雨に濡れた桜 ~能面課長と最後の恋を~

國樹田 樹

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能面課長と、最後の恋を

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 風が頬を撫でていく。

 時は夕暮れ。
 街路樹の葉がざわめき、私の名と同じ色が西の空を染めている。

 エントランスに伸びる影は三つ。

 私と課長と、そして荒井会長のものだった。

「……今回は迷惑をかけて本当にすまなかった。今後一切、こんなことの無いようにすると誓おう。君の前に姿を現すこともだ」

 荒井会長が申し訳なさそうに言うのを、課長が片手を上げて止めた。次に首を横に振りながら、真っ直ぐ会長を見据えた。

「そこまでしなくとも結構です。それよりも、都合が良い日があればまた連絡してください」

 課長の言葉に荒井会長は驚いたように目を開き、瞬きするのも忘れたようにぴたりと動きを止めていた。

 なぜ、と雄弁に語っているその表情に、課長はほんの少しだけ瞳を和らげて、ゆっくりと続きを語る。

「墓参りに一緒に行けば、きっと母も喜ぶでしょう」

「な、尚人君」

「行く度に新しい花があれば、流石に誰だかわかりますよ」

 やや苦笑しながら課長が言う。

 言葉の雰囲気から、荒井会長がこれまで一人で晶子さんのお墓参りに通っていたのだろうことが窺えた。

 課長はそれをわかっていて、止めることはしなかったのだ。その時点で、課長の中で答えはあったのだろう。

 荒井会長は悪戯をした子供のように「ばれていたか」と笑って、課長の気遣いを噛み締めるように頷いていた。

「ああ……申し出に感謝するよ。ぜひお願いしたい。楽しみにしている」

 会長はそう言うと、温かい、皺の寄った笑みを見せてくれた。



 私と課長は荒井会長を見送った。

 黒塗りの車に乗り込む会長の隣には項垂れる清隆社長と兼崎さんが乗っていた。会長は今後一切二人を私達に関わらせないと約束をしてくれた。

 清隆社長は暫く謹慎、兼崎さんについてはうちの会社の社員のため専務の判断になるが、取引先の内情を暴露したようなものなので、恐らく支社への異動になるだろうとの事だった。

 荒井会長は「もっと厳しくすることもできる」と言ってくれたけれど、課長がそれを望んでいないことから今回はそれで落ち着いた。

 最後に、会長は私達にひとつ爆弾を落としていった。

 それは清隆社長が「荒井会長の息子ではない」という衝撃の事実。

 荒井家では周知の話らしいが、世間にはもちろん公開されていない。会長自身は「私はあれの母親を愛せなかった。だからせめてもの償いとして、これまでは息子として扱ってきたつもりだ」と打ち明けてくれた。

