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前編
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大事な話があるんだ。
3年付き合ってきた広樹からそうメッセンジャーアプリで連絡が来たあたしはウキウキ気分でいる。
「まぁ? 3年つきあってきたんだし、そろそろプロポーズかな。30になる前で良かったぁ」
今年29歳になるから、若干焦ってはいた。こっちから言うのもびみょーだし。かといって結婚向けの雑誌とか見せつけるのもどうかと思ってたし。広樹ってイケメンだし、身体の相性も良いし、結婚しても上手くいくと思ってたから、あたしもウエディングドレスを着られるんだと思うととても嬉しい。
「後は美容院と、フォーマルな格好だね。友達の結婚式で着たドレスでいっか。……プロポーズ後ってHするもんだよね? どうせなら脱毛もお願いしよー」
スマホを操作して、行きつけの美容院と脱毛サロンの予約を取る。広樹から指定された4日後には間に合いそうだ。それに、広樹から指定されたレストランはドレスコードが必要な場所だから身なりも綺麗にしないといけない。
「さぁて、お風呂入ってこよーっと」
いつもならこんなに独り言は言わないあたしなのに、浮かれて心の声が漏れている。あたししか住んでないから別に構わないんだけど。ピンチハンガーにかかっている夜用の下着と上下のスウェットを手に取って脱衣所に向かっていった。
仕事をして、美容院とかにも行くとあっという間にその日は来た。今日に近付くにつれて小躍りしたくなってきていた。あたしは小綺麗な格好をしてそのレストランにタクシーで向かう。タクシーに乗っている間、運転手のおじさんが話し掛けてきた。
「お客さん、今日はご友人の結婚式なんですか?」
「いいえー、付き合ってる彼から『大事な話がある』って呼ばれたんですー」
「おおっ! プロポーズみたいですね」
「そうですねー、あたしもアラサーなんでちょっと焦ってた? みたいな感じなんですー」
「ええっ!? お客さん20代前半くらいかと思ってました、お綺麗ですね。うちの嫁とは大違いだ」
「またまたー、お上手ですこと」
「いえいえ、本心ですよ。……次の交差点を曲がったら到着しますのでご準備だけお願いしますね」
「はーい」
土曜日だというのに、スーツを着た男女がせかせかと歩いている。あたしの実家がある田舎とかぜんぜん違って皆忙しそうだ。そういえば、実家に全然帰ってない。電話とかでちょこっと話すだけだ。広樹を紹介出来たらなぁ、なんて考える。そして、その夢はきっとすぐに叶うだろう。うん、待ち遠しいな。
タクシーは指定されたレストランのエントランスホール前で止まった。まぁ、かなり綺麗なところだ。
「着きました、料金は640円になります」
「じゃあ1000円で。おつりはいりません。あと……」
ここまで乗っけてくれたお礼と言ってはなんだけど、ちょっと前屈みになってあたしの自慢のFカップある胸の谷間を見せつける。おじさんは少し見ては目を離すことを何度か繰り返した。心なしか顔が赤くなっている。
「女を綺麗にさせるのは男性からの愛情です。奥様を満足させられるのはおじさまだけですよ」
「……アドバイスありがとうございます。お客様の彼氏が羨ましいですよ」
「そうですね、……またどこかでお会い出来たら良いですね」
「ええ、今後もご贔屓に。では」
バタン。
タクシーのドアは閉まり、出発した。また誰か他の人を乗せることだろう。さて、あたしも行こうか。うーん、プロポーズってドキドキするなぁ!
でも、あたしが待ち受けていたのはそんな甘い物じゃ無かった。さっきまでの胸の高まりは消えた。代わりにどす黒い感情が溢れ出す。何回か深呼吸してこれからの修羅場に備えた。
「んお? おー、春菜、こっちだ!」
「…………」
ウエイトレスに案内されて向かったテーブルには3年付き合ってきた広樹と知らない女が既に座っていた。しかも、その女のお腹は膨らんでいて、出産まであと2ヶ月位だろう。愛しそうにお腹を摩っている。この時点で広樹の浮気は確実だ。なんて言い訳を聞かされるのだろうか。
あたしの無になった表情と広樹の暢気な顔、そして女のお腹を見て事情を一瞬にして悟ったウエイトレスはあたしを気の毒そうに見る。でも、あたしと目が合うとその感情を上手いこと消した。
「こちらです、お客様」
「……どうも」
ウエイトレスが椅子を指差してくれてあたしは座った。悪いのは広樹でこのウエイトレスじゃ無い。八つ当たりをするのはお門違いだ。あたしが座ったら、ウエイトレスはそそくさと離れていった。
3年付き合ってきた広樹からどんどん思いが無くなってくる。
「……で、どういう了見?」
「んー? 春菜何頼む? もちろん割り勘な? 俺ら金使うからさ、色々と」
「……いや、意味分かんないんだけど…………」
「意味分かんないのは春菜だって、レストランに来て何も頼まないのは失礼だろ?」
「……はぁ?」
何だ、この男。意味不明なのはお前だっつーの。彼女と妊娠させた女を1つのテーブルに座らせるってどういう了見だ、この早漏野郎。
もちろん表には出さない。問い詰めるのはこの後だ。……でも、この時点であたしの幸せは無くなったのも確実だ。別れ話を切り出されるに違いない。身体全体がどっと重くなった気がする。
「いいから、ほら何か頼めって。あ、俺らの分も払ってくれると嬉しいな。なあ、步美?」
「そうだねー、ってことで私達のお会計もお願いしますねぇ~? は・る・なさぁん?」
"步美"と呼ばれたその女はあたしを見下してきては嫌らしく嗤う。いつの間にかに固く握られた拳はわなわなと怒りに震えている。喧嘩を買うのは簡単だ。でも、ここは他のお客さんもいる。冷静になれ、あたし。
怒りにまかせて怒鳴り散らかしたい気持ちをぐっと抑えて深呼吸する。幾分落ち着いたあたしの方から本題を切り出した。
「……結局はあたしと付き合ってたけど、その女と生でヤってデキちゃったからあたしと別れたいってことだよね?」
「お前何言ってんの? 俺と春菜付き合ってねえぞ? 勘違いしてね?」
「…………え?」
え? それって、どういうこと……? 3年付き合ってたんじゃ無いの…………?
