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ジェローム
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ブラトワ男爵が屋敷を後にしたあと、私たちは途方にくれたまましばし議論を続けていた。
あの証文の利息は常軌を逸した数字で、それは確実にこのエンブリーを手に入れる、そう主張していた。
殿下もシャノン様も、皆が口を揃えてあの証文を偽装だと言う。それは私も同じ考えだ。だが…
あの古紙はここでも使われていた見覚えのある紙で、あの印は間違いなくエンブリーの印だ。先々代と言われてしまえばあの文字が当主のものかどうかももはやわからず、あの証文が本物か偽物か、それを明らかにする手立てが無い…
煮詰まった私たちに気を回したコナーが夕食を告げる。腹が空いては頭も上手く回らぬだろうと、そう言って。
シャノン様は昨日過ごしたであろう、今は誰も使用していない先代、つまり私の父が使用していた療養部屋をシェイナ嬢の休憩場所に決めたようだ。
同階のあの部屋であれば泣き声の一つも聞こえると考えたのだろうが、あの部屋の音はそれほどこのダイニングに届かない。
小さな物音ですら目を覚ましてしまう病床の父に配慮し、あの部屋だけは父を慕う領民総出で山から切り出した硬く重い樫の樹で作られている。それを二重に重ね、厨房や手洗いの音が響かぬよう遮音してあるのだ。
真剣な表情で食事中も議論を交わす高貴な方々。
このエンブリーはシャノン様によって生き延びた地。そして今もまた自らの問題でありながら、何も出来ない我が身に私がどれほど唇を噛んでいるか…
私は静かに席を立ち,
隣の厨房でシェイナ嬢の食事を貰いせめて邪魔をせぬようこれくらいは…と父の療養部屋へ足を向けた。
そして扉を開けたその部屋に、あるはずのない驚愕の光景を見たのだ!
「観念するのだな、小賢しいガキめ!もはやこれまでだ!」
「アブー!ブー!」
「黙れ!」
「黙るのはあなたの方だ!ブラトワ卿!ここで何をしておいでだ!」
一体何が起こっている!? 何故彼が⁉ とにかくシェイナ嬢を奪い返さなくては!
「カニング!扉だ!」
ブラトワ卿の言葉に素早く反応を示したのは家令。彼はベッドへシェイナ嬢を放り出すと、私の背後に回り扉を閉め鍵をかけた。待て!鍵だと⁉
「何故だ!何故鍵が!」
「ははは。教えてやろう。簡単なことだ。私たちは鍵を持っていたのだよ。この部屋の鍵をな!」
それだけ言うと、ブラトワ卿は彼女に襲いかかった。だが私の手が背中に届くと、いきなり彼女を宙に放り投げた。
「危ないシェイナ!」
何という非道な男だ。いたいけな子供によくもこんな真似を…
すんでのところで彼女と床の間に身を差し入れるが、その隙にブラトワ卿は家令の助けを得て窓を超え外へと逃げ出していた。
扉を施錠した家令は手洗いの小窓からでも屋外へ出たのだろう。そうして奴は、これも打ち合わせ済みだったのだろう…裏窓際に積み上げられていた飼い葉の山に火をつけていたのだ。
家令はさらに私が窓に近づけぬよう、手に持ったランプでカーテンに火をつけた。安い薄手の布はあっという間に火を燃え上がらせ、さして大きくもない窓は炎によって遮られた。
それを確認するとブラトワ卿は、念押しとばかりに窓へ棒をあてがいながら嘯く。
「持ち出せぬなら燃やせばいい!部屋に入った子供がランプを倒し、助けに入った当主がそれに巻き込まれた。よくある事故だ、気の毒にな!」
奴らは炎の灯りを頼りに、屋敷の裏門方面へと姿を消した。
窓際は既に近づけない勢いで火が燃え広がっている。
何とかしなければ!せめて!せめてシェイナ嬢だけでも!だが扉は鍵がかけられてビクともしない!
