EVIL EYES

日向まひる

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Day1/胡乱の日々

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 ――――夢を、見ていた。

 寝つきが悪い時には、いつも決まってその夢を見る。
 何もかもが薄靄に包まれていて、ひどく曖昧な。
 そんな悪夢を見ていた。

 遠い夏。
 月の夜。
 黒い森。

 見慣れない景色が広がっている。
                   あるいは、いつか、どこかで――
 不安になるような、夜のなか

 鬱蒼とした木々の向こうには小さな小屋があった。
 木で造られた、素朴で、しかし頑丈すぎる小屋。
 窓はひとつもない。唯一の入り口である扉も、無数の釘と板で打ち付けられていた、
 ようだった。
 今はもう、粉々になってしまっているけれど。

 そこは目に痛いほど朱かった。
 むせ返るような鉄の香り。
 あちらこちらに朱い水溜まり。
 潰れたトマトみたいな何かとなにかとナニカ――

 ふと、視線を下げると。
 手も、真っ赤なナにカで汚れていた。

 ……これはいったい何なのだろう。
 暗くてよく見えない。
 朱い水溜まりの中に、ダレカが沈んでいる気もしたけれど。
 まったく全然これっぽっちも見えなかった。

 そのうち大人たちがやってきた。
 ぞろぞろとやってきた。
 手に鋭い銀色を持ってやってきた。
 大人たちは口々に何かを言っている。
 まるで海の中にいるみたいに遠くで声がする。
 よく聞こえない。

 頭は呆、としたままだ。
 目の前は白くなったり黒くなったりで忙しい。
 ざあざあ ざあざあ
 風に揺れる梢の音だけが、やけにはっきりと聞こえてきた。
 ひどく五月蠅い。

 ふと、月が雲に隠れる。
 夜闇は一層深くなる。
 煩い貌も、怖い銀色も見えなくなる。

 そんな中、大人たちの壁をかき分けて誰かがやって来た。
 姿は暗くてわからない。
 でも、その柔らかいシルエットから女の人だと思う。
 その人からは、ふんわりと優しい椿の薫りがした。

 女の人は、いきなり抱きしめてきた。
 真っ赤に汚れてしまうのに、それを気にもしないで。
 強く、優しく抱きしめてきた。
 その時、耳元で何か囁いてきたけれど――

 ……よく、わからなかった。



 朝特有の、ぼんやりとした微睡の中でもがく。
 カーテンの隙間から差し込む光が眩しい。
 同時に、窓の外から聞こえる小鳥の声が耳朶をくすぐった。
「う……ん――」
 ごそごそと目を擦る。
 何か、夢を見ていた気がする。
 ――思い出せない。
 いったいどんな夢だったのか。

 ……まだ上手く働かない頭を振って、上半身だけを起こした。
 欠伸をしながら軽く伸びをする。
 うんと朝の空気を吸い込むと、不思議と頭が冴えてきた。

 ちらりと傍らに置いた時計を見る。
 九月八日、木曜日。時刻は五時半ジャスト。
 どうやらいつもより早起きしてしまったらしい。
 普段よりも三十分程早い起床だった。

「……今朝もいい天気だ」
 そう何気なく独り言ちる。
 こんなに早起きしたのだから、朝食の支度をしてから登校までの時間はたっぷりある。
 どうやら、ゆっくりとした朝を過ごせそうだった。

 習慣のようにして枕元のスマホを弄る。
 友人からのメッセージを適当に読み飛ばして、ネットニュースのサイトを開いた。
 天気は晴れ。今日は一日気温が高いらしい。
 九月。まだ夏の名残を感じる季節。
 いや、日によっては夏よりも暑いことだってある。

「勘弁してくれ……」
 暑さは苦手だ。
 何だか汗と一緒に魂が流れ出ていく気がする。
 だからと言って寒いのも好きじゃない。
 秋のちょうど良い気候が最高なのだが……それも当分先のことのようだった。

「ん――?」
 昨夜と今朝の間だけでも溢れ返りそうな数のニュースが流れてくる。
 それらを流し見していると、ふと、気になる見出しに目が留まった。

御所原ごしょわら市で、殺人事件――?」
 また物騒な単語を見てしまった。
 御所原市といえば、ここ。
 俺が住んでいるトコロじゃないか。
「珍しいな、こんな事件」
 この辺りはそれなりに大きいはずなのに、滅多なことが起こらない、平和な街だったはずだ。
 それが殺人だなんて。
「気味が悪いな」
 気になりはしたが、まあ時間はたっぷりあるんだし。
 朝の支度に専念しようとスマホを閉じた。

「さて、起きるとするか」
 いつまでもベッドの中にいられない。
 凝り固まった節々をほぐしながら、もそもそと這い出る。
 カーテンを開けて陽射しを取り込む。
 秋の空は、目に染みるほど青かった。