 会長が語る「巻き込んだ」人間の中に、清隆社長も含まれているのだろう。

 強い罪悪感を滲ませた会長の言葉に、課長も私も何も言う事が出来なかった。荒井会長は清隆社長とこれから向き合うつもりなのだろう。

 それは二人の問題であり、課長も実子とはいえ口をはさむ気は無いようだった。

 恐らく今後荒井会長と課長は他とはちょっと違った父子の形を築いていくのかもしれない。過去は過去として。

◇◇◇

「君には本当に、迷惑をかけてしまったな」

 部屋に戻ってから、課長が荒井会長と同じ言葉を私にかけた。リビングには茜色が差し込み、窓辺にある一才桜を美しく染め上げていた。

 私は課長の言葉に首を竦めながら、笑って用意していた答えを口にする。

 だって好きな人にかけられる迷惑が嫌なわけがない。しかも相手がこんな不器用で、可愛らしい笑顔の素敵な人であれば、尚更。

「迷惑なんかじゃありません。課長の、尚人さんの人生の深い部分に関わらせてもらったこと、正直言って嬉しかったんです」

 課長に恋をして気付いたのは、私はかなり現金で、そして独占欲も執着心も結構ある女だということ。

 課長の可愛らしい告白にときめいたり、兼崎さんが現れて嫉妬で悶々としたり、課長の笑顔を自分だけのものにしたいと思ったり。

 これまで付き合ってきた人には感じなかった様々な感情を、私は課長に教えてもらった。

 今ならわかる。きっと私はこの年齢になるまで、一度も本当の『恋』をしたことがなかったのだ。

 甘酸っぱい初恋は若いころならではのもので、こうまで切ない想いを抱いたことはなかった。

 だからこれはきっと、私にとって最初で……そして場合によっては最後の恋になるのだろう。

「尚人さん?」

 そんな風に思っていたら、リビングに入ったところで突然、後ろから課長に抱きしめられた。

 私から彼の顔は見えない。だけど、お腹に回った両腕がぎゅっと強くなるのを感じて、ただじっと静かに反応を待った。

 すると課長は腕をふっと緩めて、私の肩を軽く掴み反転させた。くるりと回った視界に課長の怖いくらい真剣な表情が映る。

「あの、」

「茜」

「は、はい」

 課長の眼鏡の奥の瞳が痛いほど私を凝視している。

 緊張しているような様子に何だろうと思いながら言葉を待っていると、彼の薄い唇が意を決したように動き始めた。

「結婚、してくれないか」

「……え?」

 思いがけない言葉に、ひとりでに瞼が大きく上がっていく。私は今きっと、とても間抜けな顔をしているのだろう。

 課長の言葉だけが脳内ではっきりと響き、全ての音が消えた気がした。

 い、今、なんて。

 ぱちり、と目を瞬いて課長の顔を伺うと、彼は初めて見せてくれたのと同じように、ふわりと桜の花が一輪綻ぶような優しい微笑を浮かべた。

「君に生涯の伴侶になって欲しい」

 課長の手が私の頬を滑る。そしておとがいをやんわり掴むと、優しく、けれど有無を言わせない動作で唇を当てられた。

 背中に腕を回され、胸が密着するほど押し付けられる。

「っ、ふ、ぁ、」

「茜、君が好きだ……愛してる」

 口付けはただ触れるだけでなく、口唇を割り内側を擽る官能を含んだものだった。しかもしっかりした腕が身体を捕まえているせいで逃げられない。

 突然のプロポーズと性急な深いキスに混乱する私の口内を、課長が舌を差し入れてより一層攪乱していく。

「愛……してる、君を、愛してるんだ」

 息継ぎの合間に何度も想いを囁かれ、私は口付けで昂る熱とプロボーズでの胸の高鳴りに溺れてしまいそうだった。

 課長の息が熱い。触れている唇が熱い。背に回った腕が強い。まるで、離したくないのだと全身で訴えられているみたいだった。

「なおと、さ」

「俺の妻になってくれ、君でなければ駄目なんだ、頼む……っ、」

 切羽詰まったようにそう繰り返す尚人さんの肩を、私は両手で軽く叩いた。

 だってこれでは、返事をしようにも出来ないから。

 それどころか足腰も立たなくなってしまいそうだ。というより、もしかしたら彼はそれを狙っているのかもしれない。

 身体は隙間なく密着していて、背中には腕が回っていて、さながら捕らわれているようだった。

 まるで熱で翻弄してそのまま受け入れさせようとするような、珍しくも強引な姿に強く求められているのだと感じて嬉しくなる。

 こんな風に思う時点で、私はもう彼に抗いようがないのだ。

 だから―――

「待……って、へんじ、できな……っ」

「あ、ああ、すまない」

 何回か肩をとんとん叩いて、どうにか声を絞り出せばやっと課長が口付けから解放してくれた。

 だけどまだ、背中に腕は回ったまま。

 課長の眼鏡の奥の瞳には、緊張からか不安げな光が揺らめいていた。彼の綺麗な瞳にも、眼鏡のレンズにも、私の名前の色が映っている。

 私はそんな彼にふっと笑いかけてから、窓辺で静かに佇む一才桜に視線を向けた。

 小さな桜はそう見えないほど凛と美しく葉を茂らせている。私は桜に心で一言断りを入れてから、課長に———尚人さんに向き直った。

 私の胸に課長の薄いシャツ一枚越しの熱い肌が触れている。会社では能面課長と呼ばれて、私だってそう思っていたのに、彼の体温はこんなにも温かく、熱いのだ。

 微笑む表情はぽっと咲いた一輪の桜のようなのに、時々狂い咲きのように激しい情熱をぶつけてくれる。

 そんな彼を、ここまで愛しいと思う事になるとは、あの時は思わなかった。

「尚人さんは……桜のようです」 

 私の唐突な言葉に、尚人さんが先程私がしたのと同じように目をぱちりと瞬いた。

「俺が桜?」

 「はい。最初、尚人さんの笑った顔を見た時にそんな印象を受けました」

 地下倉庫で初めて彼の本質に触れた時の事を思い出しながら、私はゆっくり語った。

  課長は少し考えるそぶりをして、それから私を見てふっと柔らかく微笑んだ。また、空間に一輪桜の花が咲く。

 「……だったら、君は夕日の茜色だ。花も景色も、熱く染める」

 「え?」

「あ、いや……」

  言った後、課長ははっとしたように目を見開いて、それからぱっと顔を背けた。頬と目尻がほんのり赤い。

 どうやら照れているらしい。女性が男性に染まる、という話は聞いたことがあるけれど、その逆を自分が口にしたと気付いたのだろう。

 本当に、どこまでも可愛らしい人だ。

 尚人さんは、私で熱く染まってくれるらしい。

 彼の言葉に、たとえようもない喜びが溢れた。

「尚人さん」

「茜」

「私と、結婚してください」

 プロポーズされて、プロポーズをかえす。頼まれずとも、貴方の妻になりたいのだと言葉にする。

 彼の告白を最初に受けた時、尚人さんは今と同じように私に「頼む」と言った。付き合ってほしいと、試しでもいいから頼むと。

 けれど私の方だって彼に強く惹かれていたのだ。

 お願いしたいのは、私だって同じ。

「いい、のか?」

「もちろん。私も尚人さんを愛していますから」

 一瞬呆然となった彼の瞳に焦点が戻り、背に回った腕に再び力が込められる。そしてそのまま、ばっと 掻き抱くように深く深く抱きしめられる。

「茜、茜……! 君を、幸せにする。必ず、君を幸せにすると、誓う」

「ふふ。私も尚人さんを幸せにします。だからずっと……笑っていてくださいね」

「……ああ」

 私の好きな人が、桜が一輪綻ぶように笑う。

 この笑顔を見た瞬間に、私は恋に落ちたのだ。

 再び熱く激しい、それでいて優しい口付けを受けながら、私は桜咲く季節に彼と出会えたことに感謝した。

 彼の涙で濡れ続けた一才桜が、茜差し込む窓の下、美しく若葉を茂らせている。

 あの桜はもう二度と、涙の雨に濡れることはないだろう。

 私がさせないからだ。

「生涯、幸せであろう。俺も君も、ずっと離れず生きていこう」

「はい……!」

 そう心に決めながら、私は一輪の桜が咲き綻ぶように笑う愛しい人に彼が好きだと言ってくれた笑顔で答えた。

 『能面課長』である彼との恋は―――私にとって「最後の恋」になった。



「雨に濡れた桜 ~能面課長と最後の恋を~」完
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