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第三幕 神は天に居まし、人の世は神も無し
58.シーン3-24(彼)
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私が武器を降ろしているにもかかわらず臨戦態勢を解かないカインを危ぶんだのか、私の背後ではミリエが、彼の背後ではオルカが少しこちらの方へ距離を詰めた。残念だよ、どうやら図式は私に分があるようではないか。そんな短刀ひとつ構えて、君に何か出来るのかい?
こういうのを、気の緩みというのだろう。別に忘れていたわけではないのだが、それでも、彼がこうして律儀に短刀を構えて対峙してくれているものだから、私もすっかり己は安全圏であると、甘く見てしまっていたに違いない。
目を細めて私を見定めようとする彼が、より一層鋭い目付きで口を開いた時だった。一瞬の出来事に、頭が追いつくよりも早く体中が硬直した。
鋭い視線が脳裏に焼きつき、静かな声が耳の奥で膨れあがって拡散する。不気味な異物が流れ込むような吐き気のする感覚に、虫酸が走る。冷たく生ぬるい気配が背すじを這いあがってきて、喉の奥を声にならない悲鳴が突き刺した。
ただならぬ私の様子を見た彼は、これまでになく難しい顔ではたと口をつぐんだ。
どろどろと体内を蝕んでいく死の魔力の気持ち悪さに耐えかねて思わず目を閉じた途端、真っ暗になった視界の闇にただれた臓腑の苦しみがよみがえる。鉛のようにずしりとのしかかる倦怠感、骨を焼かれる熱い痛み、病という名の運命に、命を吸い上げられていく。安らかなる眠りとは似ても似つかぬ泥の沼が、生に喘ぐかすかな息の根さえもやがて止める。口の中いっぱいに胃から吐き出した血の味とぬめりが広がった思いがして、私はこらえ切れずに口元を覆って深く深く俯いた。
そう、なんのことはない。彼が絶大な力を誇る高魔力者である以上、私の生死は彼の良心にかかっているのだ。生かされるも殺されるも、私の命はまさに彼の手のひらの中というわけだ。
彼にとっては私がその辺の賊と同じ不届きな存在で、彼がその気になったなら、傍に転がる強盗犯と同じように私の命も一瞬で消し飛ばされてしまうのだろう。そう思うと、甚だ笑えるものがある。やれるものなら、やれば良い。
視界の隅に、彼が険しい顔で口を真一文字に引き結んでいる姿が映る。ああ、そうか。そうなのか。なんということだろう。
困ったことに、こんなときに限って私は彼が普段ほとんど口を利かない理由に、何となく察しがついてしまったではないか。
確かに彼の性格が単に寡黙であるというのもひとつの要因なのであろうが、それだけではない。恐らく、彼の声には力があるのだ。
人やその他の生き物が宿し、そして自然に作り出しているマナの流れや力場を魔力と呼ぶ。彼は、異常なほど高い魔力を保持するあまり、無意識でもその声にまで力が宿ってしまうのだ。
抑えていても、ふとした瞬間、意識が向かってしまった瞬間、対象へ向けて発した声、彼の内から伝わりゆく空気の波動に紛れ込み、相手を蝕む魔力が宿る。だから彼は、大抵口をかたく閉ざし、ほとんど声を発しないのだ。周りを傷つけないために。
なるほど、そうなると、逆に今度はなぜ彼は意図せぬ瞬間とたんに饒舌になってしまうかなんて理由も見えてくる。
彼が自ら興味を示してきたすべては、マナや魔力に由来する。きっと彼の身の回りには、マナに関する事柄しか、身近と呼べるものが無いのだ。
異常なマナの流れと魔力によって周囲から浮いてしまっているというのに、彼が心を置ける場所は、そんな自分を孤独へ追いやるマナの中にしか存在しない。これを皮肉と呼ばずになんと呼べば良いのだろう。
ねえ、君は、やっていることのそれぞれが、ちぐはぐじゃないのかな。未だに向けられ続ける短刀の切っ先を視界の端に捉えながら、ぼんやりとそう思う。
聖堂では歪みの元凶を絶つためにと周囲を振りきり強引に動いてみたり、世界の調和を乱すと言って即座に罪人を切り捨てようと行動するかと思いきや、普段はほとんど周りにたいして何も反応しようとしない。自分の関心ごとにはずいぶんとまあ饒舌になるくせに、普段は話しかけられてもまるで声を出そうとしない。世界の調和は守らなければならないのだと言いながら、自他の幸福をかえりみない。