状況を飲み込めないあたしを放っておいて、広樹は1人語り出す。"步美"も加わった。
「いや、俺達付き合ってねえって。俺の彼女は步美だけだ。んで、今度結婚すんだよ、俺ら。な、步美?」
「うん! ひー君のタキシード姿楽しみ!」
「俺も步美のウエディングドレス楽しみだ」
「ひー君、だいだいだ~いすき!」
「俺も步美のこと大好きだ」
…………。
勝手に惚気だしたこの男女をどこか別の宇宙の存在に思えて仕方がない。つまり、付き合ってたと思ってたのはあたしだけで、広樹にとっては身体だけの関係らしかった。その事実に気がつくと、虚しさで溢れかえる。
この3年間広樹と付き合えて本当に楽しかった。でも、それはあたしだけの幻想だったみたいだ。この恋に終止符を打って新しい恋愛を始めよう。今は男性不信にならないように祈るだけだ。
「……そっか、広樹といられて楽しかったよ、じゃあね」
「は? いや、勝手に帰ろうとすんなよ。話はまだ終わってねえ」
「……今度は何?」
「俺らの結婚式の準備をしてくれよ。フレンドだろ?」
「……………………」
…………意味が分からない。あたしはこんな奴を好きだったのか。こんな、こんな……!
遂に我慢の限界が来た。テーブルを思いっきり叩いて立上がる。思いのほかその音や食器が擦れた音が響いて、何事かと周りのお客さんや店員の目があたし達を貫いた。でも関係ない。あたしの怒りは止まらなかった。
「あんたさぁ、人をコケにすんのも大概にしなさいよ!!」
「飯食ってんだぞ、お前がいい加減にしろ。早く座れ、この馬鹿」
「はぁ……!? そうやって訳わかんないことを! あたしの3年返せ!」
「お前も楽しんでたじゃねえか! あんあん鳴いてよ! 『身体の相性良いね』って喜んでたじゃねえか!」
「この…………!」
羞恥心やら怒りを抑えきれない。
テーブルの上の水が入ったグラスを見つけて右手でつかみ取る。でも、あたしの最後の理性が行為を踏みとどまらせた。怒りで震えながらだけど、なんとかグラスをテーブルに戻す。あたしはただただ目の前の男を睨み付けることしか出来ない。視界は真っ赤で、闘牛の気分だった。
「他のお客さんに迷惑じゃ無いですかぁ~、座ってくださいよぉ~」
「あんたも…………!」
「きゃぁ~、こわぁ~い。ひー君の本命は私ですよぉ~、貴方みたいな野蛮人とは違ってぇ」
「…………っ!!」
落ち着け。いいからやっちまえ。落ち着け。いいからやっちまえ。
あたしの理性と本能が囁いてきて、なんとか理性が勝った。暴力沙汰にはさせない。荒い息を吐いては思考を取り戻す。ここでこいつらの手に乗ったらそれこそ人生が終わる。こんな馬鹿げた土俵に乗る必要は無い。
さっきよりもざわつきが激しくなってきたときに、さっきのウエイトレスと2人のウエーターがやってきた。
「お客様、申し訳ありません。他のお客様のご迷惑になってしますので……」
「だってよ、春菜。早く帰っちまえ」
「そうするよ! ……すみません、ご迷惑を掛けてしまって」
「いえ……、こちらこそ申し訳ありません」
「あー、俺らの会計忘れんなよ」
「…………っ!!」
その言葉を聞いて再び怒りがこみ上げてくる。でも、あたしが何かをする前にウエーターに遮られた。大きな背中があたしの壁になってくれる。
「お客様、こちらの女性からは何も注文を承っておりません。ご自分のお会計はご自分でお支払いをお願いします」
「はぁ? こっちは客だぞ? 俺達は神だろ?」
「ええ、『お客様は神様』、そう習っております。……ですが、あなた方がしている行為を鑑みると私どもの個人的な感情が溢れてしまいます。これ以上、こちらの女性を辱める言動はお控え下さい」
「なぁに、それ。私らが悪いみたいじゃん。勝手に怒ったのはその女なんですけどぉ?」
「ええ、自制が利かなかったこちらの女性にも非はあります。ですが、端から見てもこちらの女性の気持ちを蔑ろにしたお客様にも問題はあります。お客様同士で解決出来そうであれば当店としても見逃しておりましたが、他のお客様にもご迷惑がかかってしまっておりますのでやむなく介入させて頂きました」
「ふぅ~ん、ひー君は私のなのぉ~。さっさと消えてねぇ~」
"步美"の言葉を聞いて、今すぐにでも逃げ出したい。男のものになった女と振られた女、そう序列がついてしまったけど金輪際逢わないようにする。あとは連絡先を消してサヨナラだ。
「あたしもう帰ります」
「左様で、ご案内します」
案内してくれたウエイトレスと2人のウエーターにガードされながら、あたしはそそくさと入り口に向かう。気の毒そうに見てくる人、興味が無さそうにいる人や好奇心旺盛に見てきている人……。その人達に騒がせたお詫びにと頭を下げながらレストランを後にする。
「あ、お会計……」
「先程も申しましたが、当店はお客様から注文を承っておりません。お気になさらずに」
「は、はぁ……」
まぁ、そういうことならお言葉に甘えよう。正直疲れすぎて頭が働いていない。そんな中、さっきのウエイトレスがあたしの耳元で囁いてきた。
