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第2章:王都の雑貨店と夜の鴉
2−15:刻(とき)を喰らう塔(其の終)
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朝日は、昨日までの不気味な霧を嘘のように焼き払い、森の木々を鮮やかな黄金色に縁取っていた。
『刻鳴館』を支配していた狂気的な歯車の咆哮は止まり、館にはただ、静寂と埃の舞う光音だけが残されている。中央制御室から這い出してきたカイトは、煤と油で汚れた顔を拭いもせず、広間のソファに深く沈み込んでいた。その隣では、リヒトが、まるで何事もなかったかのように、手際よく新しい紅茶を淹れている。
「……店主。結局、あの実業家とか弟子とか、あの連中はどうなったんだよ。」
カイトが力なく尋ねると、リヒトはティーカップをカイトの前のテーブルに静かに置いた。
「ヴァン殿とバジル殿、そしてルカ殿とエレーナ夫人……。彼らは今頃、階下の客間で、衛兵の到着を待っているはずですよ。執事殿が、自らすべてを告白する書状と共に、彼らの『罪の鑑定書』を衛兵へ送りましたからね。」
「執事が……。あの爺さん、自分も捕まるってのに、律儀なもんだな。」
「ええ。それが、あの主従の選んだ『幕引き』だったのでしょう。……さあ、カイトくん。冷めないうちにどうぞ。特製のベルガモットティーです。疲れを癒やすには、これ以上の鑑定品はありませんよ。」
リヒトは優雅に微笑み、自身も椅子に腰を下ろした。
だが、カイトはリヒトの視線が、時折、広間の壁にある「爆発した時計の残骸」の奥へと向けられていることに気づいていた。
「……なあ店主。あんた、まだ何か隠してるだろ。あの『伝説のアストロラーベ』ってやつ、結局どこにもなかったじゃねえか。執事は『館と心中した』なんて言ってたけどよ……」
リヒトは、手にしたカップを口元へ運ぶ動きを止め、少しだけ楽しげに目を細めた。
「おやおや、カイトくん。あなたも随分と鋭くなりましたね。……確かに、執事殿が守っていた中央制御室にあったのは、館を動かすための『心臓』ではありましたが、エイリアス卿が命を賭して遺した『魂』ではありませんでした。」
リヒトは立ち上がり、ゆっくりと部屋の中央、エイリアスが磔にされていた、あの巨大な文字盤の前へと歩み寄った。文字盤の針は、カイトの手によって止められ、今は「十二時」を指して静止している。
「カイト、近くへ。……あなたのその、精密なパズルを解き明かす指先を、もう一度だけ貸してください。……この、文字盤の『中心軸』を見て。」
カイトは促されるまま、リヒトの隣に立った。
針が交差する中心。そこには、一見するとただの太い真鍮のネジがあるだけだった。だが、カイトがルーペを覗き込むと、そのネジの頭には、肉眼では捉えられないほどの微細な、十四の「点」が円状に打たれているのが見えた。
「……これ、まさか。」
「ええ。エイリアス卿は、最大の秘密を、誰の目にも触れる場所に『偽装』していたのです。……カイト、左へ三度、右へ七度。昨夜、あなたが止めたあの歯車の逆回転のリズムを思い出して、これを回しなさい。」
カイトは唾を飲み込み、震える指先でその小さな軸を掴んだ。
(左へ……三。……右へ、七)
カチリ、という。昨夜の地響きのような音とは対照的な、銀の鈴を転がしたような、清らかな音が響いた。
次の瞬間、巨大な文字盤がゆっくりと、まるで蓮の花が開くように幾層にも分かれて展開した。 その中央から現れたのは、直径わずか十センチほどの、球体状の機械だった。金とプラチナで編まれた繊細なフレームの中に、数千もの極小の歯車が積み重なり、それらが外部の動力なしに、自律して静かに、しかし力強く回転を続けている。
「……これが。本物の、アストロラーベ……」
カイトは、そのあまりの美しさに息をすることを忘れた。球体の中に映し出されているのは、現在の星の位置、潮の満ち引き、そして――この館のある場所の、正確な「空気の重さ」までもが数値化されているかのような、神秘的な光景だった。
「素晴らしい。……まさに、人類の知性が到達した極北ですね。」
リヒトは、恍惚とした表情でその球体を見つめていた。だが、彼はそれを手に取ろうとはしなかった。ただ、その土台に隠されていた、一枚の小さな銀のプレートを指先でなぞった。
そこには、エイリアス・クロッカスの最期のメッセージが刻まれていた。
――『真実の重さを知る者よ。この時(とき)は、何物にも売ってはならない。これは、失われた未来を買い戻すための重りである。』――
「……店主。これ、どうするんだ? 王宮に届けるのか?」
カイトの問いに、リヒトは静かに首を振った。
