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番外編 重ねる日々
祝杯
しおりを挟む「まだ帰らないのですか」
声をかけられ、ロダスは中空に漂わせていた意識を引き戻された。
「ベイカー、いま戻りですか」
「えぇ」
腕時計に目をやると、長針はとうに十一時を回っていた。
窓の外はすっかり闇のなかで、ベイカーが立つ戸口の向こうも人気がなくしんとしている。
「クレイヴを帰したと、殿下からご連絡がありましたが」
「戻っています。殿下が旦那さまとおふたりで過ごせるよう、フォスター卿のご配慮だそうです。待機の必要もなさそうでしたので、退勤の許可を出しました」
「結構です。イェオリは?」
「九時過ぎに戻り、こちらも退勤しています。フランツは戻っていませんが、この時間なので直帰でしょう」
「分かりました。それで、あなたは? なにか問題が?」
「いえいえ」
居残りが多いロダスだが、さすがに毎日この時間まで事務室にいるわけではない。
「少しぼんやりしていたら、こんな時間になってしまいました」
両手で顔をこすりながら言う。
「長い一日でしたから」
まったくです、と同意したベイカーは、事務室を横切って自分のブースに入り荷物を下ろした。
薄いファイルが数冊、机を滑っていく。
普段よりやや雑な扱いから、長年チームを組んできた筆頭侍従の疲労具合が伝わってきた。
「お茶でもいれましょうか?」
「えぇ……いえ、一杯いかがです?」
「おや」
口だけで驚きつつ、しかしロダスはベイカーがキャビネットにいい酒を隠し持っていることを知っている。いそいそと机を離れて彼のブースに吸い寄せられた。
年代物の机に並べたふたつのグラスに、優美な細身の瓶からウイスキーが注がれる。
ジョニーウォーカーのブルーラベル。
「もしかして、先日着任した大使からの贈り物では?」
「そのうちの一本です」
「王宮と官邸で公平に分配したと聞きましたよ。どうやって手に入れたんですか?」
「それは機密事項」
片手をスラックスのポケットに入れてウィンクしたベイカーは、艶のある飴色のスコッチウイスキーを煽った。
「あなたの手腕は本当に尊敬しますよ」笑いながら、ロダスも小さなグラスを取る。
もちろん、いついかなるときも礼儀正しくをモットーとする侍従として、礼を言うのは忘れなかった。
美しくカットされたグラスから流れ込む、芳醇な蜂蜜の香りとアルコールが喉を焼く。余韻まで味わおうと目を閉じると、遠くで鳴る救急車両のサイレンが聞こえた。
ふと、これは祝杯だろうかと考える。
ぼやいた通り、きょうは長い一日だった。お仕えする王子が初めてひとり――飼い犬のルードは足元にいたが──でカメラの前に立ち、公式の会見でスピーチをして、成功させた。
そこに至るまでの準備や、会見中から押し寄せた膨大な数の取材依頼や問い合わせに溺れかけもしたけれど、間違いなく記念すべき日だ。
それなのにロダスは、こんな夜遅くまで事務室のデスクに寄りかかって時間を浪費している。
「なんと言うか……自分が急に歳をとったように感じます」
鼻腔に残ったウイスキーの香りと一緒に吐き出すと、ベイカーが小さく笑った。
「いえ、まぁ、事実として歳はとったのですが」
「失礼、あなたを笑ったのではなく」
ベイカーはグラスを持ったまま、難儀そうに肩を上下させた。
「似たような思いをしたばかりです」
「あなたも?」
「殿下がハープダウンで市民の前にお立ちになったとき、わたしはもしもの場合にどうフォローすべきかばかりを考えていました。ひどく落ち込まれて、自信をなくされるのではと。けれど……」
「そうはならなかった」
「えぇ。完全に、わたしの思い違いです。殿下はご立派でしたし、わたしは自分の首を絞め上げてやりたかったですよ」
残りのウイスキーを空けて、グラスを机に置く。
「我々がここで時を止めている間に、殿下は大人になられたのですね」
十年分の空白が、たった数ヶ月で追いついて来た。歳をとった気になるのも当たり前かもしれない。
「ロダス、しんみりしている時間はありませんよ。若者たちに置いて行かれないよう、我々も努力しなければ」
「あなたが引退を考えているのでなくて、安心しました」
「まだまだ、若者に教えることは山ほどありますからね」
「それはぜひ、わたしにも」
「あなたに?」
「ウイスキーの盗み方を教えていただかなければ」
ロダスがそれぞれのグラスに二杯目を注いだとき、開いたままの扉から廊下を歩く靴音に続き同僚が現れた。
「フランツ、直帰かと思いました」
「そのつもりでしたが、タクシーを降りて歩いていたら、外から灯りが見えたので……」
夜中に相談が必要な事態が起きたのかと気になり寄ったと言うフランツは、ふたりが掲げたグラスを見て頬を緩ませた。
「わたしは仲間外れですか?」
「もちろん、あなたのグラスもありますよ。一杯どうぞ」
「喜んで。実は先ほど、家で食べようと買ったサラミを持っています」
「素晴らしい」
「二杯はサービスしましょう」
今夜はささやかな祝杯を。
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はじめまして、真木もぐ様。
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ことりさま
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こんにちは。
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これからもお話、楽しみにしてます。
こんにちは。
感想ありがとうございます。
ファンタジーだと思った、とはよく言われます(笑)現代王室もの、楽しんでいただけたようでよかったです。
今106話。
なんでそこまでエリオットは我慢するの?もっと自分を解放したらいいのに。
しなやかに強くなって、と思いつつ読んでます😭
エリオットに心を寄せていただいてありがとうございます。
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