春雷のあと

紫乃森統子

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十六.相思

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 松明の灯りを頼りに、初は村へ続く道を進み続けた。
 あと、少し。これ以上雨が強まれば更に足留めを食うことになる。
 完全なる闇になってしまえばそこから一歩も動けなくなるだろう。
 馬を引く若党と火を分かち、初は自ら先頭に立ち先を急いだ。
 木の根にまろび、張り出した枝が手足を傷付けたが、すぐに立ち上がり闇に浮くように照らし出された山道の先を見据えてまた一歩踏み出す。
 じっとりとした土の匂いと、雨に濡れた木々の香が鼻についた。
 城下を出てから既に二刻は経つ。
 殆どを馬足で駆けてきたが、それでも女の脚には苛酷な道であった。
「初さま、火が見えます」
 若党の声にはっと顔を上げると、木々の間の漆黒の果てに、ぼんやりと灯りが揺れる。
「もうすぐそこです、急ぎましょう」
 若党が背を支えて励ますのを聞きながら、初はじわりと鼻梁が熱くなるのを感じた。
 峰からの報せで、既に太兵衛がその身を隠していれば良い。
 負傷した身で政之丞とまともにやり合い命を落とすくらいなら、恥も外聞も顧みず逃げ果せていて欲しい。
 そう願うと同時に、太兵衛の姿がどうしようもなく眼裏に焼き付いて離れなかった。
 嫁してからの長い時間をかけ、太兵衛という人を間近で見続けてきた。
 太兵衛に強く望まれて嫁したのにも関わらず、義母との関係は良好とは言えず、そうした境遇に全く不満を覚えなかったわけではない。
 子を生さぬことの他にも、身に着けるもの一つ一つ、寺社へ参拝に赴く頻度、ほんの小さな言葉尻や挙措に至るまで、睦子の小言は多岐に亘った。
 太兵衛は目に付くごとに睦子を窘め、初を庇い続けたのである。
 一見して厳めしく武骨な雰囲気とは裏腹に、思いのほか仁慈に満ちた人であった。
 しかしそれが更に、睦子の初に対する心証を悪くした節もあったものだろう。
 近頃では夫婦で笑い合うこともなくなっていたが、覚悟を決めて嫁いだはずの心持ちが崩れかけるたびに、初を励まし支えてくれたのも太兵衛だった。
 それに一つでも何かを返すことが出来ただろうか。
 相も変わらず子は出来ず、真面目に勤める太兵衛の心を癒すは愚か、義母との軋轢に挟んで擦り減らし続けるばかりではなかったか。
 今更になって、夫への感謝と、詫びたい気持ちが強くなっていた。
(どうか、ご無事で──)
 
   ***
 
 宗方政之丞が初に想いを寄せていたことは、太兵衛もよく知っていた。
 道場に在籍していた頃、八巻九郎次と政之丞とがよく初の話をしているのが聞こえてきたものだ。
 初を妻にすることで政之丞を出し抜き、少しは溜飲が下がるかと思った。
(我ながら子供染みたことを考えていたものよ)
 同時に、太兵衛が家督を継いだあとの赤沢家を考えれば、これ以上ない相手だと思ったのも確かなことである。
 しかし発端は自らの憂さを晴らすための行動に過ぎず、初本人の心を二の次に考えていたことは否めない。
「子には恵まれなんだが、初はよく添うてくれた。わしのような男にもよく笑いかけてくれてな、母の冷たいやり様にも文句の一つも言わず、耐えてきた」
 そんな初に対して太兵衛が後ろめたさを覚えるまでには、そう長くはかからなかった。
 太兵衛の身勝手な思いで本来添うはずだった政之丞との間を引き裂かれ、母の睦子からの冷たい仕打ちに晒されることになったのである。
 はじめは常に後暗さを抱えながら接していたものが、いつしか屋敷で初と過ごすことが日々の楽しみとなり、母に行き過ぎた言動があれば自然と窘めている己自身に気が付いた。
 夫婦になってから、初が政之丞の名を口にしたことはただの一度も無い。
 よく尽くし、穏やかな笑顔で出迎えてくれていたが、三年を過ぎたあたりから時折浮かない顔をするようになった。
 四年、五年と過ぎるうちに徐々にその頻度は増していき、暗い顔の理由を問うても答えは曖昧にはぐらかされた。
 子に恵まれぬことに悩み、寺社通いも一層頻繁になると、母の睦子も更に冷酷な態度を取ることが増えたのである。
 その頃からだろうか、太兵衛の政之丞に対する妬みが形を変えたのは。
 挙句、近頃の初は自ら他に妾を取れとまで言い出す始末であった。
 自ら離縁を願い出ることはなかったが、言外に何故去り状を出さぬのか、という疑念が見え隠れしていた。
「想う相手に面と向かって、妾を取れと自ら申し出るおなごはおらん。八年の間、わしなりに大事にしてきたつもりだったが……、初にとっては、ただ苦しいばかりの歳月だったのかもしれんな」
 降り出した冷たい雨が二人の頭上に注ぎ、その視界を更に霞ませる。
 太兵衛は雨に濡れて滑りやすくなった柄を握り直す。
 いずれにせよ、次の一手で終わるだろうと思った。
「元よりおぬしと添うていれば、あれも幸せだったのだろう。初にもおぬしにも、すまぬことをした」
「何を今更ふざけたことを」
 篝火の照り返しを受けて、政之丞の眼が鋭く光ったように見えた。
 その目に宿るのは、太兵衛への瞋恚か、初への悲傷か。或いは政之丞自身の悲哀であったかもしれない。
 握り直したばかりの刀の先を、雨の滲んだ地面へと突き立てる。
 その脇へ、太兵衛は胡坐を掻いて座り込んだ。
「剱持が裏にいるなら、わしも赤沢家そのものも終いだろう。ここで果てるも、父の横行を正しきれなかった報い──」
 曇天の夜空に雷光が走り、山々を抑え付けるように低く垂れ込める雲を縁取る。
 遅れて響く雷鳴は、重く木々を震わせるような音だった。
「初を、頼む」
 押し黙る政之丞を見上げ、太兵衛は小さく笑った。
 
 
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