「いいえ。王宮の官僚たちに渡せば、これはただの『便利な道具』として消費されるだけです。エイリアス卿は、そんなことを望んではいない。」
リヒトは鞄の中から、頑丈な革のケースを取り出した。
「これは、我が『雑貨店』で一時的にお預かりし、正当な鑑定結果が出るまで、地下の金庫で眠らせておきましょう。」
「……へっ、やっぱりあんた、ちゃっかりしてるな。」
カイトは呆れながらも、心のどこかで安堵していた。この美しい、しかし恐ろしい力を持った時計は、店主のような「食えない男」が持っているのが一番安全だ。
数時間後。
衛兵の馬車に連行されていく宿泊客たちの喧騒を背に、リヒトとカイトは再び自分たちの馬車に乗り込んだ。
御者台に座るカイトが、鞭を振るう前に一度、背後の館を振り返る。『刻鳴館』は、朝陽を浴びて、ようやくただの「古い屋敷」としての顔を取り戻していた。
「……なあ店主。一つ聞いていいか。」
「何でしょうか、カイト。丁寧な言葉なら、いくらでも受け付けますよ。」
「……現場に落ちてたあのピック。あんた、あれを『精密工具』だって言い張って俺を庇っただろ。……あれ、本当は何だか分かってて言ったんだよな?」
馬車の中に、一瞬の沈黙が流れた。リヒトは窓の外を流れる景色を眺めながら、ティーカップを片付ける音を立てた。
「おや、何のことでしょうか。私はただ、あの状況で最も論理的な鑑定結果を口にしただけですよ。精密な機械の館に、精密な道具がある。……それ以上の邪推は、一流の鑑定士のすることではありませんからね。」
「……またそうやって。あんた、俺の正体に気づいてるんじゃねえのかって聞いてんだよ。」
リヒトは眼鏡を指で押し上げ、鏡のような瞳で、前を見据えるカイトの背中を眺めた。
「カイトくん、私は物事の『価値』を鑑定するのが仕事です。あなたが夜にどの空を飛ぼうが、どのような獲物を運ぼうが、それはあなたの自由だ。……ですが、私の助手として働くあなたの『手』が、これほどまでに美しく、正確な仕事を成し遂げた。……私にとっての鑑定事実は、それだけで十分ですよ。」
リヒトはそれ以上何も語らず、優雅に背もたれに身を預けた。
「……ったく。相変わらず食えねえ男だぜ。」
カイトは毒づきながらも、どこか安心したように馬の背を叩いた。
「……さあ、急いで戻りましょうか、カイト。店を数日も閉めていたのです。まずは看板の埃を鑑定しなければなりませんからね。」
「ああ、分かってるよ。……店主!」
馬車は軽快な音を立てて、霧の森を後にした。 背負い袋の中で、あの小さなアストロラーベが、新しい時を刻み始めている。
『刻鳴館』を支配していた狂気的な歯車の咆哮は止まり、館にはただ、静寂と埃の舞う光音だけが残されている。中央制御室から這い出してきたカイトは、煤と油で汚れた顔を拭いもせず、広間のソファに深く沈み込んでいた。その隣では、リヒトが、まるで何事もなかったかのように、手際よく新しい紅茶を淹れている。
「……店主。結局、あの実業家とか弟子とか、あの連中はどうなったんだよ。」
カイトが力なく尋ねると、リヒトはティーカップをカイトの前のテーブルに静かに置いた。
「ヴァン殿とバジル殿、そしてルカ殿とエレーナ夫人……。彼らは今頃、階下の客間で、衛兵の到着を待っているはずですよ。執事殿が、自らすべてを告白する書状と共に、彼らの『罪の鑑定書』を衛兵へ送りましたからね。」
「執事が……。あの爺さん、自分も捕まるってのに、律儀なもんだな。」
「ええ。それが、あの主従の選んだ『幕引き』だったのでしょう。……さあ、カイトくん。冷めないうちにどうぞ。特製のベルガモットティーです。疲れを癒やすには、これ以上の鑑定品はありませんよ。」
リヒトは優雅に微笑み、自身も椅子に腰を下ろした。
だが、カイトはリヒトの視線が、時折、広間の壁にある「爆発した時計の残骸」の奥へと向けられていることに気づいていた。
「……なあ店主。あんた、まだ何か隠してるだろ。あの『伝説のアストロラーベ』ってやつ、結局どこにもなかったじゃねえか。執事は『館と心中した』なんて言ってたけどよ……」
リヒトは、手にしたカップを口元へ運ぶ動きを止め、少しだけ楽しげに目を細めた。
「おやおや、カイトくん。あなたも随分と鋭くなりましたね。……確かに、執事殿が守っていた中央制御室にあったのは、館を動かすための『心臓』ではありましたが、エイリアス卿が命を賭して遺した『魂』ではありませんでした。」
リヒトは立ち上がり、ゆっくりと部屋の中央、エイリアスが磔にされていた、あの巨大な文字盤の前へと歩み寄った。文字盤の針は、カイトの手によって止められ、今は「十二時」を指して静止している。
