ハッピーサイクル

西野尻尾

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後章

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後章「望を司る」


「どうしてここに……」
10年ぶりの再会だった。
そう、もうあれから10年も経っていた。
それなのに、ろくに挨拶もせずにそう訊ねたぼくは、いささか非常識なのかもしれない。あるいは、それでも声を聞いただけですぐに父親だと認識できたぼくは、偉いのかもしれない。
「もう一度言う。迎えに来た」
そうだ。確かにそう言っていた。
でも、知りたいのはそんなことじゃない。
「どうして、今なの?」
どうして今日なのか。
どうしてこの時間なのか。
どうしてこの場所がわかったのか。
まとめて訊いてしまいたかったけど、まとめて答えられたら、ちゃんと脳内で処理できるか自信がなかった。
だから訊きたい衝動をぐっと堪えて、まずはひとつ。
父親――お父さんは右手の中指で眼鏡の蔓を上げて、そのままの姿勢で言った。
「お前、最近異性の子と親しくなったそうじゃないか」
呼吸が止まるかと思った。
実際は止まってなんかいないのに、今の一瞬でひどく息苦しくなった。
訊きたいことが3つあったのに、今のお父さんの言葉ですべて解消してしまった。
この時間、この場所にお父さんがいる理由。
それは潤か南雲のどちらかが、この人に教えたからだ。
そして、今日なのは――
「……っ」
激しく動揺しているのが自分でもわかる。
なにかを頼りたくて、なにかにすがりたくて、ぼくは妹に声をかけた。
「潤……」
潤は俯いていた。
ただ俯いて、ぼくの顔を見ようとしない。
ずきん、と胸が痛んだ。
「南雲ー……」
南雲も一緒だった。
潤と同じように俯いて、ぼくの声に応える様子は見られなかった。
「望」
お父さんに呼ばれて、びくっ、と反射的に体が跳ねた。
「もうこれ以上、ふたりに迷惑をかけるな」
「え……?」
意味がわからなかった。
ぼくが、このふたりに迷惑をかけていた?
「わからないという顔だな」
お父さんは眼鏡の蔓を上げて、レンズの向こうから睨みつけてきた。
やがてその視線を潤と南雲に向けて、左手の親指をぼくに向けた。
「潤、話してやりなさい」
話してやりなさい――。
これだけでもう、押し潰されそうになる。
ようやく顔を上げた潤の表情は、まるでなにかに怯えているようなそれだった。
「あの、ね……おにっちゃん……」
震える唇を必死に動かして、どうにかして声を発そうとしている潤の姿は、見るに堪えないほど痛々しかった。
あれほど元気で、あれほど愛嬌のある潤が、今は見る影もない。
「いいよ、潤。構わず言って」
助け舟なんかじゃない。潤のためじゃない。
ぼく自身が、耐えられそうになかった。
ぼくの方が、先に音を上げそうだった。
潤の表情から、わずかに緊張が解けたのがわかる。
喉をこくりと鳴らして、潤は言った。
「うるみね、おにっちゃんの見張り役、だったんだ……」
ぼくの顔をちらりと一瞥して、その続きを紡いだ。
「なるべくおにっちゃんと話して、そうじゃないときは情報を集めて、些細なことでもパパに逐一報告してたの……」
もう一度ぼくの顔を窺う。
その目はもう、完全にぼくに対しての恐怖を表していた。
潤の言葉に、特に疑問は抱いてない。だから当然、怒りだって湧いてこない。
ただひとつだけ、気にかかったワードがあった。
「なるべく、ってことは、ぼくと話すのは恐かったの?」
気兼ねなく、遠慮なくぼくに話しかけてきた潤。
屈託のない笑顔を見せてくれた潤。
平然と腕を組んできてくれた潤。
「……ちょっとだけ」
ついさっきまで民宿で話していたのに。
つい半日前まで海で遊んでいたのに。
それらはすべて、必死な虚勢だった。
努力によって塗り固められた、感情のない仮面だった。
「お前はずっと施設で暮らしておけばよかったものの、あろうことか普通学級の高校に入学した。普通に考えれば入学できるはずがないのに、成績が優秀ということで学校側は受け入れると言ったそうじゃないか。しかし奴らは、お前の恐ろしさをわかっとらん」
小・中とぼくは、つかさちゃんや潤が通っていた学校とは別種の学校に通っていた。
けれども、あることをきっかけに勉強が得意になった。
先生に頼んで、普通学級の教科書を取り寄せてもらった。ぼくはそれを必死に覚えた。わからないことは先生に訊いた。
そして15歳のときには、数学の複雑な計算も、覚えることの多い理科も、それぞれの教科書の内容はほとんど覚えることができた。
だからぼくは、施設の職員から普通学級の高校に通うことを勧められた。学力、学習能力を保証し、学校側にも推薦状を書いてやると言ってくれた。
そうしてぼくは滝川高校を受験し、合格して、初めての普通学級に入学することができた。
「そんなこと、私は知らされていなかった。私が初めて知ったのは、もうほとんど1年が終わった1月のことだった。驚いた私は急遽潤を同じ高校に行かせ、見張りをつけたのだ。――私が行くわけにもいかないからな」
忌々しそうに話をするお父さんに、ふと抱いた疑問をぶつけた。
「潤の意志は? 他に行きたがってた高校はなかったの?」
すると今度は、お父さんの方がわからないといった顔になる。
「それがどうした」
「潤の意志は尊重すべきじゃないの?」
「子は親の意志に準ずるものだ」
あまりにもあっけらかんと言うものだから、思わずぼくが変なことを訊いてしまったのかと錯覚しそうになった。
けれどやっぱり、ぼくの言い分は間違ってない。間違ってるのはお父さんだ。
でも、ここでいくら食らいついても意味がないことは、10年以上前の記憶と照らし合わせれば明らかだった。
ぼくのお父さんは、信じられないくらいに強い我を持っている。それは昔からそうだったようで、一度はサラリーマンになったものの、長くは続かなかった。
だから自分で会社を立ち上げた。何の会社かは未だに知らないけれど、設立してからたった十数年で大きな企業に発展させた。
やがてお母さんと結婚し、ぼくと潤を作った。
社長の父親を持つ家庭にありがちな、家にほとんどいない、なんてことはなかった。毎朝顔を合わせていたし、夜は20時くらいには帰ってきていた。
すごく厳格で、現実的で、そして高圧的なイメージが強く残っている。決して傲慢というわけではなくて、自分の人生観は絶対だと自負していたようだった。
勤めていた会社を辞め、自分の力で成功させているからこそ、自身の言動に強く自信を持っていた。他人の意見は、自分が納得できなければ絶対に呑むことはない。
それがぼくの父親の、確固たる人間像だった。
「……あぁ、そうだったね」
そう思い出して、ぼくはなんて馬鹿馬鹿しいことを訊ねていたかに気付いた。
父親の言うことは絶対――これが天禄家の家訓だった。ぼくと潤はもちろん、お母さんにもしっかりと適用されていた。
そして思う。
潤が滝川高校に来ることを、嫌がらなかったはずがない。
家から近い学校が良かったはずだ。中学の友達と同じ学校に行きたがったはずだ。
でも、お父さんには逆らえない。さっきもお父さんは言った。
『子は親の意志に準ずるものだ』
間違っている。少なくともぼくはそう思う。
だけど、潤はなにも間違えてない。家訓に従っただけだ。正しいことをしただけだ。
「……っ」
腹が立ってくる。イライラする。
ぼくのせいで、潤は嫌な役を押し付けられてしまったのだ。行きたくもないところに放り出され、やりたくもないことを強要された。
なにより、
「ぼくの話し相手なんて、絶対に嫌がってたでしょ」
「当然だ。お前の監視役を拒んだ最も大きな理由がそれだったからな」
何の躊躇いもなく言ってくれるお父さんには、むしろ感謝したいくらいだった。
そうだ。そうだった。
この半年間、潤はずっとぼくを慕っているように振る舞っていた。それがぼくは嬉しかった。あまりにも嬉しすぎて、そんな潤を過去の潤に上書きしてしまっていた。
家を出たときのぼくは6歳、潤は5歳だった。
はっきりと覚えている。潤は子供心にぼくが『変』だとしっかり認識していた。一緒に遊んだ記憶などまるでない。会話だってまともにしなかった。
ふたりでコミュニケーションをとるには、必ずお母さんが間に入っていた。お母さんを経由しなければ干渉なんてしなかったし、されなかった。
それから10年の空白があったのに。
ぼくを慕ってくれるわけがなかった。
「だから私は、潤に補佐役としての協力者を作ることを許可した」
当然だ。ひとりでぼくの相手なんかできるはずがない。
「それが、南雲ってわけね」
彼に視線を向けると、やはりばつの悪そうな顔で目を逸らされてしまう。
だけどぼくは、どうしても訊いておきたいことがあった。
「ねぇ、ひとつだけ教えて」
「……なんだよ」
今までのものとは比べものにならない、突き放すような声音。
やっぱり胸が痛むけど、こんなことで怯んでいられない。
「潤もだけど、南雲の演技も完璧だったよ。ぼくさ、自分でも人の本質を見抜くのはわりと得意だと思ってたんだよ。それでも見破られなかったから、やっぱり南雲はすごかった。嫌味でも謙遜でもなくて、ホントに」
「…………」
「じゃあさ、潤のことが好きだ、ってのも、ただの設定だったの?」
そう訊ねると、南雲はかっと目を見開いた。
「違う! 俺は……っ」
それだけを言って、口をつぐんでしまった。
ぎゅっと目を閉じて、握り拳が小刻みに震えている。
「おにっちゃん、それはホントに違うの」
南雲の言葉を継いだのは潤だった。
「結せんぱいはね、その……うるみに一目惚れしたみたいなの。それで告白されて、嬉しかったんだけど、でも、その……」
「自分には兄を監視する使命がある。恋愛沙汰にかまけてる暇はない」
言いづらそうにしていた潤の言葉を、ぼくは確信を込めて紡いだ。
「だから、兄の監視を手伝うことを条件に、一緒にいる名目を与えた――だね」
南雲が唇を噛みしめる。潤もまた、泣きそうな顔で俯いた。
こんなことを、潤の口から言わせたくなかった。ぼくですらかなり抵抗があったのに、本人だったら相当苦しかったに違いない。
「……ごめんね、ふたりとも」
潤は自分の使命の負担を少しでも減らしたいがために、タイミング良く現れた南雲の恋心を利用した。本当はこんなことしたくないのに、人の恋心を利用するなんて最低だとわかっているのに。そうやって、罪悪感に押し潰されそうになったときもあるかもしれない。
南雲は潤に利用されているだけだと自覚しながらも、それでも振り向いて欲しいがために、ぼくの親友という役割を担わされてしまった。潤のために、最大の汚れ役を買って出ざるを得なくなった。潤が好きだから。好きな相手の頼みは、絶対に断れないから。
父親に逆らえない潤。恋を成就させたい南雲。
このふたりを陰から操っていたのはお父さんだ。でも、お父さんはなにも悪くない。お父さんだって、本当はこんなことさせたくなかったはずだ。自分の娘を、その娘に好意を寄せる南雲を、こんな風に汚れ役を被せてしまいたくなかったはずだ。
でも、するしかなかった。
その原因を作ってしまったのは、他の誰でもはい、このぼくだ。
ぼくが『変』にも関わらず、滝川高校に入学したから。
お父さんの言葉が脳裏に甦る。
『もうこれ以上、ふたりに迷惑をかけるな』
迷惑、なんてものじゃない。
ぼくはふたりの人生を狂わせかけた。いや、既に狂わせてしまったかもしれない。
ぼくさえいなければ、潤は実家から近い高校に行って、楽しい高校生活を送っていたかもしれない。
ぼくさえいなければ、南雲は別の恋を成就させて、もっともらしい青春を謳歌できていたかもしれない。
ぼくのせいで、ふたりは……
「望、良い機会だ」
お父さんの声が、まるで血液に溶けて全身を駆け巡っていくようだった。
お父さんの声。
それには痛みが込められていた。怒りが込められていた。憎しみが込められていた。
それに伴うように、ぼくの頭の中で、なにかが大きく蠢いた。
意識が遠のく。
意識が離れる。
視界から色が消えていく。
灰色になっていく。
世界が灰色になっていく。
ぼくの世界。
ぼくだけの世界。
『改めて胸に刻め』
顔のパーツが溶けていく。
目が。耳が。鼻が。眉が。唇が。
潤の顔から。
南雲の顔から。
お父さんの顔から。
残ったのは表面だけ。
人形。それは人形。
嗤う。
感情も感動もない人形が、嗤う。
ひどく不愉快な音を発しながら、嗤う。
『たとえなにかの巡り合わせで、お前が一般の女性と親しくなれたとしても、だ』
一般の女性。
それは誰だ。誰のことだ。
考える。思い出す。
胸の痛みを堪えながら。縛り付ける痛みを堪えながら。
――つかさ
そうだ、つかさちゃんだ。
七原司。
思い出した。思い出せた。
すると人形が、また嗤った。
『お前は絶対に、幸せになれはしない』
その言葉に。
つかさちゃんの整った顔に。
長くて綺麗な髪に。
すらりとした細い肢体に。
『そしてその相手までも、お前は不幸にしてしまうのだぞ』
ヒビが入った。今にも割れてしまいそうだった。
ぼくは慌てる。
どうしよう。どうすれば直せる。
つかさちゃん。
つかさちゃん……!
『馬鹿者が。そんなことも忘れたのか』
瞬間、つかさちゃんが、砕け散った。
「っっっっ!?」
砂のようにさらさらと舞う。
砂のようにさらさらと舞う。
砂のようにさらさらと舞って――

