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リツ③
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なんてしあわせそうに笑うんだろうと。
また見惚れていた。
その笑顔を向けられている男が憎い、殺したいほど。
でもその笑顔を見ていたい、ずっと。
俺を見て。
ねえ、
俺を見てよ。
こんな風に隠れてそんなことを思う自分はなんて惨めなんだろう、と。
リツはふらつきそうな身体で必死に堪えていた。
何年も、そんなふたりの姿を見続けた。
そのあいだに雇い主が変わり、新しい雇い主ーーこの仕事を依頼してきた男ーーが少女の親族だったことを知る。
家族。
うらやましいとリツは思った。
たくさんの話を聞いた。
ちいさいころから、家を離れるまでのこと。
ーーどうしても気になって、サーカスを見たことはあるか、と聞いてみた。
本人に聞かなければ意味はないかもしれないけれど、知りたかった。
おなじ記憶を、思い出を、持っていられたら。
灰色だった自分のそれも、鮮やかな色に変わるのではないかと思ったから。
そして、ーーそして。
男は言ったのだ。
よく話していた、と。
月のきれいな夜だった。
絵本の世界に迷い込んだようだった。
何度も何度も、おなじことばかり話していたと。
リツは震えていた。
男は話を続けていたがもう何も、届かないほど。
そんな、御伽噺のような世界じゃない。
綺麗な世界じゃない。
でもおなじ月を見ていた。
墨を塗り込めたような空に浮かんで、銀色に輝き夜を照らす。
リツが追いかけた月を、おなじ月を、見ていたのだ。
もっと綺麗なものを知っていて、もっと綺麗なものを一緒に見たことはあるだろう。
でもあの日の月を、あの男は知らない。
あの日の少女の笑顔を、あの男は知らない。
それが、それだけで、
リツの心は、震えていた。
いつか、その話ができたら。
あのひとの声で、そのうつくしい夜の話を聞けたら。
どんなものよりも素敵な、物語になるだろう。
ーーーー…泣いてる…?
家を飛び出してゆく姿をリツは慌てて追いかけた。
すぐ帰らなくてよかった。
もっともいつも、家に入ったあともしばらく留まっているのだけれど。
何日かまえから様子がおかしかったのは気づいてた。それは報告済みだ。
あの男が戻っていないようだったからそれが理由なんだと思っていた。
でも今日は、家に入ってすぐあの男が帰ってきた。
よかったとリツも思っていたのだ。
つらそうな表情は、見たくなかったから。
食堂の女将の家まで来て、途切れ途切れに紡がれる言葉をリツは拾う。
泣きながら、苦しそうにぽろぽろ落とされるそれを。
"ツガイ"
"ウンメイ"
名前を呼びながら崩れ落ち、抱えられながらドアの奥に消えて。
姿が見えなくなったあとも、泣き声がしていた。
リツはハナが利かない。
欠陥品だから。
ーーそうか。
見つけたのか、あの男は。
あのひとがいるのに、あのひと以外に番を。
あんなにいとおしそうに、見つめていたのに。
ーーなんて、悍ましいんだろう。
うらやましいとは思わない。
うれしいとも思えない。
だってあのひとが、泣いている。
泣いているのに、何もできない。
自分も。
あの男も。
ーーなんて、情けないんだろう。
そのまま踵を返したリツは長期契約で借りている安宿の部屋に戻り、次の日からまた仕事をする。
少女は家には戻らない。
あの男が食堂にきて、少女に覆い被さろうとした。
リツが動くまえに女将と店主が助けていた。
リツはまた何もできず安宿に戻った。
少女の家の近くをうろついている女を見た。
恐らく番だろう。
報告書を送って指示を待つ。
少女は少しして家に戻ってきたが、それから一度も姿を見せていない。
あの男は時折り外出している。
何もできない。
少女の家族が、少女を田舎に連れ戻すことに決めたと雇い主がリツのまえに現れたのはそれからすぐ。
女がアパートのなかに入っていき、しばらくして出てきた。
あの男が一緒にいる。
なぜだ。
なぜ。
ひとりにするんだ。
リツは制止も聞かずアパートへ向かった。
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