「あんな男と結婚しなくて正解ですよ。モラハラ旦那間違いないですって」
「……はあ…………」
「聞いてる私も意味分からなかったですもん、女の貴重な3年奪ったあげくに結婚式の準備しろって? 頭湧いてるのかって、あのクズ」
「菊池! あんなのでもお客様だ。言葉に気を付けろ」
「……はーい、ってか新藤先輩も言葉遣い悪いですよー?」
「っっっ。次回お客様が御来店頂いた際にはサービスを付けさせて頂きます。お待ちしております」
「はい、ありがとうございます……」
気にかけてくれるのは嬉しいけど、多分2度と来ないだろうな。このレストランの印象はクズ男との最後となって怒りだけのものになってしまった。名前すら見るのもしんどくなるはず。それはこのウエイトレスさん達も分かっていることだろう。
「失礼します」
「「「どうかお気を付け下さいませ」」」
3人の店員に見送られながら、あたしは修羅場となった戦場を後にする。タクシー……は見当たらなさそうだ。それに、今は1人でいたい。駅まで歩きだす。
あんな男だと見抜けなかったあたしへの馬鹿さ加減、3年間の楽しかった思い出、身体目的だったことへの虚しさ……。それらがあたしの中でグルグルと蠢いている。このまま海にでも行って身投げしてしまおうか。
「あ、貴方。ちょっとお待ちになって」
「……あたし?」
駅まで歩きだして少し経つとあたしを引留めるお婆さんの声が聞こえてきた。振り返ると、杖をついて母親と同じくらいの歳のおばあちゃんが追いついてくる。
「……一体何のご用ですか?」
「聞くつもりはなかったけど一部始終を聞いてしまってね」
「それはお騒がせしました、すみません……」
「謝らなくて良いの。悪いのはあの男なんだから」
「はぁ……、それでご用とは?」
「年寄りの助言かしらね。……貴方、自分を安売りしすぎよ。もっと自分を大事にしないと」
「…………」
なんでそんなこと初対面の人に言われなきゃいけないんだ。あたしの何が分かるってんだ。
不服そうな態度を漏らしてしまっていたのかもしれない。おばあちゃんもそれに気がついた。苦笑している。
「年の功よ、貴方の2倍以上は人生重ねてるもの。後は経験則」
「……それで?」
「貴方の容姿じゃなくて、内側を見て貴方を好いてくれる男は絶対にいる。今からでも遅くない、自分を安売りしないでそんな男を見つけなさい」
「……男はこりごりなんですけど」
「それも嘘ね。貴方みたいなタイプは男で出来たトラウマを別の男で補うはず。良くも悪くも男に左右される女よ、貴方は」
「…………」
「大丈夫、貴方と釣り合う男はきっとどこかにいるから。私の予想だとちょっと気の弱い男ね、でも真面目な男」
「……はぁ…………」
「長話をしてしまってごめんなさいね。貴方が上手く行くように祈ってるわ」
そう言って、おばあちゃんは連れのおじいちゃんのもとへ戻っていった。なんかよく分からないけど、あたしは助言されたようだ。聞く聞かないは別として、今は何もかもを忘れるくらい寝ていたい。
行きと同じ身体とは信じられないほど重くなった身体に鞭を入れて、あたしは自宅を目指す。
家に着いて、適当にパーティー用の鞄を床に置いてふらふらとベッドを目指す。そしてベッドに倒れ込んだ。あんなに浮かれていたあたしがバカみたいだ。
メイク落さないと、着替えないとこのドレスも駄目になっちゃう。でも、どうでも良いなぁ……。
何も考えたくない。死ぬまでずっと寝ていたい。……そうだ、何も食べずに寝ていたら餓死出来るはず。それも良いかもしれない。
どんどんどんどん悪い方へ考えてしまう。落ち着ける家に着いたことで自暴自棄になっているあたしがいる。
ピンポーン。
そんな時にインターホンが鳴らされた。ヨロヨロと起き上がってインターホンのモニターを見ると宅急便のお兄さんがいて、あたしに荷物を運んできたみたいだ。重たい身体に鞭を打ってインターホン越しに話し掛ける。
「はい、船渡です」
「あ、CY宅急便です。船渡百合恵様からご依頼がありまして配達に参りました」
「今行きまーす」
母さんからだ。一体何だろう。
ベッドに横たわったことで、若干ドレスに皺がついた。玄関に向かいながら直す。更に、リビングの姿見でメイクが崩れてないか確認した。……ちょっと崩れてるけどまあいいや。
玄関ドアを開けると、若いお兄さんが100サイズの段ボールを玄関の前に置いていた。
「すみません、いつもありがとうございますー」
「ああ、いえ。ではこちらにサインを」
「はーい」
受け取り欄に【船渡春菜】とサインをしてお兄さんに渡す。お兄さんはあたしの胸をチラチラ見てるけどどうでも良い。むしろ、この男性と肌を重ねようかと自棄になっているあたしがいて困る。
「っと、確認しました。重いのでお気を付け下さい」
「はーい、どうもー」
お兄さんは玄関から見えるトラックに戻っていった。あたしも段ボールを玄関に入れてドアの鍵を閉めてチェーンロックもかける。
