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~紫陽花の色変わり~
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梅雨の走りなのか、曇り空の湿度が高い日の夕方。私は仕事帰りにいつもの小料理屋の麻の暖簾をくぐった。
「紫陽花ですか?」
狭いお店の中に入ると、女将が壁掛けの花瓶に紫の大きな花を飾っているところだった。
「ええ…最近は変わり紫陽花も多いけれど、私は昔ながらの紫陽花が好き」
女将はそう言うと優しい目で紫陽花を見て微笑んだ後、カウンターの中へ入った。
「今日のおすすめはハモの梅肉和え。さっぱりいただけるわよ」
湿度が高いのでさっぱりした食べ物はありがたいので、私は冷酒とおすすめを頼んだ。
女将が料理の用意をしている姿をぼんやり眺めていると、入り口の格子戸が開いて女性が入ってきた。
「外、雨が降ってきましたよ」
女性のストレートの長い髪や黒縁の眼鏡、紺のスーツが少し雨で濡れたのか、女性はカバンからハンカチを取り出して水滴をぬぐう。
「葉子ちゃん、タオルいる?」
女将に葉子ちゃんと呼ばれた髪の長い女性は笑いながら首を振った。
「大丈夫――あ、私はいつもの」
そう言いながら葉子ちゃんは入り口付近の席へ座る。
葉子ちゃんは見た目20代後半ぐらいの長い黒髪の持ち主で、大人しいというか地味で真面目な印象を受ける女性だった。
「はいはい、いつものなめこ納豆と冷酒ね」
ニコニコしながら女将は葉子ちゃんの前にお通しの入った小鉢を置くと、葉子ちゃんが嬉しそうな様子で声を上げた。
「わぁ、ジュンサイだぁ。ちゅるんと頂けるからこれ好きなんです」
「葉子ちゃん、ぬるねば系好きだもんね」
――なるほど、それでいつも頼むのがなめこ納豆なんだと、私は妙に納得した。
「そろそろ梅雨入りかなぁ。湿度が高いと髪の毛が重く感じるし蒸れるんですよね」
「そうね…葉子ちゃん、髪の毛長いし」
髪の長い女性共通の悩みなのか女性たちがそんな話をしていると、のっそりと入道さんが店に入ってきた。
「女将、おしぼり頂戴」
どかっと席に着いた入道さんはそう言うと女将からおしぼりを受け取り、手を拭いた後、雨で濡れたスキンヘッドもおしぼりで拭くと「さっぱりした」と満足げに言って笑顔を見せた。
「涼しそう…」
「楽だし、夏は涼しいよ」
小声でつぶやいた葉子ちゃんの言葉を聞き逃さず、入道さんはそう言うとニカっと笑い「ただ、冬は頭がめちゃくちゃ寒いけどな」と言葉を続けると、葉子ちゃんは控えめにクスクスと笑う。
和やかな客同士のそんな会話と雰囲気がとても心地よく感じ、それが私がこの店に通う理由の一つでもあった。
怒涛の様に時間と情報が流れる現代だが、いなり横丁に一歩足を踏み入れると時間の流れが穏やかに流れている様に感じるのが実に不思議である。客たちの会話が途絶えた時に耳を澄ませば、外で降る雨の音がさわさわと聞こえるようだった。
本格的な梅雨が始まりシトシト雨が続いていたせいか、他に行く場所が思い浮かばなかったのか小料理屋は珍しく半分以上の席が埋まっていた。
「今年は女梅雨だね。気温が上がらないからビールの売り上げが今一つだよ」
日本では、昔から夏の様な晴れの日とザーザー降りのメリハリのある梅雨を男梅雨、曇りの日が多くシトシト雨が続く梅雨を女梅雨というが、最近の天気の様子に酒屋を営む布袋さんがぼやいた。
「湿度は高いけど、お日様が出ない分肌寒いからねぇ」
「早く、夏にならないかなぁ」
「夏になったら、それはそれで暑すぎるって文句言うくせに」
そんな会話をしていると、金髪でショートヘア―の活発そうな女性客が店に入ってきた。見掛けない客なので常連たちは会話をやめ、新しい客の様子をそっとうかがう。
金髪の女性は開いた席に腰を下ろすと、落ち着いた様子で常連客に軽く会釈した。それにつられるように常連客が会釈を返しているとその女性が口を開いた。
「私、いつもの」
その言葉に一瞬怪訝な表情になった女将だったが、その聞き覚えのある声に思いあたると驚いた表情に変わった。
「もしかして葉子ちゃん?」
「あ、髪切りました♪」
その言葉を耳にした常連客からも驚きの声が上がった。
「…ど…どうしたの?」
「失恋したの?」
「思い切ったねぇ」
「誰かと思ったよ」
「何で金髪?」
思うままに発言する常連客をなだめるように葉子ちゃんは「まあまあ」というようなジェスチャーをする。
「気分転換に切っちゃいました。髪の毛って重いんですね…すっかり頭が軽くなりました」