人の心など不必要であるというならば、君はなぜ世界の調和は守らなければならないものだと思うのだろうか。なぜ他人や世界のために心を殺して己を律しなければならないと思うのだろうか。それは、君の義務じゃない。
彼はそう、とても、本当にとても狭い世界のなかを生きている。なんとなく、私はそんな気がしてしまった。
束縛という殻に覆われた、ひとりきりの小さな世界。そこから外へと出ない限り、彼は周りを傷つけてしまうことも、周りから傷つけられることもない。
そんなことを考えながら静かに彼を眺めていると、こうして多くの意見、少なくともこの場では三人分の意見を背負って立つ私に剣を向けて、ひとり周囲へと立ち向かっている孤独な姿が、酷く寂しく思えてくる。
恐らく、彼の行動がちぐはぐに見えてしまうのはこの世界が不条理だからで、彼自身はまっすぐなのだ。
ほとんど出し抜く形で背負わせた借金という私の強引な押し付けに、それでも何も文句を言わずに律儀についてくる彼の姿が重なった。彼が放った不必要に凶悪な威力の魔術にも原因があると、つまり彼の魔力のせいだと、あのとき私が言ったが為に、彼は義理に従わざるを得なくなった。
人は、魔力を選んで生まれてくるわけではない。彼が保持する彼の性質は、決して彼が望んで手にしたものではない。気まぐれなルーレットの針が目の前で止まってしまったというだけで、彼はめでたくはずれ役に当選してしまったのだ。しかし、当選させた張本人たる世の理が、輪からはずされ孤立してしまった彼を、孤独の中から救い出すようなことはない。
あれ、君はずれちゃったの? 残念だったね、まあ、ちょっと我慢してよ。あっ、ダメダメ、好き勝手やられると、周りに迷惑なんだよね。おとなしくしててくれる? 出来ないなら、死んでくれて構わないから。
全く、そんな不確かで理不尽な世界のためだというのに、それでも己を殺してまで、彼はしっかり前を向いて歩いているのだ。普通なら迂回してしまうところまで、愚直なほどまっすぐに。実に実に、合理的に。悲しくなってしまうほどに。
だがしかし、だったら何かが変わるのかと言われたら、特にそのようなことはない。彼の言葉を借りるなら、それが世界、全体というものだ。全体の調和というものは、決して、個人個人の幸福と完全なるイコールでは結ばれない。
こういうのを、気の緩みというのだろう。別に忘れていたわけではないのだが、それでも、彼がこうして律儀に短刀を構えて対峙してくれているものだから、私もすっかり己は安全圏であると、甘く見てしまっていたに違いない。
目を細めて私を見定めようとする彼が、より一層鋭い目付きで口を開いた時だった。一瞬の出来事に、頭が追いつくよりも早く体中が硬直した。
鋭い視線が脳裏に焼きつき、静かな声が耳の奥で膨れあがって拡散する。不気味な異物が流れ込むような吐き気のする感覚に、虫酸が走る。冷たく生ぬるい気配が背すじを這いあがってきて、喉の奥を声にならない悲鳴が突き刺した。
ただならぬ私の様子を見た彼は、これまでになく難しい顔ではたと口をつぐんだ。
どろどろと体内を蝕んでいく死の魔力の気持ち悪さに耐えかねて思わず目を閉じた途端、真っ暗になった視界の闇にただれた臓腑の苦しみがよみがえる。鉛のようにずしりとのしかかる倦怠感、骨を焼かれる熱い痛み、病という名の運命に、命を吸い上げられていく。安らかなる眠りとは似ても似つかぬ泥の沼が、生に喘ぐかすかな息の根さえもやがて止める。口の中いっぱいに胃から吐き出した血の味とぬめりが広がった思いがして、私はこらえ切れずに口元を覆って深く深く俯いた。
そう、なんのことはない。彼が絶大な力を誇る高魔力者である以上、私の生死は彼の良心にかかっているのだ。生かされるも殺されるも、私の命はまさに彼の手のひらの中というわけだ。
彼にとっては私がその辺の賊と同じ不届きな存在で、彼がその気になったなら、傍に転がる強盗犯と同じように私の命も一瞬で消し飛ばされてしまうのだろう。そう思うと、甚だ笑えるものがある。やれるものなら、やれば良い。
視界の隅に、彼が険しい顔で口を真一文字に引き結んでいる姿が映る。ああ、そうか。そうなのか。なんということだろう。