「ひぃー、重い……。何が入ってんだろう? カッターカッターっと」
靴の収納スペースを開いてカッターを探す。前に新しい靴を新調したときにカッターを置いといたはず。……とあったあった。
カッターの刃を出して、段ボールのテープを切っていく。刃物を使っている分スムーズに段ボールを開けることが出来た。中にはジャガイモ、カボチャ、ニンジンやお米なんかが入っていた。更に、便箋も入っている。
便箋を広げてみると、懐かしい母さんの文字が目に入る。見慣れた文字でほっとした。張り詰めていた神経をようやく緩めることが出来た。
『春菜へ。
今年取れたお野菜をそちらに送りました。無事に受け取ってくれたかしら。
ちゃんとご飯食べてる? お腹出して寝てない? あんたお腹壊しやすいんだから気を付けなさいよ。
東京で1人暮らしも良いけど、偶にはこっちにも帰ってきなさいね。お父さんもあんたの帰りを楽しみにしてるんだから。
1人で頑張るのも良いけど、家族なんだから私達のことも頼ってくれると嬉しいです。……でも元気でいてくれたらそれで十分だから。身体に気を付けてね。頑張れ、春菜。母と父より』
母さんと父さんからの無償の愛情を感じられて、急に鼻がツンとなった。堪えていた感情が勝手に溢れ出る。
視界が涙で滲んで、便箋の文字が読めなくなる。でも、でも! これは傷ついたあたしの心を癒やしてくれる魔法の言葉だ。
「うっっ……、ぐっっ……! ぐすっっっ……、……はぁ……!」
勝手に嗚咽が漏れる。止めようとしても勝手に溢れ出る。30手前の女がみっともない。でも耐えることが出来ない。両親との記憶が鮮明に蘇る。
物心ついた時から田んぼとか山に連れていてくれて泥だらけになった幼少期。
なんとなく故郷が嫌いになってきて、次第に反抗期を迎えた中学時代。
東京に行けば何かを変えられると思って、ただひたすらに勉強した高校時代。
大学受験のために一緒に来てくれた母さんと父さん。
雪が降って寒い中一緒に受験会場まで行ってくれて、終わったら『お疲れ、春菜』って言いながら美味しいお寿司屋さんに連れて行ってくれて。
第1志望の大学に受かると、一緒に大喜びしてくれて。
一緒に下宿先まで探してくれて。
慣れない大学生活の中でもこうやって仕送りを送ったり、たまに遊びに来てくれて。
就職先が決まって、2人に報告したら自分のように喜んでくれて。
いざ働き出すと学生と全然違って……、それでもたまに顔を見に来てくれて。
この10年の母さんと父さんの愛情を今でもくっきり思い出せる。こんなわがまま娘の為に色々してくれたことも全部。そして、気がつきたくなくても気づいてしまう両親の身体のこと。
私が10歳年を取ると言うことは、母さんと父さんも10歳年を取ると言うことだ。黒毛の方が多かった髪の毛もだんだん白髪交じりになって、手や顔の皺も目立つようになってきた。さらに、10年前は軽快な足取りだったのに、今ではあたしと一緒に歩くとなかなか追いつけないでいる。あたしが合わせてあげないといけない。子供の頃は母さんと父さんの背中はとても大きかった。でも、あたしが大きくなったらその頼りなさも同時に感じられた。
母さんと父さんの別れも徐々に近付きつつある。今までは目を逸らしてきたけど、そろそろしっかりと向き合っていかないと駄目だ。親孝行をしていこう。
「さ゛び゛し゛い゛よ゛。お゛か゛あ゛さ゛ん゛、お゛と゛う゛さ゛ん゛……。ぐすっっ、う゛わ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ん!!」
何かに憧れて東京まで来た。でも、憧れるのはもう止めよう。
"大人"のやり方を覚えて必死に取り繕っていたけど、あたしの"子供"の部分がむき出しになる。子供の時みたいに母さんと父さんに抱きついて甘えたい。でも今は出来ないからこの便箋で我慢しよう。母さんの温もりを幻でも良いから感じていたい。実家の匂いが恋しくて、母さんと父さんに無性に逢いたくてたまらない。
3年付き合ってきた広樹からそうメッセンジャーアプリで連絡が来たあたしはウキウキ気分でいる。
「まぁ? 3年つきあってきたんだし、そろそろプロポーズかな。30になる前で良かったぁ」
今年29歳になるから、若干焦ってはいた。こっちから言うのもびみょーだし。かといって結婚向けの雑誌とか見せつけるのもどうかと思ってたし。広樹ってイケメンだし、身体の相性も良いし、結婚しても上手くいくと思ってたから、あたしもウエディングドレスを着られるんだと思うととても嬉しい。
「後は美容院と、フォーマルな格好だね。友達の結婚式で着たドレスでいっか。……プロポーズ後ってHするもんだよね? どうせなら脱毛もお願いしよー」
スマホを操作して、行きつけの美容院と脱毛サロンの予約を取る。広樹から指定された4日後には間に合いそうだ。それに、広樹から指定されたレストランはドレスコードが必要な場所だから身なりも綺麗にしないといけない。
「さぁて、お風呂入ってこよーっと」
