悪代官に恋をして ~優しい顔には裏がある~

國樹田 樹

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悪代官の手中に堕ちて

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「螢沢、さん……?」

 頬に触れる手の体温はあまりに熱く、視線も仄かな恐怖を抱くほど熱っぽい。

 一体何が起きているのかと、驚きに固まったまま唇を動かす。

 けれど望んだ言葉は喉奥で止まり、身体は金縛りにあったが如く動かなくなっていた。

「あ、あの」

「本当に可愛らしい。やはり、理人には渡せませんね」

「え―――」

 どうしてここで高遠さんの名が出てくるのかと疑問に思う間も無く、竹刀を弾かれ空手となった腕を唐突にぐいと引かれた。

 身体が前のめりに倒れ込んでいく。
 しかしぽすんと軽い音がして、次の瞬間、彼の胸に受け止められたのだと気付いた。

 広く、分厚い胸の中でオーデコロンの香りに混じる男性らしい野性的な臭いを感じる。

「ああああのっ……!?」

「じっとして。そのままで」

 懐に入るどころか抱き締められている状況に、駆け出したいような嬉しさで泣き出したい気持ちになった。

 胸元に深く抱き込まれているせいで、螢沢さんの少し早い心臓の音が咄嗟についた掌に伝わっている。

「ふふ、年甲斐もなく緊張しているんですよ……告白なんて、もうする事も無いと思っていましたが……貴女が可愛らし過ぎて、愛し過ぎて、どうにも諦めがつきませんでした」

 ……告白? 可愛い? 

 愛しい……?

 聞いたのは確かに日本語の筈なのに、異国の単語を耳にしたような心地になる。

 わかるようでわからない言葉の羅列が思考を駆け巡っていく。

 彼は一体、誰のことを言っているんだろう?

 諦めがつかなかったとは、誰のことなんだろうか。

 脳の理解が追いつかない。

 私は真意を問う事も出来ずに、ぽかんとした顔のまま太い首筋を辿り彼の顔を見上げていた。

「聞こえませんでしたか? 僕は葵さん、貴女が愛しいんですよ」

 くすくす、と震える喉の振動に私は飛び上がりそうなった。

 やっと頭が言われた意味を理解したのだ。

「そ、れは……っ?」

 おかげで心臓が早鐘どころか弾けて壊れてしまいそうになる。

 目の奥から熱いものが込み上がっていた。

 愛しいって、告白って、今、言ったの?

 それは、つまり―――

 不安と期待が入り混じる。
 にわかには信じられなかった。

 自分の願望が見せている夢ではないかと。

 だから思い切って訪ねようとした……が瞬間、彼の右手、無骨な指先が私の顎にあてがわれていた。

 彼が持っていた竹刀が床に落ち、無音の道場に鳴り響く。

 びくりと震えた顎先を、そのままくんっと持ち上げられた。

 普段の様子からは想像のつかない強引さに、身体の奥底に甘い疼きが巻き起こる。

「僕が恐いですか……? 怯えさせてしまったようですね」

「っそ、んな、ことは」

 虚勢を張ったら、艶やかな微笑でもって返され声が喉でつっかえた。

 一変した空気に呑まれて上手く言葉が紡げない。

 目の前にいるのは見知った人で好きな人なのに、まるで肉食獣を目の前にした草食動物のように身動きが取れない。

 抱く腕は優しいのに視線は強く射るようで、自分が捕食者に捕獲されたような不思議なぞくりとした感覚が背に湧き上がっていく。

「ふふ、震えてますね。怯える貴女もとても可愛い」

「っ……」

 すっと顔を近づけられて、唇の隙間からあ、と小さく声が出る。
 同時に右目の直ぐ横に自分とは違う熱が触れた。

 そっと優しく、掠めるような口付けだった。

「貴女は覚えていないのでしょうね。もう四年も経ちますし……でも、それでも僕は」

 至近距離で見下ろされ、彼の薄茶色の瞳に自分の顔が映っているのが見える。

 ゆらゆらと妖しく揺らめく光は、まるで蝶を誘う夜の灯火が如く綺麗だ。

 奥二重で優しげな、けれども炎を燻らせた視線に囚われながら、彼が口にした四年というキーワードに思いを巡らせていた。

 思い当たるものがあったからだ。

「四年って……っ、ぅン!?」

 呆然としながら鍵となる単語を復唱した。

 けれど続く言葉は降りてきた唇によって呑み込まされてしまった。

 思考も身体も固まる中で、数度啄むような口付けを交わし唇を僅かに離して螢沢さんがふっと吐息で微笑む。

「いい歳をして、みっともないと笑って下さい。一回りも下の貴女に恋をして、諦めようと努力はしました。けれど、共に演じる度、貴女の姿を見る度に気持ちは募るばかりで……告げるつもりは無かったんです。貴女のあの、殺陣の技を受けるまでは……」

