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15 アンドレ・ヘルグレーンという男。 8
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もう限界だ――――
今日だけで何度出たか分からない溜息をついて深夜に帰宅する。
「バート、世話をかける。有難う。」
深夜の遅い時刻、淡い光量に絞られた薄暗い玄関に佇む背の高い影。
長年公爵家で有能な家令として仕えてくれているバートだ。
私が幼い頃からの付き合いで、彼は使用人というより、私の叔父の様な存在だ。
彼は父の幼馴染で、伯爵家三男だった。
幼い頃から父と共に育った気の合う無二の親友は、数字に強い頭脳と管理・運営能力を買われ、そのまま親友の家へ家令として仕えた。
優秀でありながら親身なバートが居たから、父は母を亡くした絶望の中、何とか公爵家を恙無く運営出来ていたと思う。
イルヴァが言う「私は使用人とは、とても仲がいいのです。貴族からすると有り得ない話かもしれませんが、たくさんの家族の様に思っています。」と、同じ気持ちだ。
「いえいえ、坊ちゃまの帰宅を出迎えるのは、何があろうと必ずこのバートが努めてきた事ですから。」
ほんの数年前までされていた呼び方を、巫山戯てわざとしているのが分かる。
「やめてくれよ、バート。もう成人しているんだから。」
ずっと幼い頃を思い出し、何故か口を尖らせてしまった。
「ははっ、バートには敵わないな。」
それに気付き、そんな自分に思わず笑っていた。
どんよりした気分が少し晴れる。
こんな気安く軽口を言える相手は極僅かだ。
「今日は何も問題は…?」
「公爵家としてなら、いつもの様に何も問題はありませんし起こさせません……が。」
私室へと移動しながらバートに確認を取ると、含みのある言い方で報告される。
「なんだ?何かを含んだ言い方をして。公爵家以外で何かあったのか?」
「…イルヴァ様の事にございます。アンドレ様が深夜に帰宅する様に仕事が忙しくなってから、イルヴァ様に頼まれていました。“忙しいアンドレ様をこれ以上煩わせない為にも、私の事は言わない様に”と。」
「――――は?バート、何があったんだ。詳しく話してくれ。」
「アンドレ様静かに…深夜です。」
少し声を荒げたアンドレに、己の口元に指を当て、静かにするようにと自分へ注意を向けてから、また話し出す。
「これ以上はと私が判断した場合は、話すと約束させた上でイルヴァ様の頼みを聞きました。始めは気にする程ではない日常が続きました。夜会へはアンドレ様の時間が無い事もあり参加が控えられましたが、昼のお茶会などは仲良くさせて貰っている方達の所であれば参加も数回されておりました。」
バートの話を聞きながら、イルヴァの事を思う。
「明らかにご様子にお変わりが出たのが、この一ヶ月前後……何とか食事の方は侯爵家から連れてきたプリメラが、
過保護な母親の様に面倒を見ているから問題ありません。しかし、表情が暗く何か思い悩む様な顔をずっと……。私も伯爵家三男でしたので、貴族が愛人を外で持つという事に否やを唱えるつもりはございません。ですが、あれ程大切にされていたイルヴァ様をないがしろにし、あの公爵家に泥を塗った女などに使っている場合ではないのではありませんか?」
淡々と語っていたバートが、後半に近付くにつれ声色が段々と冷たく固くなっていく。
「何故、あの女の話が出る。私はもうあの女とは関係ない。何故女神のイルヴァをないがしろにしてまで、あの女などを優先しなければいけないのだ!逆だろう逆!」
アンドレはバートに負けないくらいの冷たい声で返す。
正直、自分の屋敷に戻ってまであの女の話はしたくない。
「噂になっておりますよ。イルヴァ様を熱愛していたアンドレ様は、あの女…カルロッテでしたか?と寄りを戻したと。イルヴァ様と早々に離縁し、カルロッテと再婚される予定。そんなご予定ございましたか?私は家令だというのに公爵家の一大事を把握しておりませんでした。申し訳ありません。」
思わず立ち止まった私を、先を歩いていたアンドレが振り返る。
ギラギラとした強い眼差しで。
「……離縁など絶対にしない。何を失おうとするものか。そのおぞましい噂は何ひとつとして正しい事が語られていない。皇太子命令で詳しくは言えないが、ある厄介事の処理の為に私が動いている。そのせいで仕事が落ち着く所か増えているのが現状だ。この件がいつ落ち着くか分からないが、二年後の第二王子の婚姻までには落ち着く。」
何てことだ……イルヴァにも、このおぞましい噂が伝わっているのではないか。
まだ分からない事ではあるが、そう思うだけで怖くなる。
離縁など絶対にしない。
でも――――イルヴァは?