――世界に、ひずみが生じた。

ぼくの世界にひずみが生じた。
ぼくから世界を奪おうとするひずみ。
ぼくを守っている世界を、無慈悲に吸い込んでしまおうとするひずみ。
けれどそのひずみは、いつものそれよりも明らかに異質だった。
今までは握り拳程度の大きさだったのに、今回はその数倍くらいに巨大なものだった。
世界が吸い込まれていく。
とてつもない勢いで吸い込まれていく。
もはやぼくにはどうしようもなかった。
もう為す術など残されていなかった。
……頬を、なにかが伝った気がした。
「お父さん……」
世界が吸い込まれていく。
「潤……」
世界が吸い込まれていく。
「南雲……」
そして、
ぼくの世界が、吸い込まれた。
その先にぼくが視たものは――

「うあああああぁぁぁぁぁぁああああぁぁぁぁあぁああぁぁあぁあああああああっ!」

『しまっ! おい、こいつを取り押さえるぞ!』
ぼくは――
『ぐっ! なんて力だ……!』
ぼくは――
『お、おにっちゃん……』
ぼくは――
『待てっ! どこに行く気……!』

ぼくは――





暖かかった。春の麗らかな午後に昼寝をしているような。
でも違った。
暖かいだけじゃなくて、とても良い匂いがした。
優しいぬくもりと、甘い匂いに包まれて、ぼくは穏やかな気持ちで眠っていた。
「――そんな……」
すぐ上から声が降ってきた。聞き覚えのある声だった。
懐かしい声だった。
「では……ではこの子は……」
「――にて――が見られます。今はまだ乳児ですので、それほど目立った――はありませんが」
「成長するにつれて、どんどん顕著になっていくということですか……?」
懐かしい声は震えていた。
泣いているような気がした。
「現状では何とも言えません。まずはこの子の成長を見守ることを第一としましょう」
「あぁ……望……」
それから少しだけ、雨が降った。


「驚きましたね。――を持っていながら、ここまで学習能力が高いとは」
「えぇ。この子、下の子よりもずっと賢いんですよ」
今度の懐かしい声は、とても嬉しそうに弾んでいた。
「おかあさん、もしかしてぼく、いまほめられてるの?」
「そうよ。のぞみをえらいえらいって言ってるの」
「わーい!」
お母さんに褒められるのは大好きだった。
ぼくがなにかを覚えると、とにかくぼくのことを褒めてくれた。
えらいえらいって、頭を撫でられるのがたまらなく好きだった。
「……驚きました。三歳の子供が、まさか我々の会話を理解するなんて」
「言葉自体は理解できてないと思います。きっとこの子は、直感……と言いますか、本能のようなもので感じ取ってるじゃないかと、私はそう考えています」
「有り得ない話ではありませんね。――が――している分、物事の本質を……そうですね、奥さんの言葉を借りれば、本能で捉えている可能性は考えられます」
「そこで先生、一つ相談があるのですが……」
「何でしょう」
「この子はもう、三歳になりました。注意深く見守ってきたつもりですが、今のところ――らしい行動は見られませんでした」
「えぇ。――だからと言って、必ずしも――とは限りません」
「だから私、この子を幼稚園に通わせようと思うんです」
「……旦那さんはなんと?」
「反対されました。間違いなく他の子どもに迷惑を与える、と」
「ふむ」
「先生はどう思われますか?」
「確かにこの子は、非常に学習能力に優れているし、また多感だ。しかしそれが、望くん自身を傷つける可能性もある。率直に申し上げれば、私も旦那さんと同意見です」
「ですが、望のような子でも普通学級に通う子はたくさんいると聞きます!」
「しかしながら、何一つ問題を起こさずに卒業したという例は聞いたことありません」
「私がしっかりします! 私がちゃんとこの子のサポートをして、立派な大人に育て上げて見せます……っ」
「……ではお母さん、これだけは覚悟しておいてください。あなたのやろうとしていることは、膨大な労力と根気が要されますよ」
「覚悟の、上です……!」
また少しだけ、雨が降った。
けれど懐かしい声は、とても力強かった。

『幼稚園』というところに通うようになったのは、次の春のことだった。
最初はお母さんが一緒にいなくて寂しかったけれど、それを言うとお母さんまで悲しい顔をするから、ぼくはできるだけ我慢するようにした。
だけど、ぼくはどうしても馴染むことができなかった。
「せんせー! のぞみくんがチューリップたべてるー!」
(なんでいやがるんだろう? こんなにいいにおいなのに)
「せんせー! のぞみくんがしんだちょうちょにツバかけてるー!」
(なんでおこるんだろう? ひからびてたからぬらしてあげてたのに)
「せんせー! のぞみくんがクマさんのおにんぎょうやぶったー!」
(なんでなくんだろう? これのせいでとりあいのけんかしてたからなくしてあげたのに)
そうやって叫ばれる度に先生に怒られて、またお母さんも呼び出されていた。
お母さんは先生に何回も謝ってたけど、その後にぼくを叱ることは絶対にしなかった。
ただ優しく、世の中の『ジョウシキ』を教えてもらった。
そのおかげで、ぼくは周りから叫ばれることは徐々に減っていった。先生に怒られるのも、お母さんが呼び出されることも。
結局、友達はひとりもできなくて、誰もぼくに話しかけてこなくなったけれど。
『きたない』、『へん』、『きもちわるい』。
ぼくに聞こえないように、ひそひそと悪口を言われてばかりいたけれど。
そうやってぼくは、他の人とは絶対に相容れないということを、学んでいった。
それでもよかった。
お母さんがいたから。お母さんだけは、ぼくに笑いかけてくれたから。
お母さんさえいてくれれば、ぼくは幸せだった。


