シンシンシンシンシンユウ

西野尻尾

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第3章

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第3章


「よしっ、取れたよー。これでいいんだよね?」
「ほぅ。本当に見事なものだな」
海々は足元の開口部からカメのようなぬいぐるみを取り出すと、それを綿谷に渡した。
「感謝する。これで明日の誕生日にプレゼントを渡すことができる」
綿谷は素直に感謝の意を述べて、深々と頭を下げた。
「いいよーっ。大切な人のためだなんて、綿谷くんもいいところあるねっ」
海々は満面の笑みを浮かべていた。

あの後も勝負は続き、何故か顔を赤くさせっぱなしの海々にツッコミを入れ続けていった。
わたしも綿谷も一歩も譲らず、結局ドローになった。
綿谷は引き分けイコール敗北だと言ったけど、十分に楽しめたので海々に頼むことを許諾した。綿谷は府に落ちない様子ながらも「時間がないから」という理由で最終的に受け入れた。
そして放課後、わたしは全ての経緯と事情を海々に話して、
「なんだー、そういうことかぁ」
と心底安堵した様子で綿谷の頼みを快諾した。
どうしてそんなに安心したのか尋ねてみたけど、「いや、なんでもないよっ」と首を振るだけだったし、わたしもそれ以上は追及しなかった。

「では、これにて解散にしよう。杞蕾、改めて感謝する」
「俺からも。ありがとな、杞蕾」
「ううんっ。そんな大したことはしてないんだから頭下げないでよっ」
ゲーセンから出ると、綿谷と二宮が頭を下げた。海々はただ恐縮して手を振っている。
頼んでいた時もちゃんと頭を下げていたし、このふたりだけを見ていれば朱漢組が不良集団とは思えなくなる。むしろ学ランとリーゼントさえやめれば、そこそこ優良少年に見えると思う。
「あんたらさ、ちょっと損してるよね」
わたしは思ったことをそのまま口に出した。
「それは、どういう意味で言ったんだ?」
ふたりとも反応して、問いかけてきたのは二宮。
「トップのふたりはそれなりに常識をわきまえてるのに、下の奴らはどうしようもないチンピラばっかじゃない? だからさ」
少し皮肉を込めて言ったのに、二宮はふっ、と鼻で笑った。
「ま、そう思われても仕方ないよな」
さっきの仕草や要領を得ない答えに、わたしは少しばかり不愉快な心境になる。
「っと、気を悪くしたなら謝るよ。ただ、朱漢組がチンピラ集団と思われるのはしょうがないとしても、否定だけはさせてもらうよ」
わたしの胸中を察したのか、二宮が爽やかな笑顔で繕おうとする。
「希祐」
でも、それを綿谷が止めた。
「言い逃れはよせ」
「……言い逃れ、ですか?」
「そうだ。わしらは全校生徒に、特にこのふたりには実害を被らせておる。ここでどれだけの正義を説いても、それは虚構としか受けてもらえん」
苦い表情で確かに、と二宮が頷く。
わたしの不快感はまだ消えていない。というのも、今の綿谷の言葉を要約すれば「自分達が行っている善行も、知られていないのだからしょうがい」になる。つまり、朱漢組が不良集団であることを否定しているのだ。
「ともかく、わしらがどう思われても仕方のないことだが、それでも杞蕾と沙理沢は頼みを聞いてくれたのだ。そんな言い逃れをするくらいなら、部下の校内での素行を改めさせる方が重要だろう」
海々はそのことに気付いているのか、いないのか、綿谷の言葉に曖昧に頷く。
「できるならそうしときな。でなけりゃ損するのはあんたらなわけだし。少数派のまともなあんたらに期待してるよ」
未だ納得はできてないけれど、不毛な会話なんか続ける気はさらさらないので、この会話に終止符を打った。
「うむ。善処する。――では、これにて失礼する」
先に綿谷が背を向けて歩き出し、
「……じゃ、俺も。今日はサンキュな」
まだ何か言いたそうではあったけど、二宮も綿谷に続いた。
「ばいばいー」
無言で見送ったわたしに対し、海々は律儀に別れの言葉を送っていた。