私に愛想が尽きていないだろうか……
もう随分イルヴァの顔を見ていない……思考が暗く沈んでいく。
「アンドレ様、イルヴァ様にそう説明すればよろしいのでは無いですか?全容は話す事が出来なくとも、今、私に話した内容だけでも説明されれば、イルヴァ様はきっと安心なさいます。何も言わずにおくから拗れるのです。」
落ち込む私の意識を引き上げる様に、優しい声でバートが話す。
(アンドレ様は堅物過ぎて、受けた内容に忠実に守り過ぎる所がある。こういう所は親子そっくりだが……今の策士と言われる皇太子が相手では、この堅物な所は相性が良くない。王家に使われるにしても、少し柔軟なかわし方や対応も考えさせるよう、父親であるアイツに進言しておかなければ。)
使用人目線ではなく、幼き頃から見守って来たバートは、父親の様な目線でアンドレを心配する。
「そう……だな。ただ今回、バートに話す事になったのは勢いからだ。殿下は何も話すなとは言わなかったが、イルヴァに話してもいいか?と確認する私に“時が来たら”としか言わなかった。どこまで話せるかと聞けば良かった。」
どっと疲労を感じ、大きな溜息が出る。
「早いうちがいいと思います。イルヴァ様をこれ以上悩ませる前に。それに、イルヴァ様付きの侍女が今日二度ほどイルヴァ様に頼まれ外出しております。杞憂に終わればいいのですが、気になったので。」
「分かった。殿下にバートに話した様な内容であれば話せる許可を取ろう。朝一番に王城に行って、朝に弱い殿下に嫌味のひとつでも言うことにするか。」
フッと悪い笑みが溢れた。
湯浴みを終え寝室に入ると、扉にノックの音がした。
「旦那様、奥様が大切なお話があるそうです。入室の許可を頂けますか?」
イルヴァの専属侍女の声だ。
――――イルヴァがいるのか?そこに?
歓喜と戸惑いと罪悪感が混ざる。
先程、バートから聞いた話が思い出される。イルヴァが追い込まれてる様に見えた…と。
深呼吸をひとつして「入れ」と声をかけた。
扉の外でボソボソと会話をする声が聞こえ、その後すぐ扉が開く。
イルヴァは室内に素早く入ると、伏せていた顔を上げ私をジッと見つめた。
…少し痩せたか?元々透き通る様な白い肌だったが、薄暗い室内でも分かるくらいに憔悴してる様に見えた。
私が、いくら皇太子命令とは言え噂になるくらいに過去の女と居る噂を聞いたのか?