 殺陣の技。

 最後の場面、私が彼を斬り伏せるシーン。

 好きな人を傷つけるのが恐くて、今一歩踏み出せずにいた、あのシーンで。
 彼は気付いたというのだろうか。

 「最初は自惚れかと思ったんですよ」と語りながら、彼の顔は嬉しそうに破顔していた。

 よく見れば、薄ら笑い皺のある目尻も、頬も、耳先までが仄かに赤く染まっている。

「そ、そそそ、それって……!」

 本当の意味で全てを理解して、私の口が魚みたいにはくはく動く。

 下からぐわっと込み上げてきた羞恥の熱で、焼かれて死んでしまいそうになる。

 螢沢さんが照れている意味。

 告げるつもりはなかった告白をどうして打ち明けたのか。
 それは私の気持ちが彼に筒抜けだったからだ。

 まさかの殺陣で彼に恋する気持ちが見抜かれていたのだと。

 好きな人を傷つけたくないという恐れと気持ちが、そのままそっくり彼に伝わり、それを彼も承知であったと。

 つまり私は―――彼と殺陣を演じる度に、彼に告白をしていたようなものだったらしい。

「~~~~~っ!!」

 そう気付いた瞬間、私の声にならない悲鳴が夜の道場に木霊した。

◇◆◇

 ―――四年前、二十歳の頃に私は螢沢さんに出会った。

 当時の彼はまだメインキャストの悪代官役ではなく、代官を守るご家来衆の一人だった。

 褐色(かちいろ)の紋付き袴を着た彼は当時三十四歳。

 今とはメイクも違い、奥二重にきりりとした眉の精悍な武士姿は、まるで絵巻物の中の人がそのまま出てきたかのように凜々しかった。

 私の役はといえば、街道沿いの茶屋に勤める看板娘というもので。

 台詞は三つだけ。
 だけど初めての台詞のある役だった。

 野外に建てられたこじんまりした茶屋のセットは、思い出もあって今も良く覚えている。

 茅葺き屋根の下、藍色の暖簾(のれん)が風に翻り、店先には赤い布の掛けられた縁台が置かれていた。同じく赤い野点傘(のだてがさ)を差した横には、大きく撓(しな)るほどの笹竹が飾られていて。

 あの日の撮影は七月。

 ちょうど七夕の時期で、劇中の季節は実際の季節に合わせてストーリーが仕立てられていたのだ。

 スタッフが実際に切り取ってきたという笹竹の小枝には、紙で作られた西瓜や酸漿(ほおずき)、梶葉(かじのは)などが祀られていて、短冊には出演者やスタッフ達それぞれの願い事が書かれ華やかだった。