その日の夕食。海々と明音さんと3人で食卓を囲んでいると、当然のように海々は綿谷と二宮のことを話題にしてきた。
「二宮くんはまだしも、綿谷くんもすごく礼儀正しい人だったね。正直、もっと怖い人かと思ってたよ。先入観だけで誤解してたなぁ」
「綿谷君って、あの怖い集団の組長さんだっけ?」
確認する明音さんに、海々はうん、と頷く。
「ん。まぁ人としての道徳性はあるみたいだね」
わたしは適当に同意しておく。
「なんか情けないなぁ。先入観で人を誤解するなんて嫌なコだね、海々……」
海々は申し訳なさそうに自分を虐げる。その表情はとても痛々しい。
どうやら心から罪悪感に囚われているようで、わたしはそんな海々が愛おしく思えた。あれだけ朱漢組に絡まれながらも、たった一日で綿谷を見直すなんて、どれだけ良いコなのだろう。
「海々……」
わたしは持っていた茶碗をテーブルに置いて、まっすぐ海々を見つめる。
「海々ちゃん、後悔なんて何の役にも立たないんだよ? だから、これからのことを考えていけばいいじゃない」
明音さんがもっともな慰めの言葉をかける。わたしもそれに続こうと思ったけど、海々が先に口を開いた。
「慰めてくれなくていいよ、お母さん。本当のことなんだから。ここで慰められちゃったら、本当の意味で嫌なコになっちゃう。だから、思いっきり罵ってほしいな」
「……っ」
思わず抱きしめたくなるような衝動に駆られる。
聞き方によってはぶりっ子に思えてしまうかもしれないけど、海々がそんな計算高い女ではないことはわたしがよく知っている。悪く言えば生真面目、良く言えば純粋なのだ。
ともあれ、本人に「慰めないで」と言われてしまった以上、ここは希望に沿ってあげるしかない。どうせなら壮大に。
「うん。先入観で人を判断するなんて、ホントに最悪だね」
海々の身体がぴくっと震える。
「これってアレだよね。いわゆる偏見ってやつ? 動物が、自分と違う毛色の赤ちゃんが生まれたら気味悪がってその子を突き放すことがあるって話は知ってるよね? 自分の子供をだよ? ただ毛色が違うだけだよ? 海々がやってたのはそれと一緒さ」
「そ、そんなに……?」
身体だけでなく声も震わす海々。
「そうだよ。人種差別だよ。長い歴史の中で、それが原因で無数の戦争が起こったのは海々だって知ってるよね?」
「…………」
もはや頷くだけになった。
「海々が良いコなのは知ってるよ? すごく純粋で、友達想いで、絡まれることの多かった朱漢組の頭の頼みまであっさり引き受けちゃうし。でも、今回の件で海々が『偽善者』って烙印をつけられてもおかしくなくなっちゃったね」
「………………」
海々はただ目を開いたまま硬直。
わたしはそれ以上言葉を続けず、海々が口を開くのを待つ。
いつの間にか海々の震えは止まっていた。
数秒経って、海々は無表情のまま力なく口を開いた。
「海々、生きてる価値ないね……。――ううん、生きてない方がいいんだよ。だって、生きてるだけで戦争が起こっちゃうんだから……」
淡々と紡いでいく海々の言葉に、わたしと明音さんは黙って耳を傾けていた。
「今までありがとう、碧。碧と過ごした1年半、すごく楽しかった。海々にとって、一緒にいて一番楽しいのが碧だったよ。お母さんも、こんなに大きくなるまで育ててくれてありがとう。普段は恥ずかしくて言えないけど、お母さんのこと、大好きだったよ……」
言い終えると、海々は箸を揃えてテーブルに置いた。
そしてゆっくりと立ち上がって、わたしと明音さんに深く頭を下げた。それは感謝なのか、謝罪なのかはわからない。
「さようなら」
最後まで無表情を貫いた海々は、わたしと明音さんに背を向けて、ゆっくりとキッチンのドアに向かっていく。
わたしは迷っていた。止めるべきか、否かを。
海々は自らの意志で去ろうとしている。世界の平和のために。
でも、わたしの意志は……?
ついさっきまで座っていた海々の席はぽかんと空席になって、食べかけのごはんだけがさっきまで海々が居たことを証明していた。でも今残っているのは、空虚感と寂寥感だけ。
そんな感情を抱いたまま、わたしは想像してみる。
海々のいない家。海々のいない教室。海々のいない生活。
それは想像を絶するほど寂しくて、つまらなくて、モノクロの世界。
「……海々!」
嫌だ。そんな世界は嫌だ。わたしには海々が必要だ。海々がいなきゃダメだ。
わたしは立ち上がって、その名を叫んだ。
「止めないでよ……」
わたしの呼びかけに歩を止めて、背を向けたまま海々は言った。
「海々は、この世界にいちゃダメなコなんだから……」
そうかもしれない。それはわたしが言ったことだから、否定したら矛盾してしまう。
だから否定はしない。でも、
「わたしはいて欲しい」
自分の気持くらいは、ちゃんと伝える。
「わたしは海々にいて欲しい。例え、世界が海々を拒もうとも、わたしが守ってあげる。わたしだけは、ずっと海々の友達でいる」
すると、海々が再び身体を震わした。
「ひきょう、だよ……」
弱々しく、今にも消え入りそうな儚い声。
「碧が言ったんだよ……。海々はさいあくで、ぎぜんしゃで、せんそうの原因にもなる、って」
言いながら、海々が振り向いた。その表情は今にも泣きそうな、沈痛なそれ。
「うん、言ったね。海々は最悪で、偽善者で、戦争の原因にもなるって」
わたしはその顔から目を逸らさず、言葉を続ける。
「でも、卑怯じゃない。本当に卑怯なのは、そこから逃げ出す人のこと」
「っ」
海々の顔が一瞬こわばった。すぐ元に戻したけど、わたしは見逃さなかった。
「海々、一緒に直そう?」
優しく、努めて微笑んで、海々に言葉をかける。
「直す……?」
「そう。そもそも、完全な善人なんているわけないじゃない。誰にだって悪いところはある。だから、それを直せばいい。そうでしょ?」
やや考えて、海々が頷く。
「わたしにだって悪いところはたくさんあるから、互いに悪いところを直していこうよ。二人で、一緒に」
直後、体に強い衝撃が走る。
「碧……」
耳元で海々がわたしの名前を言って、初めて海々に抱きつかれたことに気付く。
「一緒にいていいんだね? 碧と一緒に、今まで通り過ごしてていいんだね……?」
その言葉に、わたしは笑うことしかできない。
海々の背中に手を回して、その手で海々の存在を確かめる。
「当たり前じゃない。わたしが言い出したことでしょうに」
「うん……」
「ずっと、一緒だからね」
「うん……、うん……!」
海々はわたしの言葉に頷くだけだった。
10秒くらいだろうか。静かに、しかし力強く抱きしめ合っていたわたしと海々に向かって、明音さんが口を開いた。
「昨日よりもだいぶスケールが大きくなってたけど、ご飯、冷めちゃってるわよ?」
「あ、そうですね」