だけど。


「ごめんね……ごめんね、望……」
お母さんは泣いていた。
ぼくをぎゅっと抱きしめながら、何度も、何度も謝ってきた。
「本当は、ずっとずっと、いつまでも一緒にいたかったんだけど」
お母さんは、泣いていた。
「お母さんはもう、一緒にいてあげられないから……」
それだけで、ぼくまで泣いてしまった。
「向こうに行っても、ちゃんと良い子にしてるのよ。わがままも言っちゃダメだからね」
幼いながらに、ぼくは理解した。
「そこではね、望が――だということは、誰も悪く言わないのよ。みんな、望と同じ――だから」
幼いながらに、ぼくは理解してしまった。
「それにね、そこに入れば、もうお父さんはなにも言えないの。ちょっと難しいかもしれないけど、そこなら、法的にも望を守ってくれるの。だから、安心して暮らしなさいね……」
これが、お母さんとの今生の別れだと。
「でもね、これだけは忘れないで。お母さんは、望を見放すんじゃないからね。見捨てるんじゃないからね……っ」
これがお母さんとの、今生の別れだと。
「望……大好きな望ぃ……! あなたのこと、大好きよ。すごくすごく、愛してる。他の誰よりも、お母さんは望のこと、とっても大切に想ってるからね……!」

家からいくつかの県をまたいで、ぼくは――が集まる施設に入所した。
それから、わずか一ヶ月後のことだった。
お母さんが病気で亡くなったという話を、職員から聞かされたのは。
絶望した。
悲しくて。痛くて。苦しくて。
そうやって悲嘆に明け暮れた。
毎日悲しんだ。毎日痛んだ。毎日苦しんだ。一日たりとも欠かさずに。
お母さんが死んだ理由を、ぼくは知っていた。
ぼくに尽くしすぎた。ぼくのために、頑張りすぎた。
ぼくを認めさせるために、あまりにも心身を酷使しすぎた。
きっと彼女は、自分の死期が近いことを知っていた。だからぼくを施設に預けた。
それはつまり、ぼくが殺したのだ。
ぼくのことを、誰よりも愛してると言ってくれた人を、ぼくが殺したのだ。
ぼくのせいで、彼女が死んだのだ。
そう、ぼくのせいで。
ぼくのせいで。
ぼくのせいで。

自分を責め続けて、長い月日が経って。
それは何の前触れもなく訪れた。
負の激情に呑み込まれたことによって、ぼくは初めての感覚を覚えていた。
それは全能感。
頭の中で静謐な空間が形成されていた。口から取り込まれる酸素が妙に瑞々しかった。耳から入ってくる音すべてが福音に聞こえた。
まるで世界の輪郭を知ったような。
まるで世の中を俯瞰しているような。
そして知る。この世界は、自分よりも愚かな人がたくさんいることを。
自身の愉悦のために他人の気持ちを顧みない、独善的な、滑稽な細胞の集合体。
こんな人たちにできて、自分ができないことなどないと思った。
実際、ぼくはなんでもできた。元々学習能力が高かったらしく、勉強だって努力すればみるみる吸収していった。普通の人と何ら変わらない生活を送ることができた。
幸せだ、と思った。
『バカな人』を見下して生きていくことが、楽しいと思った。
そんな泡沫の幸福感に、ぼくは陶酔した。
手放したくなかった。いつまでも浸っていたかった。
そのためには、否定的概念と決別する必要があった。
そう思い至ったぼくは、すぐにそれを実行した。
難しそうだと思っていたけれど、拍子抜けするほどに簡単だった。
『ぼくのせいでお母さんは死んだ』という陳述記憶を溶解、中部側頭葉より剥離。体外への排出は不可能のため、新たに記憶格子を設け、そこに幽閉。
でもこれでは、いつ格子が開いてもおかしくはなかった。ぼくは万全を期して、鍵をかけることにした。
そうしてぼくは、『ぼくの世界』を生み出した。
この世界は鍵であり、蓋だった。この蓋がある限り、再び負の激情が湧き起こることはない。これでぼくは、ぼく自身を守り抜けるはずだった。
けれど、人間の脳にだって限界はあった。
その蓋を保持するには、想像以上に高度な処理能力が必要だった。その処理に追われるあまり、まれに脳がエラーを起こすことがあった。
意識を強制的に『ぼくの世界』へと連れ込まれ、ぼくだけの世界にいるはずのない人形が現れ、とてつもない痛みや苦しみを浴びさせられた。
それでも。
それでもぼくは、鍵を開くわけにはいかなかった。
それでもぼくは、蓋を外すわけにはいかなかった。
ぼくがぼくであるために。
ぼくが幸せであるために。
『変』なぼくでも、幸福を感じていられるために。

『たとえなにかの巡り合わせで、お前が一般の女性と親しくなれたとしても、だ』
でも、その鍵が開かれてしまった。
『お前は絶対に、幸せになれはしない』
でも、その蓋が外されてしまった。
『そしてその相手までも、お前は不幸にしてしまうのだぞ』
そうだ。その通りだ。
――あぁ、戻ってくる。溢れ出てくる。
あの感覚が。あの負の激情が。
『そしてその相手までも、お前は不幸にしてしまうのだぞ』
ぼくがお母さんを殺したんだ。
『そしてその相手までも、お前は不幸にしてしまうのだぞ』
ぼくのせいで、お母さんは死んだんだ。
『そしてその相手までも、お前は不幸にしてしまうのだぞ』
繰り返すわけにいかない。
誰にも心を開くわけにはいかない。
また、ぼくは殺してしまうから。
また、ぼくのせいで死んでしまうから。
――あぁそうだ。ぼくは人を殺すのだ。
思い出した。
ぼくが生きることによって、誰かが死ぬのだ。
こんなこと、あっていいはずがない。
じゃあどうすればいい?
簡単だ。消えればいい。
この世界から消えればいい。
ぼくの存在が許されないのであれば、いなくなればいいだけの話だ。
実に簡単なことだった。
戸惑いはない。躊躇いもない。未練だってない。
むしろ清々しい気分だ。まるで自分の居場所を見つけたような。
いや、正確には居場所を見つけたんじゃない。
居場所がないということを、理解したのだ。
悲しいことじゃない。喜ばしいことだ。
このまま苦しみ続けて。このまま苦しませ続けて。
ぼくは幸せになれないのに。ぼくは幸せにしてあげられないのに。
いったいどうして、ぼくの存在が許されるのだろう?
こんなぼくは、さっさと消えればいいのだ。
そうと決まれば、もううだうだ考える必要はない。
よし、もう大丈夫。心の準備もオーケー。
――さぁ、決行だっ!



目が覚めた、という表現は不適切だろうか。
意識が戻ったぼくは、いつの間にか断崖に立っていた。
夜のそこは静寂に包まれていて、穏やかなさざ波の音だけがぼくの鼓膜を刺激していた。
「……ぷぷっ」
思わず笑ってしまう。
意識はなかったはずなのに、体はしっかりと思考に沿って動いていた。
まるで自分の体に、「さ、行こっか」と言われている気分だった。
「ふぅ」
息を深く吐いた。
人生最後の行動として、17年の人生を振り返ってみようかと思ったけど、やっぱりやめた。
なんだか未練がましいようで、自分が情けなく思えてしまいそうだったから。
情けないまま消えるのは嫌だった。
綺麗な自分のままで、ぼく自身が好きな自分のままで消えたかった。
そういうわけだから。
ぼくは、
歩を進めて、
断崖から飛び降り――

「ちょっと、あんた!」

よく知った声が聞こえて、思わず歩を止めてしまった。
「なにやってるのよ!」
「……えへへ」
振り向こうとは思わなかった。
ただなんとなく、最後にもうちょっとだけ、彼女と話をするのも悪くないかな、なんて思った。
もちろん、そんなつもりないけど。
「さて、と」
あと一歩踏み出せば消えられる。
ぼくは気を取り直して、眼下の海を眺める。
決して荒れているわけじゃないけど、まるで地獄の入口のように感じた。
「こっちを見なさいよ!」
無視。
「わたしを無視するの!?」
うん。
「こ、の、ヘンタイがぁぁぁああああああああああああああっ!」
そんな怒鳴り声が聞こえて。
直後、ぼくの頭になにかが乗っかった。
彼女に背を向けたまま手に取ってみる。
「んー?」
なんだこれ。
「……布?」
白色の布だった。
一瞬、パンツかと思った。だって生温かいし。けど違う。
なんだろ、タンクトップを半分にしたような……
「! こ、これは――!?」
気付いた。
下着でありながらも男ウケが悪く、しかし第二次性徴期のスポーツ少女にとって心優しい味方……!
「まま、間違いないっ!」
これはブラだ! スポーツブラだ!
さらにこの生温かさっ!
間違いなく、これはつかさちゃんの――

