旦那様、ご返品は却下です! 〜想い出話を異世界で〜

國樹田 樹

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今さら返品されても困ります!

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死の間際、誰かが私を呼んでいた気がする。
それは母でも、父でもない。
誰か男の人の声だった。

知らないようで、知っている―――彼の声が私に『前世』を思い出させた。

***

「クラッド様……」

豪奢な天蓋付き寝台の白い薄布が、夜の風でふわりと揺れる。

月の光が寝台に居る私達を色濃く映し出し、敷布の上に鮮明な影を落としていた。
台上は降り積もった雪の如く柔らかく、身を包み込むようだ。

『元の世界』のVIPルームなんて、泊まったことはもちろん無いけれど、おそらくこんな感じではないかと思う。

と、まあそんな感想を抱いている場合ではないのである。今のところ。

「リイナ」

寝台で向かいあわせに座る中、夜の薄明かりに照らされた精悍な男性が私の名を呼んだ。

艶やかな墨色の髪と瞳は、まるで自分が元いた場所に戻ったのかとすら錯覚を起こさせるのに、彼の右目を覆う物々しい装飾がついた眼帯が、それは違うと現実を知らせてくる。

彫り深く鼻筋の通った美しい顔立ちは片目を隠していてもなお損なわれてはおらず、薄いシャツから覗く濃い肌の色は男性だというのに扇情的にすら見えた。

けれど、そんな美丈夫とも言える男性は、今なぜか不安げに眉尻を下げ眼帯に隠されていない左目の光を戸惑いに揺らして私を見つめていた。

彼のような人でも、緊張するものなのだろうか。とふと考える。

初夜だから、などと思うのは私の奢りだろうか。

偏見かもしれないが、これだけの美形が女との初夜のために緊張するなどとは、流石に思えない。

なにしろ彼はこの国でも数少ない大のつく商人であり、俗に言う大富豪という層に組みする人物だからだ。
それこそ女など選り取り見取りだったはず。

だからこそ不思議なのだ。

今夜の『相手』が、私であるということが。

「リイナ」

彼がそっと手を伸ばし私の髪を梳いた。
少しかさついた節の目立つ指が通り抜けると、私の腰元まである長い髪がさらさらと流れ落ちていく。

元の世界で生きていた頃は私の髪は今よりずっと黒かった。
長さも肩までしかなかったのに、今は違う。

あの世界でよく口ずさんでいた歌にあったような亜麻色の髪には、自分でも鏡を見て見惚れてしまうほどの艶がある。

当時憧れた髪色を、まさか転生してから手に入れることになるとは思わなかったけれど、これは嬉しい誤算だった。

そう、元の世界。
かつての私の名はーーー塚本理衣奈《つかもとりいな》。

れっきとした日本人だった。

そして現在の名は、リイナ=フォンターナ。

子爵とは名ばかりの、フォンターナ子爵家の一人娘である。

そんな私がどうして、こんな状況になっているのか。
正直面倒くさいかもしれないが、事の始まりについて説明するのはストーリーの常道というものなので聞いてくれると嬉しい。

なぜ私がリイナという娘になったのか。そして豪奢な寝台の上、やたら美形な男性となぜに初夜へと望んでいるのか、その理由を。

恐らく、たぶん、きっと後悔はさせないと思うから。(自信は無いけれど)

まずこの眼帯をした墨色の髪の男性は誰か?

答えは簡単。

このミルヴァナ公国という異世界にある国の大商人、クラッド=アルシュタッドその人である。

貧民街から身一つで財を成し、現在に至るまで夢幻と言われていた精霊結晶の鉱山を国で唯一、有している成功者。
悪く言えば成り上がり。
しかし元現代日本で育った私からすれば……孤高の努力者、である。

どうして頭に孤高とつけるかは、完全に私の主観だ。

何しろ貧富の差に加え階級まで存在するこの世界で、貧民街出身の人間が如何にして大商人と呼ばれるまでになったのか、転生者である私ですら想像に難く無いからだ。

そのうえで、はっきり言えば国の女性なら貴族ですら選べる立場となった彼が、どうして私と寝台に上ることになったのかには、やはりやんごとない事情がある。

こちらもまたまた答えは簡単。

貴族令嬢が商人と結婚する事になる原因と言えばそう……『金銭問題』である。
ああ、世の中って世知辛い。

「クラッド様……末永く、よろしくお願いいたします」

私は服の意味を成していない薄衣の衣装のまま、三つ指ついて向かいあわせのクラッド様に向けて頭を下げた。
作法は日本式だが、こちらの方が従順さが出て良いかと思ったのだ。

現代日本でやっていたら、我ながら失笑ものだっただろう。
しかしこの豪奢で異国の情緒溢れる寝室内なら、不思議と調和する気がした。

「……っ」

クラッド様の少し濃い肌色の手が、再び私に向かって伸ばされる。頭を上げていた私は、それに微笑みながら応じようとして――――けれど引っ込んだ手に、おや?と大きな疑問符付きで目を見開いた。

「クラッド様?」

「リイナ、すまない……っ」

その上、クラッド様は引いた手をぎゅっとシャツの胸元で握り締めると、ぎしりと音を立てて寝台から降りてしまう。
おかげで、寝台上には私だけがぽつんと取り残された。

え???

目をぱちり、と瞬かせる私を余所に、クラッド様は寝台の横で立ち尽くすように棒立ちになっていて、しかも表情にはまるでこの世の終わりが如き悲壮感を浮かべていた。それはもう、今から人買いにでも連れて行かれるような絶望を滲ませて。

そんな彼を見て、私の中で巨大な疑問符が竜巻を起こす。

おかしくないでしょうか?

今のこの状況、はっきり言えばお金で買われたのは私の方であってクラッド様ではないはずで。

なのにどうして、この人はこうも青ざめているのか。

そう混乱していたら、立ち尽くしていたクラッド様が突然くるりと反転してしまった。
さながら舞踏会もかくやというターンである。

私は目を丸くした。

視界にはクラッド様の黒い寝着の背中があり、なぜか新婚初夜であるはずの妻に背を向けている。

一体どういうこと?

と戸惑いながら彼を凝視すると、初めて会った時にはまっすぐ伸びていた彼の背中が、まるで怯えるように丸まっていることに気づく。
こちらからクラッド様の表情は見えないが、静かな夜にぐっと歯を食いしばる音が聞こえた気がした。

「君に触れる資格など……」

「え?」

黒い墨色の髪が揺れる。やや首を傾けて私に視線を向けたクラッド様の左目が、なぜか苦しげに歪んでいる。夜の光に彼が付けている眼帯の留め金が、黒い後頭部できらりと光ったのが見えた。

「俺には無いんだ……っ」

「あ、クラッド様っ⁉」

そう言って再び私に背を向けたクラッド様は、振り返ることなくそのまま脱兎の如く夫婦の寝室から飛び出して行ってしまった。

当然、私はわけもわからず寝台の上に取り残されている。

初夜を迎えるはずだった夜に、だ。

す、と。私は両手で自分の頬を挟んだ。

そうして、やや震える唇を開く。

「い、今さら返品とか困るんですけどーーー!?」

旦那様の去った扉に向けて、私がそんな叫びをぶつけたとしても、仕方ないと言えよう。

ってあら?
旦那様の一人称って確か「僕」じゃなかったかしら……?

だけど今さっき「俺」と言っていたような……?

気のせいかしら???
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