いつもならこんなに独り言は言わないあたしなのに、浮かれて心の声が漏れている。あたししか住んでないから別に構わないんだけど。ピンチハンガーにかかっている夜用の下着と上下のスウェットを手に取って脱衣所に向かっていった。
仕事をして、美容院とかにも行くとあっという間にその日は来た。今日に近付くにつれて小躍りしたくなってきていた。あたしは小綺麗な格好をしてそのレストランにタクシーで向かう。タクシーに乗っている間、運転手のおじさんが話し掛けてきた。
「お客さん、今日はご友人の結婚式なんですか?」
「いいえー、付き合ってる彼から『大事な話がある』って呼ばれたんですー」
「おおっ! プロポーズみたいですね」
「そうですねー、あたしもアラサーなんでちょっと焦ってた? みたいな感じなんですー」
「ええっ!? お客さん20代前半くらいかと思ってました、お綺麗ですね。うちの嫁とは大違いだ」
「またまたー、お上手ですこと」
「いえいえ、本心ですよ。……次の交差点を曲がったら到着しますのでご準備だけお願いしますね」
「はーい」
土曜日だというのに、スーツを着た男女がせかせかと歩いている。あたしの実家がある田舎とかぜんぜん違って皆忙しそうだ。そういえば、実家に全然帰ってない。電話とかでちょこっと話すだけだ。広樹を紹介出来たらなぁ、なんて考える。そして、その夢はきっとすぐに叶うだろう。うん、待ち遠しいな。
タクシーは指定されたレストランのエントランスホール前で止まった。まぁ、かなり綺麗なところだ。
「着きました、料金は640円になります」
「じゃあ1000円で。おつりはいりません。あと……」
ここまで乗っけてくれたお礼と言ってはなんだけど、ちょっと前屈みになってあたしの自慢のFカップある胸の谷間を見せつける。おじさんは少し見ては目を離すことを何度か繰り返した。心なしか顔が赤くなっている。
「女を綺麗にさせるのは男性からの愛情です。奥様を満足させられるのはおじさまだけですよ」
「……アドバイスありがとうございます。お客様の彼氏が羨ましいですよ」
「そうですね、……またどこかでお会い出来たら良いですね」
「ええ、今後もご贔屓に。では」
バタン。
タクシーのドアは閉まり、出発した。また誰か他の人を乗せることだろう。さて、あたしも行こうか。うーん、プロポーズってドキドキするなぁ!
でも、あたしが待ち受けていたのはそんな甘い物じゃ無かった。さっきまでの胸の高まりは消えた。代わりにどす黒い感情が溢れ出す。何回か深呼吸してこれからの修羅場に備えた。
「んお? おー、春菜、こっちだ!」
「…………」
ウエイトレスに案内されて向かったテーブルには3年付き合ってきた広樹と知らない女が既に座っていた。しかも、その女のお腹は膨らんでいて、出産まであと2ヶ月位だろう。愛しそうにお腹を摩っている。この時点で広樹の浮気は確実だ。なんて言い訳を聞かされるのだろうか。
あたしの無になった表情と広樹の暢気な顔、そして女のお腹を見て事情を一瞬にして悟ったウエイトレスはあたしを気の毒そうに見る。でも、あたしと目が合うとその感情を上手いこと消した。
「こちらです、お客様」
「……どうも」
ウエイトレスが椅子を指差してくれてあたしは座った。悪いのは広樹でこのウエイトレスじゃ無い。八つ当たりをするのはお門違いだ。あたしが座ったら、ウエイトレスはそそくさと離れていった。
3年付き合ってきた広樹からどんどん思いが無くなってくる。
「……で、どういう了見?」
「んー? 春菜何頼む? もちろん割り勘な? 俺ら金使うからさ、色々と」
「……いや、意味分かんないんだけど…………」
「意味分かんないのは春菜だって、レストランに来て何も頼まないのは失礼だろ?」
「……はぁ?」
何だ、この男。意味不明なのはお前だっつーの。彼女と妊娠させた女を1つのテーブルに座らせるってどういう了見だ、この早漏野郎。
もちろん表には出さない。問い詰めるのはこの後だ。……でも、この時点であたしの幸せは無くなったのも確実だ。別れ話を切り出されるに違いない。身体全体がどっと重くなった気がする。
「いいから、ほら何か頼めって。あ、俺らの分も払ってくれると嬉しいな。なあ、步美?」
「そうだねー、ってことで私達のお会計もお願いしますねぇ~? は・る・なさぁん?」
"步美"と呼ばれたその女はあたしを見下してきては嫌らしく嗤う。いつの間にかに固く握られた拳はわなわなと怒りに震えている。喧嘩を買うのは簡単だ。でも、ここは他のお客さんもいる。冷静になれ、あたし。
怒りにまかせて怒鳴り散らかしたい気持ちをぐっと抑えて深呼吸する。幾分落ち着いたあたしの方から本題を切り出した。
「……結局はあたしと付き合ってたけど、その女と生でヤってデキちゃったからあたしと別れたいってことだよね?」
「お前何言ってんの? 俺と春菜付き合ってねえぞ? 勘違いしてね?」
「…………え?」
え? それって、どういうこと……? 3年付き合ってたんじゃ無いの…………?