ぬ、
ぎ、
た、
て、

だぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああっ!
「つかさちゃんっ、これがぼくへの冥土の――」
そこまで言って、ぼくは急速に敗北感を覚えていった。
またたく間に気分が冷めていく。さっきまでの熱はいずこへと吹き飛んだ。
「……やっちゃった」
ほぼ無意識のまま、ぼくは振り向いてしまっていた。
そこにはパジャマ姿の、とんでもない美人が立っていた。
手を膝について、肩で息をしている。額からは尋常じゃない量の汗が噴き出していた。
でも、ものすごく勝ち誇ったような顔。
「我ながら素晴らしい発想だわ。それであんたが反応しないはずないもの」
ぼくは苦笑せずにいられない。
もしつかさちゃんがスポーツブラを投げて来なければ、きっと止まらずに飛び降りていただろう。どんな言葉で怒鳴られようと、止まるつもりはまったくなかった。けれど、こんなものを投げられて、止まらないはずがない。
ぼくの性格をよく知っているからこその、見事な判断だった。
「ほんと、すごい発想だよ。『この変態がー!』って叫んでたけど、どっちが変態なんだか」
「なっ!? わ、わたしはあんたを振り向かせたい一心で――」
「しかもその年齢でスポーツブラだなんて」
「そんなのあたしの勝手でしょっ! それが一番慣れ親しんでるんだから!」
「そうだねー。これ、結構長い間使ってるんじゃない?」
「……え?」
つかさちゃんの顔が引きつる。
「ぼくが思うに、きっと中学生の頃から使ってそうな気がするなぁ。つまり、胸が中学から成長してな――」
「うるさ――――いっ! さっさと返してっ!」
「え? ぼくにくれたんでしょ?」
「そんなわけないでしょっ!」
「じゃあさ、トレードしようよっ」
「は!?」
「ぼくのブラと交換しよ?」
「あんたブラしてないでしょ!」
「ぼくのパンツと交換しよ?」
「いらないわよ!」
「ぼくの脱ぎたてパンツと交換しよ?」
「絶っっ対いらないっ!」
「つかさちゃんのパンツと交換しよ?」
「結局あたしが損じゃない!」
「タダでちょうだい?」
「もはやトレードでもないじゃないっ!」
「うーん、じゃあ……」
「思い付かないならさっさと返せっ!」
「あっ、だったら返す前にぼくが試着し――」
「させるかあああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
真夏の星空に駆け上がる、つかさちゃん渾身の叫び。
……ふぅ。やっぱり楽しいな。
こんな楽しい時間を最後にもてて、ぼくは幸せ者だ。
「うん」
心の中で「今日も元気だね」と呟いて、
「余談はこれくらいにしとこっか」
ブラをポケットにしまった。
「なにさりげなく盗んでんのよ!?」
あちゃ、ばれちゃった。
「えへへ」
仕方ないので返すことに。
ブラを投げる。つかさちゃんが受け取って、持ち主のポケットに収まる。
「それで」
前置きが長くなったけど、本題に入ることにした。ほんとは話すらするつもりなかったけど、つかさちゃんはぼくを見逃してくれそうになかったから。
「どうしてここに?」
当たり障りのない質問をしたわけじゃない。ホントに気になったことだった。
今が何時かはわからないけど、少なくとも深夜なのは間違いなかった。
どうして、つかさちゃんが起きているのか。
どうして、この場所がわかったのか。
つかさちゃんは呼吸を整えつつ、けれどぼくを咎めるように言ってきた。
「たまたま目が覚めたらみんないなくて、潤ちゃんのケータイに電話しても繋がらなくて……それでなにかあったのかと思って、外に出てきたのよ」
「それはともかく、どうしてこの場所がわかったの?」
「そんなの知らないわよ。適当に走ってたらたまたま――ああもう膝が痛いっ!」
つかさちゃんは左膝を撫でる。
つくづく思う。本当にバカなコだ。
汗の量から察するに、痛みを我慢して全力で走っていたんだろう。
「なんで怪我してるのに、そんな頑張っちゃったの? 怪我が悪化したらどうするのさ」
「『頑張っちゃった』……?」
一瞬、つかさちゃんのこめかみに青筋が立った気がした。
あらら? なにかまずいこと言ったかな?
「バカじゃないのっ!」
随分と響いた。
つかさちゃんとは五メートル以上の距離が開いているのに、眼前で言われたように耳をつんざくほどの声量だった。
……いや、違う。声量なんて、そんな物理的なものじゃない。
気持ちが乗っていた。想いが込められていた。
よく野球なんかで、投手が投げた球を「気持ちが込められた球」と形容されることがある。
そんなようなものだと思う。そう喩えたくなるほどに、今の「バカじゃないの」は胸に響くものだった。
「あんたが……呼んだんでしょ……っ」
「……え?」
ぼくがつかさちゃんを呼んだ? ここに?
「なに言ってるんだよ。つかさちゃんはずっと民宿で寝てたんでしょ?」
「それでも呼ばれたのよ! 夢の中であんたが呼んでたのよっ! わたしだって意味がわからなかったわっ!」
「んー、そんなこと言われてもなぁ……」
ぼくの方こそ意味がわからない。
仮に、気が遠くなるような確率でぼくがつかさちゃんの夢に出てきたとしても、つかさちゃんを呼ぶ理由がない。
「あ、もしかして、ぼくの最期を見届けて欲しかったのかな」
そういうことなら、まだ納得がいく。
つかさちゃんはぼくにとって、本当の意味で心を寄せられる、唯一の相手だった。
心を開くわけにはいかなったけど、特別な存在なのは間違いなかった。
「……なによ、最期って」
わかっていて、訊ねてくるつかさちゃん。
ここにいる理由なんて、他にないのに。それがわかっているから、膝の痛みを堪えて頑張ってきたのに。
そんな彼女をおもしろく思いつつも、ぼくははっきりと言った。
「ぼく、今から消えるんだ」
「……なんでよ」
「いちゃいけない存在なんだ」
「…………」
つかさちゃんは押し黙ってしまった。彼女なりに空気を読んでくれているんだ。
これからぼくが、高校に入学して以来、初めてカミングアウトするから。
「ぼくね」
一拍の間を置いて、ぼくは言った。
「病人――なんだ」
つかさちゃんは眉をひそめた。
「病人?」
「そう」
「障がい者、じゃなくて?」
その問いに、ぼくは苦笑いをこぼした。
「知的障がい者ってこと?」
つかさちゃんが頷く。
ぼくは笑ったまま首を振った。
「たぶん、学校ではみんなにそう思われてるんだろうね、ぼく。ああでも、全く違うわけでもないんだ。確かに知能指数は低いし、ちょっとだけ発達障がいもある」
「じゃあ……」
「でもね、違うんだよ。ぼくは障がい者じゃなくて、『病人』なんだ。これらはぼくの持ってる病気の副次的なものでしかないんだ。その証拠にね、なぜか学習能力がものすごく高かったんだ。ぼくのお父さんがすごく優秀な人だから、その血を引いたのかな? 詳しくはわからないけど、知能指数は低いのに、学習能力が高かった。ものすごく矛盾してるから、もう笑っちゃうよね」
 自嘲なんかじゃない。本心だった。
「元々はコミュニケーション能力も低かったけど、学習能力が高いから、ある程度は会話できるようになった。冗談だって言えるようになった。だからぼく、つかさちゃんには茶目っ気たっぷりに話せていたでしょっ?」
 そう明るい口調で言うと、つかさちゃんの眼差しが鋭くなった。
「そういうのはいらないのよ。誤魔化そうとしないで」
 ……あらら、やっぱりバレちゃったか。
 さすがはつかさちゃんと言ったところかな。見逃してもらえそうにない。
 ぼくは観念して、本来の話に戻した。
「ま、ともあれね、ぼくの『変』の本質はまた別にあるんだ」
「その病気っていうのは、詳しく教えてもらえないの?」
「うん、教えてあげられない」
きっぱりと答えるぼくに、つかさちゃんは少しだけ悲しそうな面持ちになる。
見逃してもらえないのなら、堂々と正面から立ち向かっていくだけだ。
「とにかくね、ぼくのことを障がい者だなんて言っちゃダメだよ? だってホントの障がい者の人たちに失礼じゃないか。ぼくからすれば、彼らなんかまったくもって真っ当な人間だよ」
「…………だったら、あんたはなんなのよ」
「だから前々から言ってるじゃないか。ヘ――」
「『変』はもう聞き飽きたわ。そんな曖昧な表現じゃなくて、もっとわかりやすく答えて」
ひどく冷たい、威圧的で責めるような声音だけど。
ぼくにはわかる。
懇願しているのだ。ぼくの『変』の本質を、心の底から知りたがっている。
「まったく……。そんなにも真剣な気持ちをぶつけられたら、つかさちゃんの要望に応えてあげるしかないじゃないか」
つかさちゃんの表情がわずかに緩んだ。依然として眉をひそめているけれど、少しは緊張をほぐしたようだった。
そんな彼女に向かって、ぼくは苦笑いを浮かべたまま、言った。
「ヒトゴロシ、かな」
 せっかくほぐれた緊張が、再度つかさちゃんを縛り付けた。
「どういう……ことよ」
そりゃ聞いてくるよね。
ぼくは深く息を吸って、吐いた。もう一度吸って、吐いた。
そして、つかさちゃんの問いに答える。
「ぼくね、お母さんを殺してるんだよ」
故意でも直接的でもないけど、それは事実だ。
「それにね、潤や南雲にも迷惑かけてた。ぼくのせいで、ものすごく嫌な思いをさせたんだよ」
「ちょっと待ちなさいよ! ぜんぜん話が見えない!」
つかさちゃんが慌てたように大きな声を出す。
確かに急すぎた。これでは何が何だかまるで理解できない。
「ちょっと話が長くなるよ?」
そうしてぼくは、誰にも話したことのない過去を明かした。
ぼくのせいで、お母さんに多大な苦労をかけたこと。
ぼくのせいで、お母さんは死んでしまったこと。
「そのときにね、ぼくは無意識のうちに学習能力の高さを発揮したんだと思う。……マイナスの方向にね。お母さんが死んだのは自分が病気を持っているから……その事実をどうしても受け入れられなくて、世の中の『バカな人』を見下すことで、誤魔化してたんだ。バカな人を『バカだー!』って嘲笑ってさ、自分を棚に上げて逃げてたんだよ。それで、ぼくはこんな性格になったのさ。……もう笑うしかないよ。そんなぼくこそが、本当のバカなのにね」
そうしてぼくは、自分の中に『ぼくの世界』を生み出したこと。
それを蓋にして、自分の気持ちを誤魔化し続けて生きてきたこと。
でもそのせいで、潤や南雲に嫌な思いをさせてしまったこと。
ぼくのせいで、ふたりにとても苦しい思いをさせてしまったこと。
あと、これは憶測だけど、
「潤さ、つかさちゃんに随分と懐いてたよね? あれ、多分ぼくを押しつけたかったんだと思う。もちろん、スポーツ選手としても尊敬してたんだろうけど、こっちが本命だと思うんだ」
それはつまり、つかさちゃんにも嫌な思いをさせてしまったこと。
もう、どうしようもないくらいに散々な話。
言葉にすることで、改めて痛感する。
病気のことを差し引いても、やっぱりぼくには生きる資格がない。
生きてるだけで、色んな人に迷惑をかけてしまう。
消えなきゃダメなんだ。いなくならなくちゃダメなんだ。
誰にも迷惑をかけないのならいい。
でもぼくは、人を苦しめる。不幸にする。
お母さんの件もそうだけど。
それを抜きにしても、
ぼくは、ホントに、いつか――
「そういうことだから」
話し終えた頃には、乱れていたつかさちゃんの呼吸は整っていた。
静観するような眼差しで、ぼくをじっと見つめてきている。
「そういうことだから、死ぬの?」
「そう」
すると、つかさちゃんは悲しそうに目を伏せた。
諦めた、のではなく、諦められない、といった表情。
「じゃあ……わたしはどうなるのよ」
「どうなるって?」
「あんたが話したヒストリーに入ってなかったけど、わたしはあんたに救われてるのよ……?」
一瞬、何のことかさっぱりわからなかった。
ぼくがつかさちゃんを救った? そんなことしたっけ?
そう考えを巡らすと、やがて一つの結論に達する。
でもあれは、救っただなんて、そんな大層なことじゃない。
「大袈裟だなぁ。あれは救ったんじゃなくて、気付かせてあげただけ」
「でも――」
反論しようとするつかさちゃんを遮って、ぼくは続ける。
「言ったでしょ? つかさちゃんの両親は、ちょっと休憩してるだけだ、って。休憩ってことは、再開されるってこと。つまりね、ぼくがなにも言わなくたって、自然と解決してたんだ。これじゃあ、とても救ったとは言えないよ。せいぜい不安を和らげたくらいさ」
そうまくしたてると、つかさちゃんは俯いて、口をつぐんだ。
ほら、なにも言い返せない。ぼくの言ったことが正しい証拠だ。
たとえつかさちゃんがぼくへの説得を試みようとも、そのすべての言葉を論破できる自信がある。それだけぼくの決意は、揺るぎないものに固まっていた。
「どうして……」
「ん?」
「どうして、自分をそんなに卑下するのよ……っ」
震えた声でそう訊ねてくる。
声だけじゃない。握った拳も、肩も小刻みに震えていた。
「それには前も答えたでしょ? 卑下してるんじゃなくて、ぼくは『変』だ――」
「それが卑下だって言ってるのよっ!」
勢いよく顔を上げると、長くて綺麗な髪が激しく躍った。
それと一緒に飛び散った雫が、月明かりに照らされてきらきらと煌めいた。
「確かにあんたはヘンよっ! バカよっ! ヘンタイよっ!」
……涙だった。
「でも、だからって……だからって! そんなのじゃ死ぬ理由にはならない! 生きてちゃダメだなんて、そんな寂しくて、悲しいことを言う理由にはならないっ!」
そう言われて。
つかさちゃんの涙を見て。
「つかさちゃんには……」
冷めきっていたぼくの気持ちに、わずかに灯りがともった気がした。
「つかさちゃんには、わからないよ……」
「そうよ! わたしにはわからないわよっ! でもそれをいいことに、あんたは『病人』だってことを盾にして逃げてるだけなのよっ!」
「………………」
「『変』だから死ぬ? 『変』だから人を不幸にする? 『変』だから消えなくちゃいけない? ――バカじゃないのっ! あんたがどんな病気を抱えてるか知らないけど、そんなの、ただの思い上がりよ!」
ゆっくりと、つかさちゃんが歩み寄ってくる。
「いい? その胸に刻みつけなさいっ」
ゆっくりと、ぼくのもとに歩み寄ってくる。
「……あんたは、なにも悪くないのよ。病気を抱えているから、認識とか、価値観とか、人生観とか、世界観が違うだけなの。だから、誤解が生じてるだけ……」
そしてぼくのすぐ目の前で歩を止めて、涙でべたべたになった頬を緩めて、言った。
「あんたは、誰にも迷惑なんかかけない。不幸にだってしてない」
どくん、と胸が鳴った。
「もちろん、人を死なせだってしない。お母さんのことは気の毒だけど、でも。そのお母さんのおかげで、今のあんたがあるんでしょ? 自分でもわかってるんでしょ?」
どくん、どくん。
痛いほどに鼓動が大きくなる。
「だったら、死ぬなんて言わないでよ……」
また、つかさちゃんの顔が歪む。綺麗な顔が歪む。
涙が溢れ出てくる。
つかさちゃんの頬を、また新たな涙が伝っていく。
その雫が、とても儚げで、だけど、万感の想いが込められていて。
言葉にならない言葉が、雫となってぼくに訴えてきているようで。
「おねがい……」
つかさちゃんの願い。
ぼくに向けられた願い。
伝わってくる。
伝わってくる。
ぼくの胸に。
ぼくの心に。
もう、言われなくてもわかった。
十分に伝わった。
それでもつかさちゃんは――

