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第二十九章 指揮   高倉有隆・2019年9月2日

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 クラシック曲が流れている。だがピアノ演奏ではなくオーケストラ演奏だ。高倉はピアノ単体演奏ではない事が気に入らなかった。

 声楽ではないだけまだましだが。人間の声が入った曲ほど集中力が削がれるものはない。

 ピアノは素晴らしい。

 ピアノ単体だからこそクラシックの美しさを表現出来るのだ。ピアノは一つの楽器で七オクターブの音を出す事が出来る。つまりオーケストラの全ての楽器をカバーする音域を持っている。高倉は他の楽器と混ざり合う音が好きではなかった。

 高倉はハーモニーという言葉に違和感があった。ただの楽器の単音の重なりだからだ。それなら一つの楽器の音だけを聞いていたかった。弦楽器も単体演奏が可能だが高倉は弦楽器よりも打楽器が好きだった。打楽器はパソコンと似ていると高倉は思っていた。

 オーケストラの指揮者には感服するが。

 人間関係と同じだと高倉は思った。人間関係もオーケストラの指揮のように上手く調整出来れば楽しいのだろうが。全てが計画通りに行かない事も理解していた。人間関係は本当に面倒だと高倉は思った。

 高倉はコワーキングスペース内で小さな音量で流れているクラシックオーケストラのBGMを聴きながら、職場から支給された業務用ノートパソコンをテーブルの上で開き椅子に座り珈琲を飲んでいた。

 辻井と小川は凶器を果たして見つけただろうかと高倉は思考した。高倉はモニターの右下の時刻を確認した。計画通りに事が進んでいればそろそろスマートフォンに連絡が入るはずだ。

 “全ての犯行は貴方のせいじゃありません。他の人間に罪を押し付けましょう”

 最後に高倉が自分のパソコンのデータを完全消去する前に送った文章はこうだった。

 辻井と小川を精神的に追い詰めるためには殺人が足りないと感じた。そこでサイトの他の人間に殺人を依頼する事にしたのだ。暗号を解読出来ない人間でも自分に恨みを持っている人間が他にも居る事を高倉は知っていた。その人間を利用する事にした。

 その人間は、最初は“高倉”に罪を着せようと動いていたが、“高倉”にはアリバイがあり上手く行かない事から、いずれ自分が警察に捕まるのではないかと不安を抱き始めていた。なので、辻井と小川の存在を明かし二人に罪を押し付けるように仕向けた。

 その人間は今頃仕事が終わってほっとしている事だろうと高倉は思った。最後の仕事の後の凶器はコインロッカーに隠すように指示してある。辻井と小川にそのコインロッカーを開けるように指示したと伝えてある。

 使用済み凶器を押し付けられたと勘違いしている辻井と小川は今頃凶器を“高倉”の自宅にでも隠して罪を“高倉”に着せようとしているだろうなと高倉は思った。それでよかった。自分が“冤罪を着せられそうになった被害者”により近付くだけだ。

 元々コインロッカーに撲殺道具とメモ、結束バンドと鋭利過ぎない折り畳みナイフを紙袋に入れておいた。

 さらにもう一つのコインロッカーにも別の撲殺道具を入れておいた。

 それをそれぞれ別の人間に渡るようにした。

 辻井と小川は今頃お互いに疑心暗鬼状態だろうと思った。どちらが一体いくつの殺人を犯しているか分からない状態だ。山での殺人、ファクトリーに居る間の殺人、警察署から出た後の殺人、今回のバリアフリートイレ内での殺人はどれも辻井でも小川でもない。

 高倉は勿論もう一人の殺人鬼を野放しにするつもりもなかった。“全ての犯行は貴方のせいじゃありません。他の人間に罪を押し付けましょう”これはただの謳い文句だ。

 実際に使用された凶器はコインロッカーの期限切れで管理会社が破棄する事になる。だが警察が絡めば事態は別だ。怪しい凶器があれば警察の手に渡るだろう。そうすれば証拠となり真犯人が捕まる手助けになる。

 高倉はそのもう一人の殺人鬼が最後の犯罪を起こすかも疑問だった。もし何もしなくても問題はないが。

 高倉は辻井と小川がサイト外でも個人的に連絡を取り合っている事は想定内だった。なので、二人の心理状態に後は運が掛かっている。高倉はその行動パターンをいくつか想定していた。どの道を選ばれても自分には被害が出ないようにしていた。小川に罪の意識が芽生え自首しようとも、辻井と共に最後の犯罪を起こそうとももうこの段階では問題はない。

 笠木にはまだ手は出していないはずだ。

 それだけが心配だったので、高倉は常に笠木のスマートフォンに入れたゴーストアプリをチェックしていた。

 以前自宅の煙草の吸い殻を盗ませるために合鍵を渡したときは、さすがに落ち着かなかった。笠木に手を出されたらどうしようかと思ったからだ。ただ初めての殺人を犯す前に急に笠木には手を出さないだろうとは思った。人間は急に殺人など出来ない。慣れる段階が必要だ。勿論もう一人の殺人鬼にも慣れる手段は与えた。