そして食事を再開。
「うぅ、完全に冷たくなっちゃってる……」
「うーむ、せっかく明音さんに作ってもらったのにバカなことをしたなぁ。海々に悪ノリしなけりゃ良かったかも」
「えぇっ、海々のせいっ? 碧がすごくボロボロに言ってきたんだよっ」
「確かにそうだけど、慰めずに罵って欲しいって言ったのは海々だし」
「そうだけど……、そうだけどぉ!」
肯定ができても否定はできない海々を放り、わたしは冷めてしまったご飯を口に運んでいく。
ふと、とっくに食べ終わっていた明音さんに目を向けた。明音さんは優しく微笑んでこちらを眺めているだけで、料理を冷ましてしまったことは一切咎めてこない。
すごくありがたいことなんだけど、逆に良心が痛む。
「えっと、ごめんなさい、明音さん」
「ん? 何が?」
明音さんは本当に何のことかわかっていないようだった。
「料理、冷ましてしまって……」
そう言うと、明音さんは再び優しく微笑んだ。
「なんだ、そんなこと? 気にしなくていいのよ。海々ちゃんと仲良くしてくれてるだけで、それで十分」
その優しい笑顔と言葉に、思わず胸が詰まった。
そして心から思う。
この親子、どれだけ良い人なのだろう……。


「フハハハハ。勇者アオイよ、ミミ姫を返して欲しくば、わしを倒してみろっ」
「アオイーっ! 助けてー!」
「ミミ姫っ、今助けに参ります! しばしのお待ちをっ」
「ふっ。残念だがそうはいかん。この魔王ワタヤがいる限り、姫には指一本触れさせんっ。貴様はここで死ぬのだ!」
「ミミ姫のため、そして国のため、さらなるは世界のためっ、わたしは負けられないんだ! お前を倒し、姫を取り戻すっ」
「無駄だ。貴様にわしは倒せんっ」
「強がってられるのも今のうちだ! この聖剣でお前を成敗してくれる!」
「ふふふふ」
「うぉぉぉぉおおおおおおおっ」
――ガキィっ。
「なにぃっ。金剛石ですら真っ二つにする聖剣が通じないだとっ」
「甘いわっ。わしにはどんな刃でも傷つくことのない『ニノミヤシールド』があるっ。そんなものではわしの体に傷をつけることはできんっ」
「くそっ、どうすればいいんだ……」
「観念するがいいっ。貴様の命運もここまでだっ」
――ガッ。
「ぐっ!」
「アオイー!」
「ミミ姫……。わたしは、あなたを助けることができないのか……」
「アオイっ、アオイーっ」
「姫……」
「(思い出しなさい、勇者アオイよ)」
「っ!」
「(思い出しなさい)」
「その声は……聖霊主アキネ?」
「(思い出すのです。今まで乗り越えてきた苦難を、犠牲にしてきたものを。あなたはあらゆるものを犠牲にして、魔王ワタヤのもとへ辿り着きました。それらのもののためにも、あなたは決して負けてはなりません)」
「でも、奴には聖剣が……」
「(魔王の持つ『ニノミヤシールド』は万物の攻撃を受け付けません。ですが、私を刃にすれば、あるいは)」
「し、しかし、それではあなたは……!」
「(構いません。魔王ワタヤがいる限り、この世界は恐怖に包まれたままです。それが私の命ひとつで晴らせるのならば、この命、惜しくはありません)」
「アキネ様っ、アキネ様ー!」
「(世界を、頼みましたよ)」
――サァァァァアアアアアアアアアアア。
「むっ。なんだ、この黄金色の光はっ」
「光が、アオイの手に集まっている……?」
「……魔王ワタヤよ、この『アキネランス』は世界そのものの命。貫けぬ物はないっ。この槍をもって、お前を倒すっ」
「なんだ、光が槍に? ――ふっ、だがわしには『ニノミヤシールド』がある。そんなもの、わしには通じんっ」
「うぉぉぉぉぉぉおおおおおおおっ」
「はぁぁぁぁぁぁあああああああっ」