「生きて……」

そう、言葉にしてくれた。
そう、願いを口にしてくれた。
ぼくの胸が打ち震える。
決意したはずなのに。
もう消えようって、心に決めたはずなのに。
 込み上げてくる。
 絶対に抱いちゃいけない感情が、胸の奥から込み上げてくる。
「……あんた…………」
「ああもう、サイアクだよ……」
 こんな気持ちが芽生える前に、消えたかったのに……!
「ねぇ、あんた」
「なにさ!」
 思わず大声を出してしまったけれど、つかさちゃんはまったく動じなかった。
 ただ静かに、ゆっくりと唇を動かす。
「消えたいとか、生きてちゃいけないとか散々言ってたけど、本当は、そんなことないんでしょ?」
 …………ほら、ね。
「本当は生きていたいんでしょ? 潤ちゃんや南雲と、もっと高校生活を送りたいんでしょ?」
 あぁ、ダメだ……。
「なんで嘘なんかつくのよ。あんたはひねくれ者だけど、それくらいは素直になってもいいじゃない」
 もう、ダメだ……。
「だって、あんたさ」
 つかさちゃんの言葉が、あまりにも胸に染み込んできて。
「……泣いてるじゃない」
 消えたかったのに。
 絶好のタイミングだったのに。
「ダメなんだよ……」
「まだそんなこと言ってるの? だから――」
「ちがう!」
 闇夜の断崖に響き渡るぼくの怒声。
 怒りと拒絶を含んだそれは、つかさちゃんを押し黙らせるには十分だった。
「ダメなんだ! ホントにダメなんだよっ!」
 だってぼくは、
「生きてちゃいけないんだ! じゃないと、じゃないと……!」
 だって、ぼくは、
「ぼくは、ホントにいつか――」

「――ヒトゴロシになってしまうんだっ!」

 つかさちゃんは口をぽっかり開け、目をしばたかせていた。
 ぼくの言っている意味がわからないとばかりに。
「ぼくの病気はね、成長と共にどんどん理性を失ってくものなんだ」
「成長と共に、理性を失っていく……?」
 無表情のままオウム返しをしたつかさちゃん。
 そう、とぼくは頷いた。
「もうちょっと詳しく言うと、成長ホルモンの分泌が減っていけばいくほど、思考能力と判断能力が鈍くなっていくんだ。やがて完全に分泌が止まると、ぼくはもう獣といっしょだ。なにも考えられない、ホントに獣のように……いや、化け物になってしまうんだ」
 一般的に成長ホルモンの分泌は十代後半がピークだと言われている。
 ぼくにとっては、今、だ。
「ぼくが『ぼく』でいられるのはね、もう残り少ないんだよ。そこから先は、ホントに化け物になっちゃうんだ。なにを考えているのかも、どんな意味を持って行動してるのかもわからない、ヒトの形をした化け物さ」
 思考を持たない人間ほど恐ろしいものはない。
 場合によりけりだけど、犬は人間を襲う。
 猫でも襲う。
 蟻ですら襲う。
 ライオンが人を襲うなんてとある国じゃ当たり前だ。
 じゃあ、思考を失った人間は?
 本能に身を任せた人間は、いったいどんな行動をとる?
 たとえばとある獣のように、憎んだ相手を殺してしまうかもしれない。
 たとえばとある鳥のように、生みの親を殺してしまうかもしれない。
 たとえばとある虫のように、愛する異性を殺してしまうかもしれない。
 ……どれも起こり得る可能性。
 あらゆる場面で、人を殺める可能性が思い浮かんでしまう。
 潤や、南雲、それにお父さんと、そしてつかさちゃん。
 たとえ近しい人でも。
 たとえ親しい人でも。
 ぼくは、誰かを、殺してしまうかもしれない。
「だから――」
 そう、ぼくは、
「消えなきゃダメなんだ! 今消えなきゃいけないんだ! ぼくが『ぼく』でいられるうちに消えなきゃいけないんだよっ!」
「ちょ、ちょっと!」
 つかさちゃんの声は耳に届いていたけど、頭にはまったく入ってこなかった。
「自分でもわかってはいたんだ! こんな病気を持ってる以上、そう長く生きてちゃいけないって! でも……でも、それでも生きていたかった!」
 それはぼくのわがままだった。
 同時に、ぼくの生きる意味でもあった。
「ぼくを産んでくれて、強く強く愛してくれたお母さんのためにも、できる限り生きていたかったんだっ!」
 外での嫌悪や憎悪から必死に守ってくれて、さらにはお父さんの側から離すことで『普通』の人のように生きさせようとしてくれた。
 その想いに応えることこそが、ぼくにできる唯一の親孝行だった。
「だけど……!」
 もう、潮時なのだ。
 お母さんを殺しただけじゃなく、南雲や潤にも迷惑をかけていた。
 今はまだ、それで済んでいるけれども。
 ぼくはいつか、ホントに彼らを――
「く、ぅ……!」
 悔しい。悔しくてたまらない。
 目の前のつかさちゃんを見る。
 とんでもなく美人で、いい子で、こんなぼくに対して「生きて」と願ってくれる。
 それなのに、ぼくは彼女の想いに応えることができない。
 いや、応えられないどころではなく、裏切ってしまう。
 このまま生きていってしまえば、必ず裏切ってしまう。
 …………殺して、しまう……!
 そんなのは嫌だ。
 彼女を殺す自分なんか、絶対に嫌だ。
 変わりたくない。
 つかさちゃんを、殺したくなんかない。
 ずっとつかさちゃんと、友達でいたい。
 だから……
 自分が変わってしまう前に、消えなくちゃいけないんだ。
 つかさちゃんとの綺麗な思い出が、やがて真っ黒に染まってしまう前に、消えなくちゃいけないんだ。
「今までありがとね、つかさちゃん」
「は!? なによそれっ!」
 最後まで聞かずに背を向けた。
 思い切り踏み込んだ。
 崖の端はすぐそこだった。
 跳んだ。
 力の限り跳躍した。
 ぼくの体が宙に浮く。
 ほのかに白み始めた空と、水平線の向こうまで続く海。
 吸い寄せられるようだった。
 あの空が、海が、ぼくを招いてくれているようだった。
 ぼくの気持ちを汲み取ってくれているようだった。
 自然はいつだって雄大で、寛大だ。
 隕石が落ちて来ようが、人間が大地を汚染しようが、なにも言わず、ただ黙って受け入れる。
 ホントに、すごいと思う。
 こんな自然の下で死ねるのは、むしろ幸せなのかもしれない。
 人間はぼくを受け入れてくれないけれど。
 自然なら、ぼくを受け入れてくれる。
 こんなぼくを、黙って迎え入れてくれる。
 なにかに甘えるというのは、あまり好ましくないかもしれないけれど。
 最後くらいは、大自然の胸を借りようと思った。
 ――思った、のに。