状況を飲み込めないあたしを放っておいて、広樹は1人語り出す。"步美"も加わった。
「いや、俺達付き合ってねえって。俺の彼女は步美だけだ。んで、今度結婚すんだよ、俺ら。な、步美?」
「うん! ひー君のタキシード姿楽しみ!」
「俺も步美のウエディングドレス楽しみだ」
「ひー君、だいだいだ~いすき!」
「俺も步美のこと大好きだ」
…………。
勝手に惚気だしたこの男女をどこか別の宇宙の存在に思えて仕方がない。つまり、付き合ってたと思ってたのはあたしだけで、広樹にとっては身体だけの関係らしかった。その事実に気がつくと、虚しさで溢れかえる。
この3年間広樹と付き合えて本当に楽しかった。でも、それはあたしだけの幻想だったみたいだ。この恋に終止符を打って新しい恋愛を始めよう。今は男性不信にならないように祈るだけだ。
「……そっか、広樹といられて楽しかったよ、じゃあね」
「は? いや、勝手に帰ろうとすんなよ。話はまだ終わってねえ」
「……今度は何?」
「俺らの結婚式の準備をしてくれよ。フレンドだろ?」
「……………………」
…………意味が分からない。あたしはこんな奴を好きだったのか。こんな、こんな……!
遂に我慢の限界が来た。テーブルを思いっきり叩いて立上がる。思いのほかその音や食器が擦れた音が響いて、何事かと周りのお客さんや店員の目があたし達を貫いた。でも関係ない。あたしの怒りは止まらなかった。
「あんたさぁ、人をコケにすんのも大概にしなさいよ!!」
「飯食ってんだぞ、お前がいい加減にしろ。早く座れ、この馬鹿」
「はぁ……!? そうやって訳わかんないことを! あたしの3年返せ!」
「お前も楽しんでたじゃねえか! あんあん鳴いてよ! 『身体の相性良いね』って喜んでたじゃねえか!」
「この…………!」
羞恥心やら怒りを抑えきれない。
テーブルの上の水が入ったグラスを見つけて右手でつかみ取る。でも、あたしの最後の理性が行為を踏みとどまらせた。怒りで震えながらだけど、なんとかグラスをテーブルに戻す。あたしはただただ目の前の男を睨み付けることしか出来ない。視界は真っ赤で、闘牛の気分だった。
「他のお客さんに迷惑じゃ無いですかぁ~、座ってくださいよぉ~」
「あんたも…………!」
「きゃぁ~、こわぁ~い。ひー君の本命は私ですよぉ~、貴方みたいな野蛮人とは違ってぇ」
「…………っ!!」
落ち着け。いいからやっちまえ。落ち着け。いいからやっちまえ。
あたしの理性と本能が囁いてきて、なんとか理性が勝った。暴力沙汰にはさせない。荒い息を吐いては思考を取り戻す。ここでこいつらの手に乗ったらそれこそ人生が終わる。こんな馬鹿げた土俵に乗る必要は無い。
さっきよりもざわつきが激しくなってきたときに、さっきのウエイトレスと2人のウエーターがやってきた。
「お客様、申し訳ありません。他のお客様のご迷惑になってしますので……」
「だってよ、春菜。早く帰っちまえ」
「そうするよ! ……すみません、ご迷惑を掛けてしまって」
「いえ……、こちらこそ申し訳ありません」
「あー、俺らの会計忘れんなよ」
「…………っ!!」
その言葉を聞いて再び怒りがこみ上げてくる。でも、あたしが何かをする前にウエーターに遮られた。大きな背中があたしの壁になってくれる。
「お客様、こちらの女性からは何も注文を承っておりません。ご自分のお会計はご自分でお支払いをお願いします」
「はぁ? こっちは客だぞ? 俺達は神だろ?」
「ええ、『お客様は神様』、そう習っております。……ですが、あなた方がしている行為を鑑みると私どもの個人的な感情が溢れてしまいます。これ以上、こちらの女性を辱める言動はお控え下さい」
「なぁに、それ。私らが悪いみたいじゃん。勝手に怒ったのはその女なんですけどぉ?」
「ええ、自制が利かなかったこちらの女性にも非はあります。ですが、端から見てもこちらの女性の気持ちを蔑ろにしたお客様にも問題はあります。お客様同士で解決出来そうであれば当店としても見逃しておりましたが、他のお客様にもご迷惑がかかってしまっておりますのでやむなく介入させて頂きました」
「ふぅ~ん、ひー君は私のなのぉ~。さっさと消えてねぇ~」
"步美"の言葉を聞いて、今すぐにでも逃げ出したい。男のものになった女と振られた女、そう序列がついてしまったけど金輪際逢わないようにする。あとは連絡先を消してサヨナラだ。
「あたしもう帰ります」
「左様で、ご案内します」
案内してくれたウエイトレスと2人のウエーターにガードされながら、あたしはそそくさと入り口に向かう。気の毒そうに見てくる人、興味が無さそうにいる人や好奇心旺盛に見てきている人……。その人達に騒がせたお詫びにと頭を下げながらレストランを後にする。
