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第2章:王都の雑貨店と夜の鴉
2−14:刻(とき)を喰らう塔(其の四)
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館の深淵、中央制御室の歯車が咆哮を上げた。
カイトの目の前で、老執事は短筒(ピストル)を構えたまま、彫像のように動かない。伝声管から流れるリヒトの涼やかな声だけが、鉄錆と油の匂いが充満するこの空間に、奇妙な静寂をもたらしていた。
「……執事殿。主人の狂気に殉じるのは、忠義という名の『自己満足』に過ぎません。エイリアス卿は、ご自身を時計の部品にした。しかし、その部品を動かすために、関係のない他人の血を油にする権利など、誰にもないのですよ。」
広間では、リヒトがティーカップの最後の一口を飲み干し、優雅に立ち上がっていた。彼の周囲では、実業家ヴァン、鑑定家バジル、そして弟子ルカと後妻エレーナが、震動を始めた床にへたり込んでいる。
「リヒト殿! 助けてくれ! 寄付金でも何でも払う、この館から出してくれ!」
ヴァンがリヒトの裾に縋り付こうとするが、リヒトはそれを冷ややかに避けた。
「おや、ヴァン殿。あなたの命の鑑定額は、先ほどまでの傲慢さに比べて随分と値下がりしたようですね。……執事殿、聞こえていますか? あなたの主人が仕掛けたこの『自動処刑システム』の鍵は、実はもう一つ存在しています。……エイリアス卿が、誰よりも信頼……いえ、軽蔑していた人物に託したはずの鍵が。」
中央制御室で、執事の眉が微かに動いた。
「……何をおっしゃる。鍵は主と共に、あの時計の文字盤に埋め込まれました。あれを抜くことは、誰にも――」
「いいえ。卿は鑑定士である私に、ある『鑑定依頼書』を事前に送っていました。そこにはこう書かれていた。『真実の重さを知る者にのみ、この狂った時間を止める権利を与える』と。……カイトくん、聞こえますか?」
カイトは執事の銃口を睨みつけながら、伝声管に向かって叫んだ。
「ああ、聞こえてるぜ、店主! でもよ、ここにあるのは歯車とレバーの山だ! どれが正解かなんて、俺のピックじゃ分からねえぞ!」
「落ち着きなさい、カイトくん。……執事殿が持っているその銃。それ自体が、実はこの部屋の『非常停止レバー』の持ち手になっているはずです。……エイリアス卿は、自分を殺す手助けをした執事に対し、最後に『自分を止めるか、それとも心中するか』の選択肢を残したのですよ。……なんとも、悪趣味な優しさではありませんか。」
執事が目を見開いた。彼は自分の手にある短筒を凝視する。その隙を、カイトは見逃さなかった。
「……っ、もらったぁ!」
カイトの体が弾丸のように跳ねた。義賊として培った跳躍力が、重い油の空気を切り裂く。執事が引き金を引くよりも早く、カイトの右足がその手首を蹴り上げた。短筒が宙を舞い、機械室の複雑な歯車の隙間へと吸い込まれていく。
「しまっ――!」
老執事の叫びも虚しく、短筒は巨大な主歯車の中心軸にガチリと噛み合った。
ギギギ……と、館全体が悲鳴を上げるような金属摩擦音が響き渡る。
「カイトくん、そのまま右から三番目の、十四番目の目盛りがあるレバーを引くのです! 逆回転の力を逃がしなさい!」
「分かった! ……くそっ、重てえな、これ!」
カイトは全体重をかけ、鈍く光るレバーを引き下げた。その瞬間、館を支配していた重低音が、高い金属音へと変化し、十四進法の時計塔が激しく震動し始めた。
広間では、天井のシャンデリアが大きく揺れ、壁の時計たちが一斉に狂ったように針を回し始めていた。
「な、何が起きているの!? 殺される、殺されるわ!」
エレーナが発狂したように叫び、出口の扉を叩く。だが扉はびくともしない。
「……エレーナ夫人。あなたがエイリアス卿の薬をすり替え、彼の死期を早めようとした鑑定事実は、もう隠せませんよ。……そしてルカ殿。あなたがその薬の入手経路を確保した。お二人は、卿が自ら死を選ぶより前に、彼を排除して遺産を手にしようとした。……違いますか?」
リヒトの言葉は、崩壊しつつある館の中でも、不思議なほどはっきりと響いた。
ルカは床に膝をつき、顔を覆った。
「……あの方は、狂っていたんだ。時計の部品になるなんて、そんな狂った計画に、これ以上付き合えるか!」
「狂っていたのは、卿か、それともあなた方の欲か。……それを決めるのは私ではありません。……ですが、この館の『最後の審判』は、どうやら下されたようですよ。」
ドォォォォォン!!