明るくそう言う葉子ちゃんの言葉に常連たちは顔を見合わせる。
葉子ちゃんの話によると髪の毛は腰まであったので、切った髪の毛はヘアドネーションに出したらしかった。
「びっくりさせないでよ」
そう言いながら女将はそう言うと、葉子ちゃんの前にお通しのタコときゅうりの酢の物が入った小鉢を置いて「今のヘアースタイルも似合うわね」と微笑む。
「みんな、私が誰だかわからないみたいで、面白いんですよ」
そう言って葉子ちゃんは笑う。
「イメチェン成功です」
楽しそうに笑う葉子ちゃんはイメチェン前の雰囲気とは全くの別人のようだった。
「髪だけじゃなく、なんか雰囲気変わったね」
店にいた入道さんも私と同じことを考えていたらしく、そんな感想を漏らすと葉子ちゃんは「そうですか?」と小首を傾げる。
「―以前はなんていうか清楚って感じだったんだけど、今は活発って感じでいいね」
「ありがとうございます」
葉子ちゃんはにこやかに礼を言うと「イメチェンのついでに眼鏡をやめて、コンタクトにしたんです」といって笑った。
人の印象がその容姿や身に付けている物でこんなにも変わるのかと、妙に感心した様子でイメチェンした本人以外の人間は一斉に頷く。そんな周囲の様子を気にする事なく、葉子ちゃんは目の前に出されたなめこ納豆をアテに、冷酒を幸せそうな様子で飲み始めた。
早いペースでガラスの小瓶の冷酒を飲み、小鉢のアテを食べる様子はイメチェン前となんら変わる事がない、いつもの葉子ちゃんの姿がそこにはあった。
「ごちそうさま。今日も美味しかった」
満足げに葉子ちゃんはそう言うと、ささっと支払いを済ませて店を後にした。
「…なんか、紫陽花みたいな子だよな」
さっきまで葉子ちゃんが座って居た席を見ながら入道さんが呟く。
「紫陽花?」
訊き返した女将に入道さんは壁に飾られた紫陽花に目線を移し「紫陽花って土が酸性かアルカリ性で同じ花でも色が変わるじゃない」と言った後、「別人みたいになってたけど、飲み方は全く変わってなかった」と小さく笑った。
「紫陽花より女性はもっと不思議だよ」
今日も自分の店をほったらかしにして小料理屋で飲んでいた布袋さんが呟く。
「女性にとって長い髪は大切なものだと思っているから、あそこまで思い切って髪を切るって心境がよく分からないね」
「髪は女の命ってやつ? …男の人って女に幻想を持ちすぎよ」
女将はそう言って笑ったが、その場に居た男連中は「女の気持ちはわからない」といった風に小さく首を振った。
「紫陽花ですか?」
狭いお店の中に入ると、女将が壁掛けの花瓶に紫の大きな花を飾っているところだった。
「ええ…最近は変わり紫陽花も多いけれど、私は昔ながらの紫陽花が好き」
女将はそう言うと優しい目で紫陽花を見て微笑んだ後、カウンターの中へ入った。
「今日のおすすめはハモの梅肉和え。さっぱりいただけるわよ」
湿度が高いのでさっぱりした食べ物はありがたいので、私は冷酒とおすすめを頼んだ。
女将が料理の用意をしている姿をぼんやり眺めていると、入り口の格子戸が開いて女性が入ってきた。
「外、雨が降ってきましたよ」
女性のストレートの長い髪や黒縁の眼鏡、紺のスーツが少し雨で濡れたのか、女性はカバンからハンカチを取り出して水滴をぬぐう。
「葉子ちゃん、タオルいる?」
女将に葉子ちゃんと呼ばれた髪の長い女性は笑いながら首を振った。
「大丈夫――あ、私はいつもの」
そう言いながら葉子ちゃんは入り口付近の席へ座る。
葉子ちゃんは見た目20代後半ぐらいの長い黒髪の持ち主で、大人しいというか地味で真面目な印象を受ける女性だった。
「はいはい、いつものなめこ納豆と冷酒ね」
ニコニコしながら女将は葉子ちゃんの前にお通しの入った小鉢を置くと、葉子ちゃんが嬉しそうな様子で声を上げた。
「わぁ、ジュンサイだぁ。ちゅるんと頂けるからこれ好きなんです」
「葉子ちゃん、ぬるねば系好きだもんね」
――なるほど、それでいつも頼むのがなめこ納豆なんだと、私は妙に納得した。
「そろそろ梅雨入りかなぁ。湿度が高いと髪の毛が重く感じるし蒸れるんですよね」
「そうね…葉子ちゃん、髪の毛長いし」
髪の長い女性共通の悩みなのか女性たちがそんな話をしていると、のっそりと入道さんが店に入ってきた。
「女将、おしぼり頂戴」
どかっと席に着いた入道さんはそう言うと女将からおしぼりを受け取り、手を拭いた後、雨で濡れたスキンヘッドもおしぼりで拭くと「さっぱりした」と満足げに言って笑顔を見せた。
「涼しそう…」
「楽だし、夏は涼しいよ」