「あ、お会計……」
「先程も申しましたが、当店はお客様から注文を承っておりません。お気になさらずに」
「は、はぁ……」
まぁ、そういうことならお言葉に甘えよう。正直疲れすぎて頭が働いていない。そんな中、さっきのウエイトレスがあたしの耳元で囁いてきた。
「あんな男と結婚しなくて正解ですよ。モラハラ旦那間違いないですって」
「……はあ…………」
「聞いてる私も意味分からなかったですもん、女の貴重な3年奪ったあげくに結婚式の準備しろって? 頭湧いてるのかって、あのクズ」
「菊池! あんなのでもお客様だ。言葉に気を付けろ」
「……はーい、ってか新藤先輩も言葉遣い悪いですよー?」
「っっっ。次回お客様が御来店頂いた際にはサービスを付けさせて頂きます。お待ちしております」
「はい、ありがとうございます……」
気にかけてくれるのは嬉しいけど、多分2度と来ないだろうな。このレストランの印象はクズ男との最後となって怒りだけのものになってしまった。名前すら見るのもしんどくなるはず。それはこのウエイトレスさん達も分かっていることだろう。
「失礼します」
「「「どうかお気を付け下さいませ」」」
3人の店員に見送られながら、あたしは修羅場となった戦場を後にする。タクシー……は見当たらなさそうだ。それに、今は1人でいたい。駅まで歩きだす。
あんな男だと見抜けなかったあたしへの馬鹿さ加減、3年間の楽しかった思い出、身体目的だったことへの虚しさ……。それらがあたしの中でグルグルと蠢いている。このまま海にでも行って身投げしてしまおうか。
「あ、貴方。ちょっとお待ちになって」
「……あたし?」
駅まで歩きだして少し経つとあたしを引留めるお婆さんの声が聞こえてきた。振り返ると、杖をついて母親と同じくらいの歳のおばあちゃんが追いついてくる。
「……一体何のご用ですか?」
「聞くつもりはなかったけど一部始終を聞いてしまってね」
「それはお騒がせしました、すみません……」
「謝らなくて良いの。悪いのはあの男なんだから」
「はぁ……、それでご用とは?」
「年寄りの助言かしらね。……貴方、自分を安売りしすぎよ。もっと自分を大事にしないと」
「…………」
なんでそんなこと初対面の人に言われなきゃいけないんだ。あたしの何が分かるってんだ。
不服そうな態度を漏らしてしまっていたのかもしれない。おばあちゃんもそれに気がついた。苦笑している。
「年の功よ、貴方の2倍以上は人生重ねてるもの。後は経験則」
「……それで?」
「貴方の容姿じゃなくて、内側を見て貴方を好いてくれる男は絶対にいる。今からでも遅くない、自分を安売りしないでそんな男を見つけなさい」
「……男はこりごりなんですけど」
「それも嘘ね。貴方みたいなタイプは男で出来たトラウマを別の男で補うはず。良くも悪くも男に左右される女よ、貴方は」
「…………」
「大丈夫、貴方と釣り合う男はきっとどこかにいるから。私の予想だとちょっと気の弱い男ね、でも真面目な男」
「……はぁ…………」
「長話をしてしまってごめんなさいね。貴方が上手く行くように祈ってるわ」
そう言って、おばあちゃんは連れのおじいちゃんのもとへ戻っていった。なんかよく分からないけど、あたしは助言されたようだ。聞く聞かないは別として、今は何もかもを忘れるくらい寝ていたい。
行きと同じ身体とは信じられないほど重くなった身体に鞭を入れて、あたしは自宅を目指す。
家に着いて、適当にパーティー用の鞄を床に置いてふらふらとベッドを目指す。そしてベッドに倒れ込んだ。あんなに浮かれていたあたしがバカみたいだ。
メイク落さないと、着替えないとこのドレスも駄目になっちゃう。でも、どうでも良いなぁ……。
何も考えたくない。死ぬまでずっと寝ていたい。……そうだ、何も食べずに寝ていたら餓死出来るはず。それも良いかもしれない。
どんどんどんどん悪い方へ考えてしまう。落ち着ける家に着いたことで自暴自棄になっているあたしがいる。
ピンポーン。
そんな時にインターホンが鳴らされた。ヨロヨロと起き上がってインターホンのモニターを見ると宅急便のお兄さんがいて、あたしに荷物を運んできたみたいだ。重たい身体に鞭を打ってインターホン越しに話し掛ける。
「はい、船渡です」
「あ、CY宅急便です。船渡百合恵様からご依頼がありまして配達に参りました」
「今行きまーす」
母さんからだ。一体何だろう。
ベッドに横たわったことで、若干ドレスに皺がついた。玄関に向かいながら直す。更に、リビングの姿見でメイクが崩れてないか確認した。……ちょっと崩れてるけどまあいいや。
玄関ドアを開けると、若いお兄さんが100サイズの段ボールを玄関の前に置いていた。