「バカ――――っ!」

 怒りに充ち満ちた叫び声がぼくの耳をつんざいて。
 右腕に強烈な圧迫感を覚えた途端、がくん、とぼくの体が不自然にしなった。
 ジャンプの勢いを失ったけれど、それでもぼくの体は大地から離れていた。
 足下に地面はなかった。このまま落ちていけば海に身を預けられるはずだった。
 でも、ぼくの体は宙で止まった。
 手足も体も宙づりになったまま、けれど右手だけがなにかに引っ張られていた。
「このバカ! ヘンタイ!」
 見上げた先にあったのは、ものすごい形相のつかさちゃんと、その目から落ちる綺麗な雫だった。
「勝手に自己完結してるんじゃないわよ! 人の気持ちもぜんぜん考えないで! 話も聞かないで! そんなので勝手な行動に出ないで!」
 つかさちゃんは肩から先が崖からはみ出ていた。
 ぼくからは見えないけれど、頭と右手以外の全身を使って持ちこたえているのだろう。
「ダメだよ、つかさちゃん……」
 そんな体勢じゃ、間違いなく長くは保たない。すぐに限界に達して、ふたり共々落ちていくのが容易に想像できた。
「うっさい! さっさと上がりなさいよ!」
 全くもって想像した通りの答えだった。
 ここで彼女がぼくの言葉に耳を傾けるはずがなかった。
「早く離してよ、じゃないとつかさちゃんまで!」
 それでもぼくはこう言わずにいられない。
 このままふたりで落ちるなんて愚の骨頂でしかない。
 でも、つかさちゃんはバカだから。
 とてもお利口さんなのに、バカだから。
「いや! 絶対に離さない!」
 どうしようもなく幼稚なわがままを抜かすのだ。
 腕がぷるぷると震えていて、表情も苦渋のそれに染まっているのに。
「ここであんたを離すくらいなら、いっそのこと死んだ方がマシよっ!」
 なんて、支離滅裂なことまで言い出す始末。
 胸の奥から込み上げてくる。
 感情の奔流が血液に乗って全身を駆け巡っていく。
「くっ、うぅぅぅ…………!」
 ずるずるとつかさちゃんの体が海に引きずられる。
 ぼくの体が少しずつ高度を落としていく。
「つかさ、ちゃん……!」
 彼女の名前を絞り出した。
 それが引き金となった。
「――――っ!」
 ふたり一緒に宙へ躍った。
 どんぐりが枝から落ちるように、ぼくとつかさちゃんの落下速度が瞬時にマックスに達した。
 それでも、つかさちゃんは、ぼくの腕を離さなかった。
 やっぱり彼女は本気だったんだ。
 ホントに、ぼくと一緒に死ぬ気だった。
 そんなこと望んでないのに。
 ぼくは、つかさちゃんに生きていて欲しいのに。
 ぼくと違って明るい未来があるんだから、幸せに暮らしていって欲しいのに。
 こんなところで、死んで欲しくないのに……!
 こんなところで、死んでいいわけがないのに!
 だれか、と心の中で叫んだ。
 いやダメだ。いくら心の中で叫んでも、それが誰かに伝わるはずがない。
 そもそもここで叫んだって、誰かが来てくれるはずがない。
 それでも。
 それでもぼくは、無駄だとわかっていながらも。
 叫ばずにはいられなかった。
「だれかっ!」
 助けて欲しい、と思った。
 ぼくを、じゃない。
 他の誰でもない、つかさちゃんを――

「おにっちゃ――んっ!」「望ぃぃいいいい!」

親友と妹の声が耳に入った。
一瞬、幻聴かと思った。
違った。
ぼくとつかさちゃんの体が、宙で留まった。
ぼくの体勢は変わらず、つかさちゃんが逆さ吊りのような体勢でぼくの右腕を強く握っていた。
つかさちゃんの体は完全に崖から落ちていて、足だけが残っていた。
その足を崖に留めていたのは、
「間に合った――!」
妹だった。
潤は上半身を崖から乗り出していて、両腕でつかさちゃんの両足を抱えるように掴んでいる。
当然、潤だけの力でぼくとつかさちゃんを持ちこたえられるわけがない。
「無事か!? 望、七原!」
 ここからじゃ姿は見えないけど、親友の声が潤の後ろから聞こえる。おそらくは潤の足を持っているのだろう。
潤はバケツの水をかぶったかのように汗でびっしょりで、南雲もまた、明らかに呼吸が激しく乱れているのがわかる。
さっきのつかさちゃんと同じように。
「むちゃくちゃ探したぞ! 男に振り回されてもなにも嬉しくないのによ!」
「うるみだってすっごい走ったんだよ! もう明日絶対筋肉痛だよっ!」
どうしてぼくを? とは言えなかった。そんなことを訊いたら、ものすごく怒られるような気がした。
「潤……南雲……」
「おにっちゃん! うるみ、おにっちゃんに謝りたい! さっき、おにっちゃんのことちょっとだけ恐いって言っちゃったけど……ホントのことなんだけど……でもうるみ、やっぱり楽しかったんだよ! お父さんに無理矢理こっちの高校に入学させられて、見張らされて、すごい嫌だったけど、だんだん楽しくなってきたんだよ! さっきはお父さんの前だったから言えなかったけど、ホントはおにっちゃんのこと大好きなの! 大好きになったのっ! これからも一緒にいて欲しいのっ! でさ……もし、もしだよ!? おにっちゃんが『おにっちゃん』じゃなくなってもさ、うるみ、ずっとおにっちゃんのそばにいるよ!」
潤は泣き腫らしたかのように目を真っ赤にしていて、子どものように顔をくしゃくしゃにして、叫んでいた。
「だってうるみ、おにっちゃんが大好きだもん! 世界でいちばん大切な、お兄ちゃんなんだもんっ!」
「うる、み……」
 一気にまくし立てたうるみ。
 四月からの数ヶ月間、ぼくはうるみたちの演技に騙されていたわけだけど。
 今の言葉が演技じゃないということは、絶対に間違いないと確信が持てた。
「望ーっ!」
 今度は、うるみの後ろから南雲の叫び。
「さっきはああやって言っちまったけどさ、俺は望のこと、本当は親友だと思ってるからな! 確かに最初は気味が悪いと思ってし、今でも『変』な奴だと思ってるし、いつかお前が化け物みたいになっちまうとしてもさ……でもさ、楽しかったんだよ! 望と一緒に過ごしていて、すごく楽しかったんだ! 昨日だって、心の底から楽しんでたんだ! だから俺……俺っ、これからも望と一緒にいたいんだっ! 楽しい時間を過ごしたいんだよっ!」
 うるみと同様、ぼくを演技で騙していた南雲。
 ぼくとはまた違うタイプの『変』な奴で、けれどぼくの親友。
 一目惚れした相手の兄がこんなぼくだったばかりに、とても辛い立場に立たされてしまった。
 恨まれることはあっても、こんな言葉をかけられる筋合いはないのに。
「なぁ、いいだろ!? これからも一緒にいていいだろ!? 望の親友でいていいだろっ!?」
 こんな、泣きそうなほどに嬉しい言葉をかけられる資格なんか、ぼくにはないのに。
 それなのに。
 潤と、南雲は。
「なぁ望! 一緒に頑張ろうぜ! 親父さんに何と言われようとさ、俺が味方でいてやるからさぁ!」
「うるみもだよ! うるみもおにっちゃんの味方でいるよ! もうお父さんの言いなりにはならない! 逆らうのはちょっと恐いけど、生まれて初めて家訓を無視してやるの!」
『だから――』
妹と、親友は。

