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肆 癒やしの接吻(くちづけ)

《五》尊臣さん、ですか?

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犬朗は手っ取り早く咲耶の疲労回復を望み、咲耶に和彰を呼ぶように助言したが、咲耶はこれを拒否した。

「だって、私の都合でタンタンに影に入ってもらって、そのうえ神力遣って疲れたからって、そんな自分勝手な理由で和彰を呼べないわよ。いくらなんでも、ワガママ過ぎない?」

咲耶の言葉に、犬朗は溜息をついた。

「……そいつを旦那が我がままだって受け取るかねぇ? むしろ「なぜ私を呼ばなかった」とか、絶対零度のアノ低い声で、責められそうだけどな」

ぶるっと身を震わせる犬朗に、咲耶は唇をとがらせる。

「和彰は、私の身に危険が及んだ時はって、言ってたのよ? でもそれって、眷属のみんな誰も側に居なくなっちゃって、絶体絶命って状況に追い込まれない限り、あり得なくない? そんな状況になるなんて……またあんな想いをするなんて、もう二度と嫌だわ!」

追捕の令が下った時のような───と、咲耶は口にはださなかったが、犬朗は咲耶の心境をおもんぱかってか、声を荒らげた咲耶を両前足で制した。

「分かった分かった。
───じゃ、俺は隠形でついていくけど、咲耶サマも充分に気をつけてくれよな? 『あそこ』は、どうも俺ら眷属の力を、そぐ作用が働いてるみたいだからさ」

近づいた大神社をあごでしゃくって警告する犬朗に、咲耶もいささか緊張しながらうなずいた。

「……うん。分かってる」

そうして、鳥居の側にいた衛士に声をかけた咲耶だが、前回の時とは違い、今回はすんなりと大神社のなかへと通された。虎次郎が衛士に、話をつけていてくれたようだ。

以前に来た時は夜だったためか、今回の大神社内の雰囲気は、咲耶には違って見えた。人の気配を感じさせない、清浄で静謐せいひつな場所。

(考えてみれば、ここって『神社』なんだもんね)

自分をつつむ感覚に、咲耶は改めて『神の住みか』であることを実感する。

(神様かぁ……。神様って、なんなんだろう……?)

神現しの宴の時とは違い、犬朗が足下にいるとはいえ、ひとりで本殿へと向かう咲耶の心中に、そんな思いがよぎる。

咲耶は、信仰する宗教をもたない。
大多数の日本人がそうであるように、正月は神社へもうで、盆には寺へ墓参りに行き、クリスマスを祝ってケーキを食べる。一神教の外国人から見れば、節操のなさすぎる典型的な日本独特の習慣。

しかしながら咲耶のなかにも、日本人の根底にあるだろう『八百万やおよろずの神』に対する畏敬いけいの念──自然崇拝的な心持ちはあった。

だからこそ、この陽ノ元ひのもとにおける国々に、いくつも存在する神獣という『神々』も、抵抗なく受け入れられるのだろうと考えた。

(まぁそれと和彰の存在は、なんか別に感じてはいるんだけどね)

そう思ってしまうのは、自分が和彰の花嫁であるからだろうか? 『神の獣の伴侶』と位置づけられ、神力という不可思議な力を授かっても、いまいち実感がなかった。

『───咲耶サマ。誰かいるぜ』

犬朗の『声』に、咲耶はハッとして周囲に意識を向ける。

小川の上にかかった橋を渡り、十数歩行った頃、前方に中年の女性が見えた。咲耶の姿に気づき、軽く会釈をし近づいてくる。

「咲耶様でございますね? お待ちしておりました。───どうぞ、こちらへ」

上品な柄の入った打ち掛けをひるがえし、咲耶をいざなう。歩き始めた背中の行く方向を不審に思い、声をかけた。

「あの。本殿に行くんじゃないんですか?」

記憶のなかの位置関係をたどり、指摘する。すると、中年の女性は、苦笑いで咲耶を振り返った。

「失礼ながら、咲耶様のお召し物は、その……」

ちらりと向けられた視線に、自身の衣を見やれば、たもとが泥にまみれ、汚れていた。国司という一国を預かる者と会うには、褒められた装いではなかった。

「本殿に上がられる前に、こちらでお召し物を替えていただけますでしょうか?」

高床式の小さな建物を示され、咲耶は恐縮しながらなかへと入る。

用意されていた着物は、白い袿と白地に金ししゅうの入った打ち掛けだった。契りの儀に際して着たものと、同じ仕立てと生地だ。

咲耶は女性が外で待っているのを確認し、水干を脱ぎ筒袴に手をかけた。……気になっていた左の内ももを見てみる。

(……虫さされ……?)