「怪我はないかいシェイナ。すぐに誰か気付くはずだ。そうとも、きっと君の兄さんがここに来る。それまでは私が側に居るから何も心配いらない。安心するんだ」
まるで自分に言い聞かせるような気休めの言葉。だが…たとえ気休めでも、酷く怖い思いをしているであろう彼女を安心させてやりたい。
「シェイナ、口を開けて」
「アー、…!」
口に放り込んだのは金平糖。今しがたスープと共に手渡された、わが家のメイドの得意菓子だ。
口に放り込めばほろほろと溶けるそれは、幼い子供の心をきっとひと時でも落ち着かせてくれるだろう。
「シェイナ、一体何故こんな…。何故君が狙われたんだ?」
シェイナ嬢には不思議と、大きな子供と錯覚をするような瞬間がある。恐らくそれはシャノン様がまるで友達と話すかのようにシェイナ嬢に話しかけるからだろうが…幼児に分かるわけが無いだろうと思いつつも、私は思わずそう問いかけていた。
すると彼女は肌着の中からクシャクシャになった紙を引き出し私に手渡した。
「これは…?…もしや!」
ガシャーン!!!
私の思考を遮ったのは窓の割れる大きな音。炎の爆発かと思えば破片の間に紛れているのは雪、雪、雪。これは雪だ!誰かが消火のために雪をかけているのだ。
「シェイナ!私の中へ!」
状況に気付き、ガラスの破片で傷つかぬよう慌ててシェイナを懐に隠す。そして次から次へと窓際へ投げつけられる雪。火の勢いが雪の重みに負け始める頃、私の背後ではガツンガツンと扉の壊れる音がする。
バキィッ!!!
「シェイナーーー!!!ジェローム!無事なの?無事って言って!!!」
「ノーン!」
「シャノン様!」
部屋へ駆け込んできたのはシャノン様。
涙で顔がグシャグシャの…力強く斧を握りしめた、私の救世主。
あの証文の利息は常軌を逸した数字で、それは確実にこのエンブリーを手に入れる、そう主張していた。
殿下もシャノン様も、皆が口を揃えてあの証文を偽装だと言う。それは私も同じ考えだ。だが…
あの古紙はここでも使われていた見覚えのある紙で、あの印は間違いなくエンブリーの印だ。先々代と言われてしまえばあの文字が当主のものかどうかももはやわからず、あの証文が本物か偽物か、それを明らかにする手立てが無い…
煮詰まった私たちに気を回したコナーが夕食を告げる。腹が空いては頭も上手く回らぬだろうと、そう言って。
シャノン様は昨日過ごしたであろう、今は誰も使用していない先代、つまり私の父が使用していた療養部屋をシェイナ嬢の休憩場所に決めたようだ。
同階のあの部屋であれば泣き声の一つも聞こえると考えたのだろうが、あの部屋の音はそれほどこのダイニングに届かない。
小さな物音ですら目を覚ましてしまう病床の父に配慮し、あの部屋だけは父を慕う領民総出で山から切り出した硬く重い樫の樹で作られている。それを二重に重ね、厨房や手洗いの音が響かぬよう遮音してあるのだ。
真剣な表情で食事中も議論を交わす高貴な方々。
このエンブリーはシャノン様によって生き延びた地。そして今もまた自らの問題でありながら、何も出来ない我が身に私がどれほど唇を噛んでいるか…
私は静かに席を立ち,
隣の厨房でシェイナ嬢の食事を貰いせめて邪魔をせぬようこれくらいは…と父の療養部屋へ足を向けた。
そして扉を開けたその部屋に、あるはずのない驚愕の光景を見たのだ!
「観念するのだな、小賢しいガキめ!もはやこれまでだ!」
「アブー!ブー!」
「黙れ!」
「黙るのはあなたの方だ!ブラトワ卿!ここで何をしておいでだ!」
一体何が起こっている!? 何故彼が⁉ とにかくシェイナ嬢を奪い返さなくては!