困ったことに、こんなときに限って私は彼が普段ほとんど口を利かない理由に、何となく察しがついてしまったではないか。
確かに彼の性格が単に寡黙であるというのもひとつの要因なのであろうが、それだけではない。恐らく、彼の声には力があるのだ。
人やその他の生き物が宿し、そして自然に作り出しているマナの流れや力場を魔力と呼ぶ。彼は、異常なほど高い魔力を保持するあまり、無意識でもその声にまで力が宿ってしまうのだ。
抑えていても、ふとした瞬間、意識が向かってしまった瞬間、対象へ向けて発した声、彼の内から伝わりゆく空気の波動に紛れ込み、相手を蝕む魔力が宿る。だから彼は、大抵口をかたく閉ざし、ほとんど声を発しないのだ。周りを傷つけないために。
なるほど、そうなると、逆に今度はなぜ彼は意図せぬ瞬間とたんに饒舌になってしまうかなんて理由も見えてくる。
彼が自ら興味を示してきたすべては、マナや魔力に由来する。きっと彼の身の回りには、マナに関する事柄しか、身近と呼べるものが無いのだ。
異常なマナの流れと魔力によって周囲から浮いてしまっているというのに、彼が心を置ける場所は、そんな自分を孤独へ追いやるマナの中にしか存在しない。これを皮肉と呼ばずになんと呼べば良いのだろう。
ねえ、君は、やっていることのそれぞれが、ちぐはぐじゃないのかな。未だに向けられ続ける短刀の切っ先を視界の端に捉えながら、ぼんやりとそう思う。
聖堂では歪みの元凶を絶つためにと周囲を振りきり強引に動いてみたり、世界の調和を乱すと言って即座に罪人を切り捨てようと行動するかと思いきや、普段はほとんど周りにたいして何も反応しようとしない。自分の関心ごとにはずいぶんとまあ饒舌になるくせに、普段は話しかけられてもまるで声を出そうとしない。世界の調和は守らなければならないのだと言いながら、自他の幸福をかえりみない。
人の心など不必要であるというならば、君はなぜ世界の調和は守らなければならないものだと思うのだろうか。なぜ他人や世界のために心を殺して己を律しなければならないと思うのだろうか。それは、君の義務じゃない。
彼はそう、とても、本当にとても狭い世界のなかを生きている。なんとなく、私はそんな気がしてしまった。
束縛という殻に覆われた、ひとりきりの小さな世界。そこから外へと出ない限り、彼は周りを傷つけてしまうことも、周りから傷つけられることもない。
そんなことを考えながら静かに彼を眺めていると、こうして多くの意見、少なくともこの場では三人分の意見を背負って立つ私に剣を向けて、ひとり周囲へと立ち向かっている孤独な姿が、酷く寂しく思えてくる。
恐らく、彼の行動がちぐはぐに見えてしまうのはこの世界が不条理だからで、彼自身はまっすぐなのだ。
ほとんど出し抜く形で背負わせた借金という私の強引な押し付けに、それでも何も文句を言わずに律儀についてくる彼の姿が重なった。彼が放った不必要に凶悪な威力の魔術にも原因があると、つまり彼の魔力のせいだと、あのとき私が言ったが為に、彼は義理に従わざるを得なくなった。
人は、魔力を選んで生まれてくるわけではない。彼が保持する彼の性質は、決して彼が望んで手にしたものではない。気まぐれなルーレットの針が目の前で止まってしまったというだけで、彼はめでたくはずれ役に当選してしまったのだ。しかし、当選させた張本人たる世の理が、輪からはずされ孤立してしまった彼を、孤独の中から救い出すようなことはない。
あれ、君はずれちゃったの? 残念だったね、まあ、ちょっと我慢してよ。あっ、ダメダメ、好き勝手やられると、周りに迷惑なんだよね。おとなしくしててくれる? 出来ないなら、死んでくれて構わないから。
全く、そんな不確かで理不尽な世界のためだというのに、それでも己を殺してまで、彼はしっかり前を向いて歩いているのだ。普通なら迂回してしまうところまで、愚直なほどまっすぐに。実に実に、合理的に。悲しくなってしまうほどに。
だがしかし、だったら何かが変わるのかと言われたら、特にそのようなことはない。彼の言葉を借りるなら、それが世界、全体というものだ。全体の調和というものは、決して、個人個人の幸福と完全なるイコールでは結ばれない。
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