「碧っ、碧ってば」
「んあ……?」
体を揺すられ、寝起き特有の重い頭を上げた。
「大丈夫? 随分うなされてたようだけど」
わたしは目を擦って、目の前の海々を見た。続いてざわついている教室内を見回す。
みんな鞄を手に持って、ぞろぞろと教室を出て行っていた。
「ミミ姫、世界は救われたのですか?」
「なに寝ぼけてるの。もうホームルームも終わったよ。6限目の途中からずっと寝てたでしょ」
あくびを噛み殺しながら伸びをして、机の上に置かれていた古典の教科書に目をやる。
「あぁ、そういえば……」
開かれていた教科書には「矛盾」という文字が大きく書かれていた。
「それであんな夢を見たわけか」
「夢?」
さっき見た夢のことを知らない海々が、目を点にしてわたしを見てくる。
「ねぇ海々。『どんな盾も貫く矛』と『どんな矛も防ぐ盾』の話知ってる?」
「え? えっと、確か『矛盾』の語源になった話だよね。昔の中国かどっかの」
海々は少し考えながら言った。
「そう。その矛と盾はさ、結局どっちが強かったんだろうね」
そう言うと、海々は考え込んだ。
その間にわたしは教科書や筆箱を鞄にしまっていく。
「んー、海々には想像もつかないけど」
机の中が空になった頃、海々は答えを導き出した。
「けど?」
「けど、やっぱり盾の方が海々は好きだなぁ。相手を傷つけるよりかは、守るほうがいいもん」
何だか微妙に話が逸れてしまっている。別にいいけど。
「確かに、海々が人を傷つける姿は想像できないなぁ」
思い返してみると海々は、人はもちろん、植物や虫だって傷つけたことはない。花を摘み取ることはしないし、自分の血を吸った蚊ですら殺そうとしない。息を吹きかけて追い返すだけだ。
「うーん……。でも、最近思うんだ」
海々は少し考えながら、呟くような口調で言った。
「なにを?」
「海々って、碧に守ってもらってばかりだよね。盾になってもらってばかりだよね」
本当に申し訳なさそうに海々が呟くように言った。
確かにそうかもしれないけど、
「わたしは好きでやってるんだよ?」
今まで海々に助けを乞われたことはない。勝手にわたしがそうしているだけだ。
「でも、守られてばっかりじゃダメだよ。海々だって、碧を助けてあげたいよっ。だ、だからもしっ、碧が歩いてる時に上から鉄骨が落ちてきたら、海々が盾になってあげるからねっ」
海々は目をぎゅっと閉じて、まるで勇気を振り絞って告白するような勢いで言ってきた。
「海々……」
そんな物騒な出来事が起こり得るのかと一瞬考えてみる。でも、即座にそんな野暮な考えは捨てた。
この高校に入って、海々の身に危険が降りかかるようなことがあればわたしが盾になってきた。大好きな海々に、傷がつくようなことは嫌だから。
でも、今度は海々がわたしの盾になると言う。
こんな感動できる話が他にあるだろうか。
「わたしは今、世界で一番しあわせな女かもしれない」
素直な気持ちでそう言うと、海々は少し慌てながらも拳を握って顔を引き締めた。
「う、うんっ。ちょっと頼りないかもしれないけど、海々に任せといてっ」
自分の力不足を自覚しているのか、セリフに若干の遠慮が混じる。
それでも、その気持ちだけで十分だった。
「ありがとう、海々。これからもよろしくね」
わたしは立ち上がって、海々の目をまっすぐ見ながら言った。
今のわたしは、きっとものすごく爽やかな顔をしているに違いない。
今までの人生の中で、こんなにも清々しい気持ちで人に「よろしく」と言ったことはなかったはずだ。
「うん、こちらこそ」
海々もとても晴々とした表情で、
「よろずぃっ」
晴々とした表情で……。
「『よろずぃ』? それがミミちゃん流の『よろしく』なの?」
「ちが……。し、舌噛んだ……」
目に涙を溜めながら苦悶している。
こんな感動的な、こんなにも肝心な場面で舌を噛む海々。
「なんて頼りな――」
「言わないでーっ」
わたしの言葉を遮る海々は、本当に必死な顔をしていた。

ほとんどの生徒は既に下校、あるいは部活に行ったようで、下駄箱は閑散としていた。
わたしと海々は上履きから靴に履き替えて、ふたり並んで学校を出ようとする。
すると、入り口のドアに一枚の紙が張られていた。
「ん? こんな張り紙、前からあったっけ?」
そう呟きながら紙を覗いてみる。
『生徒各位。最近、源泉町内で不審者の目撃情報が多数報告されています。下校時の寄り道は自重し、まっすぐ帰宅するように。また、夜間の外出も控えるように。 生徒指導部』
へぇ。そうなんだ。
「あぁ、そういえば今日のホームルームでも先生が言ってたよ」
海々も言いながら紙を覗き込んでくる。
妙に顔が近くに来たので、わたしはさり気なく一歩横にずれた。
「でも、この不審者ってどういう奴らなんだろうね。風貌とか、どう不審なのか書いてくれないと警戒しようがないよ」
わたしが張り紙に対して不満を口にすると、海々はんー、と考えながら、とんでもないことを言った。
「宇宙人かなぁ。ウサギみたいにかわいいの」
ある意味、だけど。
ウケ狙いのボケではなく、海々は真顔で、本気で言っている。
そんな無垢な少女の淡い願いを、わたしは無下にすることはできない。
「……行こ」
「あっ、待ってよっ」
だからスルーでいくことにした。
後ろからついてくる足音が慌しかった。

