悪恋〜ヴィランに恋する乙女の短篇集〜

KUZUME

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第1篇 その名を愛という

第4話

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 「…え?もう一回いいですか?」
 「ん?だからこの街の医者だろ?この街の医者は市場通りのおばあさんがやってる所くらいだよ」
 「おばあさんですか!?若い男性のドクターでなくて!?」
 「なっ、なんだいこの娘は、そんなに慌てて…病気か何かなのかい?」

 ガヤガヤと陽気な人々の活気で賑わう港街の市場で、屋台の女店主を捕まえてその娘、ローズは素っ頓狂な声を上げた。

 「とにかく何か困ってんなら、そのおばあさん所尋ねてみるといいよ。腕は良いって評判たからね」
 「はぁ、ありがとうございます…あっ!あともう一つ聞いてもいいですか?」
 「なんだい?」
 「あの、この街で黒いスーツって何か意味があるんですか?」
 「なんだ、あんたこの辺の人間じゃないのかい。着てんのはみんなブルーノ…じゃないや、今はギャリーぼっちゃん所の人間さ」
 「ぶるーの?ぎゃりー?」

 ローズが頭にハテナを浮かべているのを見てとると、屋台の女店主はちょいちょいとローズを近くに寄るように手招いてその耳に口を寄せる。

 「いわゆる、ってやつさ」

 にたり。
 ローズの大きく見開かれた瞳を見て、屋台の女店主は笑った。



♦︎



 「…どういう事なんでしょう」

 いつかの噴水広場のベンチに腰掛けて、女店主にほとんど流されるままに買ったジュースを片手にローズは項垂れた。
 瞼を閉じればローズの脳裏に浮かぶのは、黒いスーツを翻す年若い男。

 「…そういえば名前も聞けてなかったな」

 一度目の邂逅はこの場所で、生憎とショックで記憶は飛んでしまったが後から聞いた話だと酔っ払いに衝突されて噴水に落ちたところを助けられ、わざわざ隣街の自宅まで送って貰ったらしい。
 二度目は隣街で偶然見かけて思わず手を伸ばした。純粋に助けて貰ったお礼がしたくてカフェで一緒に食事をして、そして何だかよく分からないけれどドクターの患者だという人の騒動でそのまま別れてしまった。
 そして三度目。三度目は、ドクターが心配で、お礼もきちんとしたくて、会いたくて。
 またこの街まで来れば会えるんじゃないかと期待もして、そうしたら本当に会えて嬉しかった。けれど。

 「あのキ、キスはなんだったの!?…っていうか犯罪組織の一家って何~っ!?」

 ローズの頭はこんがらがるばかりである。
 四度目は偶然ではなく確実にもう一度会う為に休みを貰ってこの港街までやって来たが、とりあえずドクターの居る病院は何処かと街の住人に声を掛けたところ、初っ端一発目からとんでも発言が出てきてしまったのだった。

 「…」

 この街の住人ではないとはいえ、ローズとて観光客の類ではない。
 自分が住んでいる街周辺の治安や評判は大人やあるいはお世話になっている教会の先生方から聞いている。
 この一見陽気な港街に根ざしている無法者の集団についても。

 「はぁ~…あからさまに顔に傷があったり、筋骨隆々の荒っぽい見てくれの人だけじゃないんだ…」

 まだ自分ともそんなに歳の変わらない様な青年に見えた。ドクターだと言われても少しも疑わない様な清潔できちんとした身なりに、理性的で学のある言動だった。
 自分は彼に会ってどうしたいのだろう。何が言いたいのだろう。だってきっと、恐らく、望んだって先は無いのだと分かりきって──

 「っ、ドクター!」



♦︎



 「はああぁぁ~…」

 煙草の煙と共に大きなため息を吐き出す。
 徹夜明けの眼球に燦々と輝く太陽の光が暴力的に降り注ぐ。人々の活気が脳を揺さぶる。歩く振動でさえも頭痛に響く。嗚呼、苛々する。

 「ボス、周りに示しがつかないんでもうちょっとシャキっとして下さいね。見栄張ってなんぼの世界なんですから」
 「うるせえ」
 「げほっ、って、ちょっとやめて下さいよ」
 「うるせえ」

