僕のみる世界

雪原 秋冬

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二章

42.整理

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 先輩が去り、一人取り残された須納の家で、改めて室内を見回してみる。
 『映るもの』を隠すために使われたインクのような汚れはあるが、血痕の類は見当たらない。
 ――いや、これは――……しゃがんでよく見てみると、インクだけではなく、血液が混ざった部分もある……?
 そう認識した瞬間、こもった部屋の空気に、鉄のような奇妙な臭いがうっすらと混じっていることに、ようやく気がついた。玄関のドアを開けたのが自分とはいえ、家への侵入は守芽植先輩が主導で、さらについ先ほどまでは彼の話に集中せざるを得なかったのだから、原因を見るまで感じ取れなかったのも無理はない……かもしれない。
 ……そしておそらく、考えるまでもなく――あの人はこの臭いに気がついていただろう。それも込みで「思ってたよりもひどい」と言っていたのではないか。
 ……まあ、どうでもいいことだけど。
 人の血なら安易に触るわけにもいかない。異常な状況だというのに、妙に冷静なままの頭はそう判断していた。
 鏡や陶器の欠片にも乾いた液体のようなものが少し付着しているようで、こちらは痕跡からして、単純に鋭い断面で皮膚のどこかを切ってしまったものなのだろう。
 怪我をしてでも暴れたかったのか、あるいは怪我に気付けないほどの状況だったのか……。
「はあ……」
 疲れなのか、呆れから来るものなのか分からないため息をつく。
 結局、あの先輩は俺に言いたいことだけ言って、肝心なことは何一つ教えてもらえなかった。「なぜ須納は錯乱し、そしてどこへ消えてしまったのか」という部分だ。
 俺があの人の家までついて行ったとしても、教えてもらえるかは分からない。すべては気分次第なのだ。そういう人物だと、身に染みている。
 そもそも、あの人が言うことすべてが正しいとは限らない。嘘が混じっているか、すべて嘘の可能性だってあるのだから、須納が消えてしまったことだって、俺が「違う、そんなはずない」と信じられたのなら、きっと俺の――俺が見たい世界だけで、須納は生き続けることが可能なのだろう。
 でもそうではない。これは直感だと思うが……須納は先輩の言う通り、どこかに消えてしまった。しかもただの行方不明ではなく、死と同義、かつ常識的にはありえない方法で。
「…………」
 こんなに考え込まなくても、先輩に言われたときから分かっていたことじゃないのか。
 ――須納はイザナイさんから逃げるために「映るもの」を破壊していたが、それは救いにはならなかった。そうして――割られたはずの鏡から、須納は連れていかれてしまったのではないか。
 ただ……それが、「本当にそう」なのか、「妄想の結果」なのかは、俺には分からない。
 だって、おかしいだろう? イザナイさんは七不思議そのもの――つまり学校に縛られた存在のはずだ。
 以前、宇佐見先輩が見せてくれた資料や、そのときの会話からの情報でも、イザナイさんが存在しているのはあくまで学校という場であって、その枠を超えてはいない。まあ、あれはあくまで学校用に準備されたものだから、宇佐見先輩から聞いた話も含めて「枠外の情報は知らせていない」と言われたらそれまでだけども。
 守芽植先輩の発言からして、須納がいなくなってから、数日は経っているはずだ。さらに、追加で可能性の話をするならば――もしかしたら、俺が須納と偶然会った日のうちに、事が起こり始めたという道も否定できない。
 けれど……だとしても、俺が須納の様子をちゃんとうかがっていたとして、事態が好転していた確証もない。過ぎた今となっては、すべてが闇の中なのだ。
「…………、ごめん」
 立ち上がってから、一言だけぽつりと漏らす。俺が須納のことを重く受け止めずに、三咲の席がなくなっていたという明確なきっかけがあるまで、あえて触れてこなかったのは事実だ。
 心の中で何度か浮かんでいた「須納の様子を見に行くべきか?」という選択肢を、俺は否定する方向で選び続けていた。そうやって考えていても行動に移さないのであれば、守芽植先輩の言う「心配してるフリ」であることに変わりはないだろう。
 何かを断ち切って思考を切り替えるかのように、そのまま玄関から外へ出た。
 アパートの外階段を降りたところに、守芽植先輩の姿が見える。どうやら俺が出てくるのを、待っていたらしい。
「帰ろうかと思ったんだけどさ、一言だけ言おうと思ってね」
「…………」
「久門家は、いつでも君のことを待っているよ。だって、根の感性が同じだからね。きっと協力し合える――そう思うんだ」