 私はその日撮影の合間にとりどりに飾られた笹竹を眺めていた。

 三つしか台詞のない私を特に気にする人もいなかったし、現場に知り合いや友人と呼べる人もいるにはいたが、他のシーンの収録で出払っていたのだ。

 だけどそんな折、共演者の男性から声を掛けられた。

 「暇そうだね」なんて、役者にはかなり失礼な挨拶を寄越してきたのは当時の螢沢さんと同じご家来衆役のうちの誰かで、正直名前は覚えていなかった。

 共演者というのもあり最初は愛想笑いで流していたものの、話す内容が撮影後の二人きりでの食事のお誘いに変わってからは、やんわりと断りの文言を口にしていた。

 が、殺陣もある家来役に比べれば、私の役は端役も端役。

 断られたことが癪に障ったのだろう男性は、途中から口調を強くした上で私の手首を掴もうとしてきた。

 咄嗟に腕を引き躱したものの、余計に相手を怒らせてしまい、仕舞いには現場の空気を悪くしたなどと言われる始末。

 私のような無名の新人女優に、そこそこ売れてきた自分が拒絶されるとは思わなかったのだろう。
 
 食事程度なら付き合うという役者仲間もいるのは確かだった。
 単に私がそうではなかっただけで。

 共演者との関係を蔑ろにするのか、などよくわからない理屈で責められ、どうしたものかと戸惑っていたところ―――助けてくれたのが螢沢さんである。

『君は何をやっているんですか? 女の子を口説く暇なんて無いでしょう。前回監督に注意されたのを忘れたんですか。今回しくじれば、後がどうなるかわかりませんよ?』

 螢沢さんは穏やかに柔らかに、しかし視線は鋭く男性を捉えたままそう言った。

 そのまるで刃の切っ先のような目に。

 私の胸の中にある何かが堕ちた。

 男性が気まずげに離れた後、螢沢さんは「大丈夫?」と今度は穏やかな笑顔で私に気遣いを見せてくれた。

 感謝を述べると「お礼を言われるほどじゃないよ」と笑いながら、ふと楽しげな顔をした彼は、続いて私にこう言ったのだ。

『鳳葵さん、だね? 君は動きの勘がとても良いと思う。もし良ければ殺陣師の先生に習ってみたらどうかな。役者を続けていくのなら、きっとこれからの役に立つと思うよ』

 ―――その言葉がきっかけで、私は時代劇により一層はまり込み、殺陣を習い、今の女忍者役を得たのである。

 つまり今の私は、螢沢玄尚さんあってのものなのだ。

◇◆◇ 

「お、覚えているに決まっています……っ! 四年前、螢沢さんが、貴方が私に道を示してくれたんです……っ!」

 彼の腕に抱かれながら、温もりを感じながら、頁を早送りするようにあの頃の思い出が蘇った。

 私は込み上げる涙を堪えながら、彼の道着の胸元を掴み必死になって訴える。

 忘れるわけがないと。

 親の反対を押し切り役者となってから二年、憧れた世界に飛び込んだあの時の私の背中を押してくれたのはこの人だった。

「ふふ、そんなに大層な事をした覚えはないですが……道を作ったのも、歩いてきたのも、実際にやってのけたのは葵さん、貴女です。共演者の一覧で斬り合う女忍者役に葵さんの名前を見つけた時は、僕は本当に嬉しかった。あれから、君が成長していくのをずっと見ていたものだから」

「ずっと……?」

 思いがけない言葉の第二弾に、疑問符がばばっと幾つも頭に浮かんだ。

 そんな私に螢沢さんがこれ以上楽しいことはないみたいに目を細めて笑う。
 
 白い道着の襟から見える喉元が、笑みに合わせて上下に揺れていた。

「この世界、名の売れた者に誘いをかけられて断るのは容易なことじゃないですよ。だけどあの時の葵さんは、上手に断りながらもはっきりと撥ね除けていた。……芯の強い女性なのだと思いました。その上、曲がりなりにもアクションを習った人間の動きを躱していたんですから。凜とした貴女の姿が、僕はあれからずっと忘れられなかったんです」

「そ、そう、なんですか……っ」

「はい。年甲斐もなく、僕は貴女に恋に落ちました。見守るだけと思っていた気持ちすら抑えられぬくらい、貴女に焦がれています。だから今日は賭けでした。殺陣技に悩む貴女を、僕の懐に誘い込めるかどうかの」

「え、ええっ?」

「理人や……他の男に奪われる前に、僕が貴女を奪ってしまいたくて……つい、罠に嵌めてしまいました」

 理人はどうも貴女に惹かれているようで、と余裕たっぷりな艶やかな笑みが目尻の笑い皺を深くして、再びゆっくり降りてくる。

 「諦めることを諦めたら、止まらなくなってしまいました」と言いながら、頬にちゅ、ちゅ、と何度も口付けられて、触れた場所から着火していくように肌が火を帯びた。

 柔らかな唇は頬から耳元へ、耳朶をなぞり首筋をなぞり、やがてまた自分の唇へと戻っていく。

 僅かに開いた隙間にはぬるりとした舌先が差し入れられて、初めは反応を窺うように、次に内を絡め取るようにたっぷりと口内を蹂躙していく。

 これ以上熱が上がったら、私はもしかすると熱で溶けてしまうんじゃないかというくらい、とろりと甘く情熱に満ちた触れ合いだった。

 な、なんだか色んな意味で狡い……気が……!

 そんな風に嬉しそうに『罠に嵌めた』なんて言われたら、文句の一つも言えないじゃない……!

 ただでさえ、恋する気持ちがダダ漏れで恥ずかしかったというのに、まんまと彼の謀に嵌められて、嬉しいやら悔しいやら、羞恥やらで私はもういっぱいいっぱいになっていた。

 悪役を演じていても素顔は穏やかで優しい人、という印象だったのがここに来て一気にひっくり返された気がする。

「葵さん……貴女はご存じ無かったようですが……悪役に選ばれるだけあって、僕にもそういう部分はあるんですよ……?」

「ん、ぁ、あ……っ」

 背に回された手が、指先が、腰元までのラインを妖しくなぞる。
 
 ただそれだけの行為なのに、情欲を感じる刺激に思わず身が仰け反った。

 漏らした声を受け止めたのは、鋭さを帯びた彼の目で。

 ああ彼の牙は、刃はここにあったのだと思い知る。

 この強引さも、強かさも、全く嫌だと感じないのはきっと、あの鋭い視線を見た時既に無意識に感じとっていたからなのかも知れない。

 だからこそ、こうも背筋がぞくぞくするほど心が歓喜に打ち震えているのだろう。

 ふふ、と彼のいつもの低い笑い声が耳朶に響く。
 ほんの少しの汗の臭いが鼻を掠めて、官能的な香りに頭がくらくらした。

「嫌だと言っても―――もう、逃がしません」

 彼がにやり、と微笑を浮かべる。

 口の端だけ上げたその仕草は、まさしく彼の役どころである悪代官そのもので。

 壮絶な色気にあてられて、気配に寒気混じりの何かが滲む。
 時折きつく抱き締める腕の、その力強さに目眩がした。

「望む、ところです」

 妖美なる微笑を浮かべる人に答えを返しながら、私は自分が彼の手中に堕ちていたことを知った。



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