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【第一部】五章

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 「体は本当に大丈夫なんですね?」

 あの晩から一週間が経ったが、アベルの指示に従ってユリシーズは一人、部屋に籠っていた。

 「ない。もう一週間も寝て過ごしている。もういいだろう?」

 ベッドから体を半分起こした状態でユリシーズ言った。肩に長い漆黒の髪がかかっている。気怠げなのは人間の姿に戻った反動ではなく、寝疲れが原因のようだ。

 「ニコラはどうしてる?」
 「ずっと作業してもらっています」
 「鬼だな」
 「戴冠式まで日がないんです」
 「無理はさせてないな?」
 「日に何回か、ライアーに様子を見に行かせています」

 それを聞いてユリシーズは少し安心した。
 失敗が多いライアーだが、彼は誰よりも人の感情に敏感だった。アベルやマリアは非常に優秀だ。しかし、彼らは人の気持ちの配慮が足りないように思える。性格に問題があるわけではない。ただ、一人より仕事が出来る分、出来ない者の気持ちがわからないのだろう。あるいは、同僚や部下に対して歯に物を着せない言い方が冷たい印象を与えている事だろう。その点、ライアーは仕事の出来は悪いものの、彼は人の良い所を見つけるのが上手かった。彼を嫌う人物は、王宮内の誰に聞いてもいないだろう。アベルとマリア、そしてライアーがいて、王宮はまわるのだ。

 「ユリシーズ殿下に、悪いお知らせがあります」

 アベルは目線を落として言った。

 「何だ?」
 「戴冠式のマントが何者かによって盗まれたことが街で噂になっています」

 アベルはため息をついた。

 「王宮の誰かか、周りの者がバラしたのでしょう。人の口に戸は立てられませんね。ここまで広まっては噂を流した犯人探しをする気も起きません」
 「犯人探しはしなくていい。本当のことだ」
 「そう。本当のことです。しかし……、」

 言葉を途中で止めたアベルを訝しがってユリシーズは見つめた。

 「犯人は、下町に住むティムという少年だと噂になっています」
 「何……?」

 思いがけないアベルの言葉にユリシーズは眉を顰めた。
 誰かが盗んだらしいと噂になるのと、あの少年が盗んだらしいという噂では意味が違ってくる。何よりあの少年が盗みまがいの事をしたのは本当のことなのだ。

 「ティムという少年のことはライアーから聞きました」
 「彼はどうしてる? 母君が病気なんだ」
 「貴方が気にすると思って、今日ライアーに様子を見に行かせました」
 「それで?」
 「近隣住民がお金を出しあって薬を買って、母親の看病を交代で手伝っているそうです。噂の事は彼らの耳にも入っていると思いますが、気にしていないのか、今の所は母親の看病で忙しいようです」
 「そうか……」

 噂を気にしてないはずはない。そう振る舞っているように見えるのは彼らの優しさなのだ。
 アベルはそれを知らない。そして、自分もこの王宮にいてはわからなかった。
 下町で会った人々と、その生活。
 そう、この王宮にいるだけは本当のことは知り得ない。

 「でも、それも時間の問題です」

 アベルが次に何を言うかユリシーズは予想できた。だから、アベルが言うよりも先にユリシーズが言う。

 「我が国ルブゼスタン・ヴォルシスは貿易業で成り立ってる国だ。国内で物品の売買や受け渡しが行われているのに、国民が盗みを働くとなっては他国からの信頼がなくなり貿易業が成り立たなくなる。だからこの国では、殺人と等しく盗みは重罪だ」
 「その通りです」
 「ティムはどうなる?」
 「盗みを働いた…それも盗んだのが一国の主となる人物の戴冠式のマントとなると、禁固十年…いや、二十年は固いでしょう」

 アベルのその言葉を聞いてユリシーズは黙り込んだ。

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