「カニング!扉だ!」
ブラトワ卿の言葉に素早く反応を示したのは家令。彼はベッドへシェイナ嬢を放り出すと、私の背後に回り扉を閉め鍵をかけた。待て!鍵だと⁉
「何故だ!何故鍵が!」
「ははは。教えてやろう。簡単なことだ。私たちは鍵を持っていたのだよ。この部屋の鍵をな!」
それだけ言うと、ブラトワ卿は彼女に襲いかかった。だが私の手が背中に届くと、いきなり彼女を宙に放り投げた。
「危ないシェイナ!」
何という非道な男だ。いたいけな子供によくもこんな真似を…
すんでのところで彼女と床の間に身を差し入れるが、その隙にブラトワ卿は家令の助けを得て窓を超え外へと逃げ出していた。
扉を施錠した家令は手洗いの小窓からでも屋外へ出たのだろう。そうして奴は、これも打ち合わせ済みだったのだろう…裏窓際に積み上げられていた飼い葉の山に火をつけていたのだ。
家令はさらに私が窓に近づけぬよう、手に持ったランプでカーテンに火をつけた。安い薄手の布はあっという間に火を燃え上がらせ、さして大きくもない窓は炎によって遮られた。
それを確認するとブラトワ卿は、念押しとばかりに窓へ棒をあてがいながら嘯く。
「持ち出せぬなら燃やせばいい!部屋に入った子供がランプを倒し、助けに入った当主がそれに巻き込まれた。よくある事故だ、気の毒にな!」
奴らは炎の灯りを頼りに、屋敷の裏門方面へと姿を消した。
窓際は既に近づけない勢いで火が燃え広がっている。
何とかしなければ!せめて!せめてシェイナ嬢だけでも!だが扉は鍵がかけられてビクともしない!
「怪我はないかいシェイナ。すぐに誰か気付くはずだ。そうとも、きっと君の兄さんがここに来る。それまでは私が側に居るから何も心配いらない。安心するんだ」
まるで自分に言い聞かせるような気休めの言葉。だが…たとえ気休めでも、酷く怖い思いをしているであろう彼女を安心させてやりたい。
「シェイナ、口を開けて」
「アー、…!」
口に放り込んだのは金平糖。今しがたスープと共に手渡された、わが家のメイドの得意菓子だ。
口に放り込めばほろほろと溶けるそれは、幼い子供の心をきっとひと時でも落ち着かせてくれるだろう。
「シェイナ、一体何故こんな…。何故君が狙われたんだ?」
シェイナ嬢には不思議と、大きな子供と錯覚をするような瞬間がある。恐らくそれはシャノン様がまるで友達と話すかのようにシェイナ嬢に話しかけるからだろうが…幼児に分かるわけが無いだろうと思いつつも、私は思わずそう問いかけていた。
すると彼女は肌着の中からクシャクシャになった紙を引き出し私に手渡した。
「これは…?…もしや!」
ガシャーン!!!
私の思考を遮ったのは窓の割れる大きな音。炎の爆発かと思えば破片の間に紛れているのは雪、雪、雪。これは雪だ!誰かが消火のために雪をかけているのだ。
「シェイナ!私の中へ!」
状況に気付き、ガラスの破片で傷つかぬよう慌ててシェイナを懐に隠す。そして次から次へと窓際へ投げつけられる雪。火の勢いが雪の重みに負け始める頃、私の背後ではガツンガツンと扉の壊れる音がする。
バキィッ!!!
「シェイナーーー!!!ジェローム!無事なの?無事って言って!!!」
「ノーン!」
「シャノン様!」
部屋へ駆け込んできたのはシャノン様。
涙で顔がグシャグシャの…力強く斧を握りしめた、私の救世主。
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