小声でつぶやいた葉子ちゃんの言葉を聞き逃さず、入道さんはそう言うとニカっと笑い「ただ、冬は頭がめちゃくちゃ寒いけどな」と言葉を続けると、葉子ちゃんは控えめにクスクスと笑う。
和やかな客同士のそんな会話と雰囲気がとても心地よく感じ、それが私がこの店に通う理由の一つでもあった。
怒涛の様に時間と情報が流れる現代だが、いなり横丁に一歩足を踏み入れると時間の流れが穏やかに流れている様に感じるのが実に不思議である。客たちの会話が途絶えた時に耳を澄ませば、外で降る雨の音がさわさわと聞こえるようだった。
本格的な梅雨が始まりシトシト雨が続いていたせいか、他に行く場所が思い浮かばなかったのか小料理屋は珍しく半分以上の席が埋まっていた。
「今年は女梅雨だね。気温が上がらないからビールの売り上げが今一つだよ」
日本では、昔から夏の様な晴れの日とザーザー降りのメリハリのある梅雨を男梅雨、曇りの日が多くシトシト雨が続く梅雨を女梅雨というが、最近の天気の様子に酒屋を営む布袋さんがぼやいた。
「湿度は高いけど、お日様が出ない分肌寒いからねぇ」
「早く、夏にならないかなぁ」
「夏になったら、それはそれで暑すぎるって文句言うくせに」
そんな会話をしていると、金髪でショートヘア―の活発そうな女性客が店に入ってきた。見掛けない客なので常連たちは会話をやめ、新しい客の様子をそっとうかがう。
金髪の女性は開いた席に腰を下ろすと、落ち着いた様子で常連客に軽く会釈した。それにつられるように常連客が会釈を返しているとその女性が口を開いた。
「私、いつもの」
その言葉に一瞬怪訝な表情になった女将だったが、その聞き覚えのある声に思いあたると驚いた表情に変わった。
「もしかして葉子ちゃん?」
「あ、髪切りました♪」
その言葉を耳にした常連客からも驚きの声が上がった。
「…ど…どうしたの?」
「失恋したの?」
「思い切ったねぇ」
「誰かと思ったよ」
「何で金髪?」
思うままに発言する常連客をなだめるように葉子ちゃんは「まあまあ」というようなジェスチャーをする。
「気分転換に切っちゃいました。髪の毛って重いんですね…すっかり頭が軽くなりました」
明るくそう言う葉子ちゃんの言葉に常連たちは顔を見合わせる。
葉子ちゃんの話によると髪の毛は腰まであったので、切った髪の毛はヘアドネーションに出したらしかった。
「びっくりさせないでよ」
そう言いながら女将はそう言うと、葉子ちゃんの前にお通しのタコときゅうりの酢の物が入った小鉢を置いて「今のヘアースタイルも似合うわね」と微笑む。
「みんな、私が誰だかわからないみたいで、面白いんですよ」
そう言って葉子ちゃんは笑う。
「イメチェン成功です」
楽しそうに笑う葉子ちゃんはイメチェン前の雰囲気とは全くの別人のようだった。
「髪だけじゃなく、なんか雰囲気変わったね」
店にいた入道さんも私と同じことを考えていたらしく、そんな感想を漏らすと葉子ちゃんは「そうですか?」と小首を傾げる。
「―以前はなんていうか清楚って感じだったんだけど、今は活発って感じでいいね」
「ありがとうございます」
葉子ちゃんはにこやかに礼を言うと「イメチェンのついでに眼鏡をやめて、コンタクトにしたんです」といって笑った。
人の印象がその容姿や身に付けている物でこんなにも変わるのかと、妙に感心した様子でイメチェンした本人以外の人間は一斉に頷く。そんな周囲の様子を気にする事なく、葉子ちゃんは目の前に出されたなめこ納豆をアテに、冷酒を幸せそうな様子で飲み始めた。
早いペースでガラスの小瓶の冷酒を飲み、小鉢のアテを食べる様子はイメチェン前となんら変わる事がない、いつもの葉子ちゃんの姿がそこにはあった。
「ごちそうさま。今日も美味しかった」
満足げに葉子ちゃんはそう言うと、ささっと支払いを済ませて店を後にした。
「…なんか、紫陽花みたいな子だよな」
さっきまで葉子ちゃんが座って居た席を見ながら入道さんが呟く。
「紫陽花?」
訊き返した女将に入道さんは壁に飾られた紫陽花に目線を移し「紫陽花って土が酸性かアルカリ性で同じ花でも色が変わるじゃない」と言った後、「別人みたいになってたけど、飲み方は全く変わってなかった」と小さく笑った。
「紫陽花より女性はもっと不思議だよ」
今日も自分の店をほったらかしにして小料理屋で飲んでいた布袋さんが呟く。
「女性にとって長い髪は大切なものだと思っているから、あそこまで思い切って髪を切るって心境がよく分からないね」
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