別にあの張り紙に喚起されたわけじゃない。元々寄り道を予定していなかったわたしと海々はまっすぐ家に向かう。
今日は湿気がなくからっと晴れているから、そこまで汗をかかずに中間地点まで来ることができた。
そのかわりに、容赦のない強い日差しが地上に降り注いでいる。
「うー、腕と首が痛いー」
海々は唸りながら肌が出ている腕と首をしきりに摩っていた。
「しょうがないなぁ。ほら」
わたしは頭に被せていたタオルを海々の首にかけてあげた。
「これで首くらいは守れるでしょ」
「で、でもこれじゃ碧が日焼けしちゃうよっ」
予想通り、海々は申し訳なさそうに遠慮してきた。
「わたしはもう焼けてるし、日差しに当たるのは好きだから。それにね」
「それに?」
「海々の綺麗な白い肌が痛めつけられるのは、わたしだって我慢できないよ」
ぼっ、と夏の熱気とは別に海々の顔が紅潮する。
「ね? だから海々は首にタオルかけといて」
笑顔で言った。
こうやって言えば、海々が断ることは絶対にない。
「うん……。わかった、ありがとね」
よし、狙い通り。
まだ少し抵抗があるみたいだけど、首のタオルを改めてかけ直した。
「ん……?」
相変わらず可愛いなぁ、と心の中で呟いていると、どこからから悲鳴のような声がわずかに聞こえた。
「海々、何か聞こえなかった?」
わたしが尋ねると、海々はいつの間にか真顔で辺りを見回していた。
「――や。……――けて――」
また聞こえた。今度は確実に。
「こっち!」
突然、海々が走り出した。家路から外れて狭い路地に入っていく。
やっぱり海々はこういう能力が優れている。
わたしは辛うじて声が聞こえただけなのに、海々は方角まで的確に掴んでいた。
少し進んだところで、踊り場のような、四方を高さ2メートルくらいの塀に囲まれた広めの場所に出た。土管やドラム缶が置かれている。隣が工場であることから、工場の物置場になっているようだ。
そこかしこにタバコの吸い殻や18禁の雑誌が散らばっている。
「ちょっと!」
数歩前にいた海々が歩を止めて叫んだ。
わたしは海々の前に出て、目の前の光景を刮目する。
私服姿の20歳前後の男が5人。
そのうちの4人が楽しそうに円になっていて、その中心でわたし達と同じ制服を着た女の子がひとりの男に羽交い締めにされている。
源泉高校の制服は襟にラインが引かれていて、その色で学年を識別できるようになっている。それによって女の子は1年生だと知ることができた。
わたし達に気付いた5人とひとりが同時にこっちを見る。ひとりは嬉しそうに、5人は気怠そうに。
「んだぁ、このガキ共?」
左耳にピアスをつけた金髪の男が威嚇してきた。
わたしはそいつを睨みつけて、後ろの海々を庇うように両手を広げる。
「こいつらが張り紙にあった……?」
「碧……」
「いいから、少しの間おとなしくしてて」
わたしは何か言いかけた海々を制した。
いつものように海々を背後に押しやり、海々に害が及ばないようにする。
その時だった。
「そんなのダメーっ!」
あまりにも唐突だった。反射的に耳を押さえる。
何の前兆もなく耳をつんざくような甲高い声が鼓膜を激震させた。
それは男達も同じだったようで、わたしと一緒に耳を押さえている。
「な、なにっ」
「そんなのダメだよっ!」
「だからなにがっ」
目に涙を溜めて叫ぶ海々は、顔を真っ赤にして訴えてきた。
「海々はもう、守られてばっかりはイヤだもんっ。海々だって盾になるよっ」
「海々……」
わたしの脳裏に、放課後の教室で交わした会話がよぎる。
「てめぇらーっ!」
男達が明らかに気分を害した様子で叫んでくる。
でも、今はそんなものを相手にしている暇はない。
「あのね、海々? 朱漢組の奴らとは違うんだよ? あんなふざけた連中じゃないんだよ?」
わたしは諭すように話すけど、海々は聞き入れてくれる様子は全くない。
「そんなの関係ないよっ! 海々が碧の盾になるんだもんっ」
あぁ、そういや変なところで頑固なんだっけ、海々は。
「このっ、俺らを無視する気かーっ」
怒声がわたし達に向けられる。
ふと気付くと、男達に捕らえられていた女の子が恐怖の絶頂に達していた。
真夏だというのに顔が青ざめているし、小刻みに体を震わせている。
そりゃそうかもね。わたし達の登場のせいで、男達を無駄に怒らせたのだから。
「海々、この話は後でね。今はあのコを助けるのが先」
海々は納得できてないみたいだけど、渋々と頷いた。少なくとも今優先すべきなのは女の子の解放だと理解してくれているようだ。
偉いよ。それでこそ海々だね。
わたしは安心して男達に向き直る。
「オニイサン方、そのコを解放してくれない? わたしが相手をしてあげるから」
「あぁっ? てめぇみたいなガン黒女、誰が求めるかよっ」
「……はい?」
「俺らは『女の子』がいいんだ。てめぇなんか眼中にねぇよ」
