日本仙妖譚 ― 現世と幽世のはざまで、かぐや姫と桃太郎の時代に仙人を目指す ―

紅連山

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第11話 霊獣の契り

【霊獣選びの争い】

 薄霧が、静かに大地を覆っていた。

 霊気を孕んだその白霧は、深い森と石畳を淡く霞ませ、まるで現世と仙境の境界を曖昧にしているかのようだった。風が吹くたび、霊草の青い香りと霊獣たちの獣臭が混ざり合い、冷たい空気の中を漂う。

 遠くでは霊鹿の澄んだ鳴き声がこだまし、上空では大小の霊鳥が旋回を繰り返していた。

 ここは――霊獣園。

 霧獣法流へ入門した修行者が、初めて己の相棒たる霊獣と出会う場所。霊獣を選ぶ者もいれば、逆に霊獣から選ばれる者もいる。

 それは単なる契約ではない。未来の道を決め、生死さえ左右する、魂の儀式だった。

 正雪は静かに息を吐いた。

 胸の奥では緊張が渦を巻き、袖の下で指先がわずかに震えている。

(焦るな……)

 自らにそう言い聞かせ、呼吸を整える。

 その正面に立つ少女は、紫衣を優雅に揺らしながら、冷然と正雪を見下ろしていた。背筋は真っ直ぐ伸び、美しく整った顔立ちには絶対の自信が宿っている。

 その眼差しに触れるだけで、相手の気勢を削ぐような鋭さがあった。

 紫衣。

 それは単なる高貴な衣ではない。宗門内でも、ごく限られた強大な霊根を持つ家系にのみ許される、特権と血統の象徴。

 彼女の視線は、最初から正雪を見ていなかった。見据えているのはただ一つ。まだ契約者の決まっていない霊獣――蛇頸鳥だけだった。

 張り詰めた空気を破ったのは、穏やかな声だった。

 「紗綾。君は猛獣系の霊獣を好んでいたはずだ」

 朔夜が苦笑混じりに言う。

 「なぜわざわざ、新人の候補を奪おうとする?」

 彼の声音は柔らかい。だが紗綾は、月光のように冷たい笑みを浮かべた。

 「強き霊獣は、強き者にこそ相応しいもの」

 その瞳が細められる。

 「弱者が身の丈を超えた霊獣を望むなど――愚かでしょう?」

 彼女はわざとらしく周囲を見回した。

 「あちらの雑兎か、雑蛙でも選べばよろしいのではなくて?」

 その言葉に、空気がぴたりと凍った。


【蛙の計略】

 「……は?」

 正雪の腰に下がった袋が、ぴくりと震えた。河童の壺の中。仙蛙・翠夏の怒りが、霊力を通して直接正雪へ叩きつけられる。

 (雑蛙だと!? あの小娘、よくも言ったな!!)

 怒気で壺の中の水が揺れる気配すら伝わってくる。正雪は顔を引き攣らせながら、必死に宥めた。

 (待て翠夏! 人前では存在を隠すって約束しただろ……!)

 だが翠夏の怒りは収まらない。

 (後悔させてやる……!)

 そして次の瞬間。その声色が、怒気から妙に愉快そうなものへ変わった。

 (……いや、待て。いい策を思いついた)

 正雪は嫌な予感しかしなかった。

 (鳥自身に主を選ばせろと言え。そして壺の小魚を餌に使うのだ)

 (は?)

 (鳥の霊獣など、所詮は鳥。魚の匂いには敏感だ。しかも壺の魚は霊気を吸って育った瑞魚だぞ。絶対に寄ってくる)

 その瞬間。壺の奥から、悲鳴のような声が響いた。

 (わ、私の瑞魚を餌にするの!?)

 貝の妖――梨花である。翠夏は即答した。

 (十匹返す! 今回は我慢しろ!)

 (絶対返しなさいよ!?)

