の笑顔が俺は好きだ。君に俺の腕の中で笑ってもらえたらどんなにいいかと、以前から思っていた」
状況を忘れて甘さに浸ってしまいそうな私の心を、課長がじわじわと追い詰めてくる。私は情けなくも眉尻を下げながら彼を見上げた。きっと今、私の顔は真っ赤なんだろう。だって仕方ない。課長に眼鏡越しにこんな風にじっと見つめられて、平気でいられるわけがない。
「……私だって、課長の笑った顔、好きです……」
「それは光栄だな」
つい今ほど考えた通りのことを口から零すと、眼鏡越しの瞳が一瞬見開いて、それからまたふっと柔らかく微笑まれた。
背中を支えてくれる手にくっと力が籠められる。大きな掌の感触に、ほんの僅か下腹の奥が震えた。
「きっかけは……君が口にしたある言葉だったんだ」
「言葉?」
「ああ。それを聞いてから、俺は君を目で追うようになった。……君は『たとえ嘘の笑顔でも、誰かのためならそれは優しさ』……そう、言っていた」
するり、と課長が私の髪を指で梳いた。
彼の指先から髪の毛がはらはら落ちていく。やや深い呼吸の音が聞こえた。課長は肩で深く深呼吸をすると、そのまま私の頭を引き寄せて、ぎゅうと強く身体を抱きしめた。
「……君のその言葉を聞いた時、俺は、過去の自分が救われたような気がしたんだ」
それが、君を好きになったきっかけだ。と。課長は続けた。
彼の透明な硝子越しに見える綺麗な瞳に、ほんの少し、陰が混じるのを見た。
「ありがとう。それじゃ、はい」
「え、ええっと……」
流石に後片付けくらいはさせて欲しいと、洗い物を無理矢理し終えた私はリビングのソファで待っていた課長に声をかけた。だけど次の瞬間には彼が取った行動に少々困惑していた。というより、赤面していた。
はい、って……なぜ両手を広げて待っているのかしら。しかも無表情よ。無表情だわ。いやでも目はちょっと柔らかい気がするけど。やっぱり自宅だからかしら。
ここにおいでとばかりに両手を広げたまま待ち構えている課長を前に戸惑っていると、彼が首をことりと傾げた。
その仕草がまるで主人の行動を不思議がる動物のようで、私の胸がきゅんとなる。
「来てくれないのか?」
「い、行きます……」
拒否する理由も無ければ正直嬉しいとも思うので、恥ずかしながらもすごすごと彼の広げた腕の中へと納まった。
するとぎゅうっと腰元に抱き着かれてしまう。課長の顔が私の腹部に埋まった。
ええと……。
これは、甘えてくれているんだろうか。
試しに髪を撫でてみると、ぐりぐりと顔を押し付けられた。もっとやってくれという事らしい。可愛らしくてつい自然と笑みが零れてしまう。
なんというか、大型犬を相手にしているみたいだ。実際、課長は身長百八十を越えているから、大きい男性ではあるのだけど。
三十も越えた人なのに、家じゃこんなに可愛らしいだなんて反則だ。少し前までは、仕事を押し付けてくる面倒な人でしかなかったのに、近づけばこうまで印象が変わるとは。自分でも驚く。
この気持ちをなんと言えばいいのだろう。好き、という単純な言葉だけでは言い表せないこれは。
心がむず痒くて仕方がない。
嬉しいけれど。とても、嬉しいのだけど。
嬉し恥ずかし、というやつだ。
「あの、課長……っきゃ」
「君はやっぱり、軽いな」
顔が見えないのが寂しくて、話しかけようとしたら素早く腰を掴まれくるりと方向転換された。しかもそのまま、ひょいっと持ち上げられて課長の膝の上に横抱きにされてしまう。
わわわ、と唇を震わせる私を見て、課長はまた眼鏡の奥で微笑んでいた。
ふと、この人の感情は口元ではなく瞳によく表れるなと思った。無感情なわけではなく、硝子一枚隔てた向こう側で様々な色を実は見せている。
ただ他の部分にそれが見えないから、わかり辛いだけなのではないだろうか。
課長の目は普段は鋭くて、どちらかと言えば白目が多い方だ。なのに、笑んだ瞬間だけ細まった瞳の中で黒目が際立つ。
それがより印象を一気に柔らかくして、凛とした強さの中に秘した彼の優しさを露わにしている。私の好きな、彼の笑顔だ。
この顔を知っているのは自分だけなのだと思うと、じわりとした愉悦に似た喜びを感じた。
「も、もうっ、降ろしてください。恥ずかしいです」
「そうか。俺は楽しいが」
「楽しいって……尚人さんたら」
「ああ、名前。呼んでもらえるのも嬉しい。こうして君に触れられるのは勿論だが、その声に呼ばれるのはまた格別だな」
感慨深げに言って、課長は頭頂部に軽く口づけてくる。彼が醸し出す空気が甘い。
それにどこか、熱い。
「な、何を言って……」
「本当だ。なあ茜、笑ってくれないか。君の笑顔が俺は好きだ。君に俺の腕の中で笑ってもらえたらどんなにいいかと、以前から思っていた」
状況を忘れて甘さに浸ってしまいそうな私の心を、課長がじわじわと追い詰めてくる。私は情けなくも眉尻を下げながら彼を見上げた。きっと今、私の顔は真っ赤なんだろう。だって仕方ない。課長に眼鏡越しにこんな風にじっと見つめられて、平気でいられるわけがない。
「……私だって、課長の笑った顔、好きです……」
「それは光栄だな」
つい今ほど考えた通りのことを口から零すと、眼鏡越しの瞳が一瞬見開いて、それからまたふっと柔らかく微笑まれた。
背中を支えてくれる手にくっと力が籠められる。大きな掌の感触に、ほんの僅か下腹の奥が震えた。
「きっかけは……君が口にしたある言葉だったんだ」
「言葉?」
「ああ。それを聞いてから、俺は君を目で追うようになった。……君は『たとえ嘘の笑顔でも、誰かのためならそれは優しさ』……そう、言っていた」
するり、と課長が私の髪を指で梳いた。
彼の指先から髪の毛がはらはら落ちていく。やや深い呼吸の音が聞こえた。課長は肩で深く深呼吸をすると、そのまま私の頭を引き寄せて、ぎゅうと強く身体を抱きしめた。
「……君のその言葉を聞いた時、俺は、過去の自分が救われたような気がしたんだ」
それが、君を好きになったきっかけだ。と。課長は続けた。
彼の透明な硝子越しに見える綺麗な瞳に、ほんの少し、陰が混じるのを見た。
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