「…………」
一応、わたしも女の子なんだけど。
「違ぇねぇ。やっぱ『女の子』はふよふよしてほわほわしてなきゃな」
それってつまり、わたしは『女の子』の枠内に入らないってこと……?
「ついでに天然入ってたらもう最高だよなっ」
なんだか、すごくテンション下がってきた……。
いや、別にこんな奴らに罵倒されて悔しいってわけじゃないんだけど。
……違うか。
こんな奴らに言われるからこそ、よりショックも大きいわけで。
ショックを受けているってことは悔しがっているわけで。
結局、今のわたしは単に強がっているだけで。
……あぁ、なんか女としての自信が氷が解けるように喪失していく……。
無論、元々あったわけではないのだけど。
「それに比べて、後ろに隠れてる子はすごくいいねぇ」
「っ」
「俺も思ってた! 小さくて童顔で貧乳なんて完璧じゃねぇかっ!」
「おいおい、それはお前の趣味だろ」
「いいんだよ、俺の個性だ。――で、ミミちゃんだっけ? 俺らと一緒に遊ばない?」
こいつら、よりにもよって海々を……。
「クソが……」
わたしの口から汚い言葉がさらりと出てくる。自制できないくらいに怒りが込み上げてきている証だ。
海々が狙われている、というのももちろんある。
だけど、別の感情が相乗しているのがわかる。
嫉妬――。
わたしは女として見られなかったのに、その反面、海々は人気アイドルのような言われよう。
そりゃ、わたしより海々の方がいいなんてことは自分でもわかっている。顔も性格も海々の方がずっと男好みだ。女として海々に勝てるわけがない。
それでも、わたしにだって意地やプライドはある。モテたいと思ったことはないけど、それとこれとは別。
こんなことを考えているうちに、怒りのボルテージが最高潮に達したようだ。
「ねぇ、わたしはそのコを解放してあげてって言ったんだけど」
「うるせぇ! てめぇに用はねぇんだ! ミミちゃんだけ置いてさっさと帰んな!」
「この――」
視界が狭まっている。もはや目の前の男しか見えない
もう限界。爆発する。すごく久しぶりかも。海々の目の前ではしたくないけど、これ以上は無理。どうしようもない。海々に怖がられちゃうかな。離れていかれちゃうかな。二度と口を利いてもらえなくなるかな。家を追い出されちゃうかな。
あぁ、今までありがとう、海々。
覚悟を決めて、わたしは一歩を踏み出した。
刹那、
「バカぁぁぁぁぁアアアアアアアアアっ!」
再び反射的に耳を押さえた。
再び後ろを振り向いた。
再び顔を真っ赤にした海々がいた。
再び目に涙を溜めている海々がいた。
「碧はモテるんだよ! 強くて、かっこよくて、それでも優しくて! 海々なんかより何倍もモテるんだ! 学校一の人気者なんだ! そんな……、そんな自慢の親友を悪く言うなぁっ!」
涙が出そうになった。
「てめ、可愛い顔して――」
「碧の方が可愛い!」
海々が怒っている。
それは標的が自分になったからじゃない。
友達のわたしを、悪く言われたから。
自分で言うのはおこがましいかもしれないけど、自慢の友達を罵られたから。
なんだか、海々に嫉妬していた自分が情けなく思えてきた。
「てやっ」
パンっ、と小気味良い音が響いた。
わたしが自分で自分の頬を叩いた音だ。
「ありがとう、海々」
海々にこんなことを、こんな場面で言ってもらえるとは思ってなかったよ。今よりもちょっとだけ、自分のことが好きになれそう。
それに、海々が叫んだおかげで冷静になることができた。狭くなっていた視界が元に戻っている。
二重の意味で大活躍だよ。
「海々」
息を切らした海々がわたしの呼びかけに応える。
「あんたはわたしにとって、最強の矛であり、盾だよ」
海々はいまいち意味が掴めないらしく、その小首を少し傾げた。
そんな海々を愛おしく思えたわたしは思わず口元を綻ばせる。
でも、まだ終わっていない。
まだ女の子が捕らえられたままだし、感動の続きは終わってからにしよう。
わたしは海々に隅でおとなしくしているように促した。海々は頷いて、わたしから離れていく。
それを確認して、男達に向き直る。
「ごめん、わたしの友達が二度も叫んじゃって。今すぐ駆逐してあげるから許して」
「んだとぉ?」
眉を吊り上げた男達が女の子から離れ、わたしと対峙するように一列に並んだ。
捕らえられていた女の子は男達が自分から離れていったことに気付くと、そそくさと海々に寄っていった。
よしよし、それでいい。
「さて」
男対女。1対5。
はっきり言って、だからなに?って感じ。
真っ向から喧嘩するなんて半年振りくらいだけど、負ける気がしない。
「このクソガキがぁーっ!」
「死ねやぁーっ!」
5人が一斉に猛然と突っ込んできた。
「うんうん、これがホントの不良ってもんだよね」
頭が冷えて精神的に余裕が生まれたためか、そんな言葉が口からこぼれた。