凄まじい衝撃波と共に、広間の壁一面に並んでいた時計たちが一斉に爆発するように砕け散った。だが、その破片は誰一人として傷つけることはなかった。すべては計算されていたのだ。 霧が、晴れていく。時計塔の頂上から、蒸気が勢いよく噴き出し、狂っていた十四進法の針が、ガクンと音を立てて「十二」の場所へと戻り、停止した。
中央制御室。
カイトは荒い息をつきながら、停止した歯車に背を預けて座り込んでいた。隣では、老執事が力なく壁に寄りかかり、空になった手を見つめている。
「……終わったのか?」
「……ええ。終わりましたよ、若いの。……主人の時計は、今、ようやく本当の眠りについたようだ。」
カイトは胸のポケットから、あの「複製品(コピー)のピック」を取り出した。それは、格闘の最中に執事の懐からこぼれ落ちたものだった。
「……これ、あんたが作ったのか。俺の鞄から型をとって。」
「……主人は、リヒト様を試したかったのだ。そしてその助手の、裏の顔をもね。……お若いの、君のその腕は、主人が認めた『本物』だったということだ。」
カイトは苦笑いして、そのピックを床に放り投げた。
「……そんな鑑定、いらねえよ。俺は、店主の横で働いてるのが一番性に合ってるんだ。」
伝声管から、リヒトの穏やかな声が届く。
「カイトくん、ご苦労様でした。紅茶が冷めてしまいましたから、淹れ直すとしましょう。……それと、鞄の底の隠し場所は、もう少し工夫したほうがよろしいですよ? 鑑定士の目は、隠し場所の『不自然な膨らみ』まで逃しませんからね。何を隠していたのかまでは、さすがの私でもわかりませんが。」
「……っ、店主! あんた、やっぱり知ってて黙ってやがったな!」
カイトの叫びが、静まり返った館に響き渡った。
朝日が、森の霧を黄金色に染め抜き、呪われた『刻鳴館』を優しく包み込んでいた。
だが、リヒトの瞳には、まだ拭いきれない「ある違和感」が残っていた。 (……エイリアス卿。あなたが本当に隠したかった『アストロラーベ』の真作は……本当に、壊れたのでしょうか?)
リヒトは、崩れた文字盤の奥にある、さらに深い闇を見つめていた。
カイトの目の前で、老執事は短筒(ピストル)を構えたまま、彫像のように動かない。伝声管から流れるリヒトの涼やかな声だけが、鉄錆と油の匂いが充満するこの空間に、奇妙な静寂をもたらしていた。
「……執事殿。主人の狂気に殉じるのは、忠義という名の『自己満足』に過ぎません。エイリアス卿は、ご自身を時計の部品にした。しかし、その部品を動かすために、関係のない他人の血を油にする権利など、誰にもないのですよ。」
広間では、リヒトがティーカップの最後の一口を飲み干し、優雅に立ち上がっていた。彼の周囲では、実業家ヴァン、鑑定家バジル、そして弟子ルカと後妻エレーナが、震動を始めた床にへたり込んでいる。
「リヒト殿! 助けてくれ! 寄付金でも何でも払う、この館から出してくれ!」
ヴァンがリヒトの裾に縋り付こうとするが、リヒトはそれを冷ややかに避けた。
「おや、ヴァン殿。あなたの命の鑑定額は、先ほどまでの傲慢さに比べて随分と値下がりしたようですね。……執事殿、聞こえていますか? あなたの主人が仕掛けたこの『自動処刑システム』の鍵は、実はもう一つ存在しています。……エイリアス卿が、誰よりも信頼……いえ、軽蔑していた人物に託したはずの鍵が。」
中央制御室で、執事の眉が微かに動いた。
「……何をおっしゃる。鍵は主と共に、あの時計の文字盤に埋め込まれました。あれを抜くことは、誰にも――」
「いいえ。卿は鑑定士である私に、ある『鑑定依頼書』を事前に送っていました。そこにはこう書かれていた。『真実の重さを知る者にのみ、この狂った時間を止める権利を与える』と。……カイトくん、聞こえますか?」
カイトは執事の銃口を睨みつけながら、伝声管に向かって叫んだ。
「ああ、聞こえてるぜ、店主! でもよ、ここにあるのは歯車とレバーの山だ! どれが正解かなんて、俺のピックじゃ分からねえぞ!」
「落ち着きなさい、カイトくん。……執事殿が持っているその銃。それ自体が、実はこの部屋の『非常停止レバー』の持ち手になっているはずです。……エイリアス卿は、自分を殺す手助けをした執事に対し、最後に『自分を止めるか、それとも心中するか』の選択肢を残したのですよ。……なんとも、悪趣味な優しさではありませんか。」