『一緒に生きよう!』

 そう、叫ぶのだ。
 ぼくみたいな奴に、そんなことを言ってのけるのだ。
「バカだよ……」
 潤も、南雲も……
「ホントに、バカだよ……!」
 涙をこらえるのに精いっぱいだった。
 強がっているのに、自分の弱さを露呈しているだけのようだった。
「まずいってばぁ……」
 消えようと決めたのに。
 自分に生きる資格なんかないから、この世からいなくなろうと思ったのに。
 3人も、だ。
 お母さんが死んで以来、ぼくの存在価値は無くなった。
 ただ、生きているだけだった。
 お母さんへの親孝行というだけで、誰かに望まれていたわけでもなく、ただ生きていた。
 けれど。
 今ではもう、3人も、ぼくに「生きろ」と言ってくれる。
 こんなぼくの存在を、望んでくれる。
 でも、
「ダメなんだよ……」
 ぼくがこの世界で生きていちゃ、
「ダメなんだよおおおおっ!」
 いつの間にか涙が溢れていた。
 きっと、潤以上に顔がくしゃくしゃで、醜い顔になっているのだろう。
「ぼくが生きてちゃ、絶対に誰かが迷惑するんだ! 誰かを殺しちゃうかもしれないし、そうじゃなくても、今までの潤や南雲にやっていたように、絶対に嫌な思いをさせるんだっ! これはもう、ぼくが生まれたときから決まってたんだ!」
 お母さんを恨んでいるわけじゃない。
 もちろん、お父さんだって。
 ただ、ぼくは妙な奇病を抱えて生まれてきた。
『病人』として生まれてきた。
 その時点でもう、ぼくの歩む道の終着点は見えていた。
「早く、早く離してよ! どうせこのままじゃみんな落ちちゃうんだ!」
 いくら潤と南雲が運動部に所属しているとは言え、ぼくとつかさちゃんを少しの間支え続けるくらいしか無理だ。引き上げるのは至難の業だ。
 潤の体勢さえ整っていれば、あるいは引き上げられたかもしれないけれど。
 そんなたらればの話をしていたって意味はない。
 このままではぼくだけじゃなく、つかさちゃんと、さらには潤と南雲まで海に落ちてしまう。
「く、そおおおお……!」
「結せんぱいっ、なにぼさっとしてるんですか! 早く引き上げてくださいよ!」
「潤ちゃんの言う通りよ! 早くしなさいよっ! こっちは逆さまになってるから頭に血が上るの!」
 事実、南雲が限界に達しているのが声音からわかった。
 つかさちゃんと潤が彼を叱咤しているけど、そうドラマチックな展開が起こるはずがない。
「くそおおおお! ちくしょおおおおお! 持ち上がれえええええええええっ!」
 渾身の叫びは、しかしぼくらを引き上げる力にまではなれない。
 いや、ホントは十分にすごいのだ。
 ぼくとつかさちゃん、それと潤をも支えているのだ。
 たったひとりで、3人も支えているのだ。
 だからぼくさえ落ちてしまえば、つかさちゃんと潤は確実に助かるのだ。
 それなのに、3人の中で誰も、ぼくを落とそうとしない。
 3人が3人とも、ぼくの命を繋げようとしている。
 こんなぼくを、自らを危険に冒してまで、助けよとしてくれている。
「どうしてこう、3人はこんなにも――」
 バカなんだろう。
 ぼくを生かしたところでなにもいいことなんかないのに。
 むしろ、誰かを殺してしまうかもしれない、有害極まりないはずなのに。
 ……もう、我慢できなかった。
「いい加減にしてよ!」
 ぼくの叫びに、3人が一斉に言葉を止めた。
「ぼくは生きてちゃダメなんだよ! 何度も同じこと言わせないでよっ!」
 今日だけで何回言ったことだろう。
 これだけ言っても、3人はぜんぜん耳を貸してくれない。
 ぼくの願いを、受け入れてくれない。
「みんな望んでるんだ! ぼくみたい奴はいなくなればいいって、みんな思ってるんだよ!」
 世界には差別や偏見といったものがあって、それは悲しいことに世界共通だ。
『普通』じゃなければ蔑まれるものなのだ。
『変』な奴は、いつだって疎まれるものなのだ。
 別にぼく自身は平気だったけど。
 ただ存在するだけで、誰かに迷惑をかけたり、嫌な思いをさせているのだ。
 近しい人でも。
 親しい人でも。
 親友でも。
 妹でも。
 そして、
「お父さんなんかまさにそうじゃないか! ぼくがこんな風に生まれてきて、しかもお母さんまで殺してしまって……もう、絶対にぼくに消えて欲しいって思ってるんだよ!」
 自分に生を授けてくれた、親までも。
 動物の中には、自分の子どもでも毛色が違うというだけで、家族の輪から除外するものだっている。
 親は子を無条件で愛すると言うけれど。
 お母さんは、それに当てはまったけれど。
 誇り高く、我の強いお父さんは、きっと――
「知ったような口を利くな」
「…………え?」
 姿は見えない。
 でも、すぐに誰の声かわかった。
「何様のつもりだ。勝手に私の気持ちを捏造してくれるな」
 すっ、と声の主が顔を出した。
 お父さんだった。
「うそだ……」
 無意識のうちに、そんな言葉が口から漏れた。
 目を疑った。
 夕立に直面したのかと思えるほど全身が汗に覆われていて。
 その手が、信じられないことに、潤の背中を掴んでいた。
「どうして……」
 有り得ない。
 お父さんが、ぼくが消えるのを邪魔するなんて、有り得ない。
 つかさちゃんと潤、それから南雲は、ぼくを助けようとしているけれど。
「お父さんは、ぼくを恨んでるんじゃなかったの?」
 お母さんを――お父さんにとっては愛する妻を、ぼくは殺したのだ。
 お父さんは、ぼくを恨むには十分すぎる理由がある。
 恨まれても、疎まれても仕方がない。
 それだけぼくは、お父さんに酷いことをした。
 たとえお父さんに殺されても、ぼくは文句を言えない。
 お父さんの大切な人を殺したぼくに、なにも正義はない。
 お父さんには、ぼくを好きにする権利があるのだ。
 だから、なにをされても、なにを言われても受け入れる覚悟はあった。
 死ねと言われれば、ホントに死ぬつもりでもいる。
「馬鹿者が」
 でもお父さんは、ぼくをバカだと言う。
「達観して大人ぶって、それで『人間』らしく生きているつもりか」
 ぼくを殺すどころか、助けようとしている3人に手を貸しているようにすら見える。
 わからない。まったくわからない。
「私がお前を恨んでいる、だと?」
 息が詰まりそうだった。
 すぐ目の前につかさちゃんの顔があるのに、今はお父さんしか認識できていなかった。
 お父さんが、面倒くさそうに息を吐いた。
 やがて息を吸った。
 ぼくを見た。
 やや不機嫌そうな面持ちで。
 眼鏡の蔓を中指で上げて。
 いつものように。
 無表情で。
 低い声で、言った。
「我が子を恨む親が、どこにいる?」
「――――っ」
 涙が出そうになった。
「でも、お母さんをぼくは……」
「そんなものはあいつも覚悟の上だった。すべてを承知の上で判断をしたまでだ」
「だからと言って、ぼくが許されるわけじゃないでしょ?」
「罪悪感を感じているなら、なぜあいつの想いに報いようとしない」
「だってぼくは、いつか……」
「だから迎えに来たのだ」
「え……?」
「あいつが息を引き取る直前に、私は約束を交わしている」
「約束?」
 そうだ、とお父さんが頷く。
 ぼくの顔をじっと見つめたまま、お母さんの言葉を復唱した。
『あの子が『あの子』でいられるうちは、どうかそっと見守っておいてあげて』
 お母さんの声が聞こえた気がした。
『でももし、あの子自身が『あの子』を嫌いになり始めたら……』
『そのときは、あなたがあの子を迎えに行ってあげて』
『あなたが、守ってあげて』
 お母さんのぬくもりが、お父さんを介して伝わってきた気がした。
『あの子の病気が判明したとき、あなたが「望は私が守り抜いてみせる」って言っていたときみたいに』
『あなたが、あの子に浴びせられる酷いものから守ってあげて』
『あの子を、ひとりにしないであげて』
「――このような遺言めいたものをあいつは遺していったわけだが、まったくもって馬鹿な奴だ」
「……………………」
「そんなこと、言われるまでもない」
 いつの間にか、涙が止まらなくなっていた。
また、自分の顔がひどく歪んでいるのがわかる。頬が涙に濡れているのがわかる。
今日だけで二回目だ。
お母さんが死んだとき以来、一度も泣いてないのに。
いや、長い間泣かなかったからこそ。
それだけの涙を取り戻すように、ぼくは止めどなく流し続けた。
 ぼくはお父さんを誤解していた。
 お父さんは、ぼくを家に閉じ込めようとしていたのではなく。
 ぼくを、外からの嫌悪や憎悪から守ってくれようとしていたのだ。
 お母さんとは逆の愛し方をしてくれようとしたのだ。
 ぼくを、想ってくれていたのだ。
 だから潤にぼくの監視役を押し付けて、潤の目を通して見守ってくれていたのだ。
 ぼくを、愛してくれていたのだ。
「聞いたでしょ?」
 ぽたり、と雫がぼくの顔に落ちた。
 冷たかった。
 冷たかったのに、なぜか、温かいとも思えた。
「これだけ味方がいれば、もう怖くないでしょ?」
 泣きながら不敵な笑みを浮かべるつかさちゃん。
 それは勝ち誇ったような表情でもあった。
「つ――」
その名前を口にしようとしたけど、それ以上は続かなかった。
この期に及んでもなお、嗚咽が混じるのを恥ずかしいと思った。
「ふん」
つかさちゃんは勝ち誇ったような顔で鼻を鳴らして、ぼくの頬に細い腕を伸ばした。
ふわっと香る。いい匂いだった。
水のような匂い。空のような匂い。森のような匂い。
どれにでも当てはまると思った。どれにでも喩えられると思った。
優しくて、おおらかで、安らげる芳香。
「ねぇ」
ぼくをまっすぐ見つめて、つかさちゃんが訊ねてきた。
「もしこんなにも味方がいなくても、お母さんさえ味方でいてくれたら、あんたは自分から消えようとも思わなかったのかしら」
「……うん」
「おかしいわね。だったら、わたしひとりでも止められるはずだわ」
「え……?」
「あんたのお母さんが止めるのと、わたしが止めるの、きっと、同じ意味だからよ」
言われて、気付く。
お母さんはぼくのことを、無条件で愛してくれた。
絶対的な味方でいてくれた。
大好きだと、愛してると、そう言ってくれた。
そしてそれは、嘘じゃない。
言葉にされなくても、ぼくには十分伝わっていた。
そんな、こんなにもぼくを愛してくれたお母さんに「生きろ」って言われたら、拒めるはずがない。
世界中の人が敵に回っても、お母さんさえ味方にいてくれれば、ぼくは生き続けた。
愛してくれる人のために、絶対に生きようって思ったはずだ。
だから。
だから、潤たちが来る前のつかさちゃんの言葉がぼくの胸にずしんと響いたのは、きっと――
「……いいの?」
「なにがよ」
「ぼく、生きてていいの?」
「なっ!」
つかさちゃんは一瞬だけ驚愕の表情になると、すぐに怒りの形相をその綺麗な顔に宿し、両手でぼくの襟元を強く掴んだ。
引っ張り上げられる。
腕の疲れは限界に達しているはずなのに、ぼくの体を持ち上げる。
突然の行動に呆気にとられているのも束の間、つかさちゃんの顔が目の前に迫って、盛大に唾を飛ばしてきた。
「まだそんなこと言ってんの、あんたはっ!」
鬼のような形相に圧倒されながらも、どうにか言い返そうと言葉を探す。
「だ、だって……」
現にぼくは、お母さんを死なせてしまっている。
これは紛れもない事実で、ずっと背負っていかなければならないこと。
だからこそ、不安になる。恐怖する。
「もし、つかさちゃんたちになにかあったら……」
「それでもあんたは生きるの!」
そう叫ぶつかさちゃんを見て。
また、泣けてきた。
「生きてて、いいのかなぁ……」
つかさちゃんの顔が目の前にあるのも厭わずに、涙が溢れ出てきた。
「こんな……こんなぼくが、つかさちゃんたちと一緒に生きてても……」
「当たり前でしょっ! 何度同じこと言わせる気よっ!」
至近距離で怒鳴られて、耳が痛いのに。
「それに、生きるだけじゃダメだからね! あんたは、幸せにならなきゃいけないのよっ!」
耳が痛いはずなのに。
「ふざけた態度の裏で、ずっと苦しんでたんでしょ? ずっと悩んでたんでしょ!?」
それなのに、その声が、ひどく心地良い……。
「だったら、あんたは幸せになる義務があるわっ!」
本当に。
本当に、この人は……
「たとえあんたが、それを拒んだとしても……たとえあんたが、心を閉ざしたままでも、たとえあんたが、化け物になったとしても……あたしたちが……あたしがっ! あたしが絶対、あんたを幸せにしてやるっ!」
唾とは別の雫も飛び散る。
「あんたがあたしにしてくれたように、励まして、支えて、元気付けて……」
綺麗な顔が、これ以上ないくらいに歪んだ。
「嫌がっても、無理矢理あんたを幸せにしてやるんだからっ! あんたの意見なんか知らないっ! あたしが決めたことなんだからっ!」
そして、手を、胸に当てた。