 壺の中では、梨花が泣き、翠夏が怒鳴り、正雪だけが胃痛に苦しんでいた。だが結局、その奇妙な三重奏の果てに、正雪は一歩前へ出る。

 「……提案があります」

 朔夜が視線を向けた。

 「蛇頸鳥は、まだ誰とも契約していません」

 正雪は落ち着いた声で続ける。

 「ならば、鳥自身に選ばせるべきです」

 紗綾の眉がわずかに動いた。

 「もしこの霊獣が紗綾様を選んだなら――僕は黙って引き下がります」

 その場が静まり返る。やがて朔夜が、小さく微笑んだ。

 「……公平だな」

 彼は紗綾へ視線を向ける。

 「同門同士の争いは避けたい。紗綾、どうだ?」

 紗綾は顎を上げ、不敵に笑った。

 「いいでしょう」

 紫衣の袖が、風の中でゆらりと揺れる。

 「弱者が足掻く姿――最後まで見届けて差し上げるわ」


【餌か、七彩霊宝か】

 霊霧が薄く流れる霊獣園の中央で、正雪は静かに息を呑んだ。

 周囲の修行者たちの視線を浴びながら、彼は袖の内に隠した手を、そっと蛇頸鳥へ差し伸べる。その掌の奥には、翠夏の策によって用意された瑞魚が握られていた。

 一方――揚羽紗綾は、まるで勝利を疑っていないかのように、悠然と一歩前へ出る。

 彼女が白く細い指先に載せていたのは、七彩玲瓏玉。

 玉から放たれる虹色の霊光は、周囲の霧すら七色に染め上げ、見る者の心を奪うほど美しかった。霊気は波紋のように広がり、その場の空気を震わせる。

 幼い蛇頸鳥は、すぐにその輝きへ反応した。

 灰色の羽毛をふるわせ、不格好に長い首を伸ばしながら、一歩、また一歩と七彩玲瓏玉へ近づいていく。

 その姿を見て、紗綾の口元に優雅な笑みが浮かぶ。

 「やはり――格の違い、というものですわ」

 涼やかな声だった。だがその声音には、新参者を見下す傲慢と、己の勝利を確信する響きが滲んでいた。

 正雪の胸に、冷たい焦りが広がる。

(駄目か……!)

 壺の中へ意識を向けると、翠夏の焦燥した声が飛び込んできた。

(まだだ! 魚の匂いが届いておらん!)

 その瞬間だった。蛇頸灰鳥が、不意に足を止めた。

 七彩玲瓏玉の放つ濃密な霊気の波を横切りながら、雛鳥は首を傾げる。まるで別の何かを感じ取ったように、小さく鼻を鳴らした。

 その身体が、くるりと正雪の方へ向きを変えた。ざわり――。周囲から、息を呑む気配が漏れる。

 蛇頸灰鳥は迷わなかった。まるで見えない糸に引かれるように、一直線に正雪の元へ歩いてくる。

 紗綾の笑みが凍りついた。

 やがて雛鳥は正雪の足元へ辿り着くと、長い首を甘えるように擦り寄せた。その瞬間、正雪は素早く身を屈め、抱き上げるふりをしながら、掌に隠していた瑞魚を嘴の奥へ滑り込ませる。