 口腔内に溜めた煙を後ろを歩く部下、マルコの顔目掛けて吐きかける。マルコの目の下にも隈が見える。八つ当たりだと分かっていてもどうも寝不足で苛々としている時にされる説教には腹が立って仕方がないので副流煙を吸い込めと念じてみる。

 「あんたを寝不足に追いやったのは優秀な部下である私ではなくてあの狸親父でしょうに。副流煙を吐き散らすならそちらにして下さい」
 「もうおっ死んでんだろうが」
 「分かってますよ。目の前で見てたんですから」
 「…お前と話してると苛々が増す」
 「私もボスと話してると頭が痛くなります」
 「…」

 これは無駄な労力だと早々にこいつの為に頭を回転させて口を開く事を放棄する。

 「私もあくまで御隠居に話を聞いただけですけど、御隠居の代替わりの時にも組織内で一悶着あったそうですよ。組織を継いで初めての仕事はまずは手前の飼い犬の手綱をしっかり引く事だそうで」
 「ふん…飼い犬なんて可愛いもん飼ってたなんて知らなかったよ」

 まだ上手く回らない頭を精一杯回して歩みは止めないままに考える。
 人々のざわめきが近い。組織の人間も一般の人間も生活の中心としている市場に出ようとしている。
 ああ、そうだ。まずはあのやたらと威勢が良くてまるで親戚の子供の様に接してくる女店主の居る屋台へ行こう。あそこの新鮮な果物を使ったジュースは美味くてすっきりと目が覚める筈だ。そうしたら市場を一巡りして様子を見て、新ボスの存在感をアピールして、それで──

 「っ、ドクター!」
 「……あ?」

 ぐいっと後ろから思いっきり引っ張られ締まる襟元に一瞬息が詰まり掛ける。ポケットに入れていた拳を握り締めて振り返り様の一瞬に視界に入るマルコの表情に焦りの色は無く、ふっと振りかぶった拳の力を解く。

 「……あ、ドクターでは、ないのでしたっけ?」
 「………お前」

 流石に驚きに目を見張る。
 そのままじっと見つめれば、彼女は何かに気づいた様にぱっと掴んでいたスーツの裾を離し目を泳がせる。それに対して小さくため息を吐くとびくりと揺れる華奢な肩。

 「はぁ、やめろ、マルコ。そう睨みつけてやるな」
 「…失礼。いつか見たお嬢さんだったので、もしや何か良からぬ事を考えてらっしゃるのではないかと一応警戒を」
 「…問題ない。お嬢さんだよ」
 「えっ?あの、すみません…!私ただドクっ…この方をお見掛けしたので、ちょっと挨拶出来たらと…」
 「…貴女のご自宅はこの街ではなかったと思いますけれど、随分とが続くものですね」
 「え…」
 「やめろ」

 鋭い視線を隠しもせず場の温度を下げていくマルコを制止する。俺に対しても眉間の皺を深くしたままマルコは視線だけで応える。

 「監視それ続けてんのは親父の命令か?」
 「大事な時期ですので」
 「そんなこた分かってんだよ」
 「若い頃のぼっちゃんの振る舞いを覚えている人間は多いもので、御隠居含め何人かのお偉方がしないか心配なさってるんですよ」
 「先に帰ってジジィ共に言っとけ〝ほざいてろ〟ってな」
 「…火遊び程度に留めておく分には、御隠居方も何も言ってこないと思いますけどね」
 「行くぞ」
 「えっ!?ドクター!?」

 マルコが視線を逸らしたのを合図に、離れてしまったローズの手を取って目指していた市場とは逆、多くの船が行き交う港へと進む。
 目はしっかり覚めたが、気分は悪いと手のひらの中の小さい温度を感じながら口に咥えたままの煙草のフィルターを噛み締めた。



♦︎



 海の音が近い。
 船と海鳥を睨みつける様に眺めていれば、掴んでいた彼女の手がゆさゆさと揺れる振動にそちらに視線を向けた。

 「あの…その、何かご迷惑をお掛けしたようですみません…」
 「ん、いや。別にあいつにぐちぐち言われるのはいつもの事だからあんたが気にする事じゃねえよ」
 「でも…」
 「それより、なんで俺に声を掛けた?の意味教えてやったろ」

