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80話 カルト伯爵
しおりを挟む12年かけて樽の中で熟成させた、深い琥珀色の蒸留酒を、飲み口の広いどっしりとしたグラスに注ぎ、スモーキーな芳香を放つ別名、"命の水" と呼ばれる液体を、一息で飲み干した。
カルト伯爵家の豪華な書斎の机に…
ガンッ… と音を立てて、伯爵は空になったグラスを、荒っぽく置いた。
「クソッ… シルトの奴!! あの野蛮な若造が、よくも私をコケにしたな!!」
カルト伯爵邸の書斎では、先代シュナイエン辺境伯夫人フォーゲルから、昼過ぎに連絡用の幻鳥を受け取り…
その内容を見て以来、カルト伯爵はずっと腹を立てて、イライラと酒を飲み続けていた。
「旦那様… そんなにお酒を飲まれては、お身体に毒ですよ?」
見るに見かねたカルト伯爵夫人が、夫に声をかけた。
「うるさい、黙れ!! そもそもお前がナーデルを甘やかして、愚か者に育てたから、こうなったのだ!!」
伯爵は再びグラスに、蒸留酒を注ぎ口へ運ぶ。
「申し訳ありません旦那様」
酒臭い息をまき散らしながら、怒鳴る伯爵をなだめる為に…
ナーデルよりもずっと小柄だが、よく似た顔を伏せて、伯爵夫人は謝罪する。
「愚かなシルト・シュナイエンは、ナーデルが嫌いだそうだ!! 代わりに奴隷と結婚するつもりらしいぞ?!」
憎々し気に伯爵は、グラスの酒をあおった。
「…それでしたら、すぐにナーデルを迎えに行かなければ! これ以上シュネー城塞にいては、あの子は物笑いの種になってしまいます」
「ああ、フォーゲル殿もそう言って連絡を寄こしたが、シルトの相手は性奴隷だ!」
酔って赤らんだ顔を、伯爵は醜くゆがめて笑った。
「だから、何だというのですか?」
カルト伯爵夫人は眉をひそめ、困惑して夫を見つめた。
「性奴隷は子が産めないと、知らないのか? だったらシルトの子をナーデルに産ませれば良いのさ!」
「そんなっ!! ナーデルに妾になれというのですか?!」
「何が悪い? どうせ傷物のオメガだ、うちに連れ帰っても、何の役にも立たないだろう? シルトが養子を取る前に、ナーデルがシルトの子を孕めば、カルト伯爵家の血を入れられるでは無いか!!」
「止めて下さい!! それではあんまりです旦那様!!」
「これでカルト伯爵家の、悲願が達成されるというものさ!」
「旦那様!!」
広大だが瘴気の影響で雪に覆われた凍土が多い領地を有するシュナイエン辺境伯は、魔窟の森から北方を守護する盾となり、その勇猛果敢さで、北方の"名誉" を独占していた。
シュネー城塞から見てアルテーリエ大河の向こう側に広がる、瘴気の影響をあまり受けていない、肥沃な領地を有するカルト伯爵家は、北方の、 "富" を独占していた。
北方でも王都でも、シュメッターリング王国中で、シュナイエン辺境伯家の名は武に秀でた尊敬の対象であるのに対し…
カルト伯爵家は強欲な守銭奴と、嘲笑の的となっていた。
今は亡き長男ゾネが、何人もの婚約者候補の中から、ナーデルを見初め、望まなければ…
先代辺境伯と同様にカルト伯爵家よりもずっと格上の、有力貴族との婚姻が進められるはずだった。
「シルト様の妾になれなかったら… 旦那様はナーデルを、いかが、なさるのですか?」
息子を案じるあまり、美しい顔を強張らせて祈るように手を組んで伯爵夫人は、酔った夫にたずねた。
「ダメなら、以前からナーデルを欲しがっていた、フロッシュに売るだけだ!」
カルト伯爵の商売相手で、他国との貿易で富を得た、裕福な老人である。
「・・・っ」
夫の意地汚さに、伯爵夫人は吐き気を覚えた。
王都の古い名家だが、貧乏貴族出身の伯爵夫人は… 実家に多額の援助を受けている為、夫に逆らうことが出来なかった。
高貴な身分に生まれた身でも… 父親、もしくは夫が、資産を与えなければ、オメガに自由は無いのだ。
それは伯爵夫人であっても、その息子ナーデルであっても、公爵家長男のリヒトも同じである。
自室で、父カルト伯爵から連絡用の幻鳥を受け取り、ナーデルは泣き崩れた。
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