「カイト、近くへ。……あなたのその、精密なパズルを解き明かす指先を、もう一度だけ貸してください。……この、文字盤の『中心軸』を見て。」
カイトは促されるまま、リヒトの隣に立った。
針が交差する中心。そこには、一見するとただの太い真鍮のネジがあるだけだった。だが、カイトがルーペを覗き込むと、そのネジの頭には、肉眼では捉えられないほどの微細な、十四の「点」が円状に打たれているのが見えた。
「……これ、まさか。」
「ええ。エイリアス卿は、最大の秘密を、誰の目にも触れる場所に『偽装』していたのです。……カイト、左へ三度、右へ七度。昨夜、あなたが止めたあの歯車の逆回転のリズムを思い出して、これを回しなさい。」
カイトは唾を飲み込み、震える指先でその小さな軸を掴んだ。
(左へ……三。……右へ、七)
カチリ、という。昨夜の地響きのような音とは対照的な、銀の鈴を転がしたような、清らかな音が響いた。
次の瞬間、巨大な文字盤がゆっくりと、まるで蓮の花が開くように幾層にも分かれて展開した。 その中央から現れたのは、直径わずか十センチほどの、球体状の機械だった。金とプラチナで編まれた繊細なフレームの中に、数千もの極小の歯車が積み重なり、それらが外部の動力なしに、自律して静かに、しかし力強く回転を続けている。
「……これが。本物の、アストロラーベ……」
カイトは、そのあまりの美しさに息をすることを忘れた。球体の中に映し出されているのは、現在の星の位置、潮の満ち引き、そして――この館のある場所の、正確な「空気の重さ」までもが数値化されているかのような、神秘的な光景だった。
「素晴らしい。……まさに、人類の知性が到達した極北ですね。」
リヒトは、恍惚とした表情でその球体を見つめていた。だが、彼はそれを手に取ろうとはしなかった。ただ、その土台に隠されていた、一枚の小さな銀のプレートを指先でなぞった。
そこには、エイリアス・クロッカスの最期のメッセージが刻まれていた。
――『真実の重さを知る者よ。この時(とき)は、何物にも売ってはならない。これは、失われた未来を買い戻すための重りである。』――
「……店主。これ、どうするんだ? 王宮に届けるのか?」
カイトの問いに、リヒトは静かに首を振った。
「いいえ。王宮の官僚たちに渡せば、これはただの『便利な道具』として消費されるだけです。エイリアス卿は、そんなことを望んではいない。」
リヒトは鞄の中から、頑丈な革のケースを取り出した。
「これは、我が『雑貨店』で一時的にお預かりし、正当な鑑定結果が出るまで、地下の金庫で眠らせておきましょう。」
「……へっ、やっぱりあんた、ちゃっかりしてるな。」
カイトは呆れながらも、心のどこかで安堵していた。この美しい、しかし恐ろしい力を持った時計は、店主のような「食えない男」が持っているのが一番安全だ。
数時間後。
衛兵の馬車に連行されていく宿泊客たちの喧騒を背に、リヒトとカイトは再び自分たちの馬車に乗り込んだ。
御者台に座るカイトが、鞭を振るう前に一度、背後の館を振り返る。『刻鳴館』は、朝陽を浴びて、ようやくただの「古い屋敷」としての顔を取り戻していた。
「……なあ店主。一つ聞いていいか。」
「何でしょうか、カイト。丁寧な言葉なら、いくらでも受け付けますよ。」
「……現場に落ちてたあのピック。あんた、あれを『精密工具』だって言い張って俺を庇っただろ。……あれ、本当は何だか分かってて言ったんだよな?」
馬車の中に、一瞬の沈黙が流れた。リヒトは窓の外を流れる景色を眺めながら、ティーカップを片付ける音を立てた。
「おや、何のことでしょうか。私はただ、あの状況で最も論理的な鑑定結果を口にしただけですよ。精密な機械の館に、精密な道具がある。……それ以上の邪推は、一流の鑑定士のすることではありませんからね。」
「……またそうやって。あんた、俺の正体に気づいてるんじゃねえのかって聞いてんだよ。」
リヒトは眼鏡を指で押し上げ、鏡のような瞳で、前を見据えるカイトの背中を眺めた。
「カイトくん、私は物事の『価値』を鑑定するのが仕事です。あなたが夜にどの空を飛ぼうが、どのような獲物を運ぼうが、それはあなたの自由だ。……ですが、私の助手として働くあなたの『手』が、これほどまでに美しく、正確な仕事を成し遂げた。……私にとっての鑑定事実は、それだけで十分ですよ。」
リヒトはそれ以上何も語らず、優雅に背もたれに身を預けた。
「……ったく。相変わらず食えねえ男だぜ。」
カイトは毒づきながらも、どこか安心したように馬の背を叩いた。
「……さあ、急いで戻りましょうか、カイト。店を数日も閉めていたのです。まずは看板の埃を鑑定しなければなりませんからね。」
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