妻よ、お前を抱きたい

賀浦 かすみ

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妻よ、お前を抱きたい

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「くっさ!」

 俺がため息をついた瞬間、隣に座っていた妻の美鈴が大声で叫んだ。

「なんやいきなり」
 あまりの声の大きさに驚いて美鈴を見た。口を押さえて前かがみになっている。
「なんやちゃうわ! 丸男くんめっちゃ息臭いで!」
 大げさなリアクションとともに美鈴が俺の息を糾弾した。

「そんなことあるかい。朝飯食った後に歯磨きしたで」
「朝飯てもう何時間も前やないか! 昼飯の後もせんかい! それに今のは歯磨きしとらんとかのレベルちゃうで。なんかこう口の中でウンコが……」
「誰がウンコ食っとんねん! ええかげんにさらせこの――」
 俺がキレて大声を出したその時、部屋の隅に置いてある空気清浄機がうなりを上げて動きだした。確かこいつは臭いに反応するタイプだったはずだ……

「ほら、カッシーニも臭いて言うてるやん」
 美鈴が勝ち誇ったように言い放った。空気清浄機に訳の分からん名前を付けているバカ女の分際で俺に意見しやがるとは。だが現時点では反論出来ない。
「クソが、そいつは不良品や!」
 俺は吐き捨てるように言った。クソはお前の吐息だと言わんばかりにカッシーニがうなり続けている。

「この際やから言うけど、最近あんたがおると家の中が臭い思うとったんや。けどこれではっきりしたわ、原因はあんたの口臭や!」
 美鈴が俺を指差して叫んだ。
「く……」
 俺はぎりぎりと歯を噛むのが精一杯だった。

「あんた、悪いことは言わんから歯医者行ってや。まだ三十そこそこでその臭いは異常やし、下手したら通報されるで」
 美鈴が祈るような眼差しで俺を見てきた。近所でも評判の美人妻だが、人の心を土足で踏みにじってきやがる。
「アホぬかせ、ちいと口が臭いくらいで歯医者なんぞ行けるかボケ。俺はそんなに暇ちゃうんや」
 俺は美鈴のお願いを軽くあしらった。正直俺は歯医者が大の苦手なのだ。

「ちいとやないわ、めっちゃ臭いんじゃ! もうええわ、好きにさらせ。せやけどその口臭が治るまでは絶対セックスせえへんからな!」
 そう言うと美鈴は怒りながらリビングを出て行った。
「そ、そんなんあるかい! 待てや美鈴!」
 俺は慌てて美鈴の後を追った。さすがに夜の営みを人質に取られては困る。

「分かった、俺の口が臭いんは認める。ただ歯医者だけは勘弁してくれや。俺が医者嫌いなんはお前もよう知っとるやろ」
「そりゃ知っとるけど今はそんなこと言っとる場合ちゃうやろ」
 美鈴があきれたような顔で俺を見た。

「とにかく口臭ケアをしっかりやる。タバコもやめるし歯磨き粉もええやつに替える。口の中でブクブクするやつも毎日やるけん」
「そんなんで治るんかいなその激臭」
 美鈴が鼻をつまみながら疑いの目を向けてきた。
「もちろんや、治ったらさっきの発言は撤回してもらうでぇ」
 俺はふん、と鼻を鳴らした。

「私なんか言うたっけ?」
 美鈴がすっとぼけた表情を見せた。くそう、今すぐやりてえ。


 そして、俺の口臭ケアを中心とした生活が始まった。

 まずは歯磨き粉を口臭ケア専門の高いものに替え、歯磨き後のお口くちゅくちゅも追加した。職場にも歯磨きセットを持ち込んで食後には必ず歯磨きをし、ブレスケアスプレーも欠かさなかった。
 毎日の食事も肉や脂っこいものから野菜や魚中心に切り替え、酒の量もかなり減らした。

 一番大変だったのは禁煙だ。

 高校生の頃にいきがって吸い始めたタバコのニコチンは俺の脳みそを完全に支配していた。テレビや町中でタバコを吸ってる人を見かけるだけで猛烈なスモーク欲にかられ、ふらふらとタバコを買いそうになったことが何度もあった。

