巫女ヒメ様は、それを告げない

鹿部

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ぬばたまの 髪を梳(けず)らじ


 パッと顔が上を向いた。咲いたばかりの花のように希望に満ちているその柔らかそうな頬を見ると続く言葉が言いづらい。コウは目を逸らしつつ、重い口を開いた。

「…はっきり言って、あんたは将来かなり上玉になりそうだ。外つ国にいたら、帝の相手に呼ばれたっておかしくないくらいにな。だからきっと、西の国には夫婦になりたがる王も」

 意味を理解した瞬間、長い睫毛に縁取られた目が大きく見開かれる。

「いや!」

 叫んだ声は怒りの籠った拒絶だった。ぷいと横を向いてしまった童に宥める声で言う。

「そうは言っても多分、これが一番良いぞ。上手くやればこのムラの面倒も見て貰える。使い古しの道具を回してもらえるだけでもかなり違うからな。それに主様自身もきっと、西の国で夢に見たこともないくらいの贅沢な暮らしをさせて貰えるだろうさ」

「黙って。それ以上言ったら、怒るわよ」

 普通の娘なら飛び上がって喜ぶ話だろうが、この巫女様ならこんな反応をするだろうという気もしていた。別に巫女だから結婚できない、なんてことはない筈だから別の理由で嫌なのだろう。ため息をついても、横を向いたままの顔はピクリともしない。

「なんで嫌だ。ここを離れたくないか」

 すぐに返事はしなかった。根気よく待っているうちに、頑なさを示して結ばれた唇がふるりと震える。

「それをあるけれど、何より私は」

 もの言いたげな眼差しがこちらを見上げた。相変わらず、目が合う者をどこか後ろめたくさせるような瞳をしている。だがそんな目つきで紡ぐ言葉は、まるきり駄々をこねる子供のように聞こえた。

「王であろうと夫であろうと、絶対に男に仕えたくないの」

 フハッ、思わず吹き出してしまった笑いを聞いたミトヤの目が危険に光った。まずいとは思うが、断じて嘲ったのではない。あまりに可愛らしかっただけだ。本当にまだこの娘は男と女というものをまるでわかっていない童なのだと、そう思ったら。子供が睨みつけてきても微笑ましいだけだったが、咳払いしてなんとか続く笑いをごまかした。

「あのな、主様。断言しても良い。あと数年もしたら、考えが変わるさ。俺などに髪を触らせるのが嫌になる頃になればな」

 喉の奥で笑いを堪えながら、櫛をまた子供の長い黒髪に通していく。相手はまだ怒っているようだが、柔らかくなった声の調子に気づいたのか黙って聞いてくれている。

「そりゃあ、今までこのムラには主様の目に適う男はいなかったかもしれんが。想像してみろ。船に乗って、涼やかな顔をした大国の立派な若君が来る場面を。何人も召使を従えて、大きな黒金クロガネ の剣を下げ、腕輪も玉も何個も付けて。そんな男が巫女様を是非娶りたいと熱っぽい言葉で訴えてきたら、どうだ。そうなればあんただって、すぐに恋に落ちるに決まってる。そりゃあ、女ならみんなそうだ。男に仕えたくないなんて言っていたことなんか、その時にはもうすっかり忘れてるさ」

 老婆心めいて語ったこれが最も機嫌を損ねるとは思っていなかった。ミトヤは目をきつく細め、コウの服を握りしめる。

「私はそんな男に恋なんてしない」

 息を乱して言う顔は昂ったように薄らと頬を染めていた。だがすぐに服を握る手から力が抜け、潤んだ瞳は下を向いてしまう。唇がぽつりと、小さく言葉を落とした。

「この髪に触れるのは、ずっとあなたがいい」

 か細く告げられた願いは、石のように硬くなったコウの心臓をも流石に跳ねさせた。いや待て。違う、こんなのは。コウはあえて、口の端を持ち上げた。

「俺の嫌々従う顔が好きだから、だろう?」

 もう騙されんと示してやると、美しい顔が歪んだ。下がった眉が、一瞬の後気丈に吊り上がる。

「もう!」

 主の怒りを察した小鳥が高く鳴いて慌てたようにばたばたと宙を飛び回った。その下から細い腕が物を次々と投げつけてくるのに閉口し、コウは建物から逃げたのだった。





 市の辺りまで歩いてきたコウは一息ついた。海から渡る春の風が、心地よく身を撫でていく。どこまでも見渡せる海原を眺めながら、コウは少々陰鬱な気分で考えを巡らせた。

 まさか、あの主様は本当にそこまで俺を気に入っているんだろうか。

 いやまさか、とコウは否定し首を振る。あれは大人を振り回して遊んでいるうちに、自分でも少々本当と嘘の区別がつかなくなったとか、大方そんなところだろう。若い娘というのは、そういうところがあるものだ。

 無愛想で強面だから、コウはあまり女に好かれるという意識がない。後家の女なんかには結構色目を使われることはあるにしても、それとこれとは話が別だ。少なくともあんな童に、ということはこれまでなかった。だから変なことを心配することはない。その筈、なのだが。
 先ほどのらしくなく弱々しい声で紡がれた言葉が頭をよぎる。深い深い憂慮が男の眉間に刻まれた。
 
 あまりあの童に距離を縮めさせない方が良いな。結局コウはそう結論付けた。子供は怖い。時々妙な相手に本気でのぼせ上がる。そして大人に顔を顰められれば意固地になって手がつけられなくなると相場は決まっていて、それで騒ぎでも起こせば双方良いことはない。だが勿論、より致命的なのは立場の軽いコウの方だ。

 コウは疲れた気分で頬を撫でた。無造作に伸びた髭の感触は、先ほどまで触れていた黒髪とは大違いだ。快い触り心地をつい思い出しかけた己に苛立ち舌打ちする。

 本当に、なんでこんなことになったのか。だがまぁ、女童の色恋なんて一時の幻みたいなものだろう。他に気を引くものがあれば、あっさり忘れてくれるかもしれない。

 このまま呼ばれなくなれば簡単なんだがとコウは祈った。気位の高い巫女様の怒りが続けばその希望はある。
 どうかいつまでも怒っていてくれと臣下にあるまじきことを考えながら、コウは海の彼方を眺めていた。
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