執事が目を見開いた。彼は自分の手にある短筒を凝視する。その隙を、カイトは見逃さなかった。
「……っ、もらったぁ!」
カイトの体が弾丸のように跳ねた。義賊として培った跳躍力が、重い油の空気を切り裂く。執事が引き金を引くよりも早く、カイトの右足がその手首を蹴り上げた。短筒が宙を舞い、機械室の複雑な歯車の隙間へと吸い込まれていく。
「しまっ――!」
老執事の叫びも虚しく、短筒は巨大な主歯車の中心軸にガチリと噛み合った。
ギギギ……と、館全体が悲鳴を上げるような金属摩擦音が響き渡る。
「カイトくん、そのまま右から三番目の、十四番目の目盛りがあるレバーを引くのです! 逆回転の力を逃がしなさい!」
「分かった! ……くそっ、重てえな、これ!」
カイトは全体重をかけ、鈍く光るレバーを引き下げた。その瞬間、館を支配していた重低音が、高い金属音へと変化し、十四進法の時計塔が激しく震動し始めた。
広間では、天井のシャンデリアが大きく揺れ、壁の時計たちが一斉に狂ったように針を回し始めていた。
「な、何が起きているの!? 殺される、殺されるわ!」
エレーナが発狂したように叫び、出口の扉を叩く。だが扉はびくともしない。
「……エレーナ夫人。あなたがエイリアス卿の薬をすり替え、彼の死期を早めようとした鑑定事実は、もう隠せませんよ。……そしてルカ殿。あなたがその薬の入手経路を確保した。お二人は、卿が自ら死を選ぶより前に、彼を排除して遺産を手にしようとした。……違いますか?」
リヒトの言葉は、崩壊しつつある館の中でも、不思議なほどはっきりと響いた。
ルカは床に膝をつき、顔を覆った。
「……あの方は、狂っていたんだ。時計の部品になるなんて、そんな狂った計画に、これ以上付き合えるか!」
「狂っていたのは、卿か、それともあなた方の欲か。……それを決めるのは私ではありません。……ですが、この館の『最後の審判』は、どうやら下されたようですよ。」
ドォォォォォン!!
凄まじい衝撃波と共に、広間の壁一面に並んでいた時計たちが一斉に爆発するように砕け散った。だが、その破片は誰一人として傷つけることはなかった。すべては計算されていたのだ。 霧が、晴れていく。時計塔の頂上から、蒸気が勢いよく噴き出し、狂っていた十四進法の針が、ガクンと音を立てて「十二」の場所へと戻り、停止した。
中央制御室。
カイトは荒い息をつきながら、停止した歯車に背を預けて座り込んでいた。隣では、老執事が力なく壁に寄りかかり、空になった手を見つめている。
「……終わったのか?」
「……ええ。終わりましたよ、若いの。……主人の時計は、今、ようやく本当の眠りについたようだ。」
カイトは胸のポケットから、あの「複製品(コピー)のピック」を取り出した。それは、格闘の最中に執事の懐からこぼれ落ちたものだった。
「……これ、あんたが作ったのか。俺の鞄から型をとって。」
「……主人は、リヒト様を試したかったのだ。そしてその助手の、裏の顔をもね。……お若いの、君のその腕は、主人が認めた『本物』だったということだ。」
カイトは苦笑いして、そのピックを床に放り投げた。
「……そんな鑑定、いらねえよ。俺は、店主の横で働いてるのが一番性に合ってるんだ。」
伝声管から、リヒトの穏やかな声が届く。
「カイトくん、ご苦労様でした。紅茶が冷めてしまいましたから、淹れ直すとしましょう。……それと、鞄の底の隠し場所は、もう少し工夫したほうがよろしいですよ? 鑑定士の目は、隠し場所の『不自然な膨らみ』まで逃しませんからね。何を隠していたのかまでは、さすがの私でもわかりませんが。」
「……っ、店主! あんた、やっぱり知ってて黙ってやがったな!」
カイトの叫びが、静まり返った館に響き渡った。
朝日が、森の霧を黄金色に染め抜き、呪われた『刻鳴館』を優しく包み込んでいた。
だが、リヒトの瞳には、まだ拭いきれない「ある違和感」が残っていた。 (……エイリアス卿。あなたが本当に隠したかった『アストロラーベ』の真作は……本当に、壊れたのでしょうか?)
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