「すみません、いつもありがとうございますー」
「ああ、いえ。ではこちらにサインを」
「はーい」
受け取り欄に【船渡春菜】とサインをしてお兄さんに渡す。お兄さんはあたしの胸をチラチラ見てるけどどうでも良い。むしろ、この男性と肌を重ねようかと自棄になっているあたしがいて困る。
「っと、確認しました。重いのでお気を付け下さい」
「はーい、どうもー」
お兄さんは玄関から見えるトラックに戻っていった。あたしも段ボールを玄関に入れてドアの鍵を閉めてチェーンロックもかける。
「ひぃー、重い……。何が入ってんだろう? カッターカッターっと」
靴の収納スペースを開いてカッターを探す。前に新しい靴を新調したときにカッターを置いといたはず。……とあったあった。
カッターの刃を出して、段ボールのテープを切っていく。刃物を使っている分スムーズに段ボールを開けることが出来た。中にはジャガイモ、カボチャ、ニンジンやお米なんかが入っていた。更に、便箋も入っている。
便箋を広げてみると、懐かしい母さんの文字が目に入る。見慣れた文字でほっとした。張り詰めていた神経をようやく緩めることが出来た。
『春菜へ。
今年取れたお野菜をそちらに送りました。無事に受け取ってくれたかしら。
ちゃんとご飯食べてる? お腹出して寝てない? あんたお腹壊しやすいんだから気を付けなさいよ。
東京で1人暮らしも良いけど、偶にはこっちにも帰ってきなさいね。お父さんもあんたの帰りを楽しみにしてるんだから。
1人で頑張るのも良いけど、家族なんだから私達のことも頼ってくれると嬉しいです。……でも元気でいてくれたらそれで十分だから。身体に気を付けてね。頑張れ、春菜。母と父より』
母さんと父さんからの無償の愛情を感じられて、急に鼻がツンとなった。堪えていた感情が勝手に溢れ出る。
視界が涙で滲んで、便箋の文字が読めなくなる。でも、でも! これは傷ついたあたしの心を癒やしてくれる魔法の言葉だ。
「うっっ……、ぐっっ……! ぐすっっっ……、……はぁ……!」
勝手に嗚咽が漏れる。止めようとしても勝手に溢れ出る。30手前の女がみっともない。でも耐えることが出来ない。両親との記憶が鮮明に蘇る。
物心ついた時から田んぼとか山に連れていてくれて泥だらけになった幼少期。
なんとなく故郷が嫌いになってきて、次第に反抗期を迎えた中学時代。
東京に行けば何かを変えられると思って、ただひたすらに勉強した高校時代。
大学受験のために一緒に来てくれた母さんと父さん。
雪が降って寒い中一緒に受験会場まで行ってくれて、終わったら『お疲れ、春菜』って言いながら美味しいお寿司屋さんに連れて行ってくれて。
第1志望の大学に受かると、一緒に大喜びしてくれて。
一緒に下宿先まで探してくれて。
慣れない大学生活の中でもこうやって仕送りを送ったり、たまに遊びに来てくれて。
就職先が決まって、2人に報告したら自分のように喜んでくれて。
いざ働き出すと学生と全然違って……、それでもたまに顔を見に来てくれて。
この10年の母さんと父さんの愛情を今でもくっきり思い出せる。こんなわがまま娘の為に色々してくれたことも全部。そして、気がつきたくなくても気づいてしまう両親の身体のこと。
私が10歳年を取ると言うことは、母さんと父さんも10歳年を取ると言うことだ。黒毛の方が多かった髪の毛もだんだん白髪交じりになって、手や顔の皺も目立つようになってきた。さらに、10年前は軽快な足取りだったのに、今ではあたしと一緒に歩くとなかなか追いつけないでいる。あたしが合わせてあげないといけない。子供の頃は母さんと父さんの背中はとても大きかった。でも、あたしが大きくなったらその頼りなさも同時に感じられた。
母さんと父さんの別れも徐々に近付きつつある。今までは目を逸らしてきたけど、そろそろしっかりと向き合っていかないと駄目だ。親孝行をしていこう。
「さ゛び゛し゛い゛よ゛。お゛か゛あ゛さ゛ん゛、お゛と゛う゛さ゛ん゛……。ぐすっっ、う゛わ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ん!!」
何かに憧れて東京まで来た。でも、憧れるのはもう止めよう。
"大人"のやり方を覚えて必死に取り繕っていたけど、あたしの"子供"の部分がむき出しになる。子供の時みたいに母さんと父さんに抱きついて甘えたい。でも今は出来ないからこの便箋で我慢しよう。母さんの温もりを幻でも良いから感じていたい。実家の匂いが恋しくて、母さんと父さんに無性に逢いたくてたまらない。
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