全員同時に攻撃を仕掛けるのは単純だけど、決して悪い方法じゃない。
それだけ攻撃の軌道が増えるわけだし、何より微妙に誤差のある間隔でやられると見切りにくくなる。
喧嘩慣れしている人ほど、その経験が逆に枷になることだってある。
――ふたつの拳が顔、ふたつの足が膝と脇腹、ひとつの肩が喉元。ならば……斜め後ろ!
ひゅんっ。ぶぉっ。
ま、あくまで一般論だけど。
斜め後ろに跳んだわたしは5人の攻撃をかわし、1番隙が出た輩を瞬時に判断する。
タックルを仕掛けてきた鼻ピアスの男が1番バランスを崩している。
そりゃそうだ。タックルなんて捨て身以外のなんでもない。かわされたら止まれないからね。第一、助走をつけたタックルほどかわしやすいものはない。軌道が見え見え。
タックルってのはこうやってするものだ。
「はぁっ」
着地した右足に力を込め、反動を利用して鼻ピアスの男に突っ込む。
そのままわたしは勢いを緩めることなく、左足を踏み込んで更に加速させて男の脇腹に頭突きをかました。
めり、と鈍い音が至近距離で耳に入る。
「おぐぅっ」
呻き声をこぼした男は横に倒れ、脇腹を抑えることなく動かなくなる。
いや、正確には小刻みに震えているけど。
「ノリ!」
「そいつはもう動けないよ。ヒビは普通に入っただろうね」
親切心で教えてあげると、残った4人が憤怒の形相に染まる。
「このガキがぁーっ!」
いいね、そのキレよう。こっちも燃えてくる。
「囲めーっ!」
金髪の男が叫ぶと、男達は機敏にわたしと1メートルほどの距離を置いて囲んできた。
そしてそれぞれが警棒を取り出す。長さは50センチくらい。
これはおそらく……。
「改造、か」
奴らの親指がボタンのようなものに添えられている。あれを押せば電流が流れる仕組みなのだろう。
「そうさっ。一発でも食らえばしばらく痺れて動けねぇぞっ!」
ドレッド頭の男が舌を出しながら嬉々として吼える。その目はひどく濁っていて、きっと人を痛めつけて快楽を得る人種だ。見ているだけで鳥肌が立つ。
これで、次の標的が決まった。
「そこのドレッド。臭いから喋らないで。息を吐かないで。吸いもしないで。消えて」
「……てっ、てめぇぇぇぇええええええ!」
予想通り、いとも簡単に激昂した。こういう奴ほど安易な挑発に乗りやすいものだ。
ドレッド頭が警棒を大きく振りかぶる。
「おいっ、待て!」
金髪の男が叫んだけど、もう遅い。さすがのわたしでも、囲まれては簡単にかわすことはできない。だから、こうやってひとりを先走らせれば囲んだ意味が全くなくなる。
ドレッド頭が振り下ろした警棒は明らかにわたしの頭を狙っている。これだけ大きく振りかぶれば、小学生でもかわすことはできるはずだ。
体を横にずらしたわたしは、空を切った警棒を手刀で叩き落とす。
で、問題はここから。こういうタイプの奴は怒りに駆られると痛みを感じない輩が多い。だから一発で仕留める必要がある。
ドレッド頭は勢いをつけすぎたせいで前のめりになっている。狙うならここだ。
わたしは左足を軸にして、右に体を回転させる。
遠心力という勢いを乗せたわたしの右足を肩の高さまで振り上げ、そのかかとを奴の鼻の下に打ちかます。
べぎぃ、と乾いた音が耳をつんざく。
「いぎゃっ」
声にならない悲鳴を発したドレッド頭はその場で意識を失い、顔から地面に突っ伏した。
鼻の下は人体急所の一つ、人中。しばらくは起き上がれない。
これであと3人。
「カツユキー! ちくしょーっ!」
やすやすと仲間をやられたせいか、バンダナを巻いた男と坊主頭の男が同時に突っ込んできた。
「うおーっ!」
「くたばれぇっ!」
――警棒が肩、一つの拳が腹。ならば……。
「前!」
わたしは地面を思いっきり踏み込み、警棒を使っていないバンダナ男の胸元目がけて膝を持ち上げる。
ずがっ、っと低く主重々しい音が空気を振動させる。
「ぬぁっ」
胸骨の下らへんに膝が食い込む。ここに思いっきり衝撃を与えれば肺が圧迫され、一瞬だけ呼吸を止めることができる。
そうすれば、
「せっ」
バンダナ男の顔を鷲掴みにできる。
呼吸が止まれば力も抜ける。これによって勢いに乗ったわたしの体重に耐えられず、男は後ろに倒れこむ。で、頭はわたしが押さえている。
がんっ。
奴の頭を下に押し出し、後頭部を地面に叩きつけた。響いたのは湿り気のない、現実感溢れる乾ききった音。
わたしにも衝撃は来るけど、後頭部に直接走ったこいつに比べればどうってことない。
「タカーっ!」
坊主頭がバンダナ男を呼びかける。でも、意識なんてあるはずがない。やった人がわたしより体重が重けりゃ、頭蓋骨なんて簡単に割れる危険な技だ。
「うおおぉぉぉおおおおおおおっ!」
坊主頭が警棒を両手で持って、大きなスライドでわたしに迫ってくる。
こんなバカ正直な突進、わたしがかわせないはずがない。
軽いステップで横にかわし、男の方に振り向いた、その瞬間、
――っ! 左肩!
咄嗟に体を捻らせる。
たんっ。
わたしの左肩をかすめ、背後から飛んできた警棒が塀に弾かれる。
「ちぃっ!」
なんとか体勢を持ち直し、坊主頭に目を向ける。
さっきまで両手で持たれていた警棒がなかった。姿勢を崩し、今にも地面に倒れかけている。
なるほど、なかなかいい判断だ。飛び道具は視界に入っていないとかわすことは不可能だ。
「さっ」
でも、それも一般論。
床に転がった警棒を拾い上げ、今度はわたしが投げつけようとした。
「むっ」
でも、その警棒は意外に重く、一瞬だけ投げ遅れる。
「ぬあっ」
それでも、なんとか奴の側頭部に当てることができた。坊主頭は地面を転がり、そのまま塀に突っ込んだ。
その直後、残っていた金髪の男が警棒を投げようと振りかぶる。
――まずっ、かわせないっ。
「でりゃっ」
警棒がわたしに襲いかかる。
わたしは警棒を投げた直後とあって、かなり不安定な体勢でいた。
何より、その金髪のコントロールが絶妙だった。
どこに動いても必ずどこかに当たってしまう。金髪はそれを計算している。
そういえば、さっきもドレッド男が先走るのを抑制しようとしていたし、こいつはそれなりに場数を踏んできているのが窺える。
「甘いっ」
でも、わたしだって場数なら負けない。高校に入学して以来、朱漢組と何回も手を合わせてきた。正直、こいつらよりも朱漢組の方がよっぽど強い。あいつらはバカだけど、純粋な強さならこんな奴らよりかは上だ。
だから、避けきれない攻撃が来た場合、どうすればいいかわたしは知っている。
避けられないのならば、受け止めればいい。
今の自分で最も丈夫な箇所。それは体のどこでもない。
だんっ。
わたしに飛んできた警棒が跳ね返る。
「なっ、靴の裏だとっ!」
咄嗟に持ち上げた右足に衝撃が走るものの、わたしの体は無傷だ。
相手が怯んでいる時ほど絶好のチャンスはない。
わたしは金髪に猛然と突っ込む。
奴は慌てて腕を交差させて顔を守る。でも、そんなものはガードと言えない。
わたしは奴の3歩手前で地面を蹴り上げ、腕が交差した部分に思いっきり飛び蹴りをかます。
「うおっ」
金髪は後ろに吹き飛び、背中を塀に打ちつけた。
湿った鈍い音が鳴ったかと思うと、男は苦悶の表情を浮かべながら咳き込んだ。
5、6回ほど咳をして顔を上げ、わたしはそれと同時に額に警棒を突きつけてやった。もちろん、親指はボタンに添えてある。
俗に言う、チェックメイトというやつだ。
「あんたらの負けね。両手を頭の後ろに回しなさい」
不敵な笑みを浮かべたりして、ちょっとかっこつけて言ってみた。
「く……」
金髪は頭を垂れて、言われた通りに両手を頭の後ろに回した。
よしよし。そういう潔さは嫌いじゃないよ。