ここまで顔が見れない、共に過ごせないとは思わなかった。
これが落ち着けば、またたくさんの時間を過ごそうと言付ける事は出来た。
手紙も書けぬ程ではなかったのに、書かなかった。
イルヴァ以外に触れたいとも、触れさせていないとはいえ、言葉にはしていない。
イルヴァは部屋をぐるりと見回した後、黙って私を見つめている。
何故、何も言わないのだ……
我慢出来ずに、
「イルヴァ・・・・?」
と、問いかけた。
今日だけで何度出たか分からない溜息をついて深夜に帰宅する。
「バート、世話をかける。有難う。」
深夜の遅い時刻、淡い光量に絞られた薄暗い玄関に佇む背の高い影。
長年公爵家で有能な家令として仕えてくれているバートだ。
私が幼い頃からの付き合いで、彼は使用人というより、私の叔父の様な存在だ。
彼は父の幼馴染で、伯爵家三男だった。
幼い頃から父と共に育った気の合う無二の親友は、数字に強い頭脳と管理・運営能力を買われ、そのまま親友の家へ家令として仕えた。
優秀でありながら親身なバートが居たから、父は母を亡くした絶望の中、何とか公爵家を恙無く運営出来ていたと思う。
イルヴァが言う「私は使用人とは、とても仲がいいのです。貴族からすると有り得ない話かもしれませんが、たくさんの家族の様に思っています。」と、同じ気持ちだ。
「いえいえ、坊ちゃまの帰宅を出迎えるのは、何があろうと必ずこのバートが努めてきた事ですから。」
ほんの数年前までされていた呼び方を、巫山戯てわざとしているのが分かる。
「やめてくれよ、バート。もう成人しているんだから。」
ずっと幼い頃を思い出し、何故か口を尖らせてしまった。
「ははっ、バートには敵わないな。」
それに気付き、そんな自分に思わず笑っていた。
どんよりした気分が少し晴れる。
こんな気安く軽口を言える相手は極僅かだ。
「今日は何も問題は…?」
「公爵家としてなら、いつもの様に何も問題はありませんし起こさせません……が。」
私室へと移動しながらバートに確認を取ると、含みのある言い方で報告される。
「なんだ?何かを含んだ言い方をして。公爵家以外で何かあったのか?」
「…イルヴァ様の事にございます。アンドレ様が深夜に帰宅する様に仕事が忙しくなってから、イルヴァ様に頼まれていました。“忙しいアンドレ様をこれ以上煩わせない為にも、私の事は言わない様に”と。」
「――――は?バート、何があったんだ。詳しく話してくれ。」
「アンドレ様静かに…深夜です。」
少し声を荒げたアンドレに、己の口元に指を当て、静かにするようにと自分へ注意を向けてから、また話し出す。
「これ以上はと私が判断した場合は、話すと約束させた上でイルヴァ様の頼みを聞きました。始めは気にする程ではない日常が続きました。夜会へはアンドレ様の時間が無い事もあり参加が控えられましたが、昼のお茶会などは仲良くさせて貰っている方達の所であれば参加も数回されておりました。」
バートの話を聞きながら、イルヴァの事を思う。
「明らかにご様子にお変わりが出たのが、この一ヶ月前後……何とか食事の方は侯爵家から連れてきたプリメラが、
過保護な母親の様に面倒を見ているから問題ありません。しかし、表情が暗く何か思い悩む様な顔をずっと……。私も伯爵家三男でしたので、貴族が愛人を外で持つという事に否やを唱えるつもりはございません。ですが、あれ程大切にされていたイルヴァ様をないがしろにし、あの公爵家に泥を塗った女などに使っている場合ではないのではありませんか?」
淡々と語っていたバートが、後半に近付くにつれ声色が段々と冷たく固くなっていく。
「何故、あの女の話が出る。私はもうあの女とは関係ない。何故女神のイルヴァをないがしろにしてまで、あの女などを優先しなければいけないのだ!逆だろう逆!」
アンドレはバートに負けないくらいの冷たい声で返す。
正直、自分の屋敷に戻ってまであの女の話はしたくない。
「噂になっておりますよ。イルヴァ様を熱愛していたアンドレ様は、あの女…カルロッテでしたか?と寄りを戻したと。イルヴァ様と早々に離縁し、カルロッテと再婚される予定。そんなご予定ございましたか?私は家令だというのに公爵家の一大事を把握しておりませんでした。申し訳ありません。」
思わず立ち止まった私を、先を歩いていたアンドレが振り返る。
ギラギラとした強い眼差しで。
「……離縁など絶対にしない。何を失おうとするものか。そのおぞましい噂は何ひとつとして正しい事が語られていない。皇太子命令で詳しくは言えないが、ある厄介事の処理の為に私が動いている。そのせいで仕事が落ち着く所か増えているのが現状だ。この件がいつ落ち着くか分からないが、二年後の第二王子の婚姻までには落ち着く。」
何てことだ……イルヴァにも、このおぞましい噂が伝わっているのではないか。
まだ分からない事ではあるが、そう思うだけで怖くなる。
離縁など絶対にしない。
でも――――イルヴァは?