 寝間着から制服に着替える。
 白いワイシャツに袖を通して、スラックスのベルトを締める頃には眠気も覚めていた。
 余談だが、俺は制服に限って夏でも長袖派だ。
 明確な理由はないけれど、半袖はいまいち肌に合わない。

 ……そんなどうでもいいことは置いておいて。
 着替えも終わったことだし、早速朝食作りに取りかからねば。
 じっくりと、いつもより豪華な食卓にすることにしよう。

 廊下を行く途中、ふと、壁にかけられた小さな鏡が目に入った。
 最近散髪をサボっていたせいか、前髪に視界を侵食されつつある。
 お陰でどことなく目つきが悪い。別に睨んでいるワケじゃないのに。
「髪、切るか」
 欠伸を噛み殺す。
 土日の予定を思い浮かべながら、キッチンへと向かうため階段を降りた。

 途中洗面所で顔を洗い、キッチンに入る。
 ざっと冷蔵庫の中を見て、アレコレと献立を決めていく。
「秋刀魚と卵と……切り干し大根もあるか。
 あとは味噌汁――昨日の残りがあるか。これでいこう」
 ご飯は昨晩のうちに準備をしておいた。六時になれば美味しく炊きあがるだろう。
 あとはアイツが起きてくる頃までに仕上げておかないと。

 まずは切り干し大根から。手始めに水洗いして浸しておく。十分ちょっとで丁度よくなるはずだ。
 油揚げはキッチンペーパーで油を取り、人参は皮を剥いて細切りに。

 待つ間に秋刀魚の下拵えだ。
 秋刀魚は意外に鱗が多いから包丁でこそげ取る。
 そしてポイント。水に塩、さらに少しの片栗粉混ぜて、その中で洗う。
 こうすることで見えない表面の臭みの素が取れて美味しくなる。
 その後、水気を取って塩を振りかけ、五分待つ。
 コレだけで格段に味が変わるのだ。

 グリルを強火で五分温めて高温にする。
 そしたら秋刀魚を並べて焼くだけだ。
 片面五分ずつ。その間に残りのおかずを作っておく。

 浸しておいた切り干し大根を取り出し、水気を切る。それから食べやすい大きさにザク切りに。
 鍋に油を入れて熱し、切り干し大根を炒め、続いて人参と油揚げも炒める。
 そこに出汁、酒、みりんを入れて煮立たせ、煮立ったら少量の砂糖と醤油を投入し煮汁がなくなるまで煮る。

 気づけばもう六時を過ぎていた。
 まったく料理は時間を忘れさせる。
 そろそろアイツも起きてくる頃だろう。
 と、その時。

「ぅ~ん、起きてるの? 兄さん」
 案の定、眠気の混じった声が聞こえてきた。
 まだ寝巻きのままの妹――紫苑(しおん)がのろのろと居間に入ってくる。
「おはよう紫苑。早速だけど、皿を出してくれ」
「もうご飯? 早いねえ」
 しょぼしょぼと目を擦りながら、緩慢な動作で皿を運ぶ紫苑。
 落とさないか心配だが、こっちも手が離せない。

 焼き上がった秋刀魚を取り出したと同時に炊飯器が鳴り出した。
 いいタイミングだ。蓋を開ければ、湯気と共に白米の優しい香りが鼻孔をくすぐる。
「紫苑、白米盛ってくれ」
「はーい」
 その間に俺は卵焼きを作る。
 卵を二個割って出汁を入れかき混ぜる。
 十分に熱したフライパンに三分の一ほど流し入れ、少し固くなったところで巻く。
 これを三回繰り返すことで、ふっくらとした層ができあがるのだ。

「よし……できた」
 食卓に料理が揃った。ちなみに味噌汁は豆腐とわかめだ。
実にシンプルかつベストな組み合わせだろう。
「今日は早起き?」
「まあな。何だか妙に調子が良い」
「ふーん。ま、朝から元気なのはナニヨリ」
 席について手を合わせ、
「「いただきます」」
 優雅な朝食のひとときが始まった。

 テレビのニュースの声と共に朝食は進む。
 俺も紫苑もかなりしっかり食べるタイプなので、料理はみるみるうちに減っていった。
「おかわりー」
「了解。どれくらい?」
「んー、山盛りで」
 紫苑の茶碗と、ついでに自分の茶碗も持って席を立つ。

 お互いの茶碗に山盛りの白米を盛り付けていると、
『昨夜、御所原市内の公園で、二十代の女性が何者かに殺害され――』
 普段はBGM程度でしかないニュースの内容に、眉をひそめる。
 さっき見たニュースについて報道されていた。
 ……いやな話だ。
 少なくとも食事時に出て面白い話じゃない。

「テレビ消すか?」
「大丈夫。気になってたし」
 そうか、と頷いて、俺もニュースに耳を傾ける。
 事件現場はどうやら公園らしい。
 ベンチの上で倒れている女性が朝方発見され、昨晩のうちの死亡が確認された。
 犯人の痕跡はなく、警察は調査中――何とも物騒だ。

「気をつけろよ。紫苑も部活、かなり遅くまでやってるだろ」
「そうだねー。でも先輩たちと帰ってるからきっと大丈夫だよ。もし何かあったら全力で逃げるし」
「陸上部だしな。俺より速いだろ、みんな」
「んー……それはちょっと、ないかなぁ」

 そんな会話をしている間に、事件の報道は終わっていた。
 紫苑が適当にチャンネルを変え、明るい情報番組が流れる。
『最新の人気K-POPを紹介!――』
 大して興味のある内容ではなかったが、紫苑は気になるようだった。
 まあ、それこそBGMくらいにはなるだろう。
「さ、食べるか」
 そうして、以降は何事もなく、いつも通りの朝食が再開した。

 しばらくして、朝食もつつがなく終わり、俺は食器を洗っていた。
 紫苑は部活の朝練があるのでもう少しで行かなければならない。
 紫苑は俺と違って、電車で二駅先の隣町にある女子高に通っている。
 その『私立桜坂さくらざか女学院』はかなり高偏差値の進学校で、部活動も盛んだ。
 まさに文武両道。紫苑は俺なんかとは大違いだ。
 俺は近所の、ここから歩いて十五分ほどの公立高校に通っている。良くも悪くも公立、といった感じの高校だ。

「それじゃ、いってきます」
「待て待て。弁当、忘れてる」
「おっと、危ない危ない」
 朝の残りを詰めた弁当を渡す。
 これもかなりの大きさだ。少し食べすぎな気もするが、まあ健康の証なのだろう。

「いつもありがと、兄さん。
 それじゃ、今度こそ、いってきまーす」
 明るい笑顔で言われて、少しドキリとした。

 ……遠い記憶の中。ぼんやりと思い起こされるのは、泣きじゃくる紫苑の姿だった。
 あの頃はいつもそうだった。人見知りで、おっちょこちょいで、
 そのくせよく動き回る。だからしょっちゅう転んで、そのたびに泣いていた。
                                  ――あの頃?
 そう。遠い遠い、記憶の向こう。
 薄靄がかかった、忘れじの日々――

「兄さん? どうしたの、ぼうっとして」
「――あ、ああ……何でもない」
 ついぼうっとしてしまっていた。
「ごめん、気が緩んでた。
 いってらっしゃい」
「うん! 夕ご飯楽しみにしてるね!」
 そんないつものやり取りをして、俺は紫苑を見送った。

 洗い物も終わり、時刻は七時手前。
 まだ家をでるまで四十分以上ある。
 一息つこうとコーヒーを淹れた。
 居間に漂う香ばしい香り。
 一口すすって、ほう、と息をつく。
 別段コーヒーが好物なワケではないが、この何とも言えない高級感のある風味は嫌いじゃない。

 と。
「ん?」
 スマホから通知音が鳴る。
 こんな時間に珍しいな。
 さては、紫苑が忘れ物でもしたか?
 見ると、そこには――
「……何だよ、驚かせやがって」
 友人と言うのは憚られるが、友人と形容しないこともない男からのメッセージがあった。

『おはよう! 青春してるかまいぶらざー!? 今日は天気がいいから昼飯を奢ってやる』
 なんてふざけた文が書かれている。
 お前に兄弟と呼ばれる筋合いはない。
 が、まあ昼飯はありがたく奢られてやろう。
『そうか。それじゃ学食で贅沢させてくれ』と送っておくことにした。
 小遣いの少ない学生は、どんな屈辱を噛みしめてでも飯をたからなければならない瞬間があるのだ。

「弁当は――夜にでも食うか」
 一応、紫苑の分と自分の分を作っておいたのだが、アイツが奢るというのなら話は別だ。
 そういえば、今日の日替わりランチはカツ盛り合わせ定食とか言う、カロリー魔王のようなメニューだった。
 日替わり、と言うクセに、このメニューは月イチでしか出ない幻のランチだ。
 なんでもコスパがおかしすぎて滅多に出せないらしい。
 リピーターも数多く、すぐに売り切れてしまうとか。
 今日こそは食べてみたいな。

 そんなこんなで、登校時間になった。
 時計の針は、七時四十分を指し示している。
 そろそろ丁度いい頃合いだろう。
 自室からリュックを持ってきて、家を出た。
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