甘味食して、甘淫に沈む

箕田 はる

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 母屋の大広間には、十人ほどの喪服姿の男女が沈痛な面持ちで鎮座していた。
 正面には木でこしえられた棺。その奥の祭壇には、菊の入った花瓶や火の付いた蝋燭、細く煙を上げている線香が置かれていた。
 井之口いのぐち 春信はるのぶは父と兄、そして読経を唱える僧侶の背中越しに棺を見つめていた。
 長い闘病生活に幕を閉じ、彼女は果たして極楽浄土へと旅立てたのだろうか。微動だにしない父である昭蔵しょうぞうの背を前に、春信は思う。
 それから母が残した最後の言葉を脳裏で反芻した。
『流され生きる人生であれど、自分の芯は持ち続けなさい』
 時は大正。西洋文化を取り入れた様々なものが、新しい物へと移り変わる時代となって来ている。だが、その波に今尚抗おうともがく者も多い。
 昭蔵は黒い和装に身を包み、家長としての自負を見せつけるかの如く背筋を正していた。
 長男である祥一郎しょういちろうも同じく、昭蔵の隣に毅然として座している。その横には、一歳になったばかりの娘を抱いた妻。二列目が昭蔵の背を前にした春信だった。
 一番に母の世話を焼いていた春信だったが、今は母から離れた位置であることに死の悲しみに混じった虚しさがあった。
 今にも溢れそうになる涙を拳を握ることで春信は堪えていた。涙を流せば、昭蔵から後で何を言われるか分からないからだ。
 小さい頃から『男児たるもの、涙は恥と思え』と言われ育ってきた。
 悲しいと思ったにも関わらず、何故涙を流してはいけないのか。春信は疑問を感じ、父親に疑念を口にした。
 そんな春信の反発に対し、昭蔵は答えを口にすることなく、春信の頬を平手打ちしていた。
 そんな父を母はどう思っていたのか。今になってはもう分からないままだった。
 葬儀は粛々と執り行われ、幕を閉じる。春信は喪服のまま、縁側に立つ。
 庭先は以前に比べて、手入れがされておらず、松の葉がちぐはぐに葉を散らしていた。
 以前までは定期的に庭師を入れていたが、年々その回数が減って来ていた。
 池の水も濁り、緑色に染まりつつある。錦鯉がいたはずだが、いつの間にいなくなっていた。
 没落していく様子が、この家の状況と重なっているようで春信は視線を外す。
「春信」
 名を呼ばれ、肩に手が置かれる。
 振り返ると、そこには見慣れた顔である笹倉ささくら 明臣あきおみの姿があった。彼もまた黒の背広姿で、いつも以上に精悍さが増していた。普段の彼は郵便配達員の制服か、着流しであることが多かったからだ。
 明臣は春信の隣に立ち並ぶと、眉間に皺を刻ませながら春信を見下ろした。
「大丈夫か? ずっとお母さんの世話をしてたからな」
「平気だよ。ただ、せめて桜の時期までとは、思っていたけど」
 母は桜の花が好きだった。あと一月ほどで咲いていただろうと思うと悔やまれる。
「本当か?」
 明臣が春信の顔を覗き込むように迫る。一重瞼の力強い眼差しが、春信の真意を探るように捉える。それを振り払うように、「本当に」と春信は口にし、それとなく後ろへと下がる。
 明臣は所構わず距離を詰めてくる。たとえ恋人同士であっても、周りがそれをどう思うのか。昭蔵は絶対に許さないだろう。それにまだ、明臣に言えずにいるが縁談の話も持ち上がっていた。それは明臣も同じはずだった。
 場内が急に騒がしくなる。春信が座敷に振り返ると、親戚の女達が机を出し、食事や酒の準備に取り掛かっているようだった。
 このまま居続けても、邪魔になるだけだろう。春信は「店に行ってくる」と言い、その場を離れようとした。
「俺も行く」
 少しだけ一人になりたかったが、春信は断る真似はせずに首肯した。
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