「碧っ」
言いつけを守って隅でおとなしくしていた海々が駆け寄ってきた。
「よっ。お待たせ」
「すごいよっ。かっこよかったよっ、碧!」
わたしのもとに辿り着くなり、海々はとびっきりの笑顔と賛辞の言葉を贈ってきた。
これはまた、かなり殺傷能力が高い……。
「う、うん」
なんか、これだけで頑張った甲斐があった気になる。なんて価値の高い笑顔だ。
「あの……」
海々より少し遅れて、女の子がわたしのそばに寄ってきた。
「ありが――やっ」
一瞬だった。
海々に殺人的な笑顔を振りまかれて気が抜けたのか、その男が動いたことに気付けなかった。
女の子の髪がふわっと舞ったかと思うと、次の瞬間には金髪の男に捕らえられていた。
「動くなーっ!」
金髪男は腕を女の子の首に回し、喉元に警棒を押しつけている。
「あんた……、ここまで来てまだ抗うのかよっ」
「うるせぇっ。てめぇは黙ってろ!」
わたしの非難に耳を貸す様子は全くない。
ったく、せっかく潔さを買ってあげたのに、あれはこれのための布石かよ。
「いいかっ、一歩も動くなよ。こいつが二度と声を出せなくするぞ」
「た、たすけて……」
女の子は怯えながらも必死に助けを求めている。
クソ、どうすればいい。
今の金髪男は完全に我を失っている。
下手に刺激したら、本当に女の子の喉を潰しかねない。
どうすれば……。
「そのコを放して!」
「えっ」
海々が思わぬことを言い放った。
「海々が人質になるよっ。だから、そのコを放してあげて!」
「ちょっと、海々っ」
「だって!」
「だってじゃないっ」
わたしは海々の言葉を遮った。
海々が何を言いたいかは想像できる。
放っておけない。もう守られてばかりいるのは嫌だ。自分だって役に立ちたい。
きっと、これらのどれかを言おうとしたはずだ。
でも、これを言わせてしまってはダメだ。言わせてしまっては、海々が惨めになるだけだ。
自分は役立たずだと。自分は無力だと。
海々はそんな思いはしなくていい。わたしだけでいい。
「それに、今のあいつはそんな要求を飲んだりしない。あいつはそれなりに頭がいい。人質を放すということは、一瞬とは言え隙ができる。わたしはその隙を逃さない。それを、あいつは見逃さない。今はとにかく、あいつを刺激しないことを優先させるの」
そう海々に言い聞かせて、反論の余地を封じる。
海々は下唇を噛んで、俯いたまま震え出した。
本当は海々にこんな思いをさせたくない。それでも、今はこうするしかないのだ。
「ねぇ」
とりあえず、今は海々のことは置いておく。
わたしは金髪の男に呼びかけた。
「黙れっ、話しかけるな!」
でも、まともに応じる様子はない。
男は一層腕に力を込め、それにより女の子が顔を歪めた。呼吸すらままならないようだ。
まずい。こんなことになるならかっこつけずにトドメを刺しておけばよかった。
今になって後悔していてもしょうがないのはわかっているけど、どうしても悔恨せずにいられない。
どうする。
考えろ。考えろ。
手に持っている警棒を投げるか? いや、振りかぶった時点で奴はボタンを押すだろう。
ならば交渉を試みるか? それこそ無意味か。
本当なら女の子が腕に噛みついてくれれば御の字なんだけど、あの様子じゃそれは期待できない。完全に恐怖に陥れられている。
……ダメだ! この状況を打破する案が何も思いつかない。
自分にイライラする。こんなにも無力感に打ちのめされるのは久しぶりだ。
――って、久しぶり?
久しぶりってことは、以前にもあったことになる。自分が無力だと苛んだことを。
確か、……そうだ。
あれは中学生になったばかりの頃、お母さんに束縛されていると気付いた時だ。
友達ができなくて、ずっとお母さんから離れたかったけど、ひとりでは生きることはできなくて。
ひとりで生きていきたいのに、生きていくことができない。
あの時、わたしは初めて自分が無力だということを思い知った。
中学生になって、少し大人になり始めていると思っていたから、余計に悔しかった。
ということは、わたしはあの頃より成長していない……?
「うあっ」
突如、男が悲鳴を上げた。
離れかけていた意識が戻る。わたしは首を振って、目の前の男を見た。
奴は警棒を地面に落とし、手の甲を押さえていた。
「二宮くんっ」
何が起きたのかさっぱり理解できていないわたしの隣で、海々が後ろを向いていた。
わたしも首だけを動かして後ろを見ると、そこには二宮の姿。
上半身を塀に乗り上げていて、その右手には……銃っ?
二宮は驚きを隠せないわたしと目が合うと、相変わらずの爽やかスマイルで空いている左手をひらひらと振った。
「当然、オモチャだよ。発砲音もしなかったろ?」
ま、そりゃそうか……。
二宮は腕の力で体を持ち上げると、足を塀に乗せて軽い身のこなしで飛び降りてきた。
「つっても、ガスを利用して撃つからメチャメチャ痛いけどね」
二宮の言葉通り、金髪男は未だ痛みで顔を歪めている。
捕らえられていた女の子はその隙にわたし達のもとへ駆け寄ってきた。
「な、なんだてめぇは!」
男は手を押さえながら二宮に向かって声を張り上げる。
「俺? 俺は源水高校二年、朱漢組の二宮希祐」
丁寧に応答はしたけど、金髪男が聞きたかったのはそんなことじゃないってことくらいはわたしにだってわかる。
そんなことを思っていたら、二宮は言葉を続けた。
「朱漢組は弱きを助け、強きをくじく集団だ。そこの猛さん率いる、要は正義の味方気取りさ。誰かが絡まれていたりしたら、俺達は絶対に見逃さない」
気付くと、金髪男の後ろに巨漢な男が仁王立ちしていた。
「貴様、よくもうちの生徒に手を出してくれたな?」
低く、ドスの利いた渋い声が金髪男に浴びせられる。
そして左手で金髪男の頭を掴み、軽々と体を持ち上げた。
「え、あ……?」
その圧倒的な力と威圧的な風貌に怯んでか、男は言葉を発せていない。
綿谷は右手の拳を顔の高さに持っていき、
「成敗」
たったその一言を言い放って、轟音にも似た音を残して男を吹き飛ばした。
豪快に塀に体を預けた男は、もはや象に踏み潰された虫のようにひしゃげていた。



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