 小さく息を飲む音が耳に届いてふっと鼻で笑ってしまう。

 「なんだ?それとも本当に俺としたいって?」
 「だ…って、貴方が…っ!」
 「俺が?」
 「…っ」

 徐々に色づく彼女の頬に、グツグツと腹の底で渦巻いていた苛立ちが掻き消えていく。それと同時に、なんとも言えない気持ち悪さが生まれてくる事に今度は自分に対して鼻で笑ってしまう。

 「ローズ。礼がどうってのなら、本当にもう気にすんなよ。まあ割とあんたと食べた飯は悪くなかった」
 「…ずるい。なんでそんな事っ…ずるいです、貴方は!貴方は、名前さえ教えてくれないのに、私は…っ!」
 「お前は」
 「っ!」

 港へと向けていた体をローズへと向ける。
 真正面からその揺れる瞳を捕える。

 「お前は、俺の名前を知る覚悟があるのか?」

 ──覚悟があるのかと真っ直ぐにローズの瞳を見つめる。

 「なっ…無いですよそんなもの!!」
 「…はあ?」

 しっとりとした空気を破る様にここに来て初めて大声を発した女に思わず頓狂な声が出る。
 ぽかんと彼女を見ると、僅かに潤んで揺れる瞳でキッと彼女にしてはきつく睨み上げられる。

 「大体、貴方って人は急に人の人生に現れてくれちゃって!偶然、運命かなってくらいよく会うし!なんかよく分からないから気になっちゃうし!」
 「お、おい…」
 「な、なんなんですか、貴方は…っ!聞きましたよ黒いスーツの意味だって!わた、私だって先は無いって分かってますよ!私だってこれでも悩んで…、でもっ…!でも貴方を見つけたら勝手に、勝手に動いて、声掛けちゃうし!!」

 ぎゅっと握られた彼女の拳がドンと一度胸に叩きつけられる。その拳を見れば震えている。拳だけじゃなく肩も、声も。

 「…」
 「何回も、貴方とのキ、キスも思い出しちゃうし…貴方が、貴方が消えてくれない…っ」

 胸に置かれたままの彼女の震える小さな拳に手を添える。
 それにびくりと大きく揺れて離れ掛けた彼女の拳を片手で全て包み込んで引き寄せる。
 空いているもう片手で彼女の肩を抱きこんで、彼女の温かさにそっと息を吐く。

 「俺は碌でもねえ部類の人間だ」
 「…知ってます」
 「ドクターでもないし」
 「それも、知ってます」
 「年頃の女が憧れるようなデートとか、多分全部出来ねえよ」
 「私、」

 捕まえていない方の彼女の片手がゆっくりと背中に周り、スーツを掴む。

 「好きです。貴方が、好きです。」
 「…ギャリーだ」
 「え?」

 ぴったりと余す事なく抱きこんでいた体を離して柔らかな唇に噛み付くように口づける。
 やわやわとその感触を楽しむ様に唇で食んで、ゆっくりと顔を離す。
 そうすると、思った通りそこには頬を真っ赤に染めて瞳がこぼれ落ちてしまうんじゃないかと笑ってしまいそうになる程に目を見開いて固まっている彼女。
 ふっと鼻で笑って、もう一度顔を近づけて動物みたいに鼻先を擦り合わせてそれから口づける。

 「ちょっ、ちょ、ドクッ、ドクター!!」
 「だから、ギャリーだっつってんだろ」
 「へ!?」
 「名前だよ。知りたかったんだろ?」
 「ギャっ…んん!」

 らしくない。分かっているのに、彼女の口からこぼれる好意を示す言葉にらしくもなく嬉しくなってぎゅうぎゅうと抱き締めて呼吸をする様に口づける。
 多分色々と理性的に考えなければいけない事が山の様にあるんだと分かっているが、今はきっとこのスーツの背中の皺が酷い事になってるんだろうなと、部下のしかめ面が浮かんできて笑えた。
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