王都の片隅、名もなき雑貨店 〜没落王子の鑑定眼と、粗野な義賊のバイト生活〜

kurimomo

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第2章:王都の雑貨店と夜の鴉

2−17:名もなき肖像(其の一)――拒絶するキャンバス

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 秋の雨が石畳を叩く音は、どこか葬送の調べに似ている。王都の路地裏に佇むとある雑貨店の店内は、湿り気を帯びた空気と、古びた紙や蜜蝋の匂いが混じり合い、一種独特の静寂に包まれていた。

「……なあ店主。雨の日は客が来ねえからって、そんな難しい本ばかり読んでると、余計に頭が硬くなるぜ。」

  カイトはカウンターの端で、売れ残りの真鍮製ランプを磨きながら欠伸を噛み殺した。彼にとって、この店で過ごす雨の午後は、義賊として夜を駆けるための「退屈な休息」に過ぎない。

 呼ばれた店主リヒトは、ページを捲る手を止めず、眼鏡の奥の瞳を僅かに細めた。

 「カイトくん。静寂というものは、往々にして最も雄弁な語り手を連れてくるものです。……ほら、聞こえますよ。雨音を乱す、迷いと焦燥に満ちた足音が。」

 リヒトが顔を上げると同時、店のベルが「チリン」と湿った音を立てて鳴った。扉を押し開けて入ってきたのは、全身を黒いレインコートですっぽりと覆った男だった。男は周囲を警戒するように一度振り返り、抱えていた大きな「額縁」を、祈るような手つきでカウンターの上へと置いた。

「……これを、鑑定してほしい。一刻も早く、だ。」

 男がコートのフードを脱ぐと、そこから現れたのは、ひどく憔悴した様子の青年だった。青白く、血の気の失せた頬には、数日間まともに眠っていないことを示す深い隈が刻まれている。

「ようこそ、お客様。この店の店主、リヒトです。」

  リヒトは立ち上がり、淀みのない動作で男を促した。 

「……その額縁に収められた『未完成』の理由。それを解き明かせばよろしいでしょうか?」

 青年は驚いたように目を見開いた。「未完成」だとはまだ一言も発していない。リヒトは無造作に被せられた布の僅かな「弛み」から、額縁の厚みとキャンバスの張りの不自然さを既に見て取っていたのだ。

 青年が震える手で布を剥ぐと、そこには異様な油絵が姿を現した。描かれているのは、豪華な絹のドレスを纏い、霧に煙る庭園の真ん中に佇む一人の女性。筆致は驚くほど精緻で、ドレスのレース一枚、背景の薔薇の棘に至るまで、執念じみた写実性で描き込まれている。  
 しかし、その「顔」の部分だけが、まるで塗り潰されたかのように真っ白なまま、不気味に放置されていた。

「……妻だ。」 

 青年――画家エドールが、消え入るような声で言った。 

「半年前に病で亡くなった妻、ミレーヌを私は描いた。彼女のすべてを愛していた。愛していたはずなんだ。……だが、どれほど筆を重ねても、彼女の『顔』だけが描けない。昨日まで覚えていたはずの瞳の色、唇の厚みが、描き始めようとすると霧のように消えてしまう。そして……」

 エドールは自分の頭を抱え、絶望的な声を絞り出した。

「無理に描こうとすると、キャンバスが私の筆を……拒絶するんだ。」
「拒絶、ですか。」
「信じてもらえないかもしれないが、絵具が乗らないんだ! 顔の部分にだけ、まるで目に見えない壁があるように。……最近では、夜になるとこの絵から、彼女の泣き声が聞こえる。店主、この絵には彼女の呪いが、あるいは私の狂気が宿っているのか?」

 カイトが思わず一歩後ろに下がる。「呪い」という言葉には、夜の住人ですら恐怖を覚える。     
 しかし、リヒトは動じなかった。彼は懐から取り出したルーペを構えると、エドールの制止を待たず、キャンバスの数センチ先まで顔を近づけた。