私に愛想が尽きていないだろうか……
もう随分イルヴァの顔を見ていない……思考が暗く沈んでいく。
「アンドレ様、イルヴァ様にそう説明すればよろしいのでは無いですか?全容は話す事が出来なくとも、今、私に話した内容だけでも説明されれば、イルヴァ様はきっと安心なさいます。何も言わずにおくから拗れるのです。」
落ち込む私の意識を引き上げる様に、優しい声でバートが話す。
(アンドレ様は堅物過ぎて、受けた内容に忠実に守り過ぎる所がある。こういう所は親子そっくりだが……今の策士と言われる皇太子が相手では、この堅物な所は相性が良くない。王家に使われるにしても、少し柔軟なかわし方や対応も考えさせるよう、父親であるアイツに進言しておかなければ。)
使用人目線ではなく、幼き頃から見守って来たバートは、父親の様な目線でアンドレを心配する。
「そう……だな。ただ今回、バートに話す事になったのは勢いからだ。殿下は何も話すなとは言わなかったが、イルヴァに話してもいいか?と確認する私に“時が来たら”としか言わなかった。どこまで話せるかと聞けば良かった。」
どっと疲労を感じ、大きな溜息が出る。
「早いうちがいいと思います。イルヴァ様をこれ以上悩ませる前に。それに、イルヴァ様付きの侍女が今日二度ほどイルヴァ様に頼まれ外出しております。杞憂に終わればいいのですが、気になったので。」
「分かった。殿下にバートに話した様な内容であれば話せる許可を取ろう。朝一番に王城に行って、朝に弱い殿下に嫌味のひとつでも言うことにするか。」
フッと悪い笑みが溢れた。
湯浴みを終え寝室に入ると、扉にノックの音がした。
「旦那様、奥様が大切なお話があるそうです。入室の許可を頂けますか?」
イルヴァの専属侍女の声だ。
――――イルヴァがいるのか?そこに?
歓喜と戸惑いと罪悪感が混ざる。
先程、バートから聞いた話が思い出される。イルヴァが追い込まれてる様に見えた…と。
深呼吸をひとつして「入れ」と声をかけた。
扉の外でボソボソと会話をする声が聞こえ、その後すぐ扉が開く。
イルヴァは室内に素早く入ると、伏せていた顔を上げ私をジッと見つめた。
…少し痩せたか?元々透き通る様な白い肌だったが、薄暗い室内でも分かるくらいに憔悴してる様に見えた。
私が、いくら皇太子命令とは言え噂になるくらいに過去の女と居る噂を聞いたのか?
ここまで顔が見れない、共に過ごせないとは思わなかった。
これが落ち着けば、またたくさんの時間を過ごそうと言付ける事は出来た。
手紙も書けぬ程ではなかったのに、書かなかった。
イルヴァ以外に触れたいとも、触れさせていないとはいえ、言葉にはしていない。
イルヴァは部屋をぐるりと見回した後、黙って私を見つめている。
何故、何も言わないのだ……
我慢出来ずに、
「イルヴァ・・・・?」
と、問いかけた。
応援ありがとうございます!
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