 まさか禁断症状がこれほどとは……つくづくタバコとは恐ろしいものだ。

 だが、この禁断症状も性欲でねじ伏せた。一週間もするとだいぶ楽になり、タバコを吸わなくてもムズムズすることが無くなった。


 こうして徹底的に口臭ケアを実施したのだが……

「丸男くん、まだ臭いわ」
 あの言い争いから二週間が経過したある日、美鈴からきつい一言をもらってしまった。

「くそ……なんでなんや」
 両手を口に当ててはあーと息を吐いてみたが、ドブのような臭いはあまり改善されていない。

「やっぱ歯医者行ったほうがええって。あんたが努力しとるんはよう分かっとるけど……」
 美鈴が珍しく優しい言葉をかけてくれた。
「美鈴……」
 俺は嬉しさのあまり美鈴にキスをしようと近づいた。
「くさっ!」
 その瞬間、美鈴が口を押えて後ずさった。

「あ……」
 美鈴が『しまった』という顔で俺を見た。
「うっ……うわああああ!」
 俺は耐え切れなくなり家を飛び出した。

「丸男ーーっ!」
 美鈴が俺の名を叫んだが振り返ることが出来なかった。

**

 気付くと俺は近所の歯医者に来ていた。

 愛する女房にあんな拒絶のされ方をしたのだ、さすがに精神的ダメージがでかかった。もはや医者が怖いなどと言っていられない。

「混んどるな……」
 土曜日ということもあり、待合室は受診待ちの患者でけっこう人がいた。
 だが、なぜか俺の両隣の席だけは空いていた。中には立っている人もいる。

「まさか……」
 新型ウィルスの影響で全員がマスクをつけていたが、そんなものでは防ぎきれないほどの悪臭なのか?

「田中さーん、田中丸男さーん」
 追い打ちをかけられへこんでいるところに看護婦の優しい声が響いた。まるで俺を憐れんでいるかのような声である。
「今……行く……」
 俺はフラフラしながら診察室に入った。

「はいどうも田中さん、今日はどうされ……うっ!」
 俺と向かい合った瞬間、じじいの医者が顔をしかめた。てめーの口より俺のが臭いってのかよ……

「先生のリアクション見る限り説明するまでもないが……二週間くらい前から急に口が臭くなり始めたんや。タバコやめて食生活も改善して歯磨き粉もええもんを使っとるのに全く治らんのや」
 俺は半泣きになりながら説明した。
「ほうほうそりゃ大変ですなあ」
 じじいはこくこくと頷いた。だが俺の顔は見ておらず、看護婦のケツを見ているようだ。

「このままやといつまでたっても美鈴とセックス出来へん」
 俺はイラついて思わず心の声を口に出してしまった。

「美鈴とセックスとな?」
 ほとんど俺の話を聞いてなかったのにセックスって言葉には敏感に反応しやがった。じじいのくせに性欲は衰えてねえようだ。俺もじじいになったらこんな感じになるのか……。

「じゃ、とりあえず診てみましょう。椅子倒れますよー」
 言い終わる前にじじいが椅子を倒した。
「はい、口をあーんして」
「あ……ん」
 俺は恐怖と戦いながらもじじいの言う通り口を大きく開いた。

「うげっ、やっぱり臭いのう。耐えられんわい」
 じじいがそう言うと、えずきながら診察室の奥に消えていった。

「あのじじい、好き勝手言いやがって」
 俺はじじいの無礼な言葉にかなりイラついていた。医者じゃなきゃ顔面にチョップを入れてるとこだ。


「お待たせしましたわい」
 数分後、じじいが戻って来た。
「くっ……!」
 俺は危うくじじいを殴りそうになった。その顔には防毒マスクが装着されていたからだ。
 が、ぐっとこらえて再び診察台に体を倒した。

「うーん、特に虫歯は無いようじゃのう」
 俺の口内をぐりぐりしながらじじいが首をかしげた。
「あが……あがあ!」
 ちゃんと見ろじじい! と、俺が叫んだその時――

