去りし記憶と翡翠の涙

箕田 悠

文字の大きさ
上 下
40 / 93
第二章

26

しおりを挟む

 屋敷の周辺しか出たことがなく、天野にとって森の奥は未知の領域だ。
 いくら歩みを進めても景色は変わることなく、四方八方を乱立した木々が枝を伸ばしている。同じ場所をぐるぐる回っている感覚に、次第に焦りばかりが募っていく。
 気づけば木々の隙間から射し込む日差しは、朝よりも色濃いものになっていた。
 屋敷では今頃、なかなか起きてこない天野に痺れを切らして部屋を覗きに行っている頃だろう。
 置き手紙には今までの感謝と、懺悔の気持ちを認《したた》めてある。
 自力で村に戻ることが出来たのならば、ヒスイの無罪を必ず伝えることを恩返しとさせて欲しいとも付け加えた。
 食料もなければ、飲み水もない。こんな無謀な状態では、村にたどり着く前に野垂れ死んでしまうかもしれない。
 それに加えて、近頃の不健康振りが拍車をかけていた。歩き続けたせいか足が痛みだし、目眩も襲いかかってくる。
 無謀な事だともちろん分かっていた。ヒスイは今頃、呆れ返っている事だろう。
 自分の惨めさに、自然と涙が溢れ出す。

――無駄な涙を流すなよ。勿体無い。

 こんな時に限って、ヒスイの無愛想な物言いを思い出す。決して優しい言葉ではなくとも、あれはヒスイなりの励ましの言葉だと分かっていた。
 全てを変えてしまった、あの日の夜――
 自分がヒスイに縋りさえしなければ、こんな事にはならなかったのかもしれない。
 無理に聞き出しなんかしなければ、ずっと傍にいられたのかもしれない。
 歩みを止めれば、今度は嗚咽が溢れ出した。

――日本男児がそんなに女々しくていいのか?

 ヒスイの言葉が次から次へと思い出されてしまう。過去の記憶が無い分、ヒスイとの出来事ばかりが蘇る。
 今すぐにでも会いたい。本当は離れたくなんかない。でもあの場所に居続けるのは、胸を抉られる心持ちにさせられてしまう。自分はどうするのが、正解だったのだろう。
 考えても一向に答えが出ず、憂鬱な気持ちを抱えたまま、とにかく少しでも進もうと足を動かしていく。
 鳥の囀りと、木々が風に揺れ葉を擦り合わせる音以外は静かだった。
 何処かで少し休もうかと、周囲に視線を彷徨わせる。ふと、右手に少し開けた場所が目に留まった。変わらぬ景色を見続けてきた天野にとっては、一種の期待を抱いてしまう。
しおりを挟む

処理中です...