 自宅の煙草の吸い殻を盗むと言う目的を与えた事で遠い未来目標が設定され、笠木にはまだ手を出されないと高倉は思考した。その後にすぐ自宅の鍵を変えた。高倉は鍵を変えるまで落ち着いて夜も眠れない日が出来てしまった事を思い出した。

 今日も一日笠木のスマートフォンに入れたゴーストアプリをチェックしていた。

 笠木から最後に連絡が届いたのは十七時頃だ。着信が入り、その後チャットで会社の人間が来たと連絡が入っていた。高倉はチャットが既読にならないように笠木のスマートフォンに入れたゴーストアプリ上で内容を確認した。会社の人間など自宅に来る予定はなかったので、辻井と小川だろうと高倉は思った。

 あえてメモに“スタンガンを使用してください”と記載した事によって、まだ笠木を殺さないという条件をつけたつもりだった。勿論スタンガンを実際に笠木に使われることは嫌だったので、事前にショートするようにして渡していた。悪用防止もあった。スタンガンが使用出来ないとなると、紙袋に入っている折り畳みナイフで笠木を脅すだろうなと思った。だが今まで撲殺は出来ても人間を刺殺させた事はない。いきなりナイフを渡されて殺意があったとしても人を刺すとは思えなかった。せいぜい脅しに使用するのみだろうと高倉は思った。

 以前自宅の前に猫の死骸にナイフが刺さったものが放置されていた事があったが、同時期に郵便ポストに入っていた手紙の内容から辻井がやったものではないかと疑っていた。

 何故なら被害者遺族で攻撃的な性格で、札幌に住んでいる人間は限られるからだ。ただ猫は車に轢かれたような痕跡があったので、生きた猫を刺したわけではないと思っていた。

 以前、“これは最後に笠木を高倉の目の前で奪うための予行練習、高倉を殺人犯に仕立て上げる為の種まき作業です”と辻井にメモを渡していた。辻井の性格から考えると、このメモは大いに喜びを与えた事だろうと高倉は思った。このメモの通りに、高倉は自分が笠木の前に現れるまで笠木は無事であると思考した。

 ふと、コワーキングスペースのテーブルの上に置いたスマートフォンのバイブレーションが振動した。高倉は“笠木創也”からショートメッセージが送られている事に気付いた。するとすぐに着信が入った。着信元は“笠木創也”だった。高倉はこの着信が笠木からではないと予測していた。

 高倉はその場でスマートフォンの着信に出た。

「はい」

「高倉、久しぶりだな。俺を覚えてるか?」通話先の声は辻井だった。

 高倉は計画通りに事が進んでいる事に安堵した。

「辻井さん?何で創也のスマートフォンを辻井さんが持ってるんですか」高倉は演技臭くならないように言葉選びに気を付けた。

「俺の事を覚えてたか。忘れられたかと思ったよ」辻井は言った。高倉はさっさと本題を話せと思った。

「覚えてますよ。で、何で創也のスマートフォンを辻井さんが持っているんですか?」高倉は不安そうな声色を出して聞いた。

「お前の恋人は今何処に居ると思う?」辻井は笑って言った。

 高倉は場所を予想していた。何故なら自分が指定した場所だったからだ。辻井の質問が高倉に安心感を与えてくれた。

「何処に居るんですか」高倉は聞いた。

「今から指示する場所に来ないとお前の恋人を殺す」辻井は言った。なんと刑事ドラマで有りそうな台詞だろうと高倉は思った。

「創也と一緒に居るんですか?創也に手を出すのはやめてください」高倉は必死になったふりをして言った。コワーキングスペースの他の人間にも聞こえているだろうと思い、声のトーンを落としたかったが、ここでトーンを落としたら辻井に不信に思われる。大袈裟なくらいが丁度良い。

「ショートメッセージに座標を送った。そこにすぐに来い。警察には言うなよ。もし警察が来たらお前の恋人を殺す」辻井はそう言うと通話を切った。

 高倉は辻井から電話番号に送られたショートメッセージを確認した。ショートメッセージに記載されていた座標をマップに打ち込んだ。その場所は自分がサイトの管理人として集合場所に設定していた廃工場だった。

 警察を呼んではいけないと言われたが、元々高倉は警察に通報するつもりはなかった。自分のスマートフォンにGPSを仕込まれていたからだ。もし何かあれば警察が自分のGPSを確認し後を追ってきてくれると思っていた。

 高倉はタクシーで廃工場に向かおうと思い、テーブルの上に置いていたノートパソコンとスマートフォンをリュックに片付けた。
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