ぱあっ

 と、まばゆい光が俺の口の中から拡散したかと思うと、雲に乗った仙人のような恰好をしたじじいが飛び出てきた。

「な……なんやお前は!?」
 俺は目の前にいる得体の知れないじじいにに驚きまくった。もう一人のスケベじじいは腰を抜かしている。

「ワシは口乃神臭麻呂之尊くちのかみくさまろのみこと、おぬしらで言う神じゃ」
「か、神だと? 確かに今の登場の仕方は普通やなかったが……なんで神様が俺の口の中から出てきたんや?」
 当然の質問をぶつけた。

「お前の妻、美鈴はいつもワシがおる神社でお参りしておってな、常々お前さんの体を心配しとったんじゃ」
「み、美鈴が……?」
 まさか神の口から妻の名が出てくるとは。俺は驚きのあまり言葉が出てこなかった。
 確かに美鈴はよく近所の神社にお参りをしていたが、まさか俺の身を案じていたとは……

「お前さんはいつも暴飲暴食で不規則な生活を送っていたそうじゃないか。美鈴がいくら生活改善をお願いしてもお前さんは聞く耳を持たん。そこでワシが口の中に潜入して悪臭を放っていたというワケじゃ」
「なんだってそんなことを?」
「口臭を直すためにお前さんはタバコや酒を止め、食生活もかなり改善したじゃろう? この二週間でだいぶ痩せたんじゃないかい?」
「あ……」
 言われてハっとした。

 確かに美鈴を抱きたいがために劇的に生活を変えた。その副産物として俺は健康体を手に入れていた。
 二週間で体重がマイナス三キロ、体脂肪率もかなり下がっていた。今までの俺の生活がいかに荒れていたかがよく分かる。

「つまりあんたは俺を健康体にするためにワザと口を臭くしたってことか……」
「そういうことじゃ。まあ恩を売ってあわよくばワシも美鈴とワンチャンあるかと思っとったが、お前の愛にはかなわんと分かったわい」
 神が照れながらハゲ頭をぽりぽり掻いた。このじじい、神のくせにとんでもねえこと言いやがる。

「さて、ワシはそろそろ戻るとするか。妻の美鈴を一生大事にするんじゃぞ」
 そう言うと神は煙のように消えていった。
 あわよくば美鈴を抱こうとしてた奴に言われてもと思ったが、結果的に健康体となり、改めて美鈴に惚れ直すことも出来たので良しとしよう。

「美鈴……」
 無性に美鈴を抱きしめたくなった。

「今のじじいは何じゃったんじゃ?」
 腰を抜かしてへたりこんでいたじじいがよっこいしょと立ち上がりながら聞いてきた。
「お前もじじいやろ。あいつは……福の神じゃ」
 俺は遠い目をしながら窓の外を見つめた。

**

「あ、あんた!」
「ただいま」
 俺は笑顔で美鈴に話しかけた。

「あんた、さっきはホンマにごめんな。いくらなんでもあのリアクションはひどかったわ……って、あれ? 口臭治ってへん!?」
 美鈴が驚きの表情を見せた。
「実はな……」
 俺はさっき歯医者で起こった出来事を全て話した。神がワンチャン狙っていることも含めて。

「そんな小説みたいな出来事あるんかいな」
 美鈴が疑いの眼差しで俺を見た。
「どっちにしても俺の口臭が治ったんは事実やろ。今まで心配かけてすまんかったな」
「まあ確かにそうやね。あんたの体調もようなったし言うことないわ」
 美鈴が嬉しそうに手を叩いた。その姿を見て、こいつが妻でよかったと心から思った。

「さてと……さっそくやけど美鈴、ええか?」
 俺は鼻息が荒くなっていた。
「あ……それなんやけど……」
 急に美鈴の表情が暗くなった。
「なんや?」
「今日……お赤飯やねん」
「……っ!!」

 妻よ、お前を抱きたい……と、俺は心の中で叫んでいた。
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