「あたしは司! この名にかけて、あんたをあたしの管理下に置くわっ!」

そして。
降ってくる。
つかさちゃんの顔が、降ってくる。
空から、降ってくる。
まるで、天からの贈りもののように、
つかさちゃんの顔が降ってきて、

――ファーストキスを、奪われた。

五秒……
十秒……
十五秒……
長い長いキスだった。
実際にかかった時間よりも、ずっと長く感じた。
時間が止まったかと思った。永遠に続くんじゃないかと思った。
でも、それでもいい、とも思った。
妹も親友も父親もすぐそこにいるけれど、もうどうでもよかった。
気分が良かった。
つかさちゃんの想いが、唇を介して伝わってくるようで。
ぼくとつかさちゃんの時間が、鼓動が、色彩が、呼吸が、感情が……
全部溶けて、混ざって、一つになっていくようだった。
暖かい、と思った。明るい、とも思った。
水平線の向こうから、お日様がぼくとつかさんちゃんを照らしてくれた。
それはまるで、ぼくたちが世界から祝福されているようで……。
「…………」
やがて唇が離れる。
少し恥ずかしかった。つかさちゃんの顔を直視するのが、少しだけはばかれた。
潤たちには、間違っても視線を向けないでおこうと心に決めた。
つかさちゃんも恥ずかしがっているかと思ったけど、意外にもつかさちゃんは顔を少し赤くしているだけで、むしろ勝ち誇ったような顔で、こんなことを言ってきた。
「……契約成立ね」
「け、けいやく?」
あまりにも無骨な単語に、思わずオウム返しをしてしまう。
つかさちゃんはニヤリと口元を吊り上げて、言った。
「あんたはわたしのファーストキスを奪ったわ。つまり、一生あんたはわたしのために生きなきゃいけないのよ」
そんな無茶苦茶な宣告に、ぼくはもう笑うしかなかった。
そう、笑うしかなかった。
ぼくは今、居場所を与えられたのだ。
生きる意味を与えられたのだ。
それがたまらなく嬉しかった。
それに、さっきつかさちゃんが叫んだ言葉の数々。
今にして思えば、実に横暴で、暴言ともとれるような、まさに言葉の鞭撻だったけど。
でも、そのおかげで、ぼくは――
「ねぇ、つかさちゃん」
「なによ、あんたに拒否権はないからね」
「そうじゃなくて。今、ぼくね」
「…………」
「幸せだよ、ものすごく」
感謝の気持ちを込めて、素直にそう表した。
だけどつかさちゃんは、そんなぼくを嘲笑うかのように鼻を鳴らして、
「そんな幸せじゃ、まだまだ足りないわ。わたしたちはね、これからもっともっと幸せになっていくの。世界中の誰よりも、わたしたちはふたりで、最高の幸せを掴み取るのよ」
高らかに、そう言ってみせた。
まったく……。
本当に、つかさちゃんには敵わない。
2学期が始まった当初は、あんなに沈んでいたのに。今ではもう、幸せの探求者になっちゃってるよ。
それにつかさちゃんは、ふたりで、と言ってくれた。
こんなぼくと一緒に、最高の幸せを掴もうと言ってくれた。
生まれて初めてかもしれない。
自分のことを、世界一の幸せ者だと思えたのは。



その後。
ぼくはお父さんたちに引っ張り上げられて、勝手に消えようとしたことへの盛大なお叱りを受けた。
しばらく続くかと思ったけれど、思いの外あっという間に終わってしまった。
で、その後のお父さんの言葉。
「明日は大事な会議があるからすぐに戻る。今日の夜に電話する」
 とだけ言い残してそそくさと離れていった。
 潤はと言うと、
「傷心旅行に行かせていただきます」
 実家に帰らせていただきます、みたいなニュアンスの言葉を無表情で言い残して、やはりそそくさと離れていった。
 最後に南雲。
「すげー疲れたわ。でも今回だけは許してやるよ。じゃ、また学校でな。お義兄さん」
 いちばんまともなことを言ったかと思ったら、最後にいちばんわけのわからないことを付け加えて離れていった。
 ……もしかして、気を遣われちゃったのかな。
ま、いっか。
ぼくは気を取り直して、今頃になって頬を赤らめているつかさちゃんに目を向けた。
「潤たちには言いそびれちゃったから、先につかさちゃんにだけ言っておくね」
 なに? と訊ねてくる。
改めて言おうとするとだいぶ照れくさかったけど。
絶対に伝えておきたくて、伝えるとしたら今のタイミングしかなかった。
「さっき、ぼくにふたりで幸せを掴もうって言ってくれたけどさ」
極上の幸福感に包まれながら、ぼくは笑顔で、彼女に嫌味を言った。
「ホントにありがとう。そう言ってもらえただけでさ、ぼく、最高に幸せだよ」
 つかさちゃんは目を見開いて、やがて『やれやれ』とばかりに苦笑した。
「あんたさ、自分はこの世にいちゃいけない存在、みたいなこと言ってたけど、そんなの、自分ひとりで決めることじゃないでしょ」
「え?」
「人の存在価値なんて、他人が決めるものよ。自分で決めることじゃないわ」
「……うん。わかる、気がする」
「……だから、ってわけじゃないけど……。ねぇ、望」
 初めてぼくを名前で呼んでくれたつかさちゃんは、まっすぐにぼくを見据えて、
「感謝、してるわ。あんたと出会えて、本当によかった」
 そして。
 きっと生涯忘れないであろう、こんな言葉をぼくの胸に刻みつけた。

「生まれてきてくれて、ありがとう」
 


あー……。
つくづく思う。
この世界は実に愉快だ。
差別や偏見が溢れる世界にも、こういう人はいるのだ。
ぼくのような『変』な奴にも、こんな風に言ってくれる人はいるのだ。
理解してくれて、励ましてくれて、支えてくれる人が、ちゃんといるのだ。

「……じゃあ、帰ろっか、つかさちゃん」
「うんっ」
そうしてぼくたちは、手をつないで、ふたりで歩いていく。
祝福のような朝日の光を、背に受けて。

さぁ、始めよう。
ここからは気合いを入れなくちゃいけない。
忘れちゃダメだ。
世界は、幸せと不幸の繰り返しでできている。
今がとてつもなく幸せだから、またそのうち不幸がやってくるはずだ。
その不幸に、ぼくたちは立ち向かわなくちゃいけない。
そう思うと、ちょっと嫌になりそうだけど。
でも、こう思えばいい。
その先にはきっと、素晴らしい幸せが待っている。
そうだ。そうなのだ。
ぐるぐる回る。
幸せが訪れたら、不幸がやってきて。
不幸が訪れたら、幸せがやってきて。
そうやって、ぐるぐる回る。
幸せと不幸は、ぐるぐる回る。



あぁ、素晴らしきかな――



――ハッピーサイクル!
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