「カイトくん。店の裏にある『精製水』と、それから『揮発性の高いアルコール溶液』を持ってきなさい。……今、この絵に下された『呪い』の正体を鑑定します。」



 数分後。
 リヒトはカイトが持ってきた脱脂綿に溶液を含ませ、真っ白な顔の部分に、ごく僅かに触れさせた。   

「……おや。興味深いですね。」 

 リヒトが呟いた。脱脂綿には、色は付着していない。しかし、綿の繊維が僅かに「弾かれた」ような跡が残った。

「エドール殿。この絵が筆を拒絶する理由は、霊的な呪いなどではありません。純然たる『物理的事実』です。……エドール殿、あなたが顔を描こうとした時、どのような筆使いをされましたか?」

「そ、それは……何度も、何度も上塗りを試みた。だが、どうしても色が浮いてしまって……」

「当然です。……この顔の部分には、極めて薄く、しかし強固な『油脂層』が形成されています。それも、通常の画用油ではありません。揮発しにくく、顔料を弾く性質を持った……これは、蜜蝋(みつろう)とラノリンを主成分とした『化粧用クリーム』の成分です。」

 リヒトの言葉に、エドールが呆然とした表情を浮かべた。 

「化粧品……? 私が、妻の化粧品で絵を描いたとでも言うのか? そんな馬鹿な!」
「いいえ。あなたは正しい絵具を使ったはずです。……しかし、問題はキャンバスの方にある。カイトくん、ルーペを貸してください。……見てください。顔の境界線、ドレスの襟元と接する部分。ここだけに、極めて微細な『飛沫』が飛んでいる。……これは、この絵が完成する前に、誰かがキャンバスの前で、何かを『塗りたくった』痕跡です。」

 リヒトは、エドールの指先をじっと見つめた。

 「エドール殿。あなたの指先、爪の間に残っているその『白い粉末』。それはあなたが今朝使った絵具ではありませんね。……それは、女性が肌を白く見せるために使う、特定の調合による白粉(おしろい)の成分です。」

「……っ!」

「鑑定士としての私の推理を述べましょう。……エドール殿、あなたは『妻の顔を思い出せない』と言いましたが、それは違います。あなたは、彼女の『本物の顔』を見たことがないのではないですか?」

 店内に、氷のような沈黙が落ちた。外の雨音が、不気味なほど大きく聞こえる。

「……何を、言っている。」

「この絵が筆を弾くのは、顔の部分に本物の化粧品が付着しているから。そして、あなたが描こうとすると記憶が霞むのは、あなたが愛していたミレーヌ夫人が、常に『偽物の顔』……つまり完璧な化粧という仮面を纏っていたからです。……あなたは、素顔の彼女を一度も見たことがなかった。」

 リヒトは、額縁の裏側に手を回した。そこには、小さな「不自然な膨らみ」があった。

 「……カイトくん。この絵の裏に、何か薄いものが挟み込まれています。あなたの得意な『抜き取り』の出番です。……慎重に。」

 カイトは生唾を飲み込み、リヒトの指示通り、額縁と木枠の僅かな隙間に指を滑らせた。引き出されたのは、一枚の古びた、しかし丁寧な封がされた「手紙」だった。

「……それは、妻が亡くなる直前に、私に遺した……」 
「いいえ封が切られていない。つまり、あなたはこれを読む勇気がなかった。あるいは、読むことを本能が拒絶した。」

 リヒトは手紙を受け取ると、それを開けることなく、エドールに突きつけた。

「エドール殿。あなたの抱える呪いの正体は、亡き妻の幽霊ではありません。……あなたが作り上げた『理想の妻』という虚像と、その裏に隠された『名もなき真実』との乖離です。」

 リヒトの瞳は、憐れみを含みながらも、容赦なく真実を射抜いていた。

「……今夜、あなたのアトリエを鑑定させていただきます。そこに、あなたが無意識のうちに『捨てた』はずの、彼女の真実が落ちているはずです。」

 エドールは力なく膝をつき、真っ白な顔の肖像画を見つめて震えていた。  
 カイトは店主の横顔を盗み見た。リヒトの言葉は鋭いが、そこにはどこか、自嘲的な響きが混じっているような気がした。

「……さあ、カイトくん。雨の中の外出になりますが、仕事ですよ。……画家の記憶から消えた、本当の『顔』を探しに行きましょう。」

 リヒトは優雅にコートを羽織り、雨降る夜の街へと踏み出した。キャンバスの白さは、これから暴かれるであろう残酷な真実を待つ、死装束のように冷たく光っていた。
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