 ぱくり、と。小さな音を立てて魚を呑み込んだ蛇頸鳥は、うっとりと目を細めた。その表情は、まるで極上の美酒に酔ったようだった。

 「きゅい……♪」

 短く甘えた声を漏らし、さらに魚を求めるように、長い首を正雪へ絡めてくる。

 ――選ばれた。

 その事実は、誰の目にも明らかだった。霊獣園に沈黙が落ちる。風すら止まり、霧だけが静かに流れていた。

 紗綾の顔から、ゆっくりと色が失われていく。怒り、困惑、屈辱――。様々な感情が七彩の瞳の奥で渦巻き、やがて彼女の身体は小さく震え始めた。

 そして、長い沈黙の末に。

 「……汚らわしい」

 氷のような声だけを残し、紗綾は紫衣を翻した。濃霧の中へ、その背中が消えていく。

 「紗綾姉ちゃん、待ってよ!」

 慌てた朔月が、兄と正雪へ変顔を向けながら、

 「あとで覚えてろよー!」

 と半ば涙声で叫び、紗綾の後を追って駆けていった。残された霊獣園に、静寂だけが戻る。


【効率的な努力】

 正雪はゆっくりと膝をつき、蛇頸鳥の頭を優しく撫でた。まだ触れ方はぎこちない。それでも灰色の雛鳥は嬉しそうに目を細め、その長い首を正雪の腕へ絡めてくる。

 そこには、確かな温もりがあった。

 「……選んでくれて、ありがとう」

 壺の中では、翠夏が飛び跳ねるようにはしゃいでいた。

(見たか正雪! 我らの大勝利だ! あの高慢娘の顔! ふははは!)

 正雪は思わず苦笑する。

 「勝ち負けじゃないよ……あとで梨花さんにも謝らないと」

 すると壺の奥から、しくしくとすすり泣く声が響いた。

(……十匹ですよ……翠夏様……瑞魚、十匹……)

(後で返すと言っただろう!)

(絶対ですよ……?)

 三人のやり取りに、正雪は頭を抱えたくなった。その様子を見守っていた朔夜が、穏やかな笑みを浮かべながら歩み寄る。

 「正雪。おめでとう。蛇頸鳥は、成長すれば風雷を操る霊鳥となる。良い契りを結んだな」

 正雪は深く頭を下げた。

 「ありがとうございます。朔夜様がいなければ、僕は何もできませんでした」

 朔夜は静かに首を横へ振る。

 「いいや。覚えておけ。霊獣は、ただ従わせるだけでは真価を発揮しない。心を通わせてこそ、その力は初めて主へ応える」

 その声音は優しい。だが同時に、修仙者としての厳しさと重みを秘めていた。

 「霊獣を得ても、魂が繋がらなければ、その力は砂上の楼閣に過ぎぬ」

 正雪は強く頷く。

 「……はい。肝に銘じます」

 朔夜は続けた。

 「紗綾も悪い人ではない。ただ、揚羽家は代々“強さ”を何より重んじる家系だ。だからこそ、強き霊獣へ執着する」

 正雪は小さく笑った。

 「大丈夫です。壱階の僕が軽く見られるのは当然ですから」

 その眼差しは、すでに三年後の未来を見据えていた。参階へ至れなければ、この蛇頸鳥を失う。その現実が、胸の奥で静かに燃えている。

 朔夜はそんな彼を見つめ、穏やかに言った。

 「焦るな。誰もが壱階から始まる。基礎を積み重ねる者ほど、最後には遠くまで辿り着く」

 その言葉は、かつて道斎が繰り返し語っていた教えと重なった。基礎を疎かにするな。道徳を忘れるな。力だけを求めるな。

 正雪は改めて深く頭を下げた。

 だがその時――。翠夏の声が、壺の中から割り込んできた。

(いやいや、正雪。大事なのは“効率”だぞ)

 その声音は、いつになく真面目だった。

(正しい方向へ、最短で進め。無駄な努力を百年積むより、正しい努力を一年積む方が強くなる。修仙とは、資源と効率の世界なのだ)

 辛辣だが、現実的な言葉だった。正雪は苦笑しながら、空を見上げる。山の向こうには、まだ見えぬ高みが広がっている。

 「……修仙の道は、本当に険しいな」

 すると翠夏が胸を張るように叫んだ。

(安心しろ! この偉大なる仙蛙・翠夏様がついておる!)

 「いや、それが一番不安なんだけど……」

 正雪の呟きに、霊獣園へ小さな笑いが流れた。肩に乗った蛇頸鳥が、

 「きゅい」

 と短く鳴き、その柔らかな羽が正雪の頬を撫でる。正雪はその温もりを感じながら、静かに拳を握った。

 三年。その短く残酷な期限の中で、必ず参階へ至る。師の仇を討つために。この新たな相棒を守るために。そして、自らの道を証明するために。

 少年の歩みは再び始まろうとしていた。
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