ひざがしらの辺りから、ぽつんぽつんと、ふたつずつの赤い点が三ヶ所、大腿だいたいの内側まで続いている。痛がゆさの正体はこれだろうと、咲耶は判断した。

(屋敷に戻ったら椿ちゃんに薬もらおう……)

チクチクとした痛みから、少しずつ増す鋭い痛みを気にかけながらも、これ以上、尊臣を待たせてはまずいだろうという思いから、急いで着替えを済ませた。





神現しの宴が行われた舞殿を横目にコの字型の回廊を抜け、さらに長く続く廊下の奥へ奥へと咲耶は歩かされた。咲耶を案内する中年女性が、奥まった部屋の前で立ち止まり、ひざまずく。

「咲耶様をお連れいたしました」

応えるように扇を打ち鳴らす小さな音が、静かな空間に響いた。咲耶をなかへとうながすと、女性は役目を終えたといわんばかりに立ち去ってしまった。

前を見れば、幾つか両脇に並んだ几帳きちょうの奥に、一段高くなった場所があり、御簾みすがかかっている。そちらへ踏みだして良いものかを迷っていると、御簾向こうから声がかけられた。

しろの姫、どうぞ、お近くに」

(───えっ……?)

咲耶は、耳を疑った。想像していたより、若い声質だったからではない。

虎次郎が尊臣の乳兄弟だと聞かされた時から、咲耶が最初に考えていた年齢よりも若いであろうことは、想像がついていた。そうではなく───そもそもの根源から覆される事実、だったからだ。

「どうなさいました? 何か、ご不審でも?
───……ああ、失礼いたしました。御簾ごしでは、いけませんね」

無造作に御簾を上げ、咲耶に近づく人物──どことなく虎次郎を思わせる風貌ふうぼうは、しかし、明らかに彼とは違うと分かる。やわらかな声色と、なよやかな身のこなし───。

「あの……尊臣さん、ですか?」

虎次郎が「主の命で」と言い、そして、国司の遣いを名乗った。必然それは、この下総ノ国の国司である、萩原はぎはら尊臣の遣いだと咲耶は思っていた。それは、自分の勘違いだったのだろうか?

咲耶の目の前に立つ、直衣のうし姿の人物は、咲耶と同じくらいの背格好の───女性、に、見えたからだ。装いは男性のものだが、体つきと声は女性だとはっきり分かる。

とまどいを隠せない咲耶に、涼しげな美貌びぼうの持ち主が、訳知り顔で微笑んでみせた。是とも否ともとれる表情のまま、咲耶に座るようにうながし自らも腰かける。わずかな沈黙ののち、女は口を開いた。

「白の姫は、この国の内情をどの程度ご存じですか?」

やわらかな声質ながらも、はきはきとした口調の問いかけに、咲耶は少し緊張して応えた。

「内情……ですか。あの、私は『こちら』に来てまだ日が浅いもので……」

言いながら咲耶は、それが言い訳にしかならないことに気づく。

尊臣と向き合う、そう決めたのは自分だ。だが───向き合うだけの『材料』を持ち合わせていない己の手落ちを、責められた心地がした。

「……意地悪な問いでしたね」

揶揄やゆというよりは、咲耶の心情を思いやるような抑揚のある物言いに、少しだけ咲耶の緊張がほぐれた。

「いえ、勉強不足なのは、事実です。私は、この世界のことについて、知らないことのほうが多くて……」

元いた世界での一般常識であるなら、年相応にあったつもりだ。けれども、この世界───陽ノ元においての咲耶の知識は、褒められたものではなかった。

「では、僭越せんえつながら、わたくしの口から少し、お話ししますね」

軽く目礼をし、続ける。張りあげるわけではなく、よく通る声。

「この下総ノ国は陽ノ元において、上から数えたほうが早い国力をもつ国。気候は作物を育てるのに適した夏は程よく暑く、また冬は適度に寒い。
農民からのも、商人からのぜいも、他国に比べれば申し分なく徴収できる。官吏もまた、規律を重んじ、公を支える……」

何かの書物をそらんずるように、よどみなく流れる言葉。咲耶は思わず溜息をついた。

「良い国なんですね……」
「そう、思われますか?」

ちらりと、女の目が咲耶を見返す。そこへ、男の声が割って入った。

「だが、様々なものを簡単に手に入れられる民は、さらに貪欲どんよくになる。食い物、着る物、金……。満たされるにつれ、次から次へとな。しまいには、天命が尽きてもなお、生き長らえることまで望むようになる」

ずかずかと物怖じせずに部屋に踏み込んできた、直垂ひたたれ姿の男。顔かたちは同じはずなのに、つい先ほどまで咲耶が知っていた者とは、まるで違って見える人物───。

「あなた……!」
「悪く思うな、ちょっとした戯れだ」

驚く咲耶をあざ笑うのは、咲耶に対し、『虎次郎』と名乗った男だった。



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