僕のみる世界

雪原 秋冬

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一章

27.奇貨居くべし

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「僕はそろそろ帰るから、それ読むのは明日以降にしてもらえない?」
「……分かりました。じゃあ、明日の放課後、またここに来るってことで大丈夫ですか?」
「それでいいよ」

 イザナイさんの資料を再び棚にしまう先輩の姿をしり目に、俺は図書室を出た。前回と違って奇妙な空気もなく、代わり映えのしない普段通りの廊下の様子に、内心でほっと一息つく。

 気が付けば外は、地平線付近に赤っぽいオレンジをわずかに残しているくらいで、ほとんど紺色に染まっていた。以前はあれだけ避けていたはずの日没を、最近はそれほど気にしなくなったように思える。

 イザナイさんがきっかけで、闇が身近に感じられるようになったからだろうか。
 そう考えた直後、全身の肌が粟立った。

 身近に感じられるべきではないものを、無意識のうちに溶け込ませていたからだ。現実とは相容れない、見えてはいけない存在。

 しっかりしなければ。あれらを受け入れてしまったら、いずれあの影たちの世界へ取り込まれてしまうような気がしていた。

 いつの間にか歩みを止めてしまっていたことに気付き、影たちとの関係を断ち切るように頭を左右に少し振って、思考を切り替える。

 そのとき、ようやく奇妙なものを感じ取った。
 ……ずっと誰かに見られている?

 とっさに背後を振り返るが、そこには蛍光灯に照らされた無人の廊下があるだけだ。影も見えない。それなら、これは一体……。

 歩き始めると、俺一人の足音が控えめに廊下を満たす。……ほかの音は聞こえない。それなのに、何かの視線は痛いほど伝わってくる。

「…………」

 歩調は徐々に速くなっていき、気が付けば小走りになっていた。

 たどり着いた昇降口で、軽く乱れた息を整えながら周囲を見渡してみる。まだ建物の明かりはついているものの、日が沈んでいるせいで独特の暗さを残す空間が広がっているのみで、何の気配も感じられない。

 校舎内に人はもうほとんど残っていないのか、異様なほど静かなのも不気味さを際立てていた。これ以上ここにいるのはまずい。そう思って、絡みつくような湿った空気を振り切るように、早々と校舎を出る。

 歩みを進めて校門のそばまで近づくと、半ば無意識のうちに振り返っていた。安心を得たかったのだろうか。それとも、恐怖の入り混じった好奇心だろうか。いずれにせよ、よせばいいのに、俺は先ほどまでいた昇降口のほうへ視線を移していた。

 ――誰かいる。

 距離と逆光で表情は見えないが、明らかに俺をまっすぐと見つめてくるそれは、ほかに何のアクションも起こさない。

 影たちを彷彿とさせるその挙動に、底冷えするような震えが一瞬襲ってくるものの、あれは人間であると自らに言い聞かせて抑え込む。

 まるで金縛りにでも遭ったかのように、俺自身も相手から視線を逸らせなかった。

 それからどれくらい経ったのだろう。数分だったかもしれないし、数十秒程度だったのかもしれない。はっきりと分からない時間経過のなか、ついに相手が動き出した。……こちらへ向かってくる。

「ねえ」

 すぐそばまで寄らずに、そこそこ離れた距離から声をかけてきた。俺と同じデザインの制服を着用しているが、暗いせいで色までははっきり分からないから、学年が不明だ。

「君には何が見えているんだい?」
「……っ!?」

 俺が一番聞かれたくないことを口にされたせいで、思わず一歩後ずさってしまった。この人がどういう判断をして質問をしたのか不明だが、俺だけに見えているであろうあの影たちのことではなく、世間一般的に言うところの霊を指していると頭のどこかで理解していても、無意識というものは制御できないから厄介だ。

「霊にしては、おかしいんだよねー」

 ……そう思っていたのだが。不快なことに、違うようだった。

「まあまあ、そう警戒しないでよ。俺は君の見る世界がどうなっているのか、知りたいだけなんだから」

 彼はにっこりと胡散臭そうな笑みを見せる。警戒もなにも、触れられたくない部分にいきなり突っ込んで来ているのだから、苦虫を噛み潰したような表情になってしまう。

「……なんの話をしているのか、さっぱり分かりませんね」

 ようやくそれだけ絞り出すが、相手はにやにやとした気持ち悪い笑みを浮かべるだけで、俺の拒絶反応がまったく通じていなかった。

「本当に分からないならさあ、そんな態度にならないでしょ?」

 せせら笑う彼に腹立たしさを覚えながらも、言っていることは正しいせいで何も言い返せない。

「そんなに言いたくないんだ? ますます気になっちゃうね」
「……、お前にする話なんてない」
「あっははー。敵意むき出しで最高! ねえ、俺にはそんな態度取れるのに、君が見えるものに対しては畏怖しちゃうんだ? ねえねえ、何が見えてるの?」

 面倒なやつだと気付いたときにはもう、立ち去るタイミングを完全に見失っていた。無視して帰路につけばいいのかもしれないが、この調子だと絡みながらついてきそうな勢いだ。

「この前の夕方」

 異様なほどはっきりと聞こえたその言葉に、その瞬間だけ周囲の時間が止まったような気がした。

「駅の広場で、何か見えていたよね」

 相手が一歩踏み出す。相変わらず暗がりのせいではっきりと容姿は確認できないが、背丈は自分と同じくらいだろうか。

 ……それよりも、いま、なんて言った?

「なんでもないように装おうとしたみたいだけどさー、あんなのバレバレだって」

 あはは、と狂気をはらませた笑いを交えながら、さらに一歩踏み出してくる。

 瞬間、吹いてきた生ぬるい風によって、今まで顔がよく見えなかった理由が判明した。彼の前髪は長いうえに眼鏡をかけており、普通にしていれば目がよく見えないからだ。

 そして、そんな前髪の隙間から見えた瞳は、人ならざる者のような異質さを感じさせる、やけに輝きを放ったピンク色だった。……宇佐見先輩と同じ色だ。それなのに、受け取る印象がまったく違う。

 宇佐見先輩が人間の瞳なら、いま目の前にいる彼からは魔力のようなものを感じる――そんな馬鹿げた考えが浮かんでしまうほど、畏怖の念を抱いてしまった。

 そんな彼から目を逸らしかけたとき、着信音が鳴り響いた。……俺のではないようだ。

「わー、めっずらしー」

 即座に通話を始めた彼は、相変わらず笑いながらそんなことを口にする。

「えー? そんなこと言われてもさー、やっぱ直接聞いたほうが早いじゃん? というか、もう帰るんでしょ? だったら直接止めに来ればいいのに! あはは!」

 電話の相手は分からないが、返答から推察するに、どうやら俺のことを話しているらしい。
 退散するなら今だと思い、走りだそうとしたところで軽い衝撃と共に、体の動きを抑制される。

「待ってよ」

 通話しながら徐々に距離を縮めていたのか、あるいは音もなく瞬時に詰めてきたのか……判別はできないけれど、とにかく俺は、駆け出す前に腕をつかまれていた。それほど力は入れていないように思えるから、振り払おうと思えばできそうだ。それなのに、有無を言わさぬ抑止力を感じるせいで実行に移せない。

「俺はさあ」

 腕をつかんで引き留めた際に通話を切っていたのか、耳に当てていたスマートフォンを下ろしていた。

「グループでも難なく侵入できたのって、君の影響があると思ってるんだ」
「……え?」

 予想だにしていなかった言葉に、目を見張る。

 さっきの発言といい、こいつはなんで深い事情をあれこれ知っているんだ? 当てずっぽうにしては的確すぎるし、情報取得に関して絶対的な自信、根拠があるからこそ俺にこうして話を振っているのだろう。

「宮原伊織――いや、『宮原』は霊類への対処法を熟知している一族としてはおかしいと言えるほど、それらをあまりにも日常的に避けすぎている」

 宮原家に対しても造詣が深いようだ。さすがに、伊織が見えない体質であることは知らないらしいけれど。

「もちろん、あれらを深く知っているからこそ避ける者もいるのは分かっているよ。対象がちょっと違うだろうけど、君みたいにね」
「…………」
「でもさ、宮原一族って基本的に優しいでしょ? おせっかいとも言うけど。困っている人がいたら手を差し伸べるし、悩んでいる人がいれば寄り添う」

 ……確かにその通りだ。俺が知りうる限りでは、伊織や都織さん、そして柚織くんもそういった行動を取るだろう。俺と直接的な面識のない妹さんだって、東雲のために式神を使役してくれた。だからきっと彼女も、ほかの兄弟たちと同じように振舞うだろうと予測できる。

「それなら霊類に対しても同じ行動を取りそうなのに、そうしない……不安定な存在と関わりを持ちたくないというよりも、やむを得ずそうしているように見えるのが、はたから見るとおかしい」

 イザナイさんに対して手出しができず、見ていることしかできない、そういう決まりだというようなことを、伊織が言っていた気がする。この人の憶測……いや、推測だろうか。とにかく、至った考えと現実に相違があまりないように思えた。

「だからこそ、宮原伊織がいることによって、あの夜に君たちが侵入できたとは考えにくい。普段から親密なら招くこともあるかもしれないけれど、真逆だからね。……そこで、君だよ!」

 そう言い終わるや否や、彼は仰々しく両手を広げて何歩か下がってから、くるりと一回転する。つかまれていた腕は離れたから逃げるチャンスだというのに、目の前にいる謎の人物が語り出す情報のほうが引っかかってしまい、すでに立ち去る気は失せていた。
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