 返答しない俺に気を悪くするでもなく、憐れみさえ混じったような、柔らかな微笑を浮かべた先輩は、さらに言葉を続けた。
「じゃあね――友達の家を土足で踏み荒らした、お仲間さん!」
 そう言い放った先輩は、駅とは別の方角へ向かって去っていった。
 ――久門家は、いつでも君のことを待っている――きっと協力し合える――その言葉が意味するのは……。……いいや。直接名乗られたわけではない。考えないようにしておこう。
 ……それでも、少しだけ考えてしまうのは……守芽植先輩が久門家の者だったと仮定した場合、腑に落ちることが多くあるからだろう。
 …………そして、その仮定をもとに考えを進めたとき――宇佐見先輩本人が言っていたように、宇佐見先輩に会うことも、もうやめたほうがいいのだろう。朝、第二図書室で会うのも、回数を重ねればきっと危うい。なんなら今朝のことを考えると、もうそのことを知っているかもしれないのだから、二度と近寄らないほうがいいくらいだ。
 ……でも、最後に一つだけ聞きたいことがある。
 それが済んだら、もう宇佐見先輩とも会わないようにしよう。……よほどのことがなければ。
 ……なんだか先輩を、自分の都合のいいように使ってしまっているような気もするけれど……もともと「久門に関わるな」と言われ続けていたのを、俺が聞き入れずに関わってきた結果だ。ようやく俺が、そこに一区切りつけられた――そういうことにしたい。
 学校へ戻る途中、駅の中で適当におにぎりやパンなどを買い、食べ歩いて昼食を済ませた。――実は、守芽植先輩と話したり、少し室内を見ていたせいで、もう午後の授業は始まっている。とはいえ開始してからそれほど経っていないけれど、途中から教室に入って目立つようなことはしたくない。
 ……授業が終わるまで、外にいるか。いや、外といっても学園の敷地内だけど。
 西門から入って近くにある中庭まで行き、二号館――三年生の教室がある校舎からは見えづらい位置を探って地べたに腰かける。まあ、この中庭は二号館以外にも、部室棟や四号館――特殊教室棟に面しているから、様々な目が入りやすいという点において、サボりには適さないけれど、先生にさえ見つからなければ気にする人もいないだろう。
 宇佐見先輩が貸してくれた本を読みたいところだが、あいにく教室に置いてきている。
 つまりサボったところで、手持ち無沙汰なわけだが……まあ、こうして一人で静かに考えたい気持ちもあったし、それでいいのかもしれない。
 今日の放課後、伊織にどこまで話すか、内容を整理する目的も兼ねて、少し振り返ってみよう。
 その一。まずは宇佐見先輩とこれまで話していたこと。ただし、先輩の善意で「本来なら共有してはいけなかったこと」も含まれていた可能性を考慮して、資料の件などは伏せ、大まかな内容にする。
 その二。須納は現状、行方不明である。ただしクラス担任がそのことに触れていない点、彼のバイト先や、家族がどこまで知っているか調べていない点から、真実は不明。
 その三。守芽植先輩は、久門の人間である可能性が高い。ただしこのことを伊織に伝えるのは、彼の立場などを考えるとリスクが高く感じられるため、伏せておく。……知ってしまった情報を、知らなかったことにはできないしな。
 その四。俺はイザナイさんに願い、あの夜に「イザナイさん視点で」何が起こったのかを知った。……これは話すべきか、迷うな。
 その五。三咲の存在が消えてしまっている可能性が高い。これは表面上なら今朝、伊織に話したようなもので、どちらかというと宇佐見先輩に聞きたい項目だ。
 その六。……俺が昨夜、イザナイさんに願ったときの代償がなんだったのか、いまだに知らないでいる。この話も――場合によっては、宇佐見先輩に話すことかもしれない。
 ――こんなところだろうか。
 冷たい風が吹き抜ける。少し肌寒さを感じるが、今の俺には心地よく感じるものだった。
 暑いわけではないし、考えすぎて知恵熱、ということでもない。ただ単に――俺の表面だけにとどまらず、内部まで風が通り抜けていくような、そんな――凪いだ心地よさだ。
 天を見上げれば、青空が広がっていた。秋らしいうろこ雲が点在し、この季節でしか感じられない、少し物悲しいような清々しさを、全身で浴びられる天気。
 そのまま身を任せて、風を浴びながら空を眺めているうちに、チャイムが鳴り響いた。
 ……もうそんな時間か。
 あれほど静かだった校舎から、次第にざわめきが増していく。次の授業を受けるために、立ち上がって中庭を後にした